音声+文書:信仰の列伝(7) 「神に喜ばれているエノク」 へブル人への手紙11章5節

オランダのエッチング画家によるMortier’s Bibleの挿絵「Enoch translated(エノクは移された)」 (1700年頃の作)(Wikimedia Commonsより)


2016年9月11日(日)午前10時半
まなべあきら牧師

へブル人への手紙11章5節
11:5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。

お祈り

「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」
恵み深い天のお父様、こうして私たちを、信仰の導き手、信仰の完成者であるイエス様を礼拝する恵みの時を与えてくださり、また、私たちをもイエス様に喜んでいただけるようにあかしをさせてください。
今日も新しい霊を与えられて、主と交わることができますように、こういう礼拝をささげることができるように顧みてください。
こうしてイエス様を礼拝できる恵みを心から感謝いたします。
お一人ひとりにも、ホームにおられる方々にも、等しく恵みを与えてください。
この時を主の御手にゆだねて、尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。


今日は「神に喜ばれているエノク」についてお話します。
エノクについては、聖書にはわずかの記録しか残されていません。最初に出てくるのは、創世記の5章18節から24節です。ちょっと長いですけれども、ご一緒に読んでみましょう。

創 5:18 エレデは百六十二年生きて、エノクを生んだ。
5:19 エレデはエノクを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。
5:20 エレデの一生は九百六十二年であった。こうして彼は死んだ。
5:21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。
5:22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。
5:23 エノクの一生は三百六十五年であった。
5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

これが最初のエノクの記事でありますね。

もう一つはユダの手紙の14節15節です。ここではエノクの預言が取り上げられています。

ユダ1:14 アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。
1:15 すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」

三か所にエノクについて書かれています。
各書がエノクの特徴を記しておりますが、みんな同じエノクを書いたわけではありません。

ユダは、エノクを、主イエスの再臨の時のさばきの預言者として、記しています。不思議なことですが、エノクは、イエス様の再臨のことを話している。
ヘブル人への手紙11章5節では、神に喜ばれている信仰者エノクが取り上げられています。
創世記5章では、神とともに歩んでいるエノクが強調されています。

それぞれの書が、それぞれの特徴を表していることが分かります。主なる神様は、アダムから7代目のエノクに、主と心を全く一つにする神様のお気に入りの聖徒を得たわけです。神様を喜ばせる人物が現れてきました。私たちも、そういう神様を喜ばせる信仰者でありたいものです。

エノクが特別なことをした、という記録はありません。信仰者は、特別な奇跡を行わないと、立派な人のように思われないかもしれませんが、エノクにはそういうところがないんです。エノクの信仰の特徴は、「神とともに歩んでいる」ことです。

創世記の5章22節を見ると、「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神と共に歩んだ」とあります。このことばは、メトシェラの誕生の時に、エノクが神とともに歩きはじめる重大な、なんらかの信仰経験があったことを、暗示しているようであります。
聖書を読むと、例えばアブラハムでいえば、イサクの誕生の時とか、あるいはモーセの死の時とか、いつかお話しますけれども、誕生の時とか死の時が、重大な信仰経験と関係していることがあります。

それにしても、エノクが主に喜ばれたのは、主とともに歩むことによってであります。
主とともに歩むことは、今の私たちにも求められていることです。

ノアも、神とともに歩みました。創世記の6章9節で、「ノアは神とともに歩んだ」とありますから、ノアも神とともに歩みました。

アブラハムは、九十九歳の時、不信仰でイシュマエルを生んで、主は十三年間沈黙されました。その後、信仰の回復のために創世記17章1節後半で、
創17:1 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
と、「わたしの前を歩む」ように命じられました。神とともに歩むことですね。

ダビデは、いつもお話ししていることですが、詩篇16篇8、9節で、
詩16:8 私はいつも、私の前に【主】を置いた。【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。 16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
彼も別の言葉でいえば、神とともに歩む生活をしております。

ノアもアブラハムもダビデも、そして、イエス様も、主とともに歩みました。
マタイ11章29節で、イエス様は別のことばで言っていますが、
マタイ11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

「くびきを負って、わたしと一緒に歩きなさい。」ということですね。

マタイ16章24節でも、
マタイ16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

パウロはガラテヤ5章25節で
ガラ5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

ノアも、アブラハムも、ダビデも、イエス様も、パウロも、語っているみことばは、それぞれが実際に生活を通して、主とともに歩んできたことですね。これは教会でのただの教え、おすすめの教えではありません。頭で理解して、覚えて、納得することで終わらせるものではない。実際のいろいろな困難な生活の中で、「イエス様、あなたと一緒に歩みます」と、くびきをともにして生活する、そういうことを言っているわけですね。

エペソの2章3節を、お読みしたいと思います。
エペソ2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

これがどう関係するのか、ということですけれども、エノクも、堕落したアダムとエバの子孫です。アダムから7代目といわれています。ですから、エノクも「み怒りを受ける一人」であったことは間違いありません。
エノクはメトシェラが生まれた時、おそらくそうなんでしょうけれども、罪の赦しときよめを経験したと考えられます。そういう経験がエノクは、メトシェラが生まれた時にあったんでしょうね。そういうことを意味しているようです。

ヘブル人への手紙では、エノクが信仰によって神に喜ばれる者になったことを強調していますから、何らかの神が定められた信仰経験をした。
信仰によって、主の全き救いを信じる罪人(つみびと)は、旧約の時代でも、新約の時代でも、神に喜ばれる者とされています。神に喜ばれている者、私たちもいつもそうありたいものです。

特に創世記は、エノクが主に喜ばれるようになった理由は、メトシェラを生んだ後、三百年間、神とともに歩んだことを上げています。
そしてエノクは、エリヤと同じように、神によって、「死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった」と言っています。
このエノクの昇天は、「彼が移される前に、神に喜ばれる者とあかしされていたからである」と言っています。

こうしてエノクは、死を見ないで移されることを通して、主に喜ばれている確かな証明を受けたのです。主の喜ばれていることが、どうしてわかるのか、というのは神様の御業が行われるからであります。

先ほどお話ししましたように、「エノクが神とともに歩んだ」という表現は、実際は、エノクはどんな生活を営んでいたのか、聖書はその説明をしていませんから、特別なことではないと思いますけれども、推測しかありません。
信仰を表すには、何か特別なことをしなくてはならないと思いやすいことでありますけれども、聖書は、「エノクは三百年、神とともに歩んだ」、と言っています。

エノクは三百年の長い期間、長寿時代の複雑な家族関係の家庭にいる時も、大勢の家族で、いろんな人がいる中で、生活することは大変であります。
また、エノクは、羊飼いの遊牧民族でありましたから、羊を追って牧場から牧場へと長い放牧の旅を続けている時もあったでしょう。
家にとどまっている時も、長旅をしている時も、心に主を信じて、導きに従っていたことを、主が深く喜んでくださっていたことでありましょう。

私たちも、家庭で静まる時もあれば、忙しく働きまわる時もあります。仕事に追い掛け回される時もありますけれども、疲れ果てる時もあります。どちらにしても、主を心に信じて導きに従っていたので、その普段の生活そのものが、神様に深く喜んでいただけたんです。
神とともに歩む、ということは、信頼と従順と愛のしるしであります。

イエス様は、マタイ28章20節の最後で、弟子たちに言い残しております。
マタイ28:20 「・・・・ 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

主は私の全生涯を通して、いつも私とともに歩みたいと、待っていてくださいます。
しかし、私は一日3回祈るだけで、後は自分の知恵と考えでやっているので、主は失望されてしまうのです。祈る時だけイエス様とともにいて、あとは自分の考えで行ってしまう、
心の中にイエス様がいなくなってしまう。

羊を追っている時は羊のことが気になるし、家の中にいる時は誰かのことが気になるし、仕事をしていれば仕事のことが気になるし、それはとても大切なことでありますけれども、心に主を信じて導きに従っていくことを、主は深く喜んでくださるわけですね。
ですからダビデはいつも、「まず最初に、私の前に主を置いた」と言っています。それはどうすればよいかというのは、「主をわが前に置いた生活」というプリントを作りましたので、読み直していただきたいと思います。

とにかく神様は私の父ですから、天のお父様ですから、毎日起きてくるどんな小さなことでも祈ってほしい、父に告げてほしい、近づいてほしい。他人の言葉で心が傷ついて悔しい思いをしている時も、一人で耐えていないで、頑張っていないで、天の父に話してほしい、打ち明けてほしい。父はそれを待っていてくださるんですね。
「私の前に主を置いた」というのはそういうことであります。

エノクでいえば、羊がどこかへ行ってしまった、という心配もあるし、狼に追いかけられたり、大変な目にあったかもしれません。家にいる時は、誰かから嫌がらせを受けたかもしれません。その一つ一つを神様に打ち明けていった。父なる神は、我が子の、嬉しいことも、悲しいことも、悔しいことも、その訴えを聞きたいんです。

何事も主に告げましょう。そうすれば主は、私を喜んでくださいます。そういうことが「主とともに歩む」重要なことであります。
「主とともに歩む」というと、何か律法的なことや特別なことを考えたりしがちでありますけれども、聖書は、私たちが考えている以上に、私たちの身近にいてくださいます。

聖書中、神が満足して喜んでおられる記事があります。
創世記1章4節では、「神は光を見てよしとされた」と、光を創造された時ですね。
それぞれの創造された時にも、1章10節、12節、18節、21節、25節、それぞれの創造のあとに「神はそれを見て良しとされた」とあります。満足して喜ばれたということですね。

1章 31節を見ると、人を創られた後には「見よ。それは非常に良かった」、Very goodであったと言っています。
これらのことから何が分かるか、後でお話しましょう。

マタイの8章10節を、読んでみたいと思います。ここでも主は喜んでおられますね。
マタイ8:10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。

今見た創世記1章や、マタイ8章10節を見ると、主が喜ばれるのは、主のみことばが実現する時であることが分かります。このことが分かると、主を喜ばせるには、どうしたらいいか分かります。主のみことばを信じ切って、みことばに従っていくことですね。

ルカの1章の45節でエリサベツは言いました。
「主が語られたことは、必ず実現すると信じ切った人は、なんと幸いなことでしょう。」
それは神様を喜ばせることだからですね。

私が自己満足するためには、肉の欲を行いますけれども、神を喜ばせるためには、神のみことばを信じて行えばいい、ということが分かります。このことは、イエス様が何度も語っていることですね。キリストのみことばに、とどまる生活をすることです。

ヨハネの15章7節で、イエス様はおっしゃいました。
ヨハネ15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

マタイの7章24節でも同じことが言われていますね。
マタイ7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。

エノクは天に移される前に、すなわち、地上の生活をしている時から、神様に喜ばれていました。もう一度、創世記5章22節と24節から、エノクの生活の特徴を、二つあげておきたいと思います。

第一の特徴は、「エノクは神とともに歩んだ」ことであります。

これはすでにお話しましたが、イエス様は、マタイの11章29節でこうおっしゃいました。そこも読んでみたいと思います。
マタイ11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

この聖句については、小さな本、「心の平安」という本の中で、詳しく話していますので、ぜひお読みください。
「神とともに歩む」ということは、私にとっては、キリストのくびきをともに負うことなんですね。先ほどもお話ししましたが、キリストから訓練を受ける生活をすることです。

主が私に求めておられることは、一度も失敗しない完璧な人になることではなくて、むしろ、何度失敗しても、キリストのくびきを離さない、「もう一度、もう一度」という人ですね。
キリストの御足の跡に従い、キリストの歩みに合わせて、実際的に、生活の中で信仰の歩みを学ぶことであります。学者になる人ではなくて、従者、従う人です。

キリストとくびきをともにしていると、キリストの歩調に合わせないと、少しでも自分中心な自己主張があると、信仰が窮屈に感じたり、痛みを感じたりします。キリスト教は堅苦しい、という人がありますけれども、その人は自分中心の自己主張があるからです。

キリストと歩調が合っている時は、たましいにキリストの平安が与えられます。二人三脚とかムカデ競争とかありますけれども、歩調が合っている時は健やかですが、歩調が合わない時はバラバラになって倒れてしまいます。

また、別の言い方をすれば、この歩みは詩篇119篇105節にもあります。
詩119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

実際の光の歩みであります。それに従っていくことですね。
これは、神のみことばを覚えて、理解して、納得して、他人に教えることができるだけではなく、毎日、自分の心の糧、いのち、力として、生活の中で活用していることです。
信仰は使わなければ、まったく意味がありません。いのちを失ってしまいます。

主が言われていることは、先ほどもお話しましたけれども、失敗を続けていても、欠点や弱点を多く持ちつつも、みことばを自分の霊の糧として、毎日活用している人を喜んでくださいます。とにかく、失敗があるかどうかではなくて、「神とともに」とは、「神から離れない」ということですね。

このことは、まことのぶどうの木の話の中で、繰り返し繰り返し教えられています。ヨハネの15章4節~10節をご一緒に読んでみましょう。「とどまっていなさい」ということばが何回も繰り返されているのが分かります。

ヨハネ 15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

「キリストにとどまる」ということは、みことばをしっかり握っていること、愛の中にとどまっていることだ、と言いました。
日本人は、キリストの愛を経験していないんじゃないかと思うんです。親切は経験しているかもしれません。しかし、これがキリストの愛だという、そういうものを経験していない人が多いのではないかと思います。要するに、多くの実を結んでいるその姿を、見ることがない。

イエス様が強調されていることは、「とどまる」ということばが、ここで11回記されていたことですね。
「神とともに歩む」ということは、キリストのみことばを活用し、キリストの愛を働かせ、互いに愛し合うことだ、と言っています。そのことを通して私たちは、キリストを信じる信仰は何であるかということを表すことができます。

ですから、教えとか、儀式とか、そういうものではなくて、人間が生きている姿そのものですね。それをキリストの愛によって表すことができます。
これが、「神とともに歩む」ことによって実ってくる、ということですね。

昨日も、道を歩いているご夫婦から、どうしたらぶどうの実がなるんですか、という話がありました。どうしたらなるか、と言ったって、私がならしているわけではありません。ぶどうの枝が、ぶどうの木に繋がっているだけの話ですね。そうお話ししてもよく分からない。

ですから、イエス様がおっしゃった時、弟子たちも、分かったのかな、と思います。
イエス様の愛が、本当に私たちのたましいに流れ込んで、それが他の人のたましいに流れ込んでいく、そのことを通して神への信仰が具体的に現わされるようになる。
「神とともに歩む」ということはそういうことであります。

「歩む」というのは、一日や二日の熱心さではなく、一生涯続く信仰の活用のことです。
ですから、一日や二日で、実を結ぶことはありません。少なくも3年ぐらいは必要でありましょう。これが、「神とともに歩む」ことですね。

次に、心に留めたいことばは、一年、二年、三年ではなく、エノクは、「三百年、神と歩んだ」と書いてあることです。
エノクは三百六十五歳まで生きております。彼は死を経験しませんでしたから、終わりの年数は分かりません。

先ほどもお話ししましたが、長寿社会は嬉しい事ばかりではありません。罪人の世代が何代も同居するわけですから、非常に複雑な人間関係の難しさは計り知れません。
みんなが喜んで、神様を賛美する人ばかりとは限らない。神に反抗する者、神を無視する者、神を礼拝することに無関心な者、カインのように自分の繁栄を誇る者、自己主張の強い者、こういう何世代もの人々が、一つの家族の中で、神とともに歩む生活をすることは、毎日毎日がどんなに大変だったことでしょうか。
エノクが置かれた環境は、そんなに簡単なことではありません。しかし、その中でエノクは信仰を貫きました。その結果としてエノクは、神に喜ばれる者になったわけです。

第二テモテ4章7節~8節を読んでみましょう。
Ⅱテモテ 4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

「神とともに歩んでいる人には、誰にでも授けてくださる」、と言っていますね。ですから私たちも、この信仰を貫き通す。
いろんな問題があるでしょう、確かに難しい複雑な人間関係や問題があると思いますけれども、しかし、そのことで心に悩まないで、主とともに歩む生活、主に喜ばれる者になることを、続けさせていただきたいと思います。義の栄冠が用意されていますから。

ヘブルの12章1節~2節も読んでみたいと思います。
ヘブル12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

ですから、私たちも信仰の馳せ場を走り終えれば、信仰の列伝に加えられます。
エノクについては、聖書に僅か数行しか記されていませんけれども、特筆する信仰者に加えられています。エノクは、アブラハムやダビデのように波乱万丈の生涯を送ったわけではありませんが、むしろ、書くべきことがあまりない、特筆すべきことが何もない。しかし、忍耐の連続の生涯だったでしょう。そのエノクの信仰が神を満足させ、喜ばせたんです。

私によくあかしのお便りを下さる、80歳を超えるお年の姉妹がおります。この方は、親戚や、知人友人によくあかししておられますが、時には冷たくあしらわれたり、信じてくれなくても、「イエス様を伝え続けます」と、言っておられます。誰でもやっていることかもしれませんけれども、これも主を喜ばせる尊い信仰の奉仕であります。
私たちは、伝えるとすぐに「信じます」という人ばかりではありません。鼻の先であしらわれたり、馬鹿にされることもあるでしょう。

このエノクの信仰は、私たちの平凡な日常の信仰を働かせた生活も、取り立てて言うほどのことをしていませんけれども、その平凡な日常の信仰の働きが、いかに重要なものと神様に値積もられているかを、示しています。

人の評価は低いかもしれませんけれども、ヨハネ6章で五つのパンと二匹の魚を見て、弟子のアンデレは、「こんなに大勢の人に、何になりましょう」と言いましたけれども、イエス様はそれで五千人の人を養い、いのちのパンの真理にまで導かれております。
私たちは、日ごとの小さな信仰の働きが、どれほど主を喜ばせているかを考えてみる必要があるのではないでしょうか。

ルカ7章44節で、罪ある女の人が、涙でイエス様の足をぬらし、髪の毛で拭っていたことを記していますが、喜んで取り上げています。これは、特筆することではないかもしれませんが、イエス様は注目しておられます。

エノクは、彼の信仰の結果、創世記5章24節で、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」と書かれています。
ヘブルの11章5節では、「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました」と記されています。
エノクは、聖書中、死を経験しないで天に移されたエリヤとともに、二人のうちの一人です。エリヤもエノクも、主イエスの再臨の時、空中の主のもとに携え挙げられるクリスチャンを、予表しています。

ここで注目したいことは、神ご自身がエノクを取り去られたことであります。自然死を迎えたわけではありません。神がエノクを取り去られたのは、エノクの信仰に対する神の報酬ですね。信仰者が神によって取り去られる時に、この地上から去ります。
エノクがある日突然いなくなった時、残された家族は大慌てしたことでしょう。
それは、主イエスの再臨の時、クリスチャンが携え挙げられて、地上に残された者たちの苦しみを描いております。

神様は、信仰者の一人ひとりの信仰の戦いを、じっと見ておられるんです。
そして、神様が「もうよい」と思われる時、働きが途中でも、主のしもべはその場から取り去られてしまいます。
モーセは、死を通してではありましたが、神の約束の地、カナンを目前にしてピスガの頂上から取り去られました。
エノクは信仰によって、神とともに歩みました。彼は信仰によって、死を見ないように天に移されました。それに値するほどに神様に喜ばれたからです。

エノクの、死を見ないように移される経験は、主イエスの再臨の予表であることは、先にも申し上げた通りです。
今日、すべての熱心なクリスチャンたちの重大な関心事は、イエス様のご再臨です。
神の子たちがいつまでも、主とともにいるようになる、その日がいよいよ近づきつつあることを、実感しているからです。私たちは、先に信じた時よりも、イエス様が近づいておられることを実感しています。

エノクの信仰は、この主イエス様のご再臨に関係していることを示しています。ユダの手紙の14節~15節は、エノクの主イエスの再臨についての説教を示しているからです。
ユダ 1:14 アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。
1:15 すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」

このエノクの説教を記しているということは、エノクの時代に、すでに主の再臨が示されていたことは確かで、驚くべきことです。ユダの手紙がなかったら、このことは分かりませんけれども。このことは、イエス・キリストの贖(あがな)いのご計画は、最初から、キリストのご再臨も、新しい天も、新しい地の完成に至るまで、徐々に計画されていったのではなく、最初から計画が完成されていたことが分かります。

エノクの信仰生活では、主のご再臨が心に最も強い問題になっていたはずです。彼は神とともに歩むことによって、イエス様の栄光の再臨を求めたんです。彼の信仰をご覧になった神様は、エノクを、死を見ないで天に移されました。
そのようなわけで、ヘブル人への手紙11章5節は、「信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。」と記しているんです。この信仰は非常に重要なことです。

ある人が、主が現れる時に、「自分は主の御前に立つことができるか」心配になりました。
彼は思い悩んで祈りました。彼の重大な問題を、主に打ち明けました。
その時、聖霊は、みことばを語ってくださったのです。
ヨハネ14:1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

もう一つは、第一テサロニケの5章23節で、
Ⅰテサ5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

ユダの手紙24節も読んでみたいと思います。
ユダ1:24 あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、

これも再臨のことを言われていますね。この方は、これらのみことばを信じることによって、キリストの再臨の時に、喜びをもって受け入れられるという確信と平安を受けました。聖霊が教えてくださるんですね。

私が主の御許に行くことを願うよりも、その何千倍も、何万倍も勝って、主イエス様は私を、まったくご自分のものにしたいと切望されて、十字架の贖(あがな)いを完成されておられるのではないでしょうか。
主に任せて、信頼しきって、従っていけば、主が私たちの信仰を完成させて下さる。先ほどヘブル人への手紙の12章を読みましたけれども、主は私たちの信仰の創始者であり、完成者であることを忘れてはいけません。

自分で、御前にふさわしい者であるかどうかを心配するより、主がご再臨に十分に備えさせてくださることを信じて、エノクと同じように、毎日の生活を、神とともに歩むことをしようではありませんか。
特別なことをするのではなくて、いろんな問題がありながらも、欠点や、失敗や、弱点がありながらも、それでも主とともにくびきを負って歩み、生活をさせていただこうではありませんか。

主だけがご再臨に備えさせることができるお方です。再臨にふさわしく保つことができるお方です。
私たちは自分の力や努力ではできません。「信仰によって」というのはそういうことであります。「信仰によって」というのは、自分の力でするということではない、ということですね。

イエス様のお話の中で、主人が、旅から帰って来られる時、給仕をしているのを見られるしもべは幸いだ、と仰いました。イエス様が再び帰って来られる時、私たちが神と人とに仕えているのを見るのを望んでおられるわけです。

「主を信じなさい、主が私に求められていることを、信じなさい」と言っているわけですね。「全ての人との平和を追い求めなさい、きよめられることを追い求めなさい」、と言っているわけですね。そうすれば、主とお会いすることができます。

信仰によって、恐れの霊や不信仰や心配を捨てて、「アバ、父」と呼ぶ、子としてくださる聖霊を持っていただきたい。
神の子どもであることを、聖霊によってあかしをしていただきたい。キリストを信じる信仰は、私を引き上げて、御前に立たせてくださるからです。その信仰を、私たちは日ごとに働かせて、生活させていただきたいと思います。

最後にエペソの5章26節と27節をお読みして、締めくくらせていただきたいと思います。
エペソ 5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

これは大事なことですね。キリストが私たちをきよめるのは、水の洗いをもってきよめる。しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです、と言っておられます。

私たちは主の再臨の時に、自分で備えることはできません。
イエス様が備えさせてくださるんですね。
イエス様が立たせてくださるわけですから、私たちは、キリストとともにくびきを負って、今週も小さな出来事をもイエス様にお話しして、嬉しいことも楽しいことも、辛いことも悲しいことも悔しいことも、イエス様にお話しして、この一週間を歩ませていただきたいと思います。
主と共に歩む生活の素晴らしさを、エノクは自分がそれを体験することを通して、信仰の報酬を受けたわけです。私たちも神に喜ばれることができるように、そういう生活をさせていただきたいと思います。

お祈り

恵みの深い天のお父様、こうして恵みをいただき感謝をいたします。
御霊により、みことばをいただき、私たちのたましいにも、あなたがお喜びくださる霊のものを与えて下さり、毎日の変り映えしない生活でありますけれども、その中でイエス様、あなたの愛が芽を吹きますように。
イエス様は、「わたしにとどまっていれば、多くの実を結ぶ」と仰いました。
私たちは何かをすること以上に、キリストにとどまり、イエス様とくびきを負って生活することの訓練を営ませてください。
今週もよろしく導いてください。
尊いキリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。

(引用聖句は【新改訳改訂第3版】より)



音声と文書:信仰の列伝(全51回)へブル人への手紙11章 目次


<今週の活用聖句>

へブル人への手紙12章1~2節
「・・・私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。・・・」


地の塩港南キリスト教会
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