音声:信仰の列伝(23) ヨセフの臨終の信仰 へブル人への手紙11章22節

2017年1月15日(日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章22節
11:22 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。

<インフォメーション>

ヨセフは自分の死を計算に入れることによって、今の生活を真実に価値高く生きたのです。死の間際になって、死の準備をしようとしても、遅すぎます。罪の結果、死は全ての人に来るものであれば、若い時から死を計算に入れて、復活に備えた生き方をすべきです。

クリスチャンにも、これが十分にできているとは思えません。目先の繁栄に振り回されていないでしょうか。

「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)

人の目に映る死は、たましいが肉体を離れることでしかありません。しかし、死はこれだけではありません。

ルカ16章23~26節に記されている、金持ちが行った、苦しみに満ちたハデスがあります。

「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(ヨハネの黙示録20:14~15)

死には、永遠の滅亡を意味する、ハデスと呼ばれ、第二の死と呼ばれている死があります。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲへナで滅ばすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

ですから、主イエスを拒んで、不信仰な人は、永遠のいのちを受けておらず、永遠の滅亡に決定されてしまいます。自分でゲへナを選んでしまうのです。しかし、永遠のいのちを受けている者には、肉体という朽ちる着物を脱いで、義の栄冠を受ける時となるのです。

ヨセフは、自分の死後の骨を、神の約束の地カナンに運ばせることによって、自分が神の民の一員であることを、証ししたのです。

ヨセフは17歳の時から死に至るまで、異教の地エジプトで生活しました。そのヨセフが、自分の骨を神の約束の地に運ぶように命じたのには、いろいろな意味が含まれています。

第一に、それは彼の最後の信仰の確信の証しです。死に至るまで、信仰が忠実であることの証しです。

第二に、イスラエルの代表的リーダーとして、イスラエルの民への模範を示す証しです。

第三に、彼がいかに神を恋い慕い、神の国を恋い慕っているかを表わしています。

第四に、どんなに長い間、異教のエジプトで生活していても、ヨセフの信仰は、異教の宗教の影響を受けていないことを示しています。

クリスチャンの中には、洗礼を受けて、教会に行っていれば、天国に入れると、安易に考えている人がいるようですが、そのような安易な考えでは、天国に入れません。

神の国に入るには、三つの切符が必要です。

・キリストの十字架の血を心に持っていること、
・神の約束のみことばを信じていること、
・聖霊の贖いの証印を持っていることです。

パウロは自分の信仰について、次のように告白しています。

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ビリピ1:21)

パウロが語っている意味はこうです。

「私にとって、今生きていることは、キリストのいのちが私の内にあるからであり、死ぬことは、永遠の栄光の冠、即ちキリストの復活を受けることだから、益なのです。」

ですから、パウロにとって、生きることも、死ぬことも、キリストのいのちを持つことなのです。

<今週の活用聖句>

ガラテヤ人への手紙2章20節
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

写真は、イギリスのリトグラフ画家David Roberts (1796–1864) による「Tomb of Joseph at Shechem(シェケムのヨセフの墓)」(Wikimedia Commonsより)

地の塩港南キリスト教会
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