音声:信仰の列伝(8) 信仰がなくては(1)へブル人への手紙11章6節

2016年9月18日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章6節
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

<インフォメーション>

 この神に近づいて来る者は、神に無理矢理引き寄せられる者ではなく、自ら進んで神に近づいて来る者です。

 しかし、ヨハネ6:44に「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」とありますから、キリストの愛とあわれみに、引き寄せられて神に近づく者のことです。

 罪の生活に疲れている者も、正しく真面目に、律法を守って生きることに疲れている人にも、主は「わたしのところに来なさい。」と招いておられます。

 いのちのまし水を求めている者には、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と仰せられました。

 ザアカイのような興味本位の見物者にも、「ザアカイよ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と仰せられました。

 主の働きにいそしんでいる主の働き人には、「そこでイエスは彼らに、『さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。』と言われた」(マルコ6:31)

 この世の悩み多き波間を越えて、主のみもとに行こうとする者に対して、主は「来なさい。」と言われます。

 私の人生を共に歩むように招いて下さっています。

 確かに「わたしの所に来なさい。」は、キリストの福音の神髄です。

 「さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。」(ルカ14:17)

 「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:40)このようなことのないようにしたいものです。

 教会に行っているけど、イエス様のところに行っていない。礼拝式に参加したけれど、イエス様にお会いしていない。説教を聞いたけれども、イエス様の御声を聞いていない、ということがないようにしたいものです。

 そもそも、「神に来る」ことは、神に私の窮乏を訴えたり、罪のわざわいを持ち来たること以上のことです。

 即ち、神に来るのは、私自身のたましいを、全く神のものとして明け渡して、ささげるためです。

 「わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。あなたの目は、わたしの道を見守れ。」(箴言23:26)とは、「あなたの心をわたしに与えよ。」という意味です。

 これが、神に来る目的です。

<今週の活用聖句>

へブル人への手紙11章6節

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

写真は、フランスの画家James Tissot (French, 1836-1902)による「Zacchaeus in the Sycamore Awaiting the Passage of Jesus(イエスが通り過ぎるのをいちじく桑の上で待つザアカイ)」 (1886-1896年頃の作)(Brooklyn Museum蔵)

地の塩港南キリスト教会
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