音声+文書:信仰の列伝(23) ヨセフの臨終のときの信仰 へブル人への手紙11章22節

イギリスのリトグラフ画家David Roberts (1796–1864) による「Tomb of Joseph at Shechem(シェケムのヨセフの墓)」(Wikimedia Commonsより)
2017年1月15日(日) 午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明牧師
へブル人への手紙11章22節
11:22 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。
はじめの祈り
「信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。」
恵みの深い天のお父様、こうして新しく始まりました年も、はや半月を過ごすところまで支えて下さり、感謝いたします。
私たちの信仰を一歩一歩導いて下さり、その足取りも恵みの中で保たれていますことを、感謝いたします。
私たちの生涯も、天の御国に入る時が来るはずでありますけれども、私たちの先達の歩んだ道を、私たちの信仰もまた同じ道を辿って、恵みのみことばを頂くことができますように、今日も祝してください。
真理を獲得して、主とともに歩む生活を今週も営ませてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。
前回は、「ヤコブの死の間際の信仰」をお話しました。
今回も、ヘブル人への手紙では、「ヨセフの臨終のときの信仰」を取り上げています。
ヨセフの生涯については、創世記37章~50章の大部分が使われています。
しかも創世記の部分では、ヨセフの優れた信仰の記録がたくさん記されているにも関わらず、なぜかヘブル人への手紙では、それらの興味深い記事が取り上げられていません。ヨセフの臨終の信仰だけが取り上げられています。
ちょっと不思議に思うことですけれども、なぜでしょうか。ヨセフもまたヤコブと同じか、と思ってしまいますけれども、ヨセフの場合はヤコブの場合とは異なります。
若き日のヨセフの信仰は、非常に優れた、霊的に光るものが見られます。しかし、それらの信仰は、比較的ヨセフ個人と、彼の家族に関わるものであります。
これに対して、ヨセフの臨終における信仰は、もっと、神様のご計画に関わるものです。ちょっと質が変わってきている、ということですね。
ヨセフの時代の神の御計画の進展状況は、ヤコブの子孫のイスラエル人が、そろそろ、神の民を形成していく、神の国の選民を形成していく直前の胎動のようなものです。そういう時が近づいていることを感じさせます。
すなわち、「イスラエルの子孫の脱出」とは、ヨセフの死後、エジプトの王朝が代わって、ヨセフの功績を知らないエジプトのパロにイスラエル人が奴隷として苦しめられている、そういう状態から、モーセに率いられて紅海を奇跡的に渡り、エジプトから救い出されるその出来事を指しています。
これが「イスラエル人の子孫の脱出」の意味ですね。
このことは、イスラエル人が神を信じて、個人としてではなく、集団として、一致団結して、神の民として、神の民族として行動した最初の大きな出来事であります。
ですから、それまでのヨセフの個人的な信仰から、イスラエルの民として、神の民として、神の民族として行動する、非常に大きな動きを見せる、そういう時であります。
イスラエル人が、ぼつぼつ、神の民としての国家を形成する、そういうまとまりを示し始めた時であります。そういうことを匂わせているわけですね。
イスラエル人が神を証しする神の民として、国家として、公式に完成するのはもっと後ですけれども、モーセによってシナイ山で律法が与えられて、主と契約を結んだことが、それにあたります。
ヨセフの時代は、神と契約を結ぶ、神の民となるための準備が一歩ずつ近づいていく、そういう時代でありました。
ちなみに私個人が、神の民に加えられた時は、水の洗礼を受けた時ではなくて、イエス・キリストの十字架の血による贖(あがな)いの契約、救いの契約を信じて、イエス様との契約を結んだ時であります。これを「キリストを信じる」と言っています。これが明確でないと、神の子ども、神の家族に加えられていません。
ですから、イスラエルの民がエジプトを出て、シナイ山で神のみことばを受けて、神の民として神と契約を結んで、神の民となったことは、単なる民族的な出来事だけではなくて、新約の目から見ると、罪の生活から、罪の奴隷からの脱出と、イエス・キリストの救いを表わす普遍的真理を表しています。
そういうことが、このヨセフの記事から見られるわけですね。
もう一つの指摘は、「自分の骨について指図しました」と書いてあることです。
これはヨセフの内に、自分の死と復活の信仰を持っていたことを明らかにしています。
以前にもお話ししましたけれども、息子イサクを全焼のいけにえにする時に、復活の信仰を表していますね。ですから、復活の信仰は、新約の信仰者だけのものではない、ということが分かります。
ヨセフが、後の時代に、イスラエルがモーセに率いられてエジプトを脱出することは、主がアブラハムに約束したみことばを、知っていたからです。
創世記15章13節~16節を見てみましょう。すでに神様はアブラハムに、エジプト脱出のことを約束しておられます。
創15:13 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。
15:14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。
15:15 あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。
15:16 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」
すでにアブラハムに、四代目の者たちがここに戻ってくることを預言し、約束しておられます。ヨセフがエジプト脱出の時に、自分の骨をパレスチナの地に携えていくように命じたのは、ヨセフ自身が神の民の一員であることと、復活することを強く確信していたことを示しています。
そこで、ヨセフの信仰の二つの点に注目してみたいと思います。
まずヨセフは、このような重要な信仰を、臨終になって得たのではありません。それは、彼の若き日からの、主に忠実な信仰生活が、そこまで悟れる信仰者に到達させてくれた、ということです。
第一の点の、イスラエルの子孫のエジプト脱出については、今読みましたように、ヨセフにだけ特別に啓示されたものではありません。アブラハムに約束されていたのは、先ほど創世記の15章13節~14節を読んだところで分かります。
ヨセフのお兄さんたちの穀物の束が、ヨセフの束にお辞儀をする夢を見ておりました。
創世記の37章5節~10節で、太陽と月と11の星が、ヨセフを伏し拝んでいる夢も見ております。神様は、幼いヨセフに夢を持って啓示されましたが、ヨセフの信仰が成長するに従って、夢ではなくて神のみことばによって、さらに重要な真理を悟るようになったわけです。
私たちも、重要な救いや、きよめや、復活や、神の国の真理については、神のみことばによらなければ、何一つ悟ることができません。生けるキリストに出会った人は、真剣に神のみことばを探求するようになります。
預言者イザヤは、イザヤ書6章で受肉前の、人となられる前のイエス様の栄光に触れた後に、イザヤの預言は、旧約のキリストの福音伝道のメッセージに変わりました。みことばのメッセージが変わってきたのです。
ダマスコ途上で、復活されたイエス様に出会った迫害者サウロは、それ以後、キリストの福音の宣教者に変えられております。
このように、生けるキリストに出会った人は、必ず誰でも、牧師や伝道者になるかどうかは別として、真剣なキリストの証し人、みことばの実行者、キリストの宣教者になります。
聖書を真剣に探求しているかどうか、みことばを生活で活用しているかどうかを見れば、その人が生けるキリストを持っているかどうかが分かります。
もし私たちが、神の真理よりも、自分の周りの課題を解決することだけに心が向いているならば、聖書は、ただ読んで知識として知っているだけにとどまってしまうでしょう。主イエスに忌み嫌われた学者たちにはなれても、神の国に入れていただける信仰者になることはできません。
マタイの7章22節~23節を、警告として読んでみましょう。
マタイ 7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
主イエス様を信じるとは、儀式を守り、律法の教えを守ることではなくて、キリストの福音の真理の救いときよめ、復活、御国の経験、に到達していること、内に生けるキリストを持っていることであります。
ヨセフもイザヤもパウロも、同じような経験をしました。
ここでもし、四代目になって戻ってくるというアブラハムに約束された神の預言に反して、イスラエルの子孫が、そういう預言をされていたにも拘わらず、エジプトを脱出しないで、イスラエル人がエジプト人と結婚してエジプトに同化していたなら、神のことばは反故にされてしまいます。旧約聖書の中にも、そういうことが記されています。
イスラエル人がエジプトに同化してしまえば、神の計画も栄光も破壊され、イスラエルは神の御目的をはたさずに、滅んでしまったでしょう。
しかし、そういうことは起きませんでした。イスラエルの子孫は、まとまって生活し、エジプト人との同化は、行われていませんでした。
私たちは、キリストの救いや、きよめや、すなわち、霊的なエジプトからの脱出があってこそ、私たちの存在と生涯が永遠に価値あるものとなります。
イスラエル人はエジプトから出たものの、今度はカナンの偶像の影響を受けて、目先の繁栄や快楽を求めるようになり、神様が預言者を用いて何度警告を与えても、偶像礼拝をやめずに繰り返しておりました。
彼らは飢饉になると、バアルに豊穣を祈り、人の子をいけにえとしてささげて偶像礼拝を行なっています。また、豊作になると、バアルが祝福してくれたといって祭りを行い、その結果として、アッシリヤとバビロンの捕囚の刑罰を受けることになりました。みなさんがよくご存じの通りであります。
この日本人も、つい先日の一月一日は、日本人総出で偶像礼拝を行い、経済的繁栄を求めたばかりであります。アメリカもさらなる繁栄を求めて、大統領を選んだようです。
このようなことに対して、神の警告の審判が下らないはずがありません。
そのわざわいが何なのか分かりませんが、地震なのか、火山の噴火なのか、洪水なのか、もっと新奇な経済的な危機的混乱なのか分かりませんが、必ず何らかの警告が下るはずであります。神は生きておられるお方ですから。
これは求めるべきものと、主が与えてくださるものを、はっきりと区別して、認識していないからです。
よく知られていることばに、マタイの6章33節があります。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
求めるべきものは、「神の国とその義」です。「神の国とその義」とは何なんでしょうか。これは、これを語られたイエス様ご自身を指しています。ヨセフで言うなら、エジプト脱出であり、私のことで言うなら、罪の奴隷状態から救い出され、きよめられ、主イエスとともにくびきを負って歩む生活をすることを指しています。
与えられるべきものとは、私に必要なすべてであります。
求めるものを間違わずに、生けるキリストを内に経験しつつ、主に従う生活を続けさせていただきたいと思います。
第二にヨセフは、自分の骨のことを指図しています。すなわち、ヨセフの信仰には、自分の死後と復活が計算されて、含まれていました。
神の民として、神の国によみがえることを確信しておりました。これが確信できなければ、私の信仰は失敗に終わってしまいます。私の信仰は死んでしまうからですね。
ですからこれは非常に重要なことであります。
パウロの信仰も、死と復活が最大の目的でありました。ピリピ3章10節~11節を読んでみましょう。
ピリピ3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
明らかに復活がその目的ですね。
第二テモテの4章8節も読んでみたいと思います。パウロの信仰の目的です。
第二テモテは、パウロの絶筆と言われています。地上生涯を去る一ヶ月くらい前に、書かれたとも言われています。
Ⅱテモ4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
ヨセフも同じ信仰を持っていたことが分かりますね。旧約と新約と比べて、旧約を低く見る人がありますけれども、決して低くはないですね。ヨセフは自分の死を計算にいれることによって、今の生活を、真実に、価値高く生きたのです。
死の間際になって死の準備をしようとしても遅すぎます。罪の結果、死はすべての人に来るものであれば、若い頃から死を計算に入れて、復活に備えた生き方をすべきです。
クリスチャンにも、これが十分にできているとは思えません。目先の繁栄に振り回されている生活になっていないでしょうか。
ヤコブの手紙の2章26節を見てみましょう。
ヤコブ2:26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。
人の目に映る死というものは、たましいが肉体を離れることでしかありません。
しかし、死はこれだけではありません。ルカの16章23節~26節に記されている、金持ちが行ったところの苦しみに満ちたハデスがあります。
ヨハネの黙示録20章14節~15節では、「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」と書かれています。
死には、永遠の滅亡を意味するハデスがあります。これは第二の死と呼ばれている死です。日本人は、「死」と言うと、肉体の死のことしか考えませんけれども、聖書は永遠の滅亡を意味する「死」があることを教えています。そちらの方がもっと大事なことなんです。
マタイの10章28節を読んでみたいと思います。イエス様が仰いました。
マタイ10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
ですから、イエス様を拒んだ不信仰な人は、永遠のいのちを受けておらず、永遠の滅亡に決定されてしまいます。自分でゲヘナを選んでしまっているからです。
しかし、永遠のいのちを受けている者には、肉体という朽ちる着物を脱いで、義の栄冠を受ける時となるわけです。
ヨセフは、自分の死後の骨を、神の約束の地カナンに運ばせることによって、自分が神の民の一員であることを証ししました。
ヨセフは17歳の時から死に至るまで、異教の地エジプトで生活しましたが、そのヨセフが、自分の骨を神の約束の地に運ぶように命じたのは、いろいろな意味が含まれています。
第一に、それは彼の最後の信仰の確信のあかしであります。
「死」に至るまで、信仰が忠実であったことのあかしであります。パウロも走るべき道のりを走った、と言っています。
ヨセフもまた同じであります。自分はエジプトに売られて、長いエジプト生活をしたけれども、死に至るまで信仰に忠実であったことを証ししております。
第二に、ヨセフはイスラエルの代表的リーダーとして、イスラエルの民に対して模範を示すあかしであります。全てのイスラエルの民は、神の国に帰るということを示しています。これは非常に大きな信仰のあかしであります。
リーダーとは、どういう道を歩んでいけばいいかということを示す人です。リーダーシップというのは旗を振る人のように見えますけれども、何か才能を発揮する人のように見えますけれども、本当のリーダーシップというのは、どの道を歩むべきかを示すことであります。
その点においてヨセフは、これからイスラエルの民がどうあるべきかを示しています。
この日本の地にそういうリーダーがいるでしょうか。
金儲けの術や、政治家の術や、経済的な術を示す人はいるかもしれませんが、国民全体がどこに向かって進んで行けばいいのか、どこに帰って行けばいいのかを示す、そういうリーダーがいるでしょうか。
第三に、彼がいかに神を恋い慕い、神の国を恋い慕っていたかを表しています。
先にもお話ししましたように、アブラハムは神の都を恋い慕っていたことを示していますけれども、ヨセフも同じであります。
第四に、どんなに長い間、異教のエジプトで生活していても、ヨセフの信仰は、異教の宗教の影響を受けていないことを示しています。
クリスチャンの中には、洗礼を受けて教会に行っていれば、天国に入れると安易に考えている人がいるようですが、そのような安易な考えでは、天の御国に入れる保証はありません。
神の国に入るには、三つの切符が必要です。
➀ キリストの十字架の血潮を、心に持っている事。
② 神の約束のみ言葉を信じていること。契約のことばであります。
③ 聖霊の贖(あがな)いの証印を持っていること。
パウロは自分の信仰について、次のように告白しているので、ピリピ1章21節を読んでみたいと思います。
ピリピ1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。
よく使われることばですけれども、パウロが語っている意味はこうです。
「私にとって生きていることは、キリストのいのちが私の内にあることです。また死ぬことは、永遠の栄光の冠、すなわち、キリストの復活を受けることですから、益です。」という意味であります。ですからパウロにとっては、生きることも死ぬことも、キリストのいのちを持つことになる、ということなのです。
パウロは。ピリピ3章10節~11節でも、同じことを言いました。
ピリピ3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
「キリストの苦しみにあずかり、キリストの死と同じ状態になる」ということは、肉体の死のことを言っているのではありません。生きている生活状態のことを言っています。
「キリストの死と同じ状態になる」とは、キリストと同じように十字架にかかって死ぬ、という死に方のことを言っているのではなくて、霊的に、自分中心の自我に死ぬ、ことを言っています。パウロがガラテヤの2章20節で言ったのと同じです。
そして、「死者の中からの復活に達したい」というのは、究極的に栄化される、キリストの復活にあずかることです。
このパウロの証言によると、自分中心の自我が取り除かれてきよめられることと、復活にあずかることとは、密接な関係があります。
キリストの栄化された復活を受けるためには、今生きている間に、自分中心の自我がきよめられて、キリストの復活のいのちを頂いて生活をすることが必要であります。
「キリストとその復活の力を知っている」とは、キリストの復活の力を使って、活用して、今の患難や困難を乗り越えていけば、忍耐が生み出され、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が復活の希望を確かなものにする、失望に終わることがない、ということです。
その秘訣は何なのか。
私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれるからだ、とローマの5章3節~5節でパウロは証ししています。
ローマ5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
ですから、きよめられることと、復活することとは非常に密接な関係があることを示しています。
私たちは毎日、日常の煩わしさや課題や苦難やわずらわしいことを、何の力で乗り越えているでしょうか。自分で頑張っているんでしょうか。キリストの復活の力でしょうか。聖霊によって心に注がれる神の愛の力でしょうか。
パウロは第二コリントの4章7節で、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」と言いました。
みな同じことを言っていますね。神の力によって、土の器の中に宝を入れて生活すること。私たちが真実にみことばの約束と、キリストの十字架の血潮と、聖霊の贖(あがな)いの証印を持っているなら、私たちは土の器の中に、測りしれない神の力を受けています。それを毎日使っていただきたい。どんな小さなことにも使っていただきたい。それは自分から出たものではなく、神から出たものであることが分かります。
その人は必ず、よみがえります、復活します。それが復活の力によって生きていることですね。復活というと今の自分に関係なくて、死んだ時の問題だ、と思っている人がいるかもしれませんが、パウロはそう思っていないんです。そう、言っていません。
きよめられた生活と復活とは非常に密接な関係があるとは、そういうことであります。
「私は弱くて、とてもできない。」と言われる方がおられるかもしれません。その人は、第二コリントの12章9節の、主イエス様のみことばを聞いていただきたい。
Ⅱコリ12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。・・・
弱いということは妨げになりません。もしそれでも、復活の力を、神の愛の力を使わない人がいるとすれば、それはその人の不信仰になります。他に助けようがありません。
私たちが、究極の栄化される復活にあずかるかどうかは、毎日、復活の信仰を活用することにかかっているということを、どうか、心にとめていただきたい。私たちが復活するのは、死んだ時の話ではありません。自分中心の自我に死んで、キリストの死のあがないの恵みを毎日使うことによって、復活のいのちを活用することができます。
そしてもう一つは、キリストの御霊が私のうちに生きていて、毎日の生活の中で、キリストの思いとなり、動機となり、平安となり、愛となっていることです。
これが永遠のいのちと、神の力と復活のいのちの現れなんですね。
霊的な真理と力が、私たちの生活を通して、信仰を通して、活用を通して、具体的ないろいろな経験となって現れてくる。
この真理を明確に表したのが、ガラテヤ2章20節です。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
もちろん、十字架につけられて自我が死んでいるのは大事なことですが、死んだままで何もしないのではありません。御子を信じる信仰によって、キリストが私のうちに生きておられることによって、生きているのです。
ヨセフの信仰はパウロほど明確ではなかったかもしれませんが、しかし、本質的には同じでありますね。旧約も新約も、その生きている本質の力には変わりがありません。
ヨセフの信仰のおもな特徴は、二つありました。
第一は霊的な真理、すなわち、たましいの救いやきよめ、復活の信仰を活用する生活です。そのことは、神の国と神の義とを、第一に求め続けることを指していました。
過ぎ去ってしまったことや、この世のことや、目先のことに心を向けなかったことです。ヨセフは生涯の中で、エジプトの7年の豊作と7年の大飢饉の時に取ったヨセフの政策は見事でした。それも神の知恵によるものです。神の民を救うために用いられました。
この世の政治家たちの政策や経済政策や政治的な事は、神の民を救うために用いられてこそ、初めて神の栄光を現わします。真の繁栄をもたらすことができます。しかし政治家たちは、自分の名を残し自分の手柄にするために行っているのではないでしょうか。
第二に、ヨセフが自分の骨について指図したことは、自分中心の自我に死に、キリストの復活のいのち、希望や平安や愛を活用する生活を示しています。
最後に、ヨセフが、この真理をどのようにして悟ったかをお話しします。
それは若い頃に見た夢によってではありません。また、自分の知恵で考え抜いた結果でもありません。
それは、彼が若い日のころから、神のみこころの中を従い続けたことによってです。
ヨセフは、父ヤコブから愛されていた状態から、兄たちからエジプトに奴隷に売られることによって、苦難が始まりました。
パロの侍従長ポティファルの妻によって誘惑され、主人ポティファルに誤解されて投獄されました。さらに、パロの献酌官長に、ヨセフの功績も依頼も忘れられ、放置されて、すべての期待が断たれる中で、ヨセフは神の啓示を受け続けました。
誰からも見離された状態の中で、ついに彼は、神のご計画を成し遂げるために、兄たちの悪事によってエジプトに遣わされていたことを悟ったのです。
なぜ彼は、こういう扱いを受けなければならなかったのか。
どの器を見ても、見離された状態に置かれている。それは一年や二年ではありません。
ヨセフの場合は13年でした。モーセの場合は、ミディアンで40年であります。そのことを悟る時があります。
創世記の50章20節を読んでみたいと思います。
創50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それは今日のようにして、多くの人々を生かしておくためでした。
私たちは聖書を読んで慰められたり、励まされたりしますけれども、 自分の生涯を通して、ヨセフと同じように、誰からも見離されて捨てられたような状態になり、苦難ばかりが続き、神様も助けてくれそうにないように見える時、何が行われているかを悟ることは難しい事であります。
しかし、その中を信じて通過することによって、神は悟らせてくださいました。そうでなければ、役に立たないからですね。
こうしてヨセフは、神のみこころの計画を悟ったんです。
私たちにも一人ひとり、神のみこころとご計画が行われています。それを自分の知恵で判断して行動を起こせば、自分の目で正しい道を選んだと思っても、滅びの道を選んでしまいます。ですから私にも、神の悟りが必要ですね。そのためには、みことばと聖霊に従うほかはありません。
ヨセフの17歳から30歳までの13年間の生涯は、苦難の連続でした。誰も助けてくれるものがありません。その中に神の重大なご計画があったわけです。
あなたはこの重大なご計画のためにあるんだよ、とはだれも教えてくれません。神はこの期間に、ヨセフを神の器に造っていたんです。そのことにヨセフが気づいていた、とは思われません。それでも彼は、自分の置かれている境遇に従い続けました。
その苦難のうちに主の臨在を覚えるようになり、主の祝福を経験するようになり、ついに、自分に対する、神の遠大なご計画とみこころを悟るに至ったのです。
神様は、ヨセフだけでなくすべての人に、みこころとご計画を持って導いておられます。私が年をとったからといって、もう神の御計画がないわけではありません。
ヨセフは、自分の死後にも神の御計画がある、証しの役目が成し遂げられることを、復活の大事があることを悟りました。
すでにお話ししましたが、ヘブルの11章4節の後半で「・・・・彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」とあります。全ての真実な信仰者に言えることですね。「死」によって役目を終えてしまっているわけではありません。信仰によって、死後もなお、役割を果たし続けているわけです。
私たちには、今も、「死」を超えて主を賛美することと、主の栄光を現わすことが続きます。ヨセフの信仰はそのことを言い表わしているわけです。ヨセフは臨終の時に至って、このことを完全に悟っていました。
私たちもできるだけ早く、私たちに与えられている神のみこころとご計画と導きとその役割を悟らせていただきたいものです。そのことを悟ったうえで、毎日の一歩一歩の生活をさせていただきたい。ヨセフの信仰は、そのことを私たちに教えてくれます。
これらの奥義は、みことばと聖霊経験との悟りによらなければ、自分の生活に生かすことができません。
ここでヨセフが何をしてきたかを思い出していただきたい。繰り返しになりますが、ヨセフは17歳の時、急転直下、苦難の谷底に陥りました。それも兄弟の恨み、憎しみ、ねたみによってであります。苦難の谷底に陥りましたが、そこで、信仰を習いました、働かせました。信仰を働かせることによって、苦難の孤独の中で、神の臨在を経験するようになりました。神の祝福と神の恵みを経験するようになりました。彼は黙々と神に従い続けました。
17歳から20歳という若さの中で、こういう経験をすることは非常に重要なことであります。現代の若者たちが、こういう生活ができるとは思えません。それほど、人間が神から遠く離れていることを感じます。しかし私たちはそうすることによってのみ、隠されている神のみこころとご計画を、自分の体験として悟ることができるようになるわけです。
ヨセフが通った道は特別な道ではありません。モーセも通りました。サムエルやダビデも通りました。みな同じであります。有名な人になるから通っているのではありません。ペテロが言ったように、私たちが信仰に進んでいけば、神のお役に立たない者になることはありません。
そして、ヨセフの場合、メシヤの先祖となるイスラエル民族の形成と、復活の実現でありました。ヨセフ個人の生活の問題だけではなくて、イスラエル民族は、神の民となり、メシヤの先祖となるという、非常に遠大な神のご計画を実現することになったわけであります。
私たちも、自分の信仰を毎日、小さなことに活用することによって、それがどんなに大きな神のみこころにつながっていくかを測り知ることはできません。しかし、必ず、主の栄光が現わされるようになります。神の家族ができて、キリストの復活にも必ずあずかります。この確信を持って、毎日を歩ませていただきたいと思います。
最後に第一ペテロの5章 6節を読んで閉じたいと思います。
Ⅰペテ5:6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
ですから私たちも、もう一度信仰を握りなおして、再確認させていただきたい。そして私たちの残されている生涯、またこの年、信仰を現わして、キリストとともに十字架につけられた信仰を、持っているだけではなくて、内に生きていてくださるキリストの復活の力を活用させていただいて、私たちにもみこころを悟らせていただき、神の栄光を現わす一歩一歩を歩ませていただきたいと思います。
お祈り
恵みの深い天のお父様、私たちの前を歩んで行った多くの聖徒たちは、その信仰の足跡を残してくれましたから、私たちの生涯も力強く、迷うことなく、確かな足取りで歩めますことを感謝いたします。
ヤコブの生涯も、ヨセフの生涯も、モーセの生涯も、みなそれぞれでありますけれども、神のみこころが十分になされています。
私たちも、曲がりなりにも信仰者として、あなたの道を歩ませていただけることを感謝いたします。
みことばと聖霊によって、真理を深く悟らせてくださり、一日一日の一歩一歩の歩みが、どれほど重要な神のみこころに繋がっているかを、思い見ることができますように助けてください。
全部のことが悟れなくても、今日一日の歩みを祝されて、みことばと聖霊の道を進んで行けますように顧みてください。
そして私たちにも、主の復活の栄光を、キリストの死と同じ形になり、同じ状態になり、キリストの復活に達したい、とパウロが言いましたように、そのために、私たちは今日、復活の力を活用して、その信仰を全うさせてください。
今週もその歩みを祝してくださいますように、
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明
音声と文書:信仰の列伝(全51回)へブル人への手紙11章 目次
<今週の活用聖句>
ガラテヤ人への手紙2章20節
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL045(844)8421