音声:信仰の列伝(6) 「今なお語る信仰」 へブル人への手紙11章4節

上の絵は、スペインの画家 Mateo Orozco (1634–1652)による「Caín y Abel(カインとアベル)」 (Wikimedia Commonsより)


2016年9月4日(日)午前10時半
まなべあきら牧師


へブル人への手紙11章4節

11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

<インフォメーション>

しかし主は、アベルのささげた小羊だけでなく、それをささげたアベルの内なる信仰をご覧になられたのです。

「・・・わたしは・・・人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル記第一、16:7)

「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18:13~14)

私は、とかく、人の外側のことに気を取られて、判断しやすい。内なる信仰、内なる動機を忘れやすい。軽んじやすい。

もし、主が、アベル自身を喜ばれなかったなら、アベルのささげたいけにえも喜ばなかったはずです。確かにカインはそのようになりました。

みことばだけを求めた百人隊長でも(マタイ8:8)、主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます、と言ったカナンの女の人でも、ザアカイでも、主を喜ばせた信仰は、幼い頃から戒めを守ってきたからではなく、自分の罪深さを悟って、心から主イエス様を信じたからです。この内なる信仰、内なる心の思いを知って、喜んでくださったのです。

たとい、私の知識が不十分でも、行ないが不十分でも、心から主を愛して、主に信頼して、従っているなら、アベルのように、主は喜んで受け入れてくださいます。

カインは、自分の真面目さ、勤勉に働くこと、その結果多くの収穫を得たことなどが、自分の自慢と誇りとなり、カインはその自慢と誇りを主にささげてしまったので、主はカインとそのささげ物には、目を留めてくださらなかったのです。

カインは、主が、自分の自己義の高慢さを嫌われたことに気づくほど、心がへりくだっていなかったのです。信仰がなかったのです。

それ故、「カインはひどく怒り、顔を伏せた。」のです。

彼が激しく怒り、顔を伏せたのは、彼の心に神を拒否する、高ぶりがあった証拠です。

<今週の活用聖句>

ヨハネの手紙第一、3章18節
「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」

地の塩港南キリスト教会
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