聖書の探求(297) サムエル記第一 19章 ヨナタンの愛の仲介、ミカルの知恵ある行動、ダビデはナヨテに逃亡
フランスの画家 Gustave Doré (1832–1883)による「Michal lets David escape from the window(ミカルはダビデを窓から脱出させる)」(Wikimedia Commonsより)
19章からは、ダビデの受けた迫害と、逆境の生涯を記しています。この長い苦難の経験が、ダビデの信仰を純粋なものにしたのです。
一方、サウルは息子ヨナタンからも、娘ミカルからも、ダビデの命を狙うことを止めるように言われたのに、ダビデを攻撃することを続けています。
サウルは最初、使者を遣わして攻撃していましたが、後にサウル自身が追跡しています(22節)。
これはサウルのねたみと嫉妬心の強さを示しています。
19章の分解
1~7節、ヨナタンの愛の仲介
8~17節、ミカルの知恵ある行動(サウルの追求とダビデの逃亡)
18~24節、ダビデのサムエルのもとへの逃亡とサウルの追跡
1~7節、ヨナタンの愛の仲介
1節、サウルはダビデ殺害の計画を息子ヨナタンと家来の全部に告げています。
Ⅰサム 19:1 サウルは、ダビデを殺すことを、息子ヨナタンや家来の全部に告げた。しかし、サウルの子ヨナタンはダビデを非常に愛していた。
サウルはこの時までは、ダビデに対する自分の激しいねたみや猜疑心や敵意の感情を公には隠していたようです。しかしダビデ殺害のためにはヨナタンや家来たちの力を借りる必要があると感じたので、あからさまに公表したのです。しかしサウルが公表したことによって、ヨナタンはダビデに自分の愛を実行する機会を得たのです。彼の愛は決して変わることがなかったのです。
2~3節、ヨナタンはあしたの朝、ダビデの隠れている野原に父サウルとともに出て行って、サウルの陰謀を聞き出してダビデに知らせることを約束しました。
Ⅰサム 19:2 それでヨナタンはダビデに告げて言った。「私の父サウルは、あなたを殺そうとしています。それで、あしたの朝は、注意して、隠れ場にとどまり、身を隠していてください。
19:3 私はあなたのいる野原に出て行って、父のそばに立ち、あなたのことについて父に話しましょう。何かわかったら、あなたに知らせましょう。」
4~5節、ヨナタンは父サウルにダビデの功績を語り、「彼が自分のいのちをかけて、ペリシテ人を打ったので、主は大勝利をイスラエル全体にもたらしてくださったのです。」と、ダビデの献身的信仰と主の祝福とを語ったのです。
Ⅰサム 19:4 ヨナタンは父サウルにダビデの良いことを話し、父に言った。「王よ。あなたのしもべダビデについて罪を犯さないでください。彼はあなたに対して罪を犯してはいません。かえって、彼のしたことは、あなたにとっては非常な益となっています。
19:5 彼が自分のいのちをかけて、ペリシテ人を打ったので、【主】は大勝利をイスラエル全体にもたらしてくださったのです。あなたはそれを見て、喜ばれました。なぜ何の理由もなくダビデを殺し、罪のない者の血を流して、罪を犯そうとされるのですか。」
サウル自身もそれを見て喜んだのです。それだけではなく、ダビデがいなければ、イスラエルはペリシテ人の軍隊によって悲惨な目に会っていたでしょう。それなのになぜ、サウルはダビデを殺そうとするのか。自分と民に命がけで、良くしてくれた人をなぜ、殺そうとするのか。ダビデを殺さなければならない理由は何もありません。ただ、サウルのねたみと、自分の王の地位をダビデが狙うのではないかという、根拠のない恐れと疑いによって殺そうとしているのです。その、ねたみと恐れも、サウル自身が神に不忠実になり、高慢になり、自分の知恵に頼り、人の言葉に従ったことが原因なのです。このまま進めば、サウルは間もなく滅びることが目に見えています。ヨナタンは父サウルを諭すように話したのです。
6節、このヨナタンのさとしの話を聞いた時、サウルは悪の霊から幾分、開放されていたのでしょう。ねたみや猜疑心から解放されていて、正常な判断をすることができています。
Ⅰサム 19:6 サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。サウルは誓った。「主は生きておられる。あれは殺されることはない。」
「サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。」の「聞き入れた」はヘブル語の「シャマ」で、注目しつつ、あるいは、同意しつつ、従うことを受け入れて理知的に聞くことを意味しています。この時、サウルは理性をもって聞くことができず、理解できないほどに、悪魔的恐怖に捕われていたわけではないし、非理性的になっていたわけでもなかったのです。そして「主は生きておられる。あれは殺されることはない。」と答えたのです。
7節、ヨナタンは喜んだでしょう。彼は隠れていたダビデを呼んで、サウルの言葉を告げ、ヨナタンが仲介して、ダビデを再びサウルのところで働くようにしています。
Ⅰサム 19:7 それで、ヨナタンはダビデを呼んで、このことのすべてを告げた。ヨナタンがダビデをサウルのところに連れて行ったので、ダビデは以前のようにサウルに仕えることになった。
しかし、サウルの回心に見えたことも、一時のことで終わってしまったのです。
8~17節、ミカルの知恵ある行動(サウルの追求とダビデの逃亡)
7節から8節の間には、相当の期間が経っていたと思われます。そして再びペリシテ人の侵略が始まり、ダビデはペリシテ人を打って大損害を与え、大勝利を収めたのです。
Ⅰサム 19:8 それからまた、戦いが起こったが、ダビデは出て行って、ペリシテ人と戦い、彼らを打って大損害を与えた。それで、彼らはダビデの前から逃げた。
9節、しかし、このことが切っ掛けとなって、一旦、おさまっていたサウルの激怒の感情が爆発したのです。
Ⅰサム 19:9 ときに、わざわいをもたらす、【主】の霊がサウルに臨んだ。サウルは自分の家にすわっており、その手には槍を持っていた。ダビデは琴を手にしてひいていた。
イタリアの画家 Silvestro Lega (1826–1895)による「David playing the harp before Saul(サウルの前でハープを弾くダビデ)」(イタリアのAccademia e Musei del Bargello蔵、Wikimedia Commonsより)
10節、それはサウルが自分の家に坐っており、ダビデが琴を弾いている時に起きました。
Ⅰサム 19:10 サウルが槍でダビデを壁に突き刺そうとしたとき、ダビデはサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた。ダビデは逃げ、その夜は難をのがれた。
サウルは以前と同じように槍でダビデを壁に突き刺そうとしたのです。ダビデはこれ以上サウル王のそばに居たら、自分の生命が危ないことを確信して、その夜、サウルのもとを逃れたのです。サウルは一時、良くなったかに見えましたが、彼の性質が何も変わっていないことを悟ったのです。
11~12節、サウルは逃げたダビデの家を家来に見張らせ、早朝、ダビデが目覚める前に殺せと命じておいたものと思われます。
Ⅰサム 19:11 サウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝になって彼を殺そうとした。ダビデの妻ミカルはダビデに告げて言った。「今夜、あなたのいのちを救わなければ、あすは、あなたは殺されてしまいます。」
19:12 こうしてミカルはダビデを窓から降ろしたので、彼は逃げて行き、難をのがれた。
ダビデの妻ミカルは、その危険な企みに気づいて「今夜、あなたのいのちを救わなければ、あすは、あなたは殺されてしまいます。」と言って、その夜のうちにダビデを窓から降ろして助けています。このように、わずか数時間の差の決断が間違えば、ダビデの生命と生涯のすべてが終わってしまう危険もあったのです。おそらくサウルの家来が戸口を見張っていたので、家の裏側の窓からダビデを吊り降ろして脱出させたのでしょう。
この他に、窓から脱出した人には、ラハブの家の窓から脱出したイスラエルの二人の斥候(ヨシュア記2:15)、と、回心した後のサウロ(使徒9:25)がいます。サウロの場合は、窓ではなく城壁から吊り降ろされたのですが、状況はよく似ていたと思われます。
13~14節、ミカルはできるだけダビデが遠くまで逃げられるように偽装しました。
Ⅰサム 19:13 ミカルはテラフィムを取って、それを寝床の上に置き、やぎの毛で編んだものを枕のところに置き、それを着物でおおった。
19:14 サウルがダビデを捕らえようと使者たちを遣わしたとき、ミカルは、「あの人は病気です」と言った。
あたかもダビデがまだ寝ているかのように見せるために、テラフィムとやぎの毛で編んだ物を寝床の上に置き、着物で覆ったのです。
ここでミカルがテラフィムを持っていたことは、彼女の信仰が主に対してあまり明確でなかったことを示しているようです。ヤコブの妻となったラケルも父の偶像のテラフィムを盗み出しています(創世記31:19)。イスラエル人の中には、根強く偶像のテラフィムが残っていたのです。
サウルの家来がダビデを捕えに来た時、ミカルは「あの人は病気です。」と言うと、寝床を調べることもなく、サウルの所に帰っています。これを見るとサウルの家来も、サウルのこんな命令には従いたくなかったことが分かります。
15~16節、サウルは使者たちに「あれを寝床のまま、私のところに連れて来い。あれを殺すのだ。」と言って、再び遣わしています。その間に、ダビデは安全な場所に逃げることができたのです
Ⅰサム 19:15 サウルはダビデを見ようとして、「あれを寝床のまま、私のところに連れて来い。あれを殺すのだ」と言って使者たちを遣わした。
19:16 使者たちが入って見ると、なんと、テラフィムが寝床にあり、やぎの毛で編んだものが枕のところにあった。
17節、サウルは自分の娘ミカルが自分をだまして、ダビデを逃したことを叱責していますが、ミカルは自分の身の危険を感じたのか、偽りの答えをしています。
Ⅰサム 19:17 サウルはミカルに言った。「なぜ、このようにして私を欺き、私の敵を逃がし、のがれさせたのか。」ミカルはサウルに言った。「あの人は、『私を逃がしてくれ。私がどうしておまえを殺せよう』と私に言ったのです。」
「あの人は、『私を逃がしてくれ。私がどうしておまえを殺せよう。』と私に言ったのです。」と。このミカルの偽りについて、称賛も非難もせず、何の説明も加えず、ただ事実だけを単に記しています。
18~24節、ダビデのサムエルのもとへの逃亡とサウルの追跡
18節、ダビデは、サウルとの間で、自分に危機が迫って来た時、だれに相談すればよいか。だれの所に行けばよいかと考えたのです。
Ⅰサム 19:18 ダビデは逃げ、のがれて、ラマのサムエルのところに行き、サウルが自分にしたこといっさいをサムエルに話した。そしてサムエルと、ナヨテに行って住んだ。
彼はすぐに、サムエルを見つけ出すことを考えついたのです。サムエルなら、サウル王の状態もよく知っているし、自分に主の油を注いでくれたのもサムエルだったし、何よりも主のみこころをよく知った上で、指導してくれると確信したのです。そこで、ラマのサムエルの所に行ったのです。そこでサムエルに、これまでサウルが自分にしたことをいっさい話したのです。そしてサムエルとダビデはナヨテに行って、一緒に住んでいます。ナヨテはラマの地方の一地区でしたが、その位置や、ナヨテの言葉の意味は不明です。
19節、ところが、ダビデがラマのナヨテにいることをサウルに密告する者がいたのです。
Ⅰサム 19:19 ところが、「ダビデは、なんと、ラマのナヨテにいます」とサウルに告げる者がいた。
いつの時代にも、密告して自分の利益を得ようとする者がいます。
20~22節、サウルはその密告を聞くと、すぐにダビデを捕えるために使者たちを遣わしています。
しかし神の御霊はダビデが捕えられることを許さなかったのです。密告者がいても、敵の使者たちがやって来ても、主に信頼して忠実に従っている者が捕えられることは、主が許されないのです。
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)
サムエルはすでにラマのナヨテで預言者学校を始めており、神のみことばを命がけで語る預言者が必要になることを、すでに予見して、預言者となる者を訓練していたのです。
エリヤやエリシャも、このサムエルが始めた預言者学校で訓練を受けた人たちであると思われます。このサムエルが始めた働きは、後の預言者時代を築いていったのです。彼は先見の明を持っていたのです。
このナヨテには、預言者としての訓練を受けていた者たちの一団が住居を構えていました。それで「ナヨテ」とは、「住まい」を意味する語から派生していると考える人もいますが、明確ではありません。
サムエルはその預言者の一団の中で監督の働きをしていたのです。サムエルはその生涯の大半を士師(さばきつかさ)として、イスラエルの全国を巡回して働きましたが、年老いてからは預言者たちを育てる働きに専念していたのです。
サウルの使者たちがダビデを捕えに、預言者たちの一団に近づくと、「神の霊がサウルの使者たちに臨み、彼らもまた、預言した。」のです。
Ⅰサム 19:20 そこでサウルはダビデを捕らえようと使者たちを遣わした。彼らは、預言者の一団が預言しており、サムエルがその監督をする者として立っているのを見た。そのとき、神の霊がサウルの使者たちに臨み、彼らもまた、預言した。
この「預言した」のヘブル語の「ナバ」は、真の預言者たちが神の霊感を受けて預言することにも、また偽預言者たちがわけのわからない支離滅裂の言葉を言うことにも使われています。ここでは、主がダビデを守られるために神の霊がサウルの使者たちの心を捕えて影響を与えたものと思われます。そしてここでの預言とは、賛美の一種であったと思われます。賛美することも、預言すると言われていたからです。預言者たちの一団が賛美している所にサウルの使者たちが近づいて来て、彼らもその賛美の霊に捕えられて歌い出し、ダビデを捕えることをしなかったのです。
これを聞いたサウルは別の部隊を、二度目、三度目と遣わしていますが、彼らもみな、神の霊に捕えられて預言したのです。
Ⅰサム 19:21 サウルにこのことが知らされたとき、彼はほかの使者たちを遣わしたが、彼らもまた、預言した。サウルはさらに三度目の使者たちを送ったが、彼らもまた、預言した。
まことに主は私たちの最も確かな、堅固な者、隠れ場また保護者です。
最後に、サウル自身がラマに行っています。そしてセクにある大きな井戸まで来た時、ある人に「サムエルとダビデはどこにいるのか。」と尋ねています。
Ⅰサム 19:22 そこでサウル自身もまたラマへ行った。彼はセクにある大きな井戸まで来たとき、「サムエルとダビデはどこにいるか」と尋ねた。すると、「今、ラマのナヨテにいます」と言われた。
ここに「セクにある大きな井戸」の所でサウルが尋ねた事情を具体的に記していることは、この事実を詳細に知っていた人がこのサムエル記を書いたことを証明しています。すなわち、このサムエル記は歴史的事実を記した書であることを証明しているのです。
23,24節、サウルもラマのナヨテに向かって行っていますが、彼にも神の霊が臨み、彼も預言しながら(おそらく賛美する心に陶酔しながら)歩いてナヨテに着いています。
サウルはサムエル記第一10章10,11節でも預言する経験をしていたのです。
Ⅰサム 19:23 サウルはそこからラマのナヨテへ出て行ったが、彼にも神の霊が臨み、彼は預言しながら歩いて、ラマのナヨテに着いた。
19:24 彼もまた着物を脱いで、サムエルの前で預言し、一昼夜の間、裸のまま倒れていた。このために、「サウルもまた、預言者のひとりなのか」と言われるようになった。
サウルはサムエルの前で異常な姿をとっています。着物を脱いで、裸のままで一昼夜、倒れていたのです。これは明らかに自分を指導して下さった人の前で取るべき姿ではありません。しかし主はダビデをサウルの手から守るために、神の霊によってこのような影響を与えたのです。その真の内容を知らない人々は「サウルもまた、預言者のひとりなのか。」と噂するようになっていますが、これは真の預言者でも、健全な預言者の姿でもありません。神から離れ、神に捨てられた人でも、このサウルのように預言者と間違われるようなことを話したり、行なったりすることがあります。そして人々は、それに惑わされることもあるのです。しかしこの場合は、主がダビデを守られるために神の霊によってサウルとその家来たちの霊に影響を与えられたのです。
あとがき
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(テモテ第二4:2)
十一月に入ってから、トラクトから集会に出席される方が、次々と起こされています。
お話をうかがうと、前に配られたトラクトも読んでおられ、トラクトは多くの人々に読まれていることを確信しました。そして教会に来られなくても、心に重大な影響を与えていることが分かります。
すぐに破る人、捨てる人も大勢いるでしょうが、毎日の心の支えにしておられる人も、大勢おられることが分かりました。トラクトを何回も受け取って後、来られています。健康が保たれている限り、トラクト伝道を続けます。「この町には、わたしの民がたくさんいるから。」(使徒18:10)
(まなべあきら 2008.12.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)