聖書の探求(291) サムエル記第一16章14~23節 ダビデ、サウルの前で琴を弾き、サウルの道具持ちとなった

オランダの画家 Jozef Israëls (1824–1911) による「While David is playing his harp before Saul, the evil spirit that has the king in his power is driven away(ダビデがサウルの前で立琴を弾く間、神から出る悪霊が追い払われる)」(オランダのDordrechts Museum蔵、Wikimedia Commonsより)

14~23節、ダビデ、サウルの前で琴を弾く

この箇所の記事で、サウルとダビデが最初に出会っています。サウルとダビデの初期の頃の関係は、悪いものではありませんでした。しかしこの時期の記録は短く、あまり詳しく記されていませんので明確ではありません。また記述が厳密に年代順になっているとは限りませんので、正確に判断することはできません。

しかし明白なことは、ダビデが成長して、戦いにおいて勝利を収めるにつれて、サウルは急速に衰えていっていることです。そして、国民の間にダビデの人気が高まるにつれて、サウルはダビデをねたむようになり、更に、ダビデがサウルの王位を脅かすのではないかという恐怖がサウルの内につのってきて、サウルは最も忠実な家来ダビデを殺そうという策略を執拗に企てるようになったのです。

ねたみ、嫉妬、恐怖、あせりが心を占領するようになる時は、サタンの影響を受けています。その上、忠実な者を敵視することは、敗北の原因となります。サウルは自らの主に対する不服従を棚に上げて、ダビデを取り除こうとしましたが、主が油注がれた人を取り除くことはできません。かえって、自分が破滅することになったのです。

14節、ダビデの上に激しく下られた「主の霊はサウルを離れ、主からの悪い霊が彼をおびえさせた。」

16:14 主の霊はサウルを離れ、主からの悪い霊が彼をおびえさせた。

「おびえさせる」は、ヘブル語の「バアテ」で「恐れさせる」という意味です。

「主から悪い霊が」とあって、主が悪い霊をサウルに下されたと思う人がいるかも知れませんが、主が悪い霊を造られたことも、送られることも、個人の上に注がれることもありません。主の霊がサウルから離れたことによって、それまで主の霊によって止められていた悪の霊がサウルを襲撃したに過ぎません。その結果、サウルの心は恐怖の暗示に支配されてしまったのです。

昔、モーセの時代に、イスラエル人がシナイの荒野を旅していた時、民はモーセに向かって、「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」と逆らったのです。その時、「主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。」(民数記21:5,6)のです。

この時も、「主は民の中に燃える蛇を送られた」と記しています。実際は、シナイの荒野には毒蛇は沢山いたのです。その蛇にかまれると、燃えるような痛みや発熱をするので、「燃える蛇」と呼ばれていたと言われています。主は民が忠実に従っている間は、この蛇が民にかみつかないように、止めておられたのです。しかし民がモーセに逆らった時、主はこの蛇を止めておくのをやめられたのです。するとたちまち、毒蛇はイスラエルを襲ったのです。悪い霊がサウルを襲ったのも、同じようなことです。

15節では、サウルの家来たちも、主の霊がサウルを離れたことによって、悪い霊がサウルを襲い、サウルをおびえさせていることを悟ったのです。

16:15 そこでサウルの家来たちは彼に言った。「ご覧ください。神からの悪い霊があなたをおびえさせているのです。

いつの時代の人でも、主の御霊の影響を失うと、人は狂気の如く、肉の欲に振り廻されたり、ねたみ、嫉妬心、不安、恐怖、絶望、敵意などが入り乱れて、破滅状態に陥るのです。

16節、家来たちはサウルに、今でいう音楽による精神的いやしを勧めています。

16:16 わが君。どうか御前にはべるこの家来どもに命じて、じょうずに立琴をひく者を捜させてください。神からの悪い霊があなたに臨むとき、その者が琴をひけば、あなたは良くなられるでしょう。」

しかし家来たちは、もっと根本的ないやし、すなわち、心砕かれて、主を求め、主に立ち戻ることを勧めなかったのです。現代人は、音楽のほかに、香り、花、色、ペット、話を聞いてもらうこと、マッサージなどに、いやしを求めています。これらはそれぞれ、それなりの効果がありますが、霊魂の根本的ないやしにはなりません。人の霊魂は、造り主である主に立ち返るまで、霊魂に平安を得ることはできません。

「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(ペテロ第一2:25)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28~30)

「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

17節、サウルはよほど苦しかったのでしょう。すぐに家来の勧めを受け入れて、立琴の上手な弾き手を連れて来るように求めています。

16:17 そこでサウルは家来たちに言った。「どうか、私のためにじょうずなひき手を見つけて、私のところに連れて来てくれ。」

18節、ダビデはまだ羊飼いの仕事をしていましたが、彼が立琴の名手であることは、多くの人々に知れ渡っていました。

16:18 すると、若者のひとりが答えて言った。「おります。私はベツレヘム人エッサイの息子を見たことがあります。琴がじょうずで勇士であり、戦士です。ことばには分別があり、体格も良い人です。主がこの人とともにおられます。」

それは彼が羊飼いの仕事をしながら、いつも立琴を弾いていたからです。ですから、すぐにサウルの家来の若者の一人がダビデを紹介することができたのです。こうして、ダビデはサウルと会うことになるのです。

こうして少年ダビデは勝利の道に入るようになるのですが、それはまた、長い長い苦難の道でもあったのです。

この若者はダビデを次のように紹介しています。「琴がじょうずで勇士であり、戦士です。ことばには分別があり、体格も良い人です。主がこの人とともにおられます。」

ダビデはまだ羊飼いで、戦士ではありませんでしたが、獅子や熊を倒して羊を助け出したことは、人々に知られていたので、「勇士であり、戦士です。」と言ったのでしょう。「ことばには分別があり、」「主がこの人とともにおられます。」と言っているのを見ると、この若者は「ベツレヘム人エッサイの息子を見たことがあります。」と言っていますが、一寸、知っているという程度の知り合いではなさそうです。ダビデの分別のある言葉使いや、信仰の堅実さまで知っていたのですから、ダビデの友人であった可能性が強いでしょう。主はこの無名のダビデの友人のひと言を通して、ダビデを宮廷へと導いたのです。私たちは自分の全く知らない所で、主の導きがなされていることも教えられます。

19節、サウルの使いの者の言葉によると、ダビデがこの時も羊の番の仕事をしていたことは明らかです。

16:19 そこでサウルは使いをエッサイのところに遣わし、「羊の番をしているあなたの子ダビデを私のところによこしてください。」と言わせた。

先にも書きましたが、羊の番は身分の低い者や、取るに足りない者とされている者に与えられていた仕事です。たとえそうであっても、今、自分に与えられている仕事を忠実に行なっている人を、主はお用い下さり、新しい道へと導いてくださるのです。

20節、父エッサイは息子ダビデをサウルのもとに送るのに、一オメル(2.3リットル)のパンと、ぶどう酒の皮袋一つ、子やぎ一匹を贈り物として持たせています。

16:20 それでエッサイは、一オメルのパンと、ぶどう酒の皮袋一つ、子やぎ一匹を取り、息子ダビデに託して、これをサウルに送った。

この贈り物を見ると、この時でもエッサイはダビデをあまり高く評価していないように思われます。サウルの一番下級の家来になる程度に考えていたようです。

21節、あの若者の紹介通り、ダビデはすぐれた性格の持ち主で、サウルはすぐにダビデを気に入り、「彼を非常に愛し、ダビデはサウルの道具持ちとなった。」とあります。

16:21 ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。サウルは彼を非常に愛し、ダビデはサウルの道具持ちとなった。

日本の武家でいえば、「小姓」のような立場になったのです。いつも王の側にいて、お世話し、サウルの直属の家来となったのです。この「非常な愛」が、後に、ねたみと嫉妬のために「非常な憎しみ」に変わったのです。

22節、ダビデはテスト期間を過ぎて後、サウルに気に入られ、ずっとサウルのもとで仕えるように求められています。

16:22 サウルはエッサイのところに人をやり、「どうか、ダビデを私に仕えさせてください。私の気に入ったから。」と言わせた。

23節、ダビデの立琴の演奏は効果を表わして、サウルは元気を回復しています。サウルはダビデが家に帰ることができるほど良くなっています。

16:23 神からの悪い霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、ひき、サウルは元気を回復して、良くなり、悪い霊は彼から離れた。

「ダビデは、サウルのところへ行ったり、帰ったりしていた。ベツレヘムの父の羊を飼うためであった。」(17:15)

サウルの回復は一時的でした。主の霊が離れたという根本的な回復がなされていなかったからです。

「立琴」はヘブル語で「キンノル」で、弦が八本から十本の弦楽器で、ピックか、指で弾き、持ち運びのできる比較的小型の楽器だったと思われます。少年ダビデが羊の番の時に持ち歩いていたものと思われますから。

あとがき

長い間、聖書の探求を一号から読んで下さっていた一人の兄弟が、主のみもとに召されました。入院中で、意識がなくなるまで、私共の礼拝テープを聞いて下さっていました。お元気な時から、「テープが届くのが待ちどおしい。」と言って下さっていました。
この兄弟は九州の宮崎にお住まいでしたが、一度だけ私たちの礼拝に出席して下さいました。それ以後、時々、お電話を下さり、私も毎日、お祈りをしていました。
先日、ご家族の方からお手紙をいただき、「まなべ先生の本、テープのメッセージが大好きだった父は、病いとの戦いでしたが、安らかにイエス様の元に召天しました。」とありました。私も胸がつまる思いをしましたが、お父様の信仰をご家族が受け継いで下さるように祈っております。

(まなべあきら 2008.6.1)
(聖書箇所は【新改訳聖書】より)


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