音声+文書:信仰の列伝(6) 「今なお語る信仰」 へブル人への手紙11章4節
スペインの画家 Mateo Orozco (1634–1652)による「Caín y Abel(カインとアベル)」 (Wikimedia Commonsより)
2016年9月4日(日)午前10時半
まなべあきら牧師
へブル人への手紙11章4節
11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
お祈り
「信仰によって、アベルは、そのいけにえによって、彼が義人であることの証明を得ました。その信仰によって、今もなお語っています。」
恵みの深い天のお父様、私たちの信仰を義として証明してください。
そして、いつまでもいつまでも、あなたのメッセージを、あなたの救いの証ができますことを感謝いたします。
こうして9月に入りまして、第一の聖日、イエス様とともに礼拝を捧げて、この一週間を歩めますことを感謝いたします。
御霊によって、私たちの歩みを祝してくださり、義としてくださる神様の恵みを心に経験しつつ、この一週間も辿らせてください。みことばを祝してください。
尊いキリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。
今日は、信仰の列伝6回目、「今なお語る信仰」という題でお話をさせていただきます。
今日は、アベルの信仰の第二の特徴から、お話します。
そこにありましたように、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神様が、彼のささげ物が良いささげ物だと、あかししてくださったからです。
アベルの信仰は、義人であることの証明を神様が証ししてくださったと、記されています。
このみことばをちょっと読むと、アベルがささげた初子の小羊が良かったように思えますけれども、その真意はそうではありません。
何が、神様に喜ばれたのか。何をもってして、義人であることを証明したのか。神様は、何を喜ばれてあかししてくださったのか。そこが大事なところですね。
もちろん、アベルが自分の罪のために、初子の小羊をささげたことは、主のみこころにかなっていました。基本的にこれは、重要なものであります。彼がささげた小羊は最良のものだったので、良い羊には違いありません。しかし、神様が、良いささげ物だと証明してくださったのは、それだけのためではありません。ささげた物が良い小羊だったからではない。
創世記4章4節の後半には、「主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた」と書いてあります。
ここでは、主が、アベル自身と、彼がささげたいけにえの小羊の両方に、目を留めておられることに、注目していただきたい。神様は、ささげたいけにえだけを喜んだのではなくて、ささげたアベル自身の心、たましいを喜ばれた。そして、ささげ物も、もちろん喜ばれました。
そのことを、ヘブル11章4節のほうで、アベルが「信仰によって」このいけにえをささげた、と言っています。ここで言っている「信仰によって」というのは、これからお話しますけれども、アベルのたましいの営みのことを言っていますね。
ここでは、「信仰によって」ということばを使っていますけれども、その意味は、「心迫られて」、つまりアベルは心迫られた、こうしたい、こうさせていただきたい、そういう思いに駆られたことを示しています。
単純に「信じて、した」、ということではありません。
心促されて、心駆られて、強い意欲を与えられて、という意味ですね。
私たちがする時も、そういうふうに、クリスチャンだからするとか、ただ儀式的にするとか、義務としてするとかではなくて、心駆られてする、ということが大事なことであります。
ですからこの「信仰によって」というのは、ただ信じていただけではなくて、アベルの、神様に対する内面の強い動機を現わしています。
アベルは、主に対して自分の罪意識を持っていました。自分が、他の人よりましな、正しい人間だというような、高慢な思いを持たずに、むしろパウロが言うように、「私は罪人の頭です」というような意識が強かったと思われます。それが、「信仰によって」ということばに含まれております。主なる神様に対して、自分の罪のために、身代わりのいけにえをささげたいという、強い願いを持っていたことを示しています。
こういう意味が、「信仰によって」ということばで表されている意味であります。
私たちが「信仰によって」という時、信じている、という納得だけではなくて、そういう心の思いが、動機が、願いが、是非こうさせていただきたいという強い思いが、含まれているわけですね。三段論法の、儀式的なものではありません。
アベルの信仰が、主に高く評価されて、証しをされ、証明されたのは、実にここにあります。アベルは律法的に、義務的に、仕方なく、いけにえを捧げたのではありません。
彼は、思い余って、自発的に、主を愛して、積極的な動機を持って、主にいけにえをささげないではいられないという、心の動機を表しています。
アベルのこの内的動機は、いけにえにする小羊を選ぶのに、非常に心を用いているので、よく分かります。初子の中から最良のものを、いけにえにする小羊を選ぶのに普通なら羊飼いに「見つけておいて」と任せてしまうかもしれませんが、自分の手で選んでおります。そして自分でささげています。
たいてい、人は、良いささげ物というと、量だとか、大きさだとか、見た目の立派さで評価をします。
兄のカインの目から見れば、アベルは小羊一頭しかささげなかったのですから、蔑(さげす)んで見ていたでしょう。「なんだ、小羊一頭か」と。
それに比べるとカインのささげ物は、野菜から果物、色とりどりで、香りもよくて、山のように祭壇に積み上げられて見事だったでしょう。ですから、カインは鼻を高くすることができました。
しかし主は、アベルのささげた小羊だけでなく、それをささげたアベルの内なる信仰をご覧になられました。これはとても大事なことですね。
アベルがささげたのは、小羊だけではなくて、アベル自身のたましいをささげていることを現わしています。
第一サムエル16章7節で、有名なことばがあります。
Ⅰサム16:7 しかし【主】は・・・・わたしは・・・・人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る。
「心を見る」というのは、心の本質をみる、性質をみる、という意味であります。
神様が一番喜ばれるものは何か。
何をしたか、何をささげたか、ではなくて、どういう思いで、どういう動機で、どういう内面の思いをもってしたか、ということであります。
ルカ18章13~14節をお読みしたいと思います。ここに取税人の祈りが書かれています。
ルカ 18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
言葉の上や態度の上で低く見えても、その人の内面が、本当に低くなっているかということですね。これが大事なことです。
謙遜そうに振る舞っているけれども、本当は神様の前に、「私は、あの人よりも正しいんだ」と、そういう思いを持つことは危険ですね。
牧師なんかでも同じであります。牧師は、信者よりも聖いとか高いとか、成長しているとか、そう思うことによって、もうそれは高ぶりでありますね。人の目には分からないけれども、神の目には分かる。
神が心をご覧になる、というのは、その人のことばや態度や行いに現わされているのではなくて、そういうのを見ているんじゃなくて、自分を低くする心の中身の問題、本質のことを言っています。
私は、とかく、人の外側のことに気を取られやすい、判断しやすい。私だけではなく、誰でもそうかもしれません。
内なる信仰は見えませんし、内なる動機は忘れやすいし、軽んじやすい。本当にそれが分かるには、神様の心を持たないと、キリスト・イエスの心を心としないとわかりません。
もし主が、アベル自身を喜ばれなかったら、アベルがささげたいけにえも喜ばれなかったはずです。カインのささげたいけにえを喜ばれなかったことは、カイン自身を喜ばれないことを示しています。
そして、確かにカインはそのようになりました。こんなにたくさんささげているから、という問題ではなくて、その人がささげた心の動機が、内なる信仰、心の営みが問題になっているわけですね。
イエス様に近づいて行った人は、みな同じであります。
マタイ8章8節の、みことばだけを求めた百人隊長も同じであります。
「主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と言ったカナンの女の人も同じですね。彼女の心の中が問題になっています。
ザアカイが、主を喜ばせた信仰は何であったのか。それは、ザアカイが幼いころから戒めを守ってきたからではなくて、自分の罪深さを悟って、心からイエス様を信じたからであります。その心から信じたことは、イエス様のみことばに従ってすぐに、いちじく桑の木から下りてきたことですね。そしてイエス様を迎えております。
そのことから、ザアカイの心の思いが読み取れるようになります。イエス様は、それまでザアカイがどんなことをしてきたか、ということよりも、ザアカイの心の思いをご覧になったんです。このことを、内なる信仰とか、内なる心の思いと言い、それをイエス様が知って喜んでくださった。
ですから、たとえ、私の知識が不十分でも、行いが不十分でも、心から主を愛し、主に信頼して従っているなら、アベルのように、主は喜んで受け入れてくださいます。
学んだ知識を増やすことは大事なことですけれども、それは限りがありますね。無限というわけにはいきません。
どんなに行いを正しくしても、なお、不十分が続きます。不十分な時は、神が喜んでくださらないのではなくて、たとえ不十分であっても、心の思いが主を愛して、主に信頼して従っているなら、主は喜んでくださいます。
カインには、自分の真面目さや、勤勉に働くことや、その結果多くの収穫を得たことが、自分の誇りや自慢になりました。
貧しかった時には謙遜であったけれども、富んで財産ができると高慢になってしまう人が少なくありません。そしてそれが、露骨になってきます。
カインはその自慢と誇りを、主にささげてしまいました。ですから主は、カインとそのささげ物には、目を留めてくださいませんでした。
カインは、主が、自分の自己義の高慢さを嫌われたことに気が付かなかったのです。
それほど、心がへりくだっていなかった。信仰がなかったからですね。
私たちは、自分が繁栄して立派になると、そのまま行ってしまいやすいんです。自分は間違った道を進んでいる、自己義や自分の正しさに頼っている、ということを悟るためには、本当に聖霊によって、へりくだって悟りを受ける、そういう経験が必要です。そのことなしに、そのまま行ってしまうと非常に危険ですね。
カインは「ひどく怒り、顔を伏せた」と書いてあります。カインは心にへりくだりがなかった。彼が、激しく怒り、顔を伏せたのは、カインの心に神を拒否する高ぶりがあった証拠です。
カインは、弟アベルより自分の方が勝っている、という自負心がありました。それが受け入れられなかったのです。
そして、大したことはないと思っていたアベルの方が主に受け入れられて、自分は主に受け入れられなかった。このことによって、カインは敗北感と屈辱を味わったのです。
こういう危険がいつも、周りを飛び交っているわけですね。ことが成功すればするほど、繁栄すればするほど、力を持てば持つほどこういう問題が起きてきます。
それが、カインの激しい怒りと、顔を伏せる態度に現れてきます。人は富むことによって、怒りや不満が起きてくるんです。
さらにカインの心は、アベルに対して憎しみに変わり、憎しみが殺害へと変わり、悪性を増していったんです。
ここに、堕落した人間の罪の性質の恐ろしさと、サタンの働きを見ます。
カインはなぜ、こんなに重症な状態にまで陥ってしまったのでしょうか。それは、彼が、自分が罪深い者であることを認めることを、拒んだからです。
神様が教えてくださることを拒むと、だんだん心が頑なになって重症になってまいります。自分の罪のための、小羊のいけにえをささげることを拒んだからであります。もう一度やり直すことを拒んだからですね。
彼が罪のためのいけにえをささげていれば 、そこで聖霊がカインに働いてくださって、自分の罪深さを悟らせてくださり、へりくだることができたはずです。
私たちは、自分の知恵では、自分の罪深さを悟ることができません。自分のことをよく分かっていると思っている人がいるかもしれませんけれども、自分は罪人です、と平気で言っている人がいますけれども、ほとんどその罪深さの深刻さを悟っていません。口先だけで言っている場合が多い。
聖霊によらなければ、神に対する罪を悟ることができません。
ヨハネの16章8節~9節を読んでみたいと思います。
ヨハネ16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
16:9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
イエス様は、罪について本質的なことを言われました。
教会で罪の話をすると、「人様からうしろ指を指されるようなことはしたことがない」という言葉をいただきますけれども、そんなことを言っているんじゃないんです。
「罪についてというのは、わたしを信じないからです」と、イエス様を信じないことが罪だと、言っています。これが罪の本質です。そこから、すべての悪と堕落した行為が生まれてくるんですね。
もちろん悪いことをするのは罪ですけれども、本質的なことはそこでは言っていません。
ですから、悔い改める時に「こんな悪いことをしました。あんな悪いこともしました。」とたくさん並べても、本質的なことは何もしていません。悔い改めていないんです。
悔い改める、というのは心と生活が方向転換して、神様の方に向くことですから、イエス様を信じなかった状態から、信じて従っていく状態になることです。
イエス様がトマスに言いましたように、「信じない者にならないで、信じる者になること」、これが悔い改めです。これは非常に大事なことですね。
私たち日本人は、罪、というとお巡りさんに捕まるとか、見つかるとか、そういうことぐらいしか考えていませんから、聖霊によらなければ、イエス様を信じないことが罪なんだ、ということを分かることができません。聖霊が来る時に、そのことを分からせてくださるんです。ですから、いくら説明して納得させても、それは分かったことになりません。
創世記4章6~7節を読んでみたいと思います。
創 4:6 そこで、【主】は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。 4:7 あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
これは何を言っているんでしょうか。
主は、カインに罪を悔い改めて、もう一度、主にいけにえをささげるように、チャンスを与えています。もう一度やり直す機会があるよ、と言っています。
そう言われた時に、カインは従順に「申し訳ありません」と、自分の罪を認めて、アベルと同じように、罪のための小羊のいけにえをささげるべきでした。
しかし主は、カインが拒んだ時の恐ろしい危険も、警告しています。
罪の性質と、サタンに支配された罪を、赦しもきよめも求めずにそのまま放置しておくと、その罪がカインを支配してしまうようになります。
そうなる前に、カインは、主の勧告に従って、罪のためのいけにえをささげるべきでした。
遅くなってしまう危険があります。拒んでいればいるほど、心が頑なになってしまいます。そのまま行ってしまう危険がある。カインはそのまま行ってしまいました。
ここでは、神様が、憐み深くカインを導いてくださっていることが分かります。まだ、間に合いますよ、と、神様に受け入れられるチャンスが残っていたんです。
ですから主は、まだ自分の罪に気づいていない私たちを待っていてくださるのです。一度や二度の失敗で、さばかれるお方ではありません。
イエス様は、ペテロが「兄弟の罪を何回赦せばいいでしょうか」と尋ねた時、マタイ18章21節~22節で次のように答えました。
マタイ18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
七度の七十倍で四百九十回、という意味ではありません。何度でも、という意味であります。「七」は神の完全数だということは、前にもお話していますけれども。ペテロは自分の知恵で考えて、「何度まででしょうか」とたずね、「七度ぐらい赦せばもういいかな」、と思ったんでしょう。
事実、ペテロは三回、イエス様を「知らない」と否定しましたが、イエス様は十二弟子からはずしませんでした。
イスカリオテのユダは、自分からはずれていった人です。
また、イエス様が選んでいないのに、くじ引きで当たった人も、イエス様の弟子に組み入れられていません。
むしろ、ヨハネの21章で、イエス様はペテロに「あなたはわたしを愛しますか」と聞いてくださいました。ペテロは、イエス様から、赦すとか赦さない、ということばを聞いておりません。
つまり、先ほどお話ししましたけれども、足りないところがあり、罪深いところも残っている、不信仰に陥りやすいところもある、それでも、イエス様を愛する思いで従っていくなら、ペテロの場合はフィレオで愛していましたから間違っておりましたけれども、それでも神様はイエス様の弟子から外しませんでした。
しかし恐ろしいことには、決して赦されない罪があることをお話ししておかなければなりません。
マタイの12章31節~32節を読んでみたいと思います。
マタイ 12:31 だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒瀆は赦されません。
12:32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。
人の子、イエス様に逆らう者でも赦されると言っていますね。確かにそうでありますね。迫害者サウロは、逆らっておりましたけれども赦されています。
しかし、聖霊に逆らうと赦されることがありません。聖霊に逆らうと、もう聖霊が働かなくなってしまいますから。たましいが罪を悟ることもできなくなってしまう。悔い改めることもできなくなる。主を信じることもできなくなってしまうからですね。
ですから、聖霊が心にいて、主の御声が聞こえるうちになら、主に立ち返ることができます。
いつまでも先に延ばしているのは危険であります。先延ばしていると、サタンに徹底的に攻撃されるチャンスを与えることになります。聞こえている間に、はっきりと、「私は主に立ち返ります」と言うことが必要ですね。
イザヤ書の55章6~7節を読んでみましょう。
イザヤ55:6 【主】を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
55:7 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。【主】に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
私たちは、カインのように怒りの感情に振り回されやすいのではないでしょうか。決して、そうあってはならないと思います。なぜなら、怒りの感情に任せてしまうと、主に立ち返ることができない危険があるからです。
恨みや憎しみや怒りを心に持つと、神に立ち返ることができなくなってしまいます。
エペソの4章26節から27節を読んでみたいと思います。
エペソ4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。
怒り、憤り、恨み、妬み、そういうものはサタンにチャンスを与えてしまう。怒っても罪を犯してはなりません、と言いました。日が暮れるまで、ユダヤの国では日暮れが一日の区切りですから、明日まで持ち越してはだめだ、ということですね。
ある人は、「このみことばは本当に大事だ」と言いました。次の日まで、怒りや憤りや仲たがいを続けていてはいけない。
このような中で、ヘブル人への手紙は、アベルに対して、「そのいけにえによって、彼が義人であることの証明を得ました。」と言いました。神が、彼のささげ物を、よいささげものだとあかししてくださったからです。
「義人」とはどういう人のことでしょうか。詩篇14篇1~3節を読んでみたいと思います。
詩 14:1 愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない。
14:2 【主】は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。
14:3 彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
残念なことばですね。今日も、同じことを神様は思っておられるでしょう。詩篇53篇1~3節も同じことばを繰り返しています。
詩篇 53:1 愚か者は心の中で「神はいない」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。
53:2 神は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。
53:3 彼らはみな、そむき去り、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
義人はいない、ということであります。
神様は、悟りのある者はいない、と。これは人間の姿ですね。
ローマ3章10節も読んでみましょう。非常に残念なことですけれども。パウロもそう言っています。
ロ-マ 3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。」
「ひとりもいない」、と付け加えられていますね。人間は、自分は正しいと思っている人は、たくさんいるではありませんか。それはどうなるんでしょうか。
イザヤ書64章6節を読んでみましょう。
イザヤ64:6 私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。
ここに「私たちの義は」、と書いてありますけれども、自分は他の人よりましなところがある、正しいところがある、褒められるところがある、と思って生きています。でも、木の葉のように枯れて、風のように吹き上げられる、と言っています。不潔な着物のようです、と言っています。
長い間、私は、自分が真面目で、少しはましな人間のように思っていました。しかし、実は、そのように思うこと自体が、思い上がりの高慢であります。
「私は罪を犯したことがありません」、という人がいますけれども、そのこと自体が思い上がりの罪であります。自分が罪深い人間であることの証拠なんですね。
このことは、聖書と聖霊によって教えられて、初めて分かるようになりました。
しかし、主は、罪人であったアベルを「義人」だと呼ばれました。アベルはどのようにして「義人」になったんでしょうか。ヘブルの10章38節を読んでみましょう。
ヘブル10:38 わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
聖書は、イエス・キリストを信じる生き方をしている人を「義人」と呼んでいます。
心の内にある信仰が、生活の生き方に現れている人を「義人」と呼んでいます。
つまり、ことばや口先だけの信仰ではなくて、実際の生活の中で、真実を持って信仰を現わしている人のことです。これはとても大事なことですね。口が熱心だけの人を「義人」とは呼んでいません。哲学者や宗教学者を「義人」と呼んでいるわけではない。
確かにイエス・キリストを信じても、多くの欠点や弱点を持っております。
しかし、すべての思い、動機、選択、行いは、神によって、神のいのちと神への信仰が働いているから、「義人」と呼ばれる、と言っています。
ですから、第二の特徴は、外面的に何をするか、によらないで、心の中で主を信じて、信頼して、愛していることを、主は、それを私の「義」としてくださるんです。
さて、第三に、「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」についてお話します。
このことは、すべての信仰者に当てはまります。
「彼は死にましたが、」と言っておりますけれども、私たちは肉体が老いたり、病で朽ちる、という制限を受けています。
しかし、たましいは、信仰によって永遠のいのちを持っています。持っているだけではなくて、その永遠のいのちは、肉体の死を超えて語り続ける、発信し続ける力を持っています。
確かに私たちの心には、旧約の聖徒たちの信仰のメッセージが、いのちとなり、力となって生きて働いています。
また、イエス様やペテロ、ヨハネ、パウロたちの信仰のメッセージは、この二千年間、無数の信仰者のたましいを生かし、力づけ続けてきました。
旧約の聖徒も、新約の聖徒も、肉体は死にましたが、彼らはいなくなったのではなく、働かなくなったのではなく、今もなお語り続けています。
昨年の末に、私たちは、吉田きみ子姉妹を天にお送りしましたが、彼女もまた今なお信仰によって、語り続けているんです。力を与えている、励ましを与えている、いのちを与え続けている、ということですね。全ての信仰者が、永遠のいのちのメッセンジャーになっているんですね。
こういう人たちの姿が、聖書のうちに見られます。
ヘブル12章1節を読んでみたいと思います。
ヘブル12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
多くの証人たちに取り囲まれている。
もう一つ、ヨハネの黙示録7章9~10節を読んでみましょう。ここにも数えきれない群衆がいますね。証人がいます。
黙 7:9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
7:10 彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
彼らはみんな死んではいないんです。朽ちる肉体を離れているだけです。朽ちないからだを着せられるのを、待っているんです。彼らはメッセージを語り続けています。
パウロは、第一コリント13章13節で有名なことばを語りました。
Ⅰコリント13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で、一番すぐれているのは愛です。
確かに、信仰と、復活の希望と、神の愛は、永遠に生きていて、私たちの肉体が死んでも、信仰のメッセージは聞かれた方の心の中で生き続け、次の方へ、次の方へと語り伝えられて、止まることがありません。
これはアベルの信仰だけではありません。有名な聖徒、無名の聖徒の区別なく、すべての真実な信仰者は、肉体がこの世を去っても、その信仰は消えることがない。キリストのメッセージを語り続けて、多くの人々の心をキリストに導きます。永遠のいのちの恵みを分かち与えることになります。イエス様の救いに導くんですね。
もし、人が人に残すことができるものがあるとすれば、それはお金や財産ではなくて、主イエス様から与えられた、信仰と希望と愛です。
私たちが人に残すことができる不滅のものは、信仰と希望と愛ですね。
しかし、今生きている私たちは、今、信仰によって永遠の愛を語ることができます。
ことばで語っても、人々は受け入れないかもしれません。しかし、どんなに反対の態度を取られても、いつも変わらない真実と行いを持って愛を表わし続けているなら、やがて聖霊がその人の心にも、神の愛を注いでくださるようになります。
聖霊が、神の愛を注いでくださらない限り、人の心はイエス様を信じるようになりません。
イエス様は、マタイ5章44節で、 「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われました。敵対者のために祈ることは、この世にはない愛です。この祈りは、主を喜ばせます。
パウロはもっと具体的に、次のように言いました。ローマの12章20節を読んでみましょう。
ロ-マ12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
愛の行いですね。敵対者に対してどうすればよいか、ということですね。
イエス様は祈るようにと言いました。
パウロは、飢えたなら食べさせ、渇いたなら飲ませなさい、と言いました。
これらは、すべて信仰による愛のメッセージを語っています。
金持ちの青年が、イエス様から、「あなたの持ち物を全部売って、貧しい人達に施しなさい」と言われた時、もし彼の心に愛があれば、信仰によって、彼は愛のメッセージを具体的に現わしたでしょう。
「自分を愛するように、あなたの隣人も愛しなさい」というのも、信仰による愛のメッセージでしょう。
良いサマリヤ人のお話も同じです。マタイの5章16節で、「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」と仰いました。
信仰は、物言う働きをするし、神の奇跡も行います。
罪人である私たちが、神の愛の行いをすること自体が、神の奇跡であります。
出エジプト記の20章6節を読んでみたいと思います。
出20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
イエス様を愛して、イエス様のみことばを行う者は、真実の行いを持って愛を現わす者は、つまり義人と呼ばれる人はですね、恵みを千代までも施す、と言っています。
受けるだけでなく施すんですね。与えられて、それをまた他の人にも与えます。これが、信仰の恵みが、永遠に継続されていく秘訣であります。
福音書の時代から今日まで、約二千年と言われています。信仰が継承されています。続かないように見えて、続いているんです。
二千年というと、ずいぶん長いように思いますけれども、一人の人の生涯を50年と計算しても、まだ40代しか過ぎていません。一人の生涯を100年とすれば、まだ20代しか過ぎていません。千代ということは、永遠を意味してますね。このことからしても、信仰がもたらす恵みが、いかに大きく、永遠の恵みであるかが分かります。
私が真実な信仰を受け継いだなら、永遠に生きる最高の財産を受け継いだことになります。それはまた、次の世代に伝える使命と責任が与えられています。それは、最高に光栄ある使命と責任あるお仕事です。
パウロは次のように言いました。
第二コリント3章6~9節を読んでみたいと思います。
Ⅱコリント 3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
3:7 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、
3:8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。
3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。
主の信仰は、信じる人の心の中で、主の恵みのメッセージを語り続けています。栄光ある働きなんですね。目が覚まされるような栄光であります。
慰めが必要な時には、慰めを語るメッセージ、励ましが必要な時には、励ましを語るメッセージ、お叱りが必要な時には、お叱りを語るメッセージ、各々の人生を正しく導いてくださるのです。信仰はそういうふうな働きをする、ということです。
信仰は、何もできないように見えても、弱いように見えても、必ず、信じて従っている私たちの心に、いのちの光を届けてくれます。そして忍耐強く、神から失われている人を探し出して、救いに導きます。暗きに住む人々に、希望を与えます。
先ほど読みましたように、神を求める者は一人もいない、と言われましたけれども、その中に、まれにいるんです。ザアカイのような人がいます。暗きに住む多くの人が、希望の光を見ることができるように。
私たちは今日、アベルの信仰によって、神の光を受けているんです。
そこで、まず第一に、私の罪のために、十字架に架かって死んでくださった、神の小羊なるキリストを信じましょう。これは第一に重要なことですね。
私たちが、いのちの光を届けるためには、まず、自分自身が神の光を受ける経験を持っていなければなりません。あなた方の光を人々の前に輝かせなさい、と仰いました。
自分が暗闇の中にいて、理屈だけのべ伝えても、光は輝きません。
第二に、主は私たちの心の本質を、ご覧になっています。その心に主イエスを信じる信仰があれば、主は喜ばれます。
信仰がなければ、どんなに主の名によって預言しても、奇跡を行っても、主から、「わたしはあなたを知らない。不法を成す者ども、私から離れて行け」と、言われてしまいます。
何か活動したり、集会を開いたりするのではありません。外側の仕事の成果や繁栄にこだわらず、内なる信仰を働かせて行動しましょう。そうすれば、必ず時至りて、実を結びます。
懲りずに、慌てずに、諦めずに、内なる信仰を働かせて行動しましょう。
第三に、第一ヨハネ3章18節をお読みして終わりたいと思います。
Ⅰヨハネ3:18 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。
とかく教会は、キリスト教は、口先だけの信仰になりやすい。
議論をして、熱心に話し合うかもしれませんけれども、ヨハネは、「行いと真実を持って愛そうではありませんか」と言いました。これが一番大事なことですね。どんなに激しい議論よりも、五つのパンと二匹の魚を捧げて奉仕した子供の方が、神様は喜ばれます。
このみ言葉は、信仰にとって、非常に重要であります。教えていることがどんなに正しく、熱心でも、真実な愛の行いが伴っていなければ、その熱心な信仰は死んでしまっています。
ヤコブが言ったように、行いのない信仰は死んでいます。それは大声で叫べば叫ぶほど、みじめになります。
真実な愛の行いが伴った信仰は、永遠に語り続けるいのちを持っているからですね。
私たちもまた、今も語るアベルの信仰を持たせていただいて、今はまだ生きておりますので、今のうちから、神のメッセージを語り続ける、語るだけではなくて、生活や手足や、すべてのことを通して、信仰と希望と愛のメッセージを語り続ける生活を営ましていただきたいと思います。その本質を生かして、活用させて頂きたいものです。
今週もいろいろなことがあると思いますが、イエス様の恵みを経験しながら、一歩一歩、歩ませていただきたいと思います。
お祈り
「その信仰によって、今もなお語っています。」
恵みの深い天のお父様、あなたは私たちのたましいの内に、信仰と希望と愛を注いでくださり、御霊によって日ごとに愛を注いでくださっていますから、感謝をいたします。
この内なる信仰を持って、いろいろな困難、課題がありましても、あなたが語り続けてくださるそのメッセージを持って、生きていくことができるように助けを与えてください。
確かに、多くの人は神を求めていないかもしれません。
その中に、本当にイエス様を求めるたましいがいるはずであります。
渇いて、飢え渇いているたましいに、いのちの光を届けることができるように、そのためには、私たち自身がいのちの光を持つ者とならせてください。
そして恵みを経験できて、私たちの周りからも、あなたの御名を叫ぶ者が起こされますように助けてください。
尊いキリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。
音声と文書:信仰の列伝(全51回)へブル人への手紙11章 目次
<今週の活用聖句>
ヨハネの手紙第一、3章18節
「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」
地の塩港南キリスト教会
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