音声と文書:ヨハネの黙示録(54) 白い御座の大審判 20:11~15
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PDF文書:ヨハネの黙示録(54)
ヨハネの黙示録 20:11~15
20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。
20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。
20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。【新改訳改訂第3版】
上の写真は、オランダのの画家および彫刻画家 Romeyn de Hooghe (1645–1708)により描かれた「General resurrection. Revelation 20 v 11-14(一般の人の復活、黙示録20:11-14)」。(Phillip Medhurst Collection、Wikimedia commons より)
はじめに
ここは、11節にありますように、この箇所は「大きな白い御座のさばき」として有名なところですね。
黙 20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
ここは私たちにとっても深い関わりがあり、興味深い箇所です。
なぜなら、ここで神の聖徒たちが受ける報いが決定されるからだ、ということですね。
普通、「さばき」というと、悪が裁かれるということだけを考えるようでありますが、「さばき」というのは、悪が裁かれるというのももちろんありますけれども、神の民に対する報酬の決定の場でもあるわけですね。だから私たちにも非常に関心のある興味深いところである。ひらたく言えば、ここで何をもらえるかが決まるということですね。要らない人には別に関心がないかも知れませんが。
Ⅰ.なんといっても重要なことは、この審判は唯一の「大審判」と呼ばれるにふさわしい審判である。
A.その理由は、第一に、人類に下される最後の審判であるということです。
歴史上無数のさばきが行われてきました。それらは各時代時代によって大きく異なっています。ギロチンの時代もあり、軍法会議というのもあり、リンチなんてのもあり、いろいろなさばきが行われてきました。
しかしこの「大きな白い御座のさばき」というのは、二度と繰り返すことがない最後のさばきである。そういう意味でこれは大事なさばきである。「Great Judgement」と言いますか、非常に偉大なさばきが行なわれる。
「大審判」と言われる第二の理由は、このさばきは神様ご自身によって下される審判であるということですね。
それまでの審判というのは、神の審判でありましたけれども、神様の代理人によって行われてきた。
イスラエルが捕囚された時も、アッシリアとかバビロンが使われてきました。エジプトもそうでした。人間であるとか、民族であるとか、ある時は自然現象を用いて審判を下された。
これらは神のさばきであっても代理人や代理のものを用いて下された。
これらは、さばきではあっても最終的な審判ではなく、警告的なさばきであった。懲らしめて、神の道に立ち返ることを教えるためのさばきであったわけです。ですから、そういう審判の時は、悔い改めることができたわけです。また、神に立ち返ることができた警告的審判でありました。これは、神ご自身がなさる審判であり、もはや代理人によるものではないということです。
第三の理由は、この大審判の時には、人間は悔い改めて神に立ち返る猶予が与えられていない、ということです。
日本の裁判にも執行猶予というのがありますけれども、そういうのはない。最後の審判の時は悔い改めのチャンスは与えられていない、ということです。これは非常に気を付けたいですね。
赦してもらえるような叱られ方をしている間に赦しを頂いておかねばいけないですね。大審判の時は、赦しが備えられていない。しかも、個人個人に下る決定的な判決で、覆すことができないということです。再審請求できないということです。
こういう意味で「大きな白い御座の審判」というのは、唯一の大審判であります。この審判のあとにはもう審判はありません。この審判を超えたら、もうさばかれることがありませんから安心していいということですね。ここへ行くまでは安心しちゃいけないわけですね。
B.11節、ヨハネは「私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。」と言っています。
黙 20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
1.ヨハネは、これまでも御座のことについては何度も書いています。けれどもこれまでは、御座の大きさとか、色については殆ど言っていないんですが。ここにくると、「大きな白い御座」と言っているんです。
ですから、何か特別な意味を持つ幻であることが分かります。
特に、「大きい御座」というのは、審判者の権威を表すものでしょうね。その辺りの家具屋で買ってきたような椅子ではない。
それから、「白い御座」というのは、審判者の性質を表すものだと思います。それは、厳正であり、偽りもなく、不純もなく、あやまちもない。
ですからこの審判者に対しては、言い訳とか、欺きとか、うまくだますとかは通用しないのです。いろんな弁護士を雇ってもうまくいかない。
ここで弁護してくださるお方はイエス様だけですね。
ヨハネの第一の手紙の2章1節には、「私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」と書いてありますからイエス様による弁護がかなわなかったらもうダメということです。
2.「そこに着座しておられる方を見た」と書いてあります。
そのお方がどのようお方なのかをヨハネは言っていませんが、これは全能の神、創造者である神です。私たちを造られた神ですね。なぜ、私たちを造られた神が大審判を行うのか。
これはもちろんそのとおりだと思うんですが、神様は人をご自分の目的と使命を果たすために創造されました。
人は神様を愛して、神様を信頼して従って、神様と交わることによって、人間お互い同士も幸せに暮らせるようにお造りになられたわけですね。
さて、その創造者である神様は、最後の刈り入れの時に、人間各々がどのように生き、どのように行なってきたかを精算されるわけです。
ちょうど農夫が畑を耕し、種をまき、そして、秋口になると収穫をします。種をまいて収穫しないという農夫はいないんです。
創造者である神様は、この時は、最後の刈り入れの時なわけですね。ですから、この時はもう、落穂なんて落としておかないわけですよ。
落穂が落とされたら困るでしょ。落穂がもし私たちだったりしたら、これも大変なことですからね。ちゃんと刈り入れて貰わないと、一粒だってちゃんと借り入れて貰わないといけないですね。全ての物が収穫されて、毒麦は火で焼かれてしまうのですから。
創造者なる神が、何故そこに座しておられるか分かりますね。ご自分の目的で造ったものが、どういうふうにして生涯を送ったか。これを精算される。
私も時々地下鉄とか電車に乗ることがあるんですが、乗り越す時には精算するところがありますよね。あそこに行くたびに思います。やがてこんなふうに精算されるんだなあ、と思いますね。こわいですね。
いつか地下鉄に乗った時に、間違えて行き過ぎたところまでボタンを押してしまったんです。これも精算しなくちゃいけない。10円ぐらいでしたけどね。
そこで、精算に行くと怒られるんですよ。ちゃんと金額通りに押してくださいよ、なんて言われてね。
C.11節の終わりに「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」とあります。
「地も天もその御前から逃げ去って」とありますが、ある学者たちは、これは一時的に天や地が異変を起こすんじゃないか、と考えているんですが、確かにイエス様が十字架に架かられた時は、一時的に暗闇が襲いましたね。
全人類の罪に対する大審判であったわけですからね。あの十字架も、イエス様に下されたさばきの鉄槌でありましたが、あれは、全人類に対する神の審判です。その時は、12時から3時ごろまで真っ暗闇になりました。
そうであるかもわかりませんけれども、この聖句をよく読んでみますと、地と天はどこから逃げ去っているのか。
それは、「その御前から逃げ去った」と書いてあります。
つまり大審判者の御前から逃げ去って、跡形もなくなっています。
ですから、この地と天というのは、神の権威の前に恐れをなしている、あるいは、この「地と天」というのが今まではある価値観とかある力を持っていたけれども、神様の権威の前では力を失ってしまっている、とこう考えることができる。その方が自然であると思います。
それでは、「地」とは何だろうか。
それは人間が神様以上に、より頼んでいるものですね。この地上の生活ですね。より頼んでいるものの総称であろう。
また、「天」とは何だろうか。
それは、神の御座がある至高の天ではなくて、人間の権威の座を表す天と考えることができる。
もしそうならば、この大審判の時には人間が地上の生活で持っていた富とか、地位とか、権力とか、名声は、弁護のためになんの役にも立たないということになる。
地上に持っていたもの、それらは跡形もなく逃げ去ってしまった。
日本のことわざにも「地獄の沙汰も金次第」というのがあるでしょ。死んだときに何万円か握らせても何の役にも立たないというわけですね。
ですから、この幻は一時的な自然現象というよりも、こういうふうに考える方がより自然であろうと思います。
この地上でより頼んでいたもの、誇りにしていたもの、力にしていたもの、頼りにしていたものが、神様の御前では、実はなんの役にも立たなくなってしまう。
これを教えている。
Ⅱ.11節は、さばくお方が誰かということでした。12節は、さばかれるのは誰か、を示しています。
黙 20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。 ・・・・・
この聖句もいくつかの重要な点を示しています。
① 第一は、これは人々に対する審判であるということです。
個人個人に対する審判である。国とか社会の悪に対する審判ではない、ということです。
もうすでにこの白い御座が開かれる前に、20章10節では、悪魔もさばかれて硫黄の火の中に投げ込まれているでしょ。
黙 20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。
その前には、すでに、獣とにせ預言者も投げ込まれていますね。だから、もう片付いているわけです。
12節からは、平たく言えば一般市民ということになりますね。
要するに、サタンや国家権力や社会悪はすでに火の池に投げ込まれてしまって片付いているので、今ここでさばかれるのは、個人個人です。ま、私やみなさんであるわけです。
かつては国家権力に従っていた者も、今は国家権力によりすがっても助けを求めることができない。
これは「地も天もその御前から逃げ去った」というところですね。
あるいは社会の風習に従って、「日本には日本の宗教がある」なんて言っている人もいますが、日本の宗教って何ですか?
仏教は日本の宗教ですか? 唐天竺(からてんじく)から来ましたね。
神道は日本の宗教ですか? あれはどこから来たか分からないんですね。
古事記、日本書紀なんて読んでみましたけれども、なんとなくで、基準がありません。どこかから作り出された、捏造(ねつぞう)された話なんでしょうね。
私も学校で、日本書紀について論文を書いたことがあるんです。
あれは勉強すればするほど、分かんなくなっちゃうんです。
天の岩戸と言われるところを見にも行ったんですけど、洞穴の中に汚い藁(わら)なんか敷いてあってね、捨て犬あたりがうろうろしている、ってなところでありましたけれどもね。説明文が立っているだけで誰もいませんでした。
社会の風習に従って神を拒んでいる者も、社会は助けてくれない。そういう時に彼らは、神様の前できっとこう言うと思うんですけれどもね。
「私は国家に騙されていました」、
「国が共産主義でしたから」、
「国が軍国主義でしたから」、
「国が神道でしたから」、
「社会がそういう状況じゃなかったから」
と、いろんな言い訳ができると思います。
でも、神様の前ではその言い訳は通用しないということです。他人の責任にできない。国の責任、社会の責任にできない、ということですね。個人個人が誰に騙されていようと、自分の罪の責任を取らなければならないということです。
すでに、国家とか社会とかは裁かれてしまっているので、そこに逃げ込むことができない。
② 次にもう一つ注目しておきたいことは何か、というと、
みなさんも少し変に思っているかもしれませんが、「死んだ人々が御座の前に立っているのを見た。」と書いてあります。じゃ、生きている者はどうするのか、とならないでしょうか。
ここでは生きている人には触れられていない。
生きている人々は、すでに主の再臨の時により分けられているわけなんです。ですから、あとは報いを受けるか、完全に滅びるかどっちかだけなんです。生きている人々については言う必要がないわけです。
ここに死んだ人々を強調しているのは、生きている人々を除外しているわけではありません。
「死んだ人々」と書いてあるのは、このさばきが歴史を超えてなされる、ということです。その時代に生きている人々だけに行われるさばきではなくて、すでに何千年前に死んだ人々もみんな、つまり、この地上に生きた全人類が含まれる。
全人類という言葉が使われる場合、今現在生きている人々という場合もありますが、アダムとエバ以来ずうっと生きた経験のある人々全部を含んでいる場合もある。
ここでは後者ですね。何千年前に死んだ人も含まれる、過去の人々も含まれてくるという意味です。この審判は、その時代に生きた人々に対してだけ行われるものではなく、過去の人々も含まれるということですね。
ですからこれは非常に大きな審判である、ということですね。何日くらいかかるのでしょうか。
さらに、「大きい者も小さい者も御座の前に立っている」のを見た。
この大きいとか小さいというのは、この世の評価するところのものですね。すなわち、この世で大人物と評価されている人も審判から免除される何の特権を持たないということですね。
神様の前に行って、「すみません、総理大臣を何期か勤めたんですけど。」と言っても役に立たない。
また、小さい者、つまり、あの人は放っておいても何の害もないというような小さい者であっても審判を見逃せられることはないということです。
「すみません、私は小さい者で何もしなかったんです。」と言ってもダメです。
聖書を見ると、抜け目がなく書いてあるなあ、と思います。
ですから、これは、全人類の一人もこぼれることのない最後の大審判であるということです。
こうなったなら、こそこそと滑り込んで天国に入ろうかという考えを起こさないで、はっきりと、正面から入る道が備えられているわけですから、正々堂々と入らせていただきたいと思うことであります。
Ⅲ.この審判は何によってさばかれるのだろうか。
さばくのが誰か、さばかれるのがだれか、というのを学びました。
それでは、この審判は何によってさばかれるのか。これが12節の後半にでてきます。
黙 20:12 ・・・・・ そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。
A.ここに二種類の書物が登場してきます。
1.一つは「数々の書物」とだけ書いてあります
その書物の名前は書かれていませんが、この「数々の書物」の中には、全人類の行いのすべてが記されている。
これを開くと、「あなたは何年何月何日に生まれて、まず泣きました。」とか、「なかなかおしめがとれませんでした。」とか、何をしたかがずうっと克明に書いてあるんですね。
私はここを読んだ時に、さすがは神様だなあと思いました。
私がまだ学校に行っている時に、マイクロフィルムというのができたんです。
それは小さなフィルムの中に、本が何百ページと入ることができるんですね。図書館が小さなフィルムの中に全部入ってしまう。今はマイクロコンピューターというのがでいて、マイクロフィルムじゃなくていいんです。非常に多量の記録を小さなメモリー基盤の中にビットで入れることができるわけですね。
しかし、どんなに研究が進んで、科学が発達しても、生まれて死ぬまでの記録を全部記録することはできない。
これからどんなに素晴らしいものが出来ても遅いですね。アダムとエバの記録なんてもうとれませんからね。
アブラハムさんがカナンで何していたんだろうなんて、もうとれませんからね。
ですから、私はこれを見ると、人間はなんてことはないなあ、と思うんです。
今頃になって、人間はすごい電子機器を開発して小さなメモリーの中に何千ページ入りますなんて言っていますけど、なんてことはない。神様は最初から全部記録しているっていうんですから。
人間は、やっとコンピューターの発明だなんて騒いでいますけども、神様にとってはちっとも珍しくない。
神様っていうのはすごいお方だなあ、と思います。最初からそういう風に記録されている。みなさんのも全部書いてあるわけですから。消せないんです。
コンピューターだと、ウイルスが入って消されてしまったとか、ニュースで言っていましたが、家内に言わせると「へえ、コンピューターも風邪をひくんですか?」って言うから、「そういう意味じゃないんだ」って話しましたけれどもね。私もよく分からないんですけど。「数々の書物」は、間違っても消されることはない。
神様からすると、人間の進歩なんてまだ一歩も進んでいないなあ、と。この場所を読んでそう思いましたね。
この「数々の書物」には、行ないのすべてが記されている。
2.もう一つの書物は「いのちの書」であると書いてある。
「いのちの書」の方には、行なったことではなくて、「名前」だけが書いてある。
こっちの方は名簿です。神様を信じ、神様を畏(おそ)れ、永遠のいのちが与えられた聖徒たちの名前が書かれている。
「数々の書物」の方は全員の行ないが書いてあるんですが、こっちの「いのちの書」の方には神の聖徒の名前だけが書いてある。
こっちの方に書かれていると、それは宝くじの当選、「当たり」と言えば分かり易いですかね。しかし、運よく当たるというわけにはいかないです。
イエス様の十字架によって救われて、永遠のいのちが与えられていないと書かれていないわけです。
この「いのちの書」に名前が書かれていないと、どんなに弁護しても、騒いでも、新しい天と新しい地に入れていただくことはできない、すなわち、良い報酬を受ける資格がないわけです。この「いのちの書」は資格名簿と言ってもいいと思うんですね。
どうぞ、この「いのちの書」に自分の名前が記されるような生涯を、全うしていただきたいと思います。
3.それは、イエス様を自分の救い主として信じるか信じないかによって、決まる。
イエス様が自分の罪のために十字架にかかって死んでくださった、また、甦(よみがえ)ってくださったことを、信じて生きるかどうかによって決まるわけです。
ですから、どちらの書物も大事ですけれども「いのちの書」に名前が記されていないと、「数々の書物」の方に「たまにお母さんのお手伝いをしました。」なんて書いてあっても天国にはかなわないということになってきます。
この「いのちの書」に名の記されている人は、栄光の報いを受ける資格が与えられており、この書に名の記されていない人は、滅びの報いを受けることになります。その報いの内容は、「数々の書物」に記されているその人の行ないに応じて決められます。
私たちが救われて神の御国に入ることができるのは、イエス・キリストを信じる信仰だけです。しかし、御国で受ける報酬は、各々の信仰の行ないによるのです。
この点をしっかりと覚えておきましょう。
まず、私たち人類は天国と地獄に分けられていくわけです。そして、天の御国の方に入っていないといけない。しかし、天国で受ける報いというのはみな同じじゃない。
夫婦でも親子でも、同じじゃないですよ。「すみません、夫婦で扱ってくれませんか。」と言ってもダメなんです。これは個人ですから。
あのね、天の御国に行くと家族は一つしかないんです。うちの家族っていうのはなくなってしまうんですね。天国では家族は一つなんです。
だってお父さんは一人ですからね。あとはみんな子供ですから。最後の審判では、個人の行いが取り扱われるということですね。
ですから、あとの残りが少なくなってきましたから、これから後の方の人生を頑張っておかないといけませんね、という気がしますね。
地獄については詳しく書いてありませんけれども、天国ではみな同じ報いを受けるわけではありませんから、地獄でもみんな同じように扱われるのではないと思う。
同じように苦しむわけではないだろうと思うんですね。
不信仰な行いによって、さばきの報いが変わってくるだろうと思います。
Ⅳ.13節で、ヨハネは「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。」と書いています。
黙 20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。
ある人は、「海が死者を出す」というのは、海難事故とか、おぼれて死んだ人ではないかと単純に考えますが、ヨハネは、「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。」と言っていますね。
「海」と「死とハデス」を、並べて書いています。
ですからヨハネは、「海」を「死とハデス」と同じくらい恐ろしい場所として考えていたと思われます。
今の私たちの時代は、海といっても立派な船がありますが、ヨハネの時代は海というのは本当に恐ろしいものであったんです。呑み込まれたら地獄と同じような恐ろしいものだった。海は底知れぬ恐ろしいもので、死とハデスのようだという思想を持っていた。
人間の力ではどうすることもできない、恐ろしい海のような死とハデスも、神様に征服されて、神様の命令によって死者をさばきのために神様の前に差し出すように命じられる、と思われるわけです。
死とハデスは、神の最後のさばきがおこなわれるまで、人の魂を引き受けている、ま、死んだ方々の魂を引き受けている、中間の状態です。
この二つは神様の代理人として、死んだ人の魂を引き受けている。しかし、この時は、死もハデスも神様の命令に従わなければならない。完全に、死もハデスも神様に征服されてしまう。これは、非常に幸いですね。ここで初めて死は滅びるわけです。
14節に「死とハデスとは火の池に投げ込まれた」とありますね。
黙 20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。
パウロはこう言っていますね。
Ⅰコリ15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。
このことが実現するのは、大いなるさばきの御座の時のことですね。死が勝利にのまれてしまった。
15章26節もご一緒に読んでみましょう。
Ⅰコリ15:26 最後の敵である死も滅ぼされます。
人間にとっていろんな敵がありますが、最後の敵である死も滅ぼされる。
「死が勝利にのまれた」、「死が滅ぼされる」、どちらも死の力を失う。効力を失う。死というものがなくなってしまう、ということを表している。
現代、私たちにとって死は最後の敵である。しかし、常に死が勝つとは限らない。私たちは死に対して敗北しているのではない。勝てない敵ではないということですね。
死は私たちを征服し続ける王様ではない。
14節で、「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。」とあります。
神のさばきを受けるのは、サタンや彼の手下、あるいは、国家権力や社会悪だけではなく、また、個人個人の人間だけではなく、死の原理、ハデスの状態、こういうものも滅びていくんですね。
そもそも死というのがなくなる。ですから神様の御国が始まったら、葬儀屋さんは廃業してしまいます。死ぬ人がいないんですから。
死もハデスも人類に激しく襲いかかり、教会や聖徒たちを苦しめたり、攻めたり、悩ましたりしました。それらは神にとって敵であった。しかしこれらは、終わりの時を迎える。私たちはもはや死を恐れない時がくる。死がなくなってします。この悪は、永遠に神によって地獄に閉じ込められてしまう。
地獄ってにぎやかですね。獣もいればにせ預言者もいる。サタンもいれば大勢の仲間がいる、おまけに、死とハデスまでも入ってくる。ですから超満員ですね。押すな押すなです。大変ですよ。これが永遠の滅亡ですね。すべての神に逆らうものに対する決定的滅亡である。
しかし、「いのちの書」に名を記された者には「永遠の復活」ですね。二度と死を見ない復活です。
14節の終わりに、「第二の死である」と書いてありますが、ひっくり返して言うと、「第二の復活」ということもできる。
火の池に投げ込まれる者にとっては「第二の死」、
神の御国に入れられるものは「第二の復活」。
「第二の死」に投げ込まれる者は、もう救われる道がない。どうしようもない。
「第二の復活」に与(あずか)る者は、この上もない幸福に包まれることができる。
ヨハネは私たちをここに導くために、長い間幻を次々と記してきたわけです。
これまでヨハネは、多くの神のさばきの幻を描いてきましたが、ちょっと見ると、神と教会の敵をさばいて、この世から悪を取り除くことが目的であるかのように私たちの目に映った。
私たちの目はしばしば近視眼ですから、目先のことしかよく見えない。悪がなくなるようにと思うんですが、しかし、神様の目的はもっと究極的なものである。
それは「すべてを新しくすること」です。「新しい天と新しい地を創造すること」です。
そこに行くまで神様は計画を進めていく。だから今日明日私たちを助けるだけが目的じゃない。
そこに到達する前に、なんとしても悪の存在と、この世を汚染している悪の性質を取り除いておく必要があったわけです。
ですから「第二の死」というのは、ある意味で全人類とすべての悪に対する大掃除である、ということができますね。
私たちは今、この日に向かって毎日生活を送っているわけですが、近視眼的に目的を設定してしまうと、大変なことになりますね。
新しい天と新しい地に向かって進んでいるわけですので、それをもっと手前の方に目的を設定しますと、すぐに失望したり悩んだりするんですね。
私たちは今日明日どうなるかということよりも、新しい天と新しい地に入ることが一番大事なことです。これを間違わないでいただきたい。神様の究極の目的をしっかり目指して進まなければなりません。
私は、お葬式でなくなった方のところでお話することがあるんですが、亡くなる時にね、平安に生涯を閉じられるということは願うところではありますが、必ずしもそう行かない場合もある。
皆さんは平安に閉じられるかもしれませんが、私は泡を吹いて終わるかもしれない。そりゃあ平安の方がいいですよ。しかし、あの人は口を開けて死んだから駄目だとは言えないわけです。
目的設定をあまり手前の方に置かないで、「新しい天と新しい地」に入ることの方が大事なわけですね。願わくは、すこやかなる地上の終わりを全うしたいものではありますけれど。
最後の「大きな白い御座の大審判」の日に、神様の御座の前に立つときに、私たちは、「いのちの書」に名前を記されている者になっておきたいですね。
「いのちの書」を最初から最後までぺらぺらめくって、「あなたの名前はちょっと、、、書き落としたはずはないんですが、、、」と言われたら、ぞーっとしますね。
多くの教会員は、その日、「いのちの書」に自分の名前がなくて大慌てするんじゃないかなあ、って思うんですよね。
「そんなことはない、私は洗礼を受けて、ずっと教会に行って、聖書も読んで、お祈りもして、献金もしましたよ。」なんて言ってね。
「でも書いてないんですもの」って言われて、「イエス様忘れたんですよ、あの方健忘症になって、、」って言ってもダメなんですよ。
大事なことは、はっきりとイエス様を自分の救い主として信じる信仰を持つということですね。
ある人はかつて、イエス様を救い主として信じていたかもしれない。でも途中から信仰から迷い出てしまった。
「すみません、あなたの名前、消したあとがありますよ」なんてのは困る。
「二重線引いてハンコ押してありますよ、キリスト、って」ね。
そういうことにならないように、日ごとにイエス様に信頼してイエス様の血を仰いでね、進ませていただきたい。「数々の書物」にはちっともいい事が書かれてなくても、「いのちの書」にだけは名前が書かれてあるようにしたいものですね。
また、「数々の書物」の方には、私たちは、信仰の行いが書かれるようにしたい。
自分の欲とか願いとか、自己中心とかの行いには報酬はない。この世で貰ってしまっていますからね。
神様に仕え、神様に従う行いは報酬を受けます。私たちのすべての行いは、神の書に記されているんです。
イエス様はおっしゃいましたね。「わたしの名のゆえに冷たい水一杯を与える者」は覚えられている。「一杯です」。小さい事だって覚えておられる。「もっと貰おう」と思って、たくさんやってもそういうのはダメです。
ここで注意すべきことは何か。
それは、いやいや仕方なく義務的にやらないということです。
他人と比べ、「みんながやってるから私もしなくちゃ」とかもダメです。
「みんながしてないのに、どうして自分だけしなくちゃいけないの」とか、「何で僕だけやるの」って言いながらやるのもダメですね。
ぐずぐず言いながらやっても、ダメです。
そういう人の行いは、すべて空しくなってしまうんですね。
私たちが何かをする時には、動機に注意したいですね。
他人とは関係なく、個人的に、喜んで、主のためにする。
その行いだけが、良い報酬の対象になりますんでね。
ですから、行なう場合は、よく気を付けて、動機を心に留めていただきたい。
そして、「新しい天と新しい地」を、待ち望みたいと思います。
お祈り
「死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行いによってさばかれた。」
恵みの深い天の神様、みことばを通し、いよいよ私たちがあなたのお出でを待ち望み、また、あなたのさばきの前に出させていただく日を心に待ちますから、一歩一歩信仰の生涯を辿(たど)らせていただき、ありがとうございます。
歩みの拙(つたな)い者であります。
しかしイエス様の御名の故に、どんな小さなことでもあなたは覚えて下さり、それに対して豊かな報いを備えていてくださることを覚え、心から感謝いたします。
日ごとの歩みに信仰を与えてください。
また、主に喜ばれる動機を持って、進むことができるように。
尊いイエス・キリストの御名によってお祈りを致します。
アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明