音声+文書:信仰の列伝(8) 信仰がなくては(1)へブル人への手紙11章6節

フランスの画家James Tissot (French, 1836-1902)による「Zacchaeus in the Sycamore Awaiting the Passage of Jesus(イエスが通り過ぎるのをいちじく桑の木の上で待つザアカイ)」 (1886-1896年頃の作)(Brooklyn Museum蔵)


2016年9月18日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章6節
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

お祈り

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」
恵みの深い天のお父様、こうして恵みをいただき、私たちをキリストの十字架の贖いによって、神の子どもとして、神の家族としてくださったことを感謝いたします。
今日も私たち一人ひとりを喜んで、栄光を現わしてくださり、恵みを与えてくださることを感謝いたします。
御霊が働いてください。
私たちを通して、主がお喜びくださるその恵みの証をすることができますように。
これからの時を、主の御手にゆだねて、尊いキリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。


この11章6節については、1回でお話しできませんので、2回に分けてお話ししたいと思っております。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

神様を喜ばせるためには、信仰が必要です。不可欠です、と言っています。
神様が喜ばれれば、必ず神様は、栄光を現わしてくださいます。また、私たちにとっても祝福となります。そういう経験をすることができますね。

その信仰とは、放蕩息子が父の愛とあわれみを思い出して、父のもとに立ち返ることによって始まりました。ご存じのように、その放蕩息子が帰ってきた信仰に対する、父の愛と憐みが、どんな恵みであったかは、ご存じの通りであります。

他方、カインのことで言えば、残念な方ですけれども、高慢なささげものを捨てて、罪のための小羊のいけにえをささげることによって、信仰が始まります。そう教えてくださったわけですね。そして、神様はもう一度やり直すチャンスを与えてくださいました、待っていてくださいました。しかし、残念なことに、カインはそれをしなかった。それゆえカインには、信仰が芽生えませんでした。

このように、信仰が始まった人と、信仰が芽生えなかった人、神の期待に応えなかった人、神様の待ち望みに応えなかった人、その違いが明らかですね。
そして、信仰がなくては神に喜ばれることはできない。
カインがどんなに努力をしても、神に喜ばれることができませんでした。信仰がなかったからですね。基本的なことであります。

ヘブル12章2節で、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」とあります。
「信じる」ことは、私がするように思いますけれども、神様が信仰の創始者ですから、放蕩息子が父の愛とあわれみを思い出して、父のもとに帰ったことによって信仰が始まりました。ですから、信仰の創始者は神様であります。そしてその信仰を完成させてくださるのもイエス様です。

ヘブルの10章38節と39節をご一緒に読んでみたいと思います。

ヘブル10:38 わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
10:39 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

信じていのちを保つ者、信仰者にとって、生きる、とはどういうことなのか。それは、エルシャダイの神様の前を歩くことですね。

創17:1 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。

エルシャダイとは、いのちを与えてくださる全能の神のことであります。

ダビデで言えば、詩篇16篇8節の「いつも、私の前に、主を置いた」
生活をすることを、信仰と言っております。

信仰によって生きる、ということですね。つまり主を喜ばすために、生活していることです。私たちのたましいが、いつも恵みと喜びに満ちているためには、主を喜ばす生活をすることです。

そのことをパウロは、コロサイ3章23節で、いつも主に仕えている信仰で、日々の働きを営むようにと勧めています。

コロサイ3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

しかし、この生き方が素晴らしいことが分かっていても、また何回も何回も教えられていても、自然体ですることは、難しいと感じる人も多いと思います。
なんで、なかなか自然にできないのでしょうか。「いいとは分かっていても、なかなかできないよねえ」という声が聞こえてきそうですけれども。

しかし、イエス様は、私たちが神の御前に立つことができることを教え、教えるだけではなく、その道を完成してくださいました。
それが、信仰によってです。

その道とは、まず、私の罪の身代わりになって、十字架に架かられたイエス・キリストを信じる信仰です。どこかで過去に一回信じただけではなくて、毎日、毎瞬、この主の十字架を見上げていることです。この信仰によって、私は恐れることなく、神の前に立つ生活ができます。

自分の出来具合とか、真面目さとか、立派さとか、正しさとかを当てにしていると、神の前に立つことができません。自己義や自己主張や立派な正義感では、立つことができません。
神と私の間を隔てている壁があります。それを、キリストが、ご自分の血によって打ち壊して、私たちを、近い者とされたわけです。

ちょっと長いところですが、エペソの2章13節から18節を読んでみたいと思います。

エペソ 2:13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
2:17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。
2:18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。

律法の戒めをあてにしている人、それを論争している人、それを強く主張している人は、敵意が廃棄されていません。私たちと神の間に、隔てのなか垣がつくられているのは、律法のゆえであります。
キリストによって一人の新しい人になることですから、十字架によって神と和解され、両者が一つの体となる。そのためのキリストの十字架であります。

ですから、「キリストが来られて、遠くにいたあなたがた」というのは異邦人のことを指していて、「平和を宣べる」とは和解することです。
そして現実に、キリストと私たちは、一つの御霊によって父のみもとに近づくことができる、と言っています。滅びの宣告を受けていた私のために、主イエスは十字架の救いの道を設けてくださいました。

信仰によって生きる、とは、今までとは全く異なる、キリストにある新しい生き方をすることです。つまり、かつて私は、神から失われていた者であり、御怒りを受ける者でした。神様と顔を合わせてお会いする資格もなく、永遠の滅亡に投げ込まれようとしていました。その実体は主が良くご存じであります。

しかし、そんな罪深い私のために、主イエス様は身代わりになって、私の刑罰の十字架の代価を払ってくださいました。
私は、その主の十字架の赦しときよめを信じています。これによって、私がこの世にある時だけではなく、永遠までも私の救いを完成していることを確信することができる。
ですから今、神の前に生きている私は、私を愛して私のために十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストを、信じている私なのです。

パウロはガラテヤの2章20節でそういっています。これはただ、きよめのみことばだけではありません。

ガラ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

「義人は信仰によって生きる」、と書いてありますけれども、私を明け渡すために、ご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっている、神様はその信仰者を喜んでくださる。
必ず、神の栄光を現わし、恵みと祝福を与えてくださいますから、私たちはそのことを深く体験させていただきたい。

私にとって、最も喜ばしいことは、私の信仰が神様を喜ばせていることです。
もし信仰がなかったら、私がどんなに義務を果たしても、自己犠牲を払っても、いかに努力して克己しても、それが御父に対する信仰と愛とによっているのでなければ、父なる神様を喜ばすことはできません。このことが大事なことですね。

かえって、自分の力と知恵でやればやるほど、マタイの7章23節のように
「しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」
と言われてしまいます。

どうして、熱心に正しいことをしているのに、イエス様はそう仰るんでしょうか。
それは、信仰がないからです。信仰がないと、神様と結びつかないんです。

このマタイの7章23節は、ただ厳しいだけではなくて、主が私にいかばかりか、主への信仰と信頼を求めておられることを表しています。
ここには、「あなたは、わたしを信じてください」という強い主の御心を示しています。
「信じてください」ということですね。どんなことができたか、ということよりも「信じてください」ということです。

意識しているか、無意識かにかかわらず、私の心の中に一切の恐れがなく、疑いがなく、不信仰を取り除く時、その信仰は神を喜ばせます。聖書は何回も何回も、そのことを教えています。

ヨハネ14章1節では、 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言っています。
疑いまでは言ってはいないけれども、心を騒がしている、ということがありますね。

疑いなら不信仰ですけれども、不信仰まではいっていないかもしれないけれども、心が定まっていない。つまり、「私は、あなたを全く信頼する」と言い切れない。どうしようか、こうしようかと考えている。心が騒いでいる状態ですね。そういう時はないでしょうか。
イエス様は、「心を騒がしてはならない、わたしを信じなさい」と仰いました。その信仰が神を喜ばせます。

また、トマスに対しても、ヨハネ20章27節の後半で、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言いました。
信じない者にならない、とは、自分の力と知恵と常識の判断で考えるのではなくて、神様のみことばを信じる者、イエス様を信じる者になりなさい、ということですね。

自分の知恵と力に頼らないで、信仰によって生きる者になりなさい、と仰いました。トマスはイエス様を見たから信じた。ヨハネの20章29節の終わりでは、「・・・・見ずに信じる者は幸いです」と言われました。見て信じるのは、信仰ではない、ということですね。

ヤコブの1章6節、7節を読んでみたいと思います。

ヤコブ1:6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。 1:7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。

なぜ人は疑うのでしょうか。イエス様は本当にしてくれるんだろうか、と。疑うのは、自分の知恵と考えが入っているからですね。あてにするものが、イエス様ではなくて、別のものに頼ろうとする気持ちがあるからですね。別のもので補強を求めているから。
少しも疑わずに、疑いが少しも入っていない、こういう人は神様を喜ばせます。

第一ヨハネの4章18節も読んでみましょう。信仰ではないけれども、愛について言っています。

Ⅰヨハネ4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。

全き愛は、恐れを締め出す、と言っています。締め出す、と言っていますから、愛を全く持っていないと、恐れや不安や疑いが侵入し始めてくる、しみ込んでくる、ということです。
置物ではありませんから、置いておけばいつまでもそこにある、というものではありません。「全き愛」と書いて置いてあったって、役に立たない。心の中に神様の愛が満ちていないと、恐れや不安が、しみ込んでくる。潜入してくるんです。
人々がみな疑っているものでも、神様は真実である、と確信していることは、神様を喜ばせます。

私たちは、神を信じるよりも、自分の現状、周りの状況を考えやすいのです。
私の現状や事情が、神のお約束とは反対の方に行っていても、主はお約束を成し遂げてくださると信じることは、幸いですね。他人の目に愚かに見えても、主を喜ばせます。
たとえ、見えるところが反対の方向に行っていても、主はどこまでも真実なお方で、力のあるお方で、どこまでもご自分の約束に忠実なお方で、どこまでも愛に満ちたお方であると、堅く信じて動かない信仰を、主は喜んでくださいます。

信仰は、人の霊を神の光で照らします。教え導いて、自分の救い主を悟らせます。
大事なことは、信じること、が大事なんですね。理解させることではなくて、信じることが大事です。イエス様を信じて救われようとする人に、いろんなことを教えますけれども、それよりも何よりも大事なことは、素直な気持ちで、幼子が信じるように、イエス様を心に受け入れることが必要です。教えは、そのあとの話であります。

信仰がなければ、救い主も創造者も真理も、悟らせることができません。信仰によってこそ、このことを経験します。その時、大いなる祝福をうけて、賛美が溢れるようになります。

また、信仰は、絶望の日のために活用すべきです。私たちは、あまり絶望の経験がないかもしれませんけれども、聖書の記事を見ると、絶望的苦難に出会った聖徒たちの信仰で満ちています。聖書に書いてあることは、空想話を記しているのではなくて、実際に信仰で戦った信仰者の実態を記しているんです。

苦難の中での詩歌がたくさんありますね。詩篇を見ても、苦しみの中で祈っています。苦難の中で、霊感されたものです。
預言は、絶望の中で神から啓示されたものです。

絶望的苦難の日々は、私が主を呼び求めるか、主以外の人間や富に助けを求めるか、試される日です。その日は主を信じて頼り、主を呼び求める者に主が働かれる時です。私が神の知恵を学び、信仰を働かせることを実行する時です。これを繰り返すことによって、信仰を身につけていきます。

詩篇107篇には、苦難の中での、神様と信仰者との間の愛の交わりの記録が歌われています。そして、どの苦難の時にも、信仰者の必死の信仰の叫びを記しています。
全部読むことはできませんけれども、同じことが繰り返されている3つの節がありますので、それを読んでみたいと思います。詩篇107篇の6節、13節、19節、28節ですが、「この苦しみの時に、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された」と、同じことばが繰り返し記されています。

「この苦しみの時に」、必死の祈りがささげられていますね。苦難の中での、神様と信仰者の愛の交わりは、苦しみの中で経験されています。

どの救いの経験にも、行き詰った必死の祈りが見られます。神様はその必死な祈りを、させているわけですね。
「苦難の日には、わたしを呼べ」と言っておられますけれども、必死の祈りをしなさい、と言っているんです。その必死の祈りが、神の御心を動かし、神の出動の機会を呼び起こすんです。人間の行き詰った絶望状態は、神の力が表わされる始まりとなっております。

何度もお話するようですけれども、アブラハムは、空の星のように、海の砂のように子孫が生まれる約束が与えられたのは、いつだったでしょうか。百歳になったアブラハムの力とサラの胎が、死んだも同然だった時です。すなわち絶望状態の時でした。

ローマの4章16節から25節を、少し長いですけれども、読んでみたいと思います。

ロ-マ 4:16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。
4:17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
4:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
4:23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

24節にあるように、「私たちのため」と言っていますね。
「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。」とも。

アブラハムが、絶望的危機に立っている時でした。聖書の中には、そういう状態がたくさんありますね。
イスラエル人が紅海のほとりで、エジプトのパロに追い詰められた時、どうやって紅海を渡ったか、思い出しましょう。
雪解けで満水のヨルダン川を、どのようにして渡ったか、思い出しましょう。
アサ、ヨシャパテ、ヒゼキヤがアッシリアに追い詰められた時、どのように必死の祈りをしたかを学びなおして、同じようにしていただきたい。

捕囚から帰ってきたネヘミヤが、エルサレムの城壁を再建した時の困難、獅子の洞窟に投げ込まれたダニエル、イスラエルの堕落の中で、回復を求めた預言者ホセアやハバククの必死の祈りと働きを学び返してみましょう。
今、私たちが住んでいる世界は、そういう絶望的な時代であります。

イエス様のゲッセマネのお祈りを自分の祈りとして、困難に立ち向かいましょう。
苦難の日が続いている時は、殉教者の信仰を学ぶのが良いと思います。必死の祈りをしていることは、失望していることよりも、ずっと良いことです。嘆いていることより、ずっと良いことです。信仰の働きは、私たちの心が失望に陥るのを支えてくれます。そして困難の山を少しずつ海に移してくれるんですね。

ゼカリヤ書の4章7節を読んでみましょう。

ゼカ4:7 大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」

大きな山が平地に変わっていますね。

マルコ11章23節も読んでみたいと思います。

マルコ11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

行き詰った時、信仰の祈りをせず、信仰を働かせず、自分の知恵と考えに頼っていれば、失望に陥ります。人間は行き詰る時、人間の力に頼ります。その力が及ばなくなると、諦めてしまうんです。最初から神に頼ろうとしないからです。

私には、海に移動させなければならない山が、たくさんあります。心痛や失望、落胆、この世に煩わされることがたくさんあります。私の力で努力しても、これらの山は動かすことができません。
しかし、主イエスはその山を海に移すことができます。私の心にある、みことばを信じる信仰と、聖霊の火によって、信仰が火花を散らして、それらの山が海に動き始めるのです。

信仰は忍耐力を養います。恵みを経験させます。
パウロはローマの5章3節~5節でそのことを言いました。

ローマ 5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

もう一つ、ヘブルの10章36節も読んでみましょう。

ヘブル10:36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

信仰によって忍耐が生まれる、とローマの5章で言われています。それは、愛にまで繋がっていますね。私たちは、信仰の活用が必要であります。そのことを通して、困難を乗り越えることができます。

ダニエルの三人の友人たちは、絶望の時に、最高の信仰を表しました。
ダニエル書の3章16節から18節を読んでみましょう。

ダニエル 3:16 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。
3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
3:18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

たとえ神様が、燃える火から救い出さなくても、ネブカデネザルが造った像を拝みません、と言っています。最高の信仰を表しています。

主イエス様のゲッセマネの祈りを、私たちの祈りとしてささげる時、乗り越えられない苦難がなくなってしまいます。主はこの祈りによって、肉体の死の苦しみだけではなくて、私の罪を身代わりになって背負って下さり、刑罰を受ける苦しみ、よみにまで降られる苦しみを、成し遂げられました。ですから、私も、絶望の日に、命がけの信仰を持って乗り越えさせていただきましょう。

もし私が、確かな信仰の成長を求めるなら、次の四つの原則に従わなければなりません。

第一は、すでにお話しましたけれども、アブラハムのように、望みえない時に、望みを抱いて信じることです。

先ほど読みましたけれども、ローマの4章18節ですね、人々が、「とても信じることができない」と言っている時、私の心を、主と主のみことばだけに向けて信頼しているならば、聖霊が信仰を造り出してくださいます。先ほども読みましたけれども、信仰の創始者、造り出してくださるのは神様でありますから。

第二は、私が今持っている信仰を、毎日の生活で活用することです。

細い腕をした子供が、大きなハンマーを使うことはできませんけれども、徐々に訓練していけば、大きな仕事をできるようになります。
泳げない少年が、プールの端に立って待っているだけでは泳げるようにはなりません。水の中に飛び込んで、泳ぎ始めなければなりません。最初はアップアップするかもしれませんけれども。
強い信仰の働きをするためには、毎日のより小さな信仰の働きを積み重ねることです。
ですから、イエス様は仰ったんですね。「わたしの小さいものにしたのは、わたしにしたのです」
主イエスに仕えるように仕えなさい、と言ったパウロのことばも同じであります。

第三は、すべての課題に当たる時、自分の知恵と力で手を付けない。必ず、自分の前に主を置いていただきたい。

ダビデが取っていた方法と同じであります。(詩篇16:8)すべては、私が主をどこに置くか、にかかっているんです。自分が先頭に立って、主を後ろに置いている。そうすると問題が起きます。

第四は、毎日、主のみこころにかなう生活をすることです。主に仕える心で生活し、主を喜ばせることを目的とし、キリストの平安が心を支配する生活をすることです。

この四つの原則を守るなら、誰の信仰も必ず成長し、多くの実を結びます。

最後に、信仰の冠である聖霊の証印についてお話しします。生ける神を信じる者の特権である、信仰の確信を受ける道です。イエス・キリストに対する信仰を働かせる道について、お話しします。

まず第一番目に、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」

私たちは、このことを十分に悟っているでしょうか。
たとえ私に知恵があり、知識があり、克己と献身があり、正しい教理があり、賜物があり、富と力があっても、信仰がなければ、父なる神様を喜ばせることができません。

あの放蕩息子の話で言えば、もし、彼が帰ってきた時に、たくさんの土産を持って、ひと財産築いて帰ってきても、父親は喜ばなかったでしょう。父の愛を信じて帰ってきたから、喜んでくれたんです。

アベルとカインの物語も同じですね。信仰がなければ、父を喜ばすことができない。

私の心に、主に対する全き信頼と、愛のある信仰なしには、私の熱心な働きも行いも、計画する一切のことが、不信仰、疑い、恐れ、懸念、思い煩いによって、損なわれてしまいます。そのために、父なる神のいつくしみ深いみこころは、いつも絶えざる憂いがあり、御子イエス様には、果てしない悲しみがあるのです。

信仰者の心の中に、不信仰と思い煩いがあるからです。それが信仰を損なってしまうんです。聖霊の愛と優しさを、暗黒で傷つけることになってしまうからです。

私がこの事実を悟り、自覚するまでは、決して信仰生活に成長することはなく、勝利の実を結ぶこともありません。
ですから、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできない」。このことを悟ることが、私の信仰生活の出発点なんです。

信仰がなければ、他にどんなものがあっても、賜物があっても、金持ちでも、戒めを守る正しい生活をしていても、律法学者パリサイ人のようであっても、神に喜ばれることができません。
「信仰がなければ、神に喜ばれることができない」とは、私の信仰生活の原点であり、出発点であります。

次に第二番目に、「神に近づく者」についてお話します。

第一のメッセージは、ローマ3章23節です。
「 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」
「すべての人は罪人だ」、と言っています。神からの栄誉を受けることができません。
「そんなことはない、自分は正しい。罪なんか犯していない」という人は、この世の中にたくさんいますけれども、イエス様を信じていないことが罪なんですね。ですから、神から栄誉を受けることができない。ただ自分の栄誉を求めているんです。

第二のメッセージは、ヨハネの1章29節です。
「世の罪を取り除く神の小羊」
キリストの福音は、罪を取り除く神の小羊を中心にしています。

第三のメッセージは、マタイ11章28節です。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
「私のところに来なさい」です。この神に近づいてくる者は、神様が無理矢理引き寄せているのではなくて、自ら進んで神に近づいてくる者です。

ヨハネ6章44節に「私を遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」とありますから、キリストの愛とあわれみに引き寄せられて、神に近づく者となることです。

罪の生活に疲れている者も、正しく真面目に律法を守って生きることに疲れている者にも、主は、「わたしのところに来なさい。」と招いておられます。

「いのちのましみず」を求めている者には、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と仰せられました。
ザアカイのような興味本位の見物者にも、「ザアカイ、急いで下りて来なさい。今日、わたしはあなたの家に泊まることにしているから。」と仰せられました。
傍観者のような者にも、見物人のような者にも、「わたしのところに、来なさい」と仰っています。

主の働きにいそしんでいる、主の働き人には、マルコ6章31節で、「さあ、あなたがただけで、寂しいところに行って、しばらく休みなさい」と言われました。

この世の悩み多き波間を超えて、主のみもとに行こうとする者に対して、主はいつも「来なさい」と言われます。
そして、私の人生を、主とともに歩むように招いてくださいます。
確かに、「わたしのところに来なさい」は、キリストの福音の神髄です。

ルカの14章17節で、「さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。」
ところが、ヨハネの5章40節で、「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」と言っております。
主は、嘆いておられますね。このようなことのないようにしたいものです。

つまり、教会に行っているけれども、イエス様のところには行っていない。礼拝の儀式に参加したけれども、イエス様にはお会いしていない。説教は聞いたけれども、イエス様の御声は聞いたことがない、ということがないようにしたいものです。
しかしどうでしょうか、実際はこういう事が起きているんじゃないでしょうか。

そもそも「神に来る」とは、神に私の窮乏を訴えたり、私の不快な短気や、怖れ、疑い、心配、思い煩いからの救いを求めて来ること以上のことであります。すなわち、「神に来る」のは、私のたましいを、まったく主のものとして明け渡してささげるためです。

箴言23章26節を読んでみましょう。
「わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。あなたの目は、わたしの道を見守れ。」

日本語で、「あなたの心をわたしに向けよ。」というのは「あなたの心をわたしに与えよ。」という意味です。
私は、なんのために神のもとに来るんでしょうか。私が神様のところに行くのは、私の心を神様に与えるためです。神様の心と一つにするためです。

マタイ19章の金持ちの青年は、一見、熱心な、模範的な信仰者のように見えますけれども、実際には、自分の心を神に与えるのではなくて、自分のためにだけ富を貯め、神のために使おうとしない、自分中心の人でした。それでも形の上では、モーセの律法を守り、主イエス様に永遠のいのちを求めてきました。

イエス様は、この人に、マタイ19章21節でこう言われました。
「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

ここでは、「売り払い、与え、ついて来なさい」と言われています。しかし、彼は主のみことばに従うよりも、自分の富の方を選びました。神の愛を行うことを、捨てたんです。
その結果、悲しい顔をして、主イエスのもとを去りました。

私が主に来て、主と心を一つにするのを妨げているものは、敬虔な装いの陰に隠されている、この自分中心の堕落性と肉の欲であります。外側は立派に見えていますけれども、内側は汚れに満ちている、と仰いました。

私の心を神様にさしあげたい、そういう思いで神のもとに来るならば、そういう人はどの人も恵みを受けて、主を喜ばせますね。
これを阻むものは、自分中心の堕落性と肉の欲だけであります。私たちは、この金持ちの青年のように、敬虔を装ったものを持って、神に近づくことはできないことを悟り、また教えなければなりません。

ヘブルの11章6節は、一回でお話することができませんので、次回もお話したいと思いますけれども、「信仰がなければ、神を喜ばすことはできない」ことを、この後も覚えさせていただきたい。
そして、私たち自身が、主を喜ばせる生活をこの一週間させていただいて、そのことによって、神様の栄光が現され、これが祝福につながり、私たちを通して、光を放つ経験ができることを感謝したいと思います。

お祈り

「信仰がなければ、神を喜ばせることはできません。」
「我が子よ、あなたの心をわたしに向けよ。」
「あなたの心をわたしに与えよ。」
と、イエス様が私たちに求めてくださいましたから、感謝いたします。
私も主と心を一つにし、イエス様が私の心を求めておられることを、この朝、敬虔させてくださいましたことを感謝いたします。
いつも心をイエス様と一緒になって、信仰の道を歩ませていただけることを感謝いたします。
こうして知識や儀式をはるかに超えて、主と心を一つにし、みことばと聖霊によって、キリストとたましいが一つになって生活を営ませていただけることを感謝いたします。
この時に主は喜んでくださり、栄光を現わしてくださることを感謝いたします。
この一週間の歩みを祝してくださり、主がともに歩んでくださっていることを体験させてください。
尊いキリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明


音声と文書:信仰の列伝(全51回)へブル人への手紙11章 目次


<今週の活用聖句>

へブル人への手紙11章6節

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」


地の塩港南キリスト教会
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