聖書の探求(187) ヨシュア記4章 ヨルダン川を渡ったことのあかしとする記念の石

上の写真は、マダバ・マップと言われる6世紀頃に描かれたモザイク画。当時の聖地旅行者のための案内図だと言われている。ヨルダン川の下にギルガルという地名があり、その下に、12個の記念の石が描かれている。


4章は、神の民が不可能に見えたヨルダン川を渡ったことのあかしとする記念の石を据えたことを記しています。
1~14節、実際の渡過の記述
15~24節、水の回復と子孫へのあかし

1~14節、実際の渡過の記述

1節、主は民がすべてヨルダン川を渡り終えて完了した時、次の指示を与えておられます。

4:1民が皆、ヨルダンを渡り終った時、主はヨシュアに言われた、 

行動する前に、それが神の命令であるかどうかを確かめ、神のみ旨であれば、全力を尽くして行なおうではありませんか。

2,4節、各部族ごとに一人ずつ、十二人が運び出されて、十二の石をヨルダン川から取り出して、ギルガルに据える働きをするように命じられています。

4:2「民のうちから、部族ごとにひとりずつ、合わせて十二人を選び、 4:3彼らに命じて言いなさい、『ヨルダンの中で祭司たちが足を踏みとどめたその所から、石十二を取り、それを携えて渡り、今夜あなたがたが宿る場所にすえなさい』」。 4:4そこでヨシュアはイスラエルの人々のうちから、部族ごとに、ひとりずつ、かねて定めておいた十二人の者を召し寄せ、

教会の中には、何でも、すべてのことをしてもらう、受け身だけのお客様的クリスチャンがいてはいけません。いつも受け身だけの人は、他人にしてもらうことに慣れてしまっていて、してくれないと不満をもらす人がいます。こういう人たちが教会を冷淡な所にしてしまうのです。だからといって、全員の教会員を能力に応じて、教会の働きを分担してもらえばいいというわけにもいきません。人の前に立つと、すぐに高慢になる人もいれば、目立つことばかりをやりたがる人もいます。

ここでは重労働である、川底から大きな石を運び出すという仕事に当たっています。特別な才能がなくても、できる奉仕は沢山あります。「先生、何かありませんか。」と問わず、主に祈って示されたところから、やってみてください。特に、牧師、伝道者、教師たちなど、主の働き人のために祈ることは、非常に大切なことです。教会員に祈られていない牧師や説教者ほど惨めなものはありません。できるだけ人目につかない、隠れた所でできる奉仕から始めてください。そうすれば、あなたは高慢に陥ることなく、主から報いを受けることになるでしょう。

3節、十二の石を取り、それを宿営地に据えることは、神の民とその子孫たちに、そして世界のあらゆる人々に神の恵みを記憶させるための方法でした。

4:3彼らに命じて言いなさい、『ヨルダンの中で祭司たちが足を踏みとどめたその所から、石十二を取り、それを携えて渡り、今夜あなたがたが宿る場所にすえなさい』」。

神は人間が、特にご自分の民が、神のあわれみ深さをいつまでも憶えていて、主に従って歩んでくれることを望んでおられるのです。それ故、あかしは重要な意味を持っているのです。

今日、私たちがあかしする時、どのような意味と目的を持って、あかししているでしょうか。得意気に、自慢気にしていないでしょうか。もしそうなら、もはやそれは、あかしではありません。あかしは聞く人々が、神のあわれみ深さを心に深く刻み込み、各々の生活において、主に従っていくためのものでなければなりません。

また、この十二の記念の石は、荒野の旅の生活が終わって、神の約束の地に入った新時代が始まったことのあかしでもあります。それ故、ヨルダン渡過の出来事は重要な信仰的意味を持っており、神の民とその子孫に深く記憶されるべきでした。私たちの信仰経験においても、新生経験と聖潔の経験を深く心に憶えるべきです。なぜ、クリスチャンが、肉の誕生日を祝うのに、霊魂の誕生日や潔められた日を祝わないのか、不思議でなりません。やはり、霊のことより、肉のことに関心が向いているからではないでしょうか。主は霊のことに深い関心を示し、それをしっかり憶えることを命じておられるのです。

3章5節で、神の民はヨルダン川を渡る前に身をきよめて、献身を新にしていますが、渡ったことの記念の石を見て、神のあわれみ深さを憶える時、さらに改めて、新しい献身を深めることができるでしょう。

恵みに慣れてしまって、改めて神のあわれみ深さを自覚することもなく、感謝することもなく、日を過ごしてしまうことは、主に喜ばれることではないし、また私たちの霊魂を高慢にしてしまい、霊的に鈍感な人間になってしまい、自分の知恵と考えで事を行なう人間へと堕落していってしまうのです。私たちは自分が受けた恵みを深く憶えて、たえず献身を新にしていく必要があります。それは主が求めておられることです。

5節、主は、ご自身に関するあかしが事実に基づいて正確であるとともに、新鮮であることを求めておられます。それ故、このヨルダン川を渡り終えた直後、恵みの経験が人々の心に新鮮であるうちに、あかしの石を据えるようにと命じています。

 4:5ヨシュアは彼らに言った、「あなたがたの神、主の契約の箱の前に立って行き、ヨルダンの中に進み入り、イスラエルの人々の部族の数にしたがって、おのおの石一つを取り上げ、肩にのせて運びなさい。

私たちも、恵みを受けたなら、間を置かずに新鮮なうちにあかしをすべきです。集会中に救いの恵みを受けた人がいるなら、そばにいる誰かにすぐにあかしをしてもらうくらいのアドバイスを個人伝道者はすべきです。あかしをしないで、そのまま家に帰って、一週間過ごしている間に、悪魔に試みられて、信仰が弱ってしまう危険は十分にあるのです。

十二の石はどこから取って来たのでしょうか。「祭司たちが足を踏みとどめたその所から」(3節)です。それは堅く信仰に立っている所からのあかしです。

その石は、長い間ヨルダン川の水が洗っていたもので、これらは死の底にあったものが上げられたものであり、神の民が死の川底を神のあわれみ深い御手によって、安全に渡ったことの無言のあかしとなります。

6~8節、その石は「今夜泊まる宿営地に」据えられました。それは子どもたちにも分かりやすいよく見える所に据えられました。

「4:6 それがあなたがたの間で、しるしとなるためである。後になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか』と聞いたなら、4:7 あなたがたは彼らに言わなければならない。『ヨルダン川の水は、【主】の契約の箱の前でせきとめられた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水がせきとめられた。これらの石は永久にイスラエル人の記念なのだ。』」4:8 イスラエルの人々は、ヨシュアが命じたとおりにした。【主】がヨシュアに告げたとおり、イスラエルの子らの部族の数に合うように、ヨルダン川の真ん中から十二の石を取り、それを宿営地に運び、そこに据えた。」

あかしは教会の集会の時にするだけでなく、家庭で食事をしている時にでも、主がしてくださった恵みのみわざを話すべきです。あかしはクリスチャンが集まった時だけでなく、未信者の家族がいる所でも「きょう、聖書のこのみことばによって力が与えられ、この働きをやり遂げることができた。」と、あかしすることができます。このように、だれにも分かりやすく、手の届く所にある、しかも新鮮なあかしが毎日行なわれるなら、神のみわざは更に広く進んでいくでしょう。

この石のあかしは、イスラエル人の子孫が続く限り、あかしするように命じられています。しかし私たちは過去のあかしを繰り返すだけでなく、毎日、現在のあかしをすべきです。一週間、みことばを握った生活を続けて、何もあかしがないということは、あり得ないことです。あかしは神の恵みのみわざのしるし(証拠)なのです。あかしによって、神の御名はあがめられ、人々は神を畏れるようになるのです。

「そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン(石)・エゼル(助け)という名をつけ、『ここまで主が私たちを助けてくださった。』と言った。」(サムエル第一 7:12)

9節では、祭司たちが立っていたヨルダン川の真中にも、十二の石を立てたことが記されています。

4:9ヨシュアはまたヨルダンの中で、契約の箱をかく祭司たちが、足を踏みとどめた所に、十二の石を立てたが、今日まで、そこに残っている。(箱をかく=箱をかつぐ)

これはキング・ジェイムス訳や文語訳聖書を見ると、よりはっきり分かります。この石が据えられたヨルダン川の真中とは、ある人々は、実際に祭司たちの足が最初に水に触れた川の東側の土手であると言っています。しかし大多数の聖書注解者たちは、この石の塚は、おそらくヨルダン川を横切って渡った所の浅瀬の川底に立てられたという見解をとっています。もし、そうであるなら、ヨルダン川の水が少ない時期には、これらの十二の石の塚も水面に現われて来て、見ることができたでしょう。

「今日まで、そこに残っている。」という記述は、ヨシュア記を書いた記者が、その十二の石を見ていたことを示しています。ついでに、6章25節を見ますと、遊女ラハブとその家族たちは、イスラエルの人々の中に住んでいたことを記しています。

これらのことからすると、ヨシュア記が書かれたのは、ヨシュア記に記されている出来事が行なわれてから、それほど時間が経っていない頃、これを経験した記者が書いたものであることが分かります。

記念の石の塚は、ヨルダン川の中と、イスラエルの宿営地との二箇所に据えられました。一つはエジプトから連れ出され、奴隷から解放されて荒野を旅している神の民を象徴しており、もう一つは、ヨルダン川を渡って、約束の地に住む神の民を象徴しています。霊的に私たちに当てはめて言うなら、回心のあかしと、聖潔のあかしと言うことができるでしょう。

主は、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)と言われ、ヨハネも、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネ第一 1:9)と言っています。

荒野をさまよっていた民だったイスラエルも、喜んで神に従うことによって、ついに神の約束の地に入ることができたのです。

10~14節は、ヨルダン渡過の出来事の要点をもう一度繰り返しています。特に、主の箱をかつぐ祭司たちの行動が強調されています。主の箱をかつぐ祭司たちは、主が命じられたことを民がすべて成し終えるまで川底の真中に立っていました。

4:10箱をかく祭司たちは、主がヨシュアに命じて、民に告げさせられた事が、すべて行われてしまうまで、ヨルダンの中に立っていた。すべてモーセがヨシュアに命じたとおりである。民は急いで渡った。 4:11民がみな渡り終った時、主の箱と祭司たちとは、民の見る前で渡った。(箱をかく=箱をかつぐ)

11節では、民がみな渡り終わった時、主の箱が渡っています。これらの主の箱についての記述は、主の臨在の同行を強調しています。民に神の臨在の同行の重要性を教えています。この主の臨在があったからこそ、渡るのが不可能であった洪水状態のヨルダン川を安全に渡って、約束の地に入ることができたのです。この主の臨在の同行は、主が約束されたことの実現でした。

「わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア記1:5)

「あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

10節、「すべてモーセがヨシュアに命じたとおりである。」

新しい指導者はモーセとは別の新しい、自分の考えに従ってやっているのではありませんでした。指導する人間は変わっても、導かれる神は変わっていません。神が与えられたみことばのご命令は、古くなっていません。

私たちが、この永遠のいのちのみことばに従って生活することは、極めて重要なことです。時代とともに新しい考えや思想が生まれては、また消えて行くでしょう。しかし、私たちは天地が過ぎ去っても変わることのない神のみことばに従って生活するという原則を堅固に守りたいものです。この意識がうすれて来る時、人間の知恵が先行するようになり、神の民の中に堕落が始まるのです。

12,13節、ヨルダン川の東の地に土地を要求して与えられたルベンとガドとマナセの半部族は、モーセから命じられていたことを守り、カナン征服の戦いを助けるために、四万人の武装した人を、イスラエルの人々の先頭に、主の前に、隊を組んで進ませています。

4:12ルベンの子孫とガドの子孫、およびマナセの部族の半ばは、モーセが彼らに命じていたように武装して、イスラエルの人々に先立って渡り、 4:13戦いのために武装したおおよそ四万の者が戦うため、主の前に渡って、エリコの平野に着いた。

これは彼らが居住地は離れていても、神の民であることを証明するあかしです。それは他の残りの部族に彼らが神の民の一員であることを認めさせるためにも、また自ら信仰を保ち、神の民であることを自覚するためにも必要なことでした。

私たちは、楽しく過ごす時だけでなく、むしろ苦しい戦いをする時に共に戦うことによって、同じキリストの体の一部、キリストの家族の一員であることを自覚するのです。たとえ、住む所が遠く離れていても、一度も顔を合わせたことがなくても、主のために心を一つにして戦っていることが、信仰の一致の秘訣です。心が通い合った生きた信仰の交わりをすることができるのです。

ここで、彼らが、「隊を組んで進んだ。」「主の前を進んで行った。」と記されていることは注目すべきことでしょう。隊を組んで進んだことは、彼らの信仰が強くなっていたことを示し、戦う志気が十分に表わされています。主の前に進んだことは、彼らが自発的に、喜んでこの隊に加わっていたことを示し、主がそれを喜んでおられたことを示しています。「主の前」とは、主の臨在が同行していたことを意味しています。これは他の部族たちに対して、力強いあかしとなって勇気づけたことでしょう。

14節、「その日、主は全イスラエルの見ている前でヨシュアを大いなる者とされたので」

 4:14この日、主はイスラエルのすべての人の前にヨシュアを尊い者とされたので、彼らはみなモーセを敬ったように、ヨシュアを一生のあいだ敬った。

牧師や説教者、伝道者の中には、自分の知識や地位、学歴などを誇示して、自分を大いなる者に見せようとしている者がいます。これは、そんなに大それたことでなくても、人の前に立って聖書を教える立場に着くと、学ぶ人を見下げる態度をとることによって表われてきます。それは言葉や態度にまでなって表われてこなくても、思いの中で気づかされないでしょうか。自分を大いなる者の位置に着けていないでしょうか。

イエス様の弟子たちはいつも、この問題で言い争っていました。
「彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。『だれでも人の先に立ちたいと思うならみなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。』」(マルコ9:34,35)

自分が他の人より霊的に深いことが分かっているように見せかけたり、聖書の奥義を他の人より深く悟っているように見せかけたりすることは、高慢以外の何ものでもありません。

「・・しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(第一コリント8:1,2)

私たちが聖書の真理について、他の人に教えようとする時、自分は霊的にも、知的にも、経験的にも最も未熟な者で、ふさわしくない者であることを自覚しつつ、聖霊の助けをいただきつつ奉仕する者でありたいものです。人々の中で得意気に話す人を見る時、その高慢さに嫌悪を感じます。私たちはどんなに成長しても、主の真理について、得意になって教えることができるほど、何もかも知ることはできません。雨水の一滴ほどのことを知ったに過ぎないことを忘れたくないものです。

真理を教えることにおいて大事なことは、どれだけ学んで知識を持ったか、ということではなくて、聖霊とともに歩む生活をしているかということです。

自ら自分を少しでも大いなる者に見せようとする思いは、カインと同じように、また使徒の働き5章のアナニヤと妻サッピラと同じように、主に喜ばれません。このことは、教師となる者は、特に慎み深くなければなりません。

「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1)

これは人の前に立つ者が高慢になる危険を戒めたものであって、召命を受けて教師になることに消極的になる必要はありません。しかし自らを少しでも、よく見せよう、大きく見せようという誘惑は拒否し続けなければなりません。

しかし、忠実に主に従って歩んでいるなら、主はその人を大いなる者とされるのです。これも主が約束されたことでした。

「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。」(ヨシュア記1:5)

「主はヨシュアに仰せられた。『きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたようは、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。』」(ヨシュア記3:7)

兄たちに奴隷に売られたヨセフは、主がともにおられたので、彼は幸福な人となり(創世記39:2)、パロですら、ヨセフの内に神の霊が宿っていることが分かったのです(創世記41:38)。

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(第一ペテロ5:6)

ヨシュアが神のわざを忠実に行ない、民のつかさたちがヨシュアの指導に忠実に従い、民のひとり一人が主のみこころを忠実に行なったことによって、民の信仰は非常に強められました。そして会衆はみな、ヨシュアを一生の間、尊敬し、愛し、従っていったのです。神がその人を喜ばれ、承認され、聖霊の油を注がれて用いられる時、その人は真の意味における指導者となり、神の子らから愛と信頼と尊敬と服従を寄せられるようになるのです。

15~24節、水の回復と子孫へのあかし

15~18節、せき止められていたヨルダン川の水は、今や、もとの状態に戻されようとしています。

4:15主はヨシュアに言われた、 4:16「あかしの箱をかく祭司たちに命じて、ヨルダンから上がってこさせなさい」。 4:17ヨシュアは祭司たちに命じて言った、「ヨルダンから上がってきなさい」。 4:18主の契約の箱をかく祭司たちはヨルダンの中から上がってきたが、祭司たちの足の裏がかわいた地にあがると同時に、ヨルダンの水はもとの所に流れかえって、以前のように、その岸にことごとくあふれた。

先ず、主がヨシュアに、「あかしの箱をかつぐ祭司たちに命じて、ヨルダン川から上がって来させよ。」と命じられ、次にヨシュアが祭司たちに命じ、祭司たちはそれに従って、ヨルダン川から上がってきた時、ヨルダン川の水はもとの流れに戻ったのです。

ここで注意していただきたい点は、

「全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」(ヨシュア記3:13)

「箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、・・・上から流れ下る水はつっ立って、・・・せきをなしてたち、・・・流れ下る水は完全にせきとめられた。」(3:15,16)

「祭司たちの足の裏が、かわいた地に上がったとき、ヨルダン川の水はもとの所に返って」(4:18)

流れがせき止められる時は、祭司の足の裏が水面に浸った時であり、流れがもとの状態に戻った時も、祭司の足の裏が、かわいた地に上がった時です。これは私たちに何を教えていますか。これは主のご命令と約束のみことばを信じて、実行に移した時に、主は全能のみ力をもって、みわぎを行なわれることを示しています。この原理は今も、変わっていません。

つまり、「そうなれば、いいなぁ。」「そうしてみたい。」と思っている間は、期待しているだけの間は、まだ主はみわざを行なってくださらないのです。ですから、信仰は神のみことばを実行することによって完成し、主のみわざを見るのです。

「信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」(ヤコブ2:17)

「行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)

「彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、」(ヤコブ2:22)

次に、ヨルダン川の満水の水は、ヨルダン川を渡る前のイスラエル人にとっては、神の約束の地を獲得するためには、大きな障害物であり、難問の課題でした。しかし渡ってしまった人々にとっては、昔の不信仰な放浪の生活に戻らないための障害となります。戦いに勝つためには、渡った橋は切り落とし、乗って来た船は焼き払え、とまで言われています。敗北して逃げて帰る弱気を吹き払い、ロトの妻のように、後ろを振り向く未練を断ち切る時、まっしぐらに勝利に向かって前進して行くようになります。
もし、主に従って行って敗北したら、またこの世を放浪する生活をすればいいやという思いが心の中に残っていれば、恐らく信仰を全うして、神の約束の地を獲得することはできないでしょう。

さらに、満水のヨルダン川を信仰で渡った経験は、将来、困難な課題にぶつかった時の信仰の支えとなり、教訓となり、カづけとなります。こうして、潔められた信仰経験に立ち、潔めの信仰を更新している人は、信仰がバックスライドする危険は少なくなり、誘惑があっても、勝利することができ、困難があっても、毎回、主から新しい力を受けて御国を目指して前進し続けることができるのです。

19節、「第一の月」とは、今日の四月頃のことであり、その十日にイスラエル人たちはアブラハム以来、神の約束の地で最初の生活を始めたのです。

4:19民は正月の十日に、ヨルダンから上がってきて、エリコの東の境にあるギルガルに宿営した。

これはイスラエルの歴史上、新時代が到来したことを示しています。

私たちにとっても、聖霊の恵みに入る経験は、画期的な新時代の始まりを意味するのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です、古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第二コリント 5:17)

「ギルガル」(19,20節)は、「転(ころが)す」という意味で、エジプトのそしりを転がし去り、エジプトを脱出した目的の完成(5:9)を意味しています。

私たちも罪の奴隷だった生活を脱出して、キリストの救いにあずかりましたが、それは神の約束の地が意味する聖潔の恵みに到達することにおいて、罪の性質は取り除かれ、ギルガルに到着するのです。

ここでイスラエルが宿営したギルガルは、15章7節のヨルダン「川の南側のアドミムの坂の反対側にあるギルガル」とは、明らかに違います。

21~24節は、イスラエルの子孫のために、あかしとしての十二の石の役割が記されています。

 4:20そしてヨシュアは、人々がヨルダンから取ってきた十二の石をギルガルに立て、 4:21イスラエルの人々に言った、「後の日にあなたがたの子どもたちが、その父に『これらの石は、どうしたわけですか』とたずねたならば、 4:22『むかしイスラエルがこのヨルダンを、かわいた地にされて渡ったのだ』と言って、その子どもたちに知らせなければならない。 

ここでは、親たちが積極的に、神のみわざを子どもたちに教え継がないことが起きたとしても(主はそういうことが、あり得ると予想しておられると思われる)、子どもたちが十ニの石を見て、子どもたちの方から、積極的に質問してくるために、この十二の石は据えられたのです。その答えは、「すなわちあなたがたの神、主はヨルダンの水を、あなたがたのために干しからして、あなたがたを渡らせてくださった。それはあたかも、あなたがたの神、主が、われわれのために紅海を干しからして、われわれを渡らせてくださったのと同じである。」(23節)でした。神の民のためになされた神の超自然的奇跡のみわざを正しく伝えることでした。

私たちもまた、後の人々が見たり、読んだり、聞いたりして、主を求めるためのあかしを文書やテープや様々なものに残しておきたいものです。今日の私たちが、信仰を見いだすことが出来たのも、先人の信仰者たちが、文書などによって、多くの信仰のあかしを残しておいてくださったからです。

24節では、このあかしはイスラエルの子孫だけでなく、「地のすべての民」に向けられています。

4:24このようにされたのは、地のすべての民に、主の手に力のあることを知らせ、あなたがたの神、主をつねに恐れさせるためである」。

実に、旧約聖書の多くは、直接的にイスラエル人に向けて書かれたものであったでしょうが、それらは今日、時代を越え、地域を越えて全世界の人々の心に信仰を与えるためのあかしとして、主に用いられています。イスラエルの民の間でなされた神のみわざは、ただ一民族にとどまらず、全世界の民が恵みを受けるために計画されていたのです。古代エジプトでの歴史や、シナイの荒野の四十年の旅の歴史、そしてヨルダン川の出来事の歴史は、それから約三千五百年経った今日でも、なお、すたれてしまっていないのです。ただ過去の過ぎ去った出来事に終わってしまっているのではなくて、現代の私たち一人一人の生活と生涯にとって、重要な意味を持つ歴史として、今も霊的影響を与えているのです。

それは、それらの歴史の中の一つ一つの出来事から教訓として学ぶことができるというだけでなく、イスラエル民族の中に永遠のみことばであられるお方が、人となって降ってくださり、私たちに永遠のいのちを与えるお方となってくださったからです。この意味でイスラエルの歴史は今も、そして永遠までも続くのです。(4章完)(聖句は、新改訳第三版を引用)

 


下の写真は、ヨルダンのMadabaにある聖ジョージ教会の床にモザイクで描かれた大きな聖地地図の一部です。(2016年の訪問時に撮影)


このモザイク画は、ビザンチン時代の6世紀頃に描かれたものですが、その後、破壊された教会の下に眠っていました。しかし、1896年の教会再建時に廃墟の中に埋もれていたモザイク地図が発見されました。左側が北になっていますので、ヨルダン川が横向きに描かれています。ヨルダン川の下にギルガルがあり、そのすぐ下に建屋の中に保存された12個の石が描かれています。6世紀頃までは、ヨルダン渡過のあかしとして見ることができたようです。
(参照:Madaba Mosaic Map(マダバのモザイク地図)「たけさんのイスラエル紀行」

あとがき

自然界は実りの秋を迎えました。私たちも真のぶどうの木であるイエス様にとどまっているなら、豊かな実りのある生活を迎えることができます。私たちは「まだ、実を結んでいない。」とばかり、いつも思っていて、主が結ばせてくださっている実を見落してしまっていることがあります。この秋、この一年の間に結ばせていただいた実りを数えてみようではありませんか。
小さい雀は、ネコジャラシの草の実をついばんでいます。私たちも日頃見落している小さな実を拾い集めようではありませんか。「実を結びました。」とあかしすることは、恥しいことでも、高慢なことでもありません。主のみわざをあかしすることですから、自慢話にならず、へりくだって、実りの秋を感謝しようではありませんか。

(まなべあきら 1999.10.1)

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