聖書の探求(296) サムエル記第一 18章10~30節、ダビデを恐れるサウル、ダビデ殺害の策略、ミカルとの結婚
デンマークの画家 Constantin Hansen (1804–1880)による「Saul Throwing his Spear at David(槍をダビデめがけて投げつけるサウル)」(Wikimedia Commonsより)
10~16節、ダビデを恐れるサウル
10節、「その翌日」、サウルがダビデをねたみ、疑いの目で見るようになった翌日です。
Ⅰサム 18:10 その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。
ここからサウルはダビデのいのちを狙うようになったのです。彼の精神状態は異常さを示すようになりました。ねたみ、不安、恐れ、猜疑心が長く続くと、人の心は正常に、健康な状態を保てなくなります。発作的な言葉を言ったり、発作的行動をするようになります。
「神からの悪い霊」、19章9節にも「主からの悪い霊」とあります。これは16章14節にも記されており、そこで詳しく説明しましたので、そちらを参考にしてください。19章9節と、16章14節は「主(ヤーウェ、イスラエルの契約の神)」からと述べられているのに対して、ここでは神の一般的名称である「エロヒム」が使われています。記者がこの二つの言葉に、どのような違いを持たせて書いたのかは分かりませんが、主が悪い霊を注がれることはあり得ませんから、サウルが主に心頑なにして背き続けた時、主はサウルの霊魂を恵むことを止められ、サタンの手に任かせられたのです。それ故、悪の霊が彼の霊魂に入ったのです。
イスカリオテのユダも、心がイエス様から離れると、すぐにサタンが彼の内に入っています。
「彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。」(ヨハネ13:27)
ユダは、主からパン切れを受けた時、心の中で、主を売ることを決断したことを表わしています。
「彼は家の中で狂いわめいた。」キング・ジェームズ訳はこの「狂いわめいた」を「預言した」と訳しています。この訳が適切な訳とは思われませんが、なぜ、このような訳にしたのかと言えば、この語のヘブル語の動詞は「ナバ」で、「泉のように湧き出ること」を意味しています。それは旧約の預言者が恍惚状態で歌ったり、叫んだり、話したりすることがあったので、それに似ているので、「預言した」と訳したのです。しかし恍惚状態になって歌ったり、話したりしたのは、真正な預言者たちだけでなく、多くの偽りの預言者がしていたことを旧約聖書は告げています。
「それからひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、『この私が彼を惑わします。』と言いますと、主が彼に『どういうふうにやるのか。』と尋ねられました。彼は答えました。『私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』すると、『あなたはきっと惑わすことができよう。出て行って、そのとおりにせよ。』と仰せられました。今、ご覧のとおり、主はここにいるあなたのすべての預言者の口に偽りを言う霊を授けられました。主はあなたに下るわざわいを告げられたのです。」(列王記第一22:21~23)
ここでも、主がすべての預言者の口に偽りを言う霊を授けられました、と記されていますが、これはすべての偽りの預言者たちに対して、サタンが偽りを言うように働くことを許されたことを言っているのです。
「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときには、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)
改訂標準訳聖書では、この「ナバ」を「たわごとを言う」と訳しています。この訳のほうが適切です。
ダビデはサウルの様子を見て、彼の心を静めようと、いつものように立琴をひいていましたが、サウルの手には投げ槍が握られており、ダビデを狙っていたのです。
11節、サウルはダビデを壁に突き刺そうと、二度も槍を投げつけています。
Ⅰサム 18:11 サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。
「身をかわした。」はサウルの前を逃げたことです。
12節、サウルのこの狂気の行動は、サウルがダビデを勝手に恐れていたことから起きています。
Ⅰサム 18:12 サウルはダビデを恐れた。【主】はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。
自分中心で、自己主張が強い人は、相手の動機を信じられなくなり、勝手に非常な恐怖と不安の中に落ちて行くのです。王としてお生まれになられた幼子のイエス様を恐れたヘロデ王も、ローマ皇帝ネロも、同じです。そのためにイエス様を殺そうとし、クリスチャンを理由なく迫害したのです。こういう人は被害妄想が強く、自分の周りの人が信用できなくなって、ついに殺していくのです。
12節は、サウルがそのような悲惨な状態になった理由を記しています。
「主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。」
主が私たちの霊魂から去られると、霊魂は非常に不安定になります。そして主がともにおられて恵みを受けている人を見ると、激しくねたむようになり、ますます狂気の坂を転がって落ちていくのです。ですから、決して主から離れてはいけません。また主を軽んじてはいけません。聖霊を悲しませたり、消したりしてはいけません(エペソ4:30、テサロニケ第一5:19)。
13節、サウルはダビデを槍で突き刺すことに失敗すると、次の手を考えています。
Ⅰサム 18:13 それでサウルはダビデを自分のもとから離し、彼を千人隊の長にした。ダビデは民の先に立って行動していた。
それはダビデを千人隊の長に任命して、激しい戦いの戦場に追いやって、民の先頭に立って戦わせて、敵の手で倒そうとしたのです。「千」というのは、ヘブル語で「エレフ」で、数の千以外に、家族や、くびきをつけることや、軍の一隊を指すことに使われます。ここではダビデを指揮官に任命したことです。こうしてサウルはダビデが戦いで死んでくれることを願ったのですが、それはかえって一般民衆に広くダビデという人物を知らせることになってしまったのです。
これらのサウルの取った策略を見ると、彼は狂気のようであったとは言え、充分、考える力を持っており、自分の責任を取る能力があったことを示しています。彼のねたみと猜疑心と恐れと悪意によって計画していたのです。
14節、ダビデはサウルの思惑に反して、戦いに行った所どこにおいても勝利を収めています。
Ⅰサム 18:14 ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。【主】が彼とともにおられた。
「主が彼とともにおられた」からです。主が彼とともにおられたこと、これが勝利の秘訣なのです。これは今日も変わっていません。私たちも、毎日、主とともに働く生活をさせていただきましょう。
「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(ヨシュア記1:5)
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
15節、サウルはダビデが敵の前で倒れず、かえって次々と大勝利を収めるのを見て、ますますダビデを恐れています。
Ⅰサム 18:15 ダビデが大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。
ダビデが大勝利を収めてくれることはイスラエルの王にとって喜ぶべきことなのに、動機が不純であると、素直に喜べずに、かえって恐怖を増しているのです。
16節、主がともにいない人がどんなに次々と手を打って策略をめぐらしても成功することはありません。
Ⅰサム 18:16 イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動していたからである。
彼はますます不安と恐怖に追いつめられ、自らを苦しめ続けて、ついに自己破滅をしてしまうのです。ですから、サウルのような態度や思いを持ってはならないのです。争いを起こしたり、ねたみや自己主張によって他人を追いつめようとすると、自分が破滅に追い込まれてしまうのです。
ダビデは指揮官に任命されていましたが、民の先に立って働いていたので、イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛するようになっていったのです。ダビデは民の心をサウルから引き離して盗むようなことはしませんでした。彼の息子アブシャロムは民の心を父ダビデから引き離して盗むことを仕掛けましたが、結局自分が滅んでしまったのです。ダビデは主とともに誠実に働いたために、人々が心からダビデを愛するようになったのです。このことは、ますますサウルの心をさかなでし、恐怖心をつのらせていったのです。
ここで民を「イスラエルとユダの人々」と、北と南に分けて言っておりますから、この時代からイスラエル全土を北と南に分けて考えることがあったことが分かります。
17~25節、ダビデ殺害の策略
17節、サウルは策略に失敗しても、諦めず、また悔い改めることもなく、次に仕掛けた策略は、ダビデを更にペリシテ人との戦いを続行させるために、サウルの上の娘メラブをダビデの妻として与えると約束を持ち出しています。
Ⅰサム 18:17 あるとき、サウルはダビデに言った。「これは、私の上の娘メラブだ。これをあなたの妻として与えよう。ただ、私のために勇敢にふるまい、【主】の戦いを戦ってくれ。」サウルは、自分の手を下さないで、ペリシテ人の手を彼に下そう、と思ったのである。
彼はダビデがペリシテとの激戦地から引き下がれないようにたくらんだのです。彼は言葉の上では、「ただ、私のために勇敢にふるまい、主の戦いを戦ってくれ。」と、信仰的な言葉を使って励ましていますが、サムエル記の記者はサウルの内心を明らかにしています。「サウルは、自分の手を下さないで、ペリシテ人の手を彼に下そう、と思ったのである。」と。
信仰的な敬虔な言葉を使いながら、腹の中で悪意を抱いている人の思いを見抜いて、彼らの口先だけの信仰に見せかけた舌先にだまされてはならないのです。
18~19節、ダビデは、サウルが約束を果たさなければならないほどの成果を成し遂げました。
Ⅰサム 18:18 ダビデはサウルに言った。「私は何者なのでしょう。私の家族、私の父の氏族もイスラエルでは何者なのでしょう。私が王の婿になるなどとは。」
18:19 ところが、サウルの娘メラブをダビデに与える、という時になって、彼女はメホラ人のアデリエルに妻として与えられた。
しかしダビデは謙遜な態度を示して、「私は何者なのでしょう。私の家族、私の父の氏族もイスラエルでは何者なのでしょう。私が王の婿になるなどとは。」と言っています。しかしサウルは自分から言い出した約束を破って、娘メラブをメホラ人のアデリエルに妻として与えています。これによって、ダビデは、サウルが信用のできない人間であることを十分に悟ったことでしょう。
20~25節、約束を破ったサウルは、自分の娘ミカルがダビデを愛していることを知らされると、次の手を考えたのです。
Ⅰサム 18:20 サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。そのことがサウルに知らされたとき、サウルはそれはちょうどよいと思った。
「サウルはそれはちょうどよいと思った。」 彼のすべての知恵と考えは、悪のために使われています。人のすべての思いや考えは、その人の霊的性質が神によるものか、自分中心かによって、支配されてしまうのです。
Ⅰサム 18:21 サウルは、「ミカルを彼にやろう。ミカルは彼にとって落とし穴となり、ペリシテ人の手が彼に下るだろう」と思った。そこでサウルはもう一度ダビデに言った。「きょう、あなたは私の婿になるのだ。」
サウルはダビデをペリシテ人の手によって殺すというわなにミカルを使ったのです。サウルは執拗にダビデの命を狙い、再度、ダビデに、「きょう、あなたは私の婿になるのだ。」と命じています。
こんなにウソを繰り返せば、だれだってサウルの言葉を信じないでしょう。彼の言葉の背後にわなが仕掛けられていることに気づくでしょう。それが分からなくなっているところに、サウルの鈍さと愚かさがあるのです。
22節、今度は、サウルは家来を使って、密かに知らせるように仕掛けています。
Ⅰサム 18:22 そしてサウルは家来たちに命じた。「ダビデにひそかにこう告げなさい。『聞いてください。王はあなたが気に入り、家来たちもみな、あなたを愛しています。今、王の婿になってください。』」
こうすることによって、自分が直接告げるよりも、真実味が増すように、サウルの本心をもれ聞いて伝えているという形式を取ったのです。しかし家来に吹き込んだ言葉は全部、偽りであるだけでなく、敵意に満ちたわなだったのです。「王はあなたが気に入り、家来たちもみな、あなたを愛しています。」
23節、ダビデはサウルの家来が伝えた言葉がみな、サウルのわなであることをはっきりと知っていたのですが、彼はそれを口に出さず、相変わらず、謙遜な態度を示して、「王の婿になるのがたやすいことだと思っているのか。私は貧しく、身分の低い者だ。」と言っています。
Ⅰサム 18:23 それでサウルの家来たちは、このことばをダビデの耳に入れた。するとダビデは言った。「王の婿になるのがたやすいことだと思っているのか。私は貧しく、身分の低い者だ。」
ダビデは、サウルの敵意のあるわなを知っても、争いや戦いを仕掛けなかったのです。あの巨人ゴリヤテを倒した勇気と力を、神に油注がれたサウルに対しては向けなかったのです。
24節、ダビデのこのような謙遜な言葉が報告されても、サウルは心と態度を変えようとしなかったのです。彼の心が悪の霊に支配されてしまっていたからです。
Ⅰサム 18:24 サウルの家来たちは、ダビデがこのように言っています、と言ってサウルに報告した。
エジプトの王パロの心も、モーセの進言に対して、一時、イスラエルを解放することを受け入れたという発言をしたのですが、心の中は頑ななままで、ついにパロは滅びました。
アビガイルの夫ナバルもダビデの進言に対して心を閉じ、頑なだったために、主に打たれて死んでいます(サムエル記第一25:10,11,38)。
イスカリオテのユダも、主から「友よ。何のためにきたのですか。」と言われても、心を変えようとしなかったのです(マタイ26:50)。
心頑なな人の心は悪魔に支配されています。
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)
「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(イザヤ書57:15)
25節、サウルの次の策略は、ミカルをダビデの妻にする話を持ち出しておいて、「王は花嫁料を望んでいない。(ダビデが「私は貧しく、」と言ったことに対して)」と言っていますが、それ以上に異常な花嫁料を要求したのです。
Ⅰサム 18:25 それでサウルは言った。「ダビデにこう言うがよい。王は花嫁料を望んではいない。ただ王の敵に復讐するため、ペリシテ人の陽の皮百だけを望んでいる、と。」サウルは、ダビデをペリシテ人の手で倒そうと考えていた。
それはペリシテ人の陽の皮、百を求めたのです。これは百人のペリシテ人の兵士の命を奪うことを意味していたのです。これは、ダビデが勇士であっても、ペリシテ人の手にかかって殺されるだろうと考えたからです。人が殺されることを願い、人の働きが失敗することを願い、そのために自ら人々に働きかけたり、わなを仕掛けることぐらい恐ろしいことはありません。結局、サウルは自分の仕掛けたわなに自分がはまって滅びたのです。他人を陥れようとする人は、自らその穴に陥るのです。神は見逃されるお方ではありません。
「花嫁料」とは、ヘブル語で「モハル」です。これは、ヤコブがラケルを自分の妻とするために、ラバンに対して、七年間働いたことと同じです。夫となる人が妻と結婚するために義理の父に与える贈り物のことです(創世記29:18~20)。
26~29節、策略を越えたミカルとの結婚
26~27節、ダビデはサウルの約束の期限の前に、ペリシテ人二百人を打ち殺し、その陽の皮を持ち帰り、王の婿となるための約束を王に果たしています。
Ⅰサム 18:26 サウルの家来たちが、このことばをダビデに告げると、ダビデは、王の婿になるために、それはちょうどよいと思った。そこで、期限が過ぎる前に、
18:27 ダビデは立って、彼と部下とで、出て行き、ペリシテ人二百人を打ち殺し、その陽の皮を持ち帰り、王の婿になるためのことを、王に果たした。そこでサウルは娘ミカルを妻としてダビデに与えた。
サウルは百人を求めたのに、ダビデはその倍の二百人の陽の皮をサウルの所に持ち帰ったのです。
28節、こうしてサウルはミカルをダビデの妻として与えていますが、ここでサウルは、主がダビデとともにおられることと、ミカルがダビデを愛していることとを見、知ったとあります。
Ⅰサム 18:28 こうして、サウルは、【主】がダビデとともにおられ、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、また、知った。
イタリアの画家 Virginio Grana (1830-1888)による「David and Michal(ダビデとミカル)」(Accademia Ligustica di Belle Arti蔵、Wikimedia Commonsより)
29節、普通なら、この二つのことが分かれば、サウルはダビデを祝福し、またサウル自身もダビデを愛するようになるはずですが、主に心を閉ざして背き続けていたサウルは、時が経つにつれて、主がダビデとともにいて、ダビデが勝ち続け、繁栄し続け、また一般民衆からも愛され、敬われるようになると、サウルはますますダビデを恐れ、「いつまでもダビデの敵となった」のです。
Ⅰサム 18:29 それでサウルは、ますますダビデを恐れた。サウルはいつまでもダビデの敵となった。
30節、ダビデの功績と名誉
30節は、ダビデの活躍を総括的に記しています。
Ⅰサム 18:30 ペリシテ人の首長たちが出て来るときは、そのたびごとに、ダビデはサウルの家来たちのすべてにまさる戦果をあげた。それで彼の名は非常に尊ばれた。
ペリシテの首長たちは侵略を繰り返していましたが、その度にダビデはサウルの家来たちよりもはるかに大きな勝利をもたらしたのです。その秘訣は主が彼とともにおられたからです。その結果、ダビデの名はイスラエル中に知られるようになり、尊敬されるようになったのです。
あとがき
「らくだが針の穴を通るほうが」は、縫物針のことではありません。エルサレムの城壁の門の側にあった「針の穴」と呼ばれている小さい穴のことです。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」とはイエス様の肉体を食べることではなく、イエス様の霊的いのちを受け入れること。
ガラテヤ2章20節の、キリストとともに十字架につけられた私は、自分中心の性質を持った自我のことで、「死んだ私」。今、生きている私は内にキリストを持っている自分の人格です。
「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではない。」とは、両親を侮ることではありません。両親を主と同列におかないことです。父母を敬わない者もキリストにふさわしくないことは真実です。
(まなべあきら 2008.10.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)