聖書の探求(290) サムエル記第一16章1~13節 サムエル、エッサイのもとに行く、ダビデ、油をそそがれる
アメリカのBenziger Brothersより出版された「The Bible History containing the most remarkable events」の挿絵より「Taking a horn of oil,anointed him(油の角を取り彼に油をそそいだ)」(米国議会図書館蔵)
16章の分解
1~5節、サムエル、エッサイのもとに行く
6~13節、ダビデ、油をそそがれる
14~23節、ダビデ、サウルの前で琴を弾く
1~5節、サムエル、エッサイのもとに行く
1節、サウルが主に不服従になり、主がサウルを拒絶されたことにより、サウルの王としての任務は中断され、サウル家の王朝は継続することができなくなったのです。
16:1 主はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」
サムエルは激しく悲しみましたが、いつまでも悲しんでいることは許されず、すでに過去のことになってしまったことから目を離し、神のご目的を成し遂げるために、新しい任務に就き、将来の王国建設に目を向けたのです。
「角に油を満たして行け。」これは明らかに、新しい、主のみこころにかなった王を任命するためであることを指しています。サムエルは、すぐにそのことを悟ったでしょう。
主が油をそそがれる新しい王は、ベツレヘム人エッサイの8人の息子の中にいたのです。
サムエルにはその少年がだれであるか分かっていませんでしたが、主は、「わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」と言っておられます。私たちは、主が見つけておられる者を、信仰と奉仕によって捜し出す働きをさせていただいているのです。必ず、主のみこころにかなう人はいるのです。
エッサイは、ボアズとモアブの女ルツ(ルツ記4:17)の孫です。
ルツ 4:17 近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。
ボアズの母ラハブ(マタイ1:5)もまたイスラエル人ではなく、エリコの人で遊女であったことを心に留めるなら、神の摂理の深さと、キリストの福音の尊さが測り知れないものであることを悟らされます。
マタ 1:5 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。」(ローマ11:33,34)
2節、サムエルは「私はどうして行けましょう。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。」と言っています。
16:2 サムエルは言った。「私はどうして行けましょう。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。」主は仰せられた。「あなたは群れのうちから一頭の雌の子牛を取り、『主にいけにえをささげに行く。』と言え。
万一、サムエルがベツレヘムに行ったことをサウルが聞いたら、すぐに新しい王を任命するために動いたと知って、サムエルを殺して復讐することを恐れたのです。預言者サムエルですら、自分に敵意を抱く者の復讐を恐れたのです。主に仕えていくと、すべての人に幸せになってもらいたいと奉仕していても、必ずと言っていいほど、敵意を抱く人が現われてくるのです。それは、サタンがいることと、人の性質が自分中心だからです。これを避けることはできません。しかし主はご自身に忠実な人の盾、とりでとなって、保護してくださいます。
そこで主は、「あなたの群れのうちから一頭の雌の子牛を取り、『主にいけにえをささげに行く。』と言え。」と、サウルの目をそらすために、サムエルのベツレヘム訪問に際して、いけにえと祭りの準備をするように指示しておられます。こうして何事もなく、ダビデへの油そそぎが完了することになるのです。
この2節を見ると、一見、主はベツレヘムに行くために、サムエルにうそをつくように命じているのではないかと、思う人もいるかも知れません。
しかし、サムエルは実際に、ベツレヘムにいけにえをささげるために行き、いけにえをささげたのです。
このような危険がある場合、サウルに害を与えるわけでもないので、事実全体を言う必要はなかったのです。また黙ってベツレヘムに行けば、別の王を立てるために行ったのではないかと勘繰られる危険が増してくるのです。
もしサムエルが、だれかに、「あなたはダビデに、王となる油をそそぐために、ベツレヘムに行くのですか。」と問われて、それに答えて「私はただいけにえをささげるためだけに行くのです。」と言ったなら、サムエルはごまかしの罪を犯したことになり、主がそのごまかしを勧めたことになります。しかし、この場合はそうではありません。偽り隠すことや、欺いて行動することと、事実の全体を言わないこととは、全く異なります。ここで神が願われたことは、神の預言者サムエルがいけにえをささげることを、彼の使命の主要目的として示すことによって、彼の安全を確保することだったので、ここには、ごまかしも、偽りもありません。そして、いけにえは実際にささげられ、サムエルはそれによって安全に守られたので、彼は主から与えられた任務を成し遂げるまで、全く危険にさらされることはなかったのです。
3節、主は「いけにえをささげるときに、エッサイを招け。」と命じておられます。
16:3 いけにえをささげるときに、エッサイを招け。あなたのなすべきことを、このわたしが教えよう。あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ。」
それは、このいけにえをささげている最中にダビデへの油そそぎを執行するためです。こうすることによってサウルに知られる危険性が少なくなります。
また主は、「あなたのなすべきことを、このわたしが教えよう。あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ。」と命じておられます。主は、その時が来るまで、サムエルにエッサイのどの息子に油をそそぐのかも教えておられません。私たちは日々に主に従う生活をしていく時に私たちの心が主に忠実であるなら、その時、その時に、なすべきことを教えてくださいます。私たちは予め教えてほしいと思いますが、主はそうしません。知らないでも、主に信頼して従って行くことを求められています。
「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」(ヘブル11:8)
4節、ベツレヘムは小さな町で、サムエルの予期しない訪問を受けて、町の長老たちは狼狽しています。
16:4 サムエルは主が告げられたとおりにして、ベツレヘムへ行った。すると町の長老たちは恐れながら彼を迎えて言った。「平和なことでおいでになったのですか。」
それは明らかにサウルが軍隊を率いてベツレヘムを襲撃されないかという恐怖です。神の畏敬に満ちた主権を代表しているサムエルが突然、ベツレヘムを訪れたことは、何か大変なことが起きるに違いないと考えたからです。それとともに、サウルが主に拒絶されたことも知るようになっていたのでしょう。そこで長老たちは「平和なことでおいでになったのですか。」と尋ねています。
5節、サムエルは長老たちに、平和なことのために来たことを保証しました。
16:5 サムエルは答えた。「平和なことです。主にいけにえをささげるために来ました。私がいけにえをささげるとき、あなたがたは身を聖別して私といっしょに来なさい。」こうして、サムエルはエッサイとその子たちを聖別し、彼らを、いけにえをささげるために招いた。
ここでは二回「聖別し」という言葉が使われています。
「私がいけにえをささげるとき、あなたがたは身を聖別して私といっしょに来なさい。」
「サムエルはエッサイとその子たちを聖別し、彼らを、いけにえをささげるために招いた。」
この「聖別する」とは、「神にささげる」とか、「神のために別にして取っておく」という意味です。特に旧約聖書では、儀式的なことに使われています。ここでは直接的には、いけにえをささげて祭りを行なうために招かれた人々は、儀式的に身体を洗ってきよめをしたことを意味しています。
「さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。」(ヨハネ2:6)
6~13節、ダビデ、油をそそがれる
6節、エッサイはサムエルの招きに応じて、七人の息子を連れて、サムエルのもとにやって来たのです。
16:6 彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ。」と思った。
サムエルは長男のエリアブを見た時、彼の容貌や、背の高さや堂々とした態度を見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ。」と思ったのです。しかしこれは、サムエルの人間的な、勝手な判断だったのです。主は3節で、「あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ。」と命じておられます。ここで主は「この人に油をそそげ」と言っておられないのに、サムエルは勝手に自分の考えで判断してしまったのです。神に先走って、自分の考えで判断することが、間違いの最大の原因です。サムエルほどの霊的預言者であっても、自分の考えに頼りやすいのですが、まして私たちは、いつも自分の前に主を置いておかなければなりません(詩篇16:8)。
詩篇16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」(箴言3:5)
7節、主はサムエルの心の中の思いを知っておられて、ここで警告されたのです。
16:7 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
私たちはいつも、主の警告の御声が聞こえる範囲内で生活していなければなりません。主が私たちの心に光を与えてくださったり、教えや悟りを与えてくださるのを受け取ることができる心の状態で生活しなければなりません。それは「神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいる」ことです。(ヨハネ第一1:7)
主のサムエルへの警告は、「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」でした。
大抵、人の人気や評判は、容貌や外見の姿による場合が多いのです。しかし主は人が見るようなうわべで評価されないのです。
「主は心を見る。」とは、単に、心がきれいとか、純粋とか言われているようなことではなく、この「心」とは、「主に対する心の態度」のことです。
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(歴代誌第二16:9)と言われていることでも分かります。
このことは、私たちも十分、注意しなければならないことです。私たちも、人の容貌や才能や、堂々とした態度や、謙遜そうに見える態度や信仰に熱心に見える態度によって、判断してしまいやすい者です。
8~10節、エッサイは次々と息子たちをひとりずつ呼んで、サムエルの前に進ませています。
16:8 エッサイはアビナダブを呼んで、サムエルの前にすすませた。サムエルは、「この者もまた、主は選んでおられない。」と言った。9 エッサイはシャマを進ませたが、サムエルは、「この者もまた、主は選んではおられない。」と言った。10 こうしてエッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「主はこの者たちを選んではおられない。」
その度に、サムエルは「この人ではないか。」と思ったようですが、主はエッサイの七人の息子を選んでいなかったのです。サムエルはエッサイの七人の息子すべてに迷いを感じたのです。それほど私たちは、うわべで判断してしまいやすいことを示しています。
おそらく、エッサイは次々と自分の息子が一人一人呼ばれていくのを見て、サムエルが何をしようとしているのか、うすうす気がついたと思われます。
エッサイの息子たちは、サムエルの前をちょうど検問されるように通ったのです。長男エリアブは、その体格の良さによって、サウル王の後継者として、サムエルから推薦されそうになりましたが、神は血肉を誇る者はすべて度外視されたのです。
サウルの悲しい実例によって、すべての霊的な心ある人には、「肉の力は、どんなにすぐれていても、何の益もない。」ことが明らかになったのです。うわべの容姿、みごとな均整のとれた体格、高い背丈などは、内なる人にある信仰という資格に取って代わらなければならなかったのです。
11節、サムエルはエッサイに「子どもたちはこれで全部ですか。」と尋ねています。すると、エッサイは「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」と答えました。
16:11サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」
「羊の番」は、その家の一番大切でない息子か、召使いにさせる卑しい仕事でした。それ故、末子のダビデは息子の一人として扱われることなく、サムエルの招きにも連れて来られていなかったのです。
親にも蔑視され、忘れ去られていた末子ダビデが、主がお選びになった者でした。
実に主は、「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」(コリント第一1:28,29)
この時のダビデの油注ぎは、個人的に内密に行なわれています。
後に、ダビデは公然と公式に、ユダの王として(サムエル記第二2:4)、また、イスラエル全家の王として(同5:3)、油注ぎを受けています。
サムエル記第二2:3 ダビデは、自分とともにいた人々を、その家族といっしょに連れて上った。こうして彼らはヘブロンの町々に住んだ。4 そこへユダの人々がやって来て、ダビデに油をそそいでユダの家の王とした。・・・
サムエル記第二5:3 イスラエルの全長老がヘブロンの王のもとに来たとき、ダビデ王は、ヘブロンで主の前に、彼らと契約を結び、彼らはダビデに油をそそいでイスラエルの王とした。
サウルとエフーは、油のつぼによって注がれていますが(サムエル記第一10:1、列王記第二9:1)、ダビデとソロモンは、油の角を用いて注がれている点に注目してください(サムエル記第一16:13、列王記第一1:39)。「つぼ」は砕かれる必要がありますが、「角」は主の権威や力や救いを予表するものです。
御子イエス・キリストは、その友に勝(まさ)って父なる神より喜びの油を受けておられます。
「あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」(ヘブル1:9)
これは、イエス・キリストがすべての義をことごとく成就し、御父のみこころを完全になし、天の軍勢の歓呼のただ中で、神の御座に上げられたからです。
12節は、ダビデの容貌について記しています。
16:12 エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」
彼は、「血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。」「ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからである。」(17:42)
「血色の良い顔」「紅顔」は、頬が青春の血色の良い、赤ら顔であったことを示しています。
伝説によれば、ダビデの子孫である、謙遜なマリヤの髪は金褐色、あるいは黄金色であったと言われています。もしそうであれば、ダビデの髪は金褐色であった可能性があります。
彼は「美しい容貌」で、「澄んだ目」を持っていたと記されています。ギリシャ語訳の七十人訳聖書には、「美しい目」となっています。
ダビデは詩人としても豊かな才能が与えられており、信仰の人であり、熱心で、敬虔で、献身的であり、活力のある人でした。彼の力が、彼の光り輝く、刺し通すような目の中に見られるように象徴されていても、不思議ではありません。
人の心を見られる主は、「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」と命じられました。ここにはダビデの外見的な容貌を書いているようですが、ダビデの内面をよく表わすような表現をしていますので、それを読み取ることが必要です。
13節、「サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。」
16:13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。
兄たちは不満であったかも知れませんが、彼らはダビデの油注ぎの証人となったのです。しかし17章28節で兄エリアブがダビデに怒りを燃やして言っている言葉からすると、ダビデが主によって王として選任の油注ぎを受けたその意味を理解していたかどうかは、はなはだ疑わしいものです。
17:28 兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして、言った。「いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。」
しかしその油注ぎが真実な本物であったことは、「主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。」ことで明らかでした。この「油注ぎ」は、聖霊が注がれることの象徴的な儀式だったのです。この時、ダビデはイスラエルの王となり、御国の王イエス様を予表するための油注ぎでしたが、新約においては、求める者すべてに、聖霊を注いで、満たして下さり、キリストとともに王としてくださるのです。
「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。」(テモテ第二2:12)
この聖霊が、ダビデに知恵と能力を与え、彼の生涯を通して神のご目的を成し遂げるために導かれたのです。また彼に霊感を与えて、多くの詩を書き記させたのです。この聖霊は今も私たちに恵みと知恵を与え、私たちの生涯を用いてイエス様の証人としてくださり、導いてくださっているのです。
サムエルは使命を果たし終えると、ラマの彼の家に帰りました。やがてダビデはサウルを逃れてラマのサムエルの所に行き、「サウルが自分にしたこといっさいをサムエルに話し」ています(19:18)。
この箇所で大切なことは、
主が評価されないものは、顔つきの美しさ、容貌(7節)、背の高さなどの体格(7節)、青年になっている年令や成熟度合(11節)、地位や立場や仕事の内容で、
主が評価されているものは、その人の内に、主を畏れる心があるかどうかです。
主はご自身が喜ばれる心を持つ人に主の御霊を満たされるのです。
あとがき
聖書の探求のご愛読を、ありがとうございます。
探求の中に「これは大切」と思う箇所がありましたら、聖書のその箇所に赤線を引
いて、余白に書き入れたり、別の用紙に書いて聖書の中に貼り付けたりすると、そこを読む度に理解を深め、やがて自分自身の信仰を養う材料になってきます。
分解や段落も各章の初めに書いたものを書き込んでおくと、聖書を読む時の助けになります。
繰り返し出てくる大切な言葉は番号を付けたり、線でつないでおくと、一目瞭然に分かります。このようにしてコツコツ聖書を学んでいくと、世界に一つしかない自分だけの聖書が出来てきます。
これから始める方は、余白が多めにある大き目の聖書を使われたらいいでしょう。聖書はよごしてはいけないものと思わないこと。
(まなべあきら 2008.5.1)
(聖書箇所は、新改訳聖書より)