聖書の探求(188,189) ヨシュア記5章 エリコ攻略の準備

この章は、エリコ攻略の準備の章と言えるでしょう。


上の木版画は、ドイツのJulius Schnorr von Carolsfeld (1794–1872)により描かれた「Joshua and the Angel(ヨシュアと天使)」(1860年に出版された”Die Bibel in Bildern(絵解き聖書)”の挿絵、Wikimedia Commonsより)

分解

1~9節、イスラエル人の割礼
10~12節、過越の祭
13~15節、主の軍の将の顕現

1~9節、イスラエル人の割礼

1節、ヨルダン渡過がエモリ人とカナン人に与えた影響

ヨルダン川を渡った経験から、神の民は少なくとも三つのことを学び取ったと思われます。

1.神は全能の神であられること

2.神はご自身を信じて従う者には、全能の御力を持って、みわざを行なわれること

3.神は、ご自身が任命された人を通して、みこころを行なわれ、民を指導されること

この経験は、イスラエル人とまわりの異邦人に対して、ともに重大な影響を与えました。

すなわち、イスラエル人に対しては、全能の神がともにおられるなら、人の力では不可能と思われる、洪水状態のヨルダン川をも安全に渡ることができたこと。

しかしエモリ人とカナン人にとっては、それは彼らの心を全くしなえさせ、全く無力で勇気をなくするほどの恐怖をもたらし、おびえさせました。

5:1ヨルダンの向こう側、すなわち西の方におるアモリびとの王たちと、海べにおるカナンびとの王たちとは皆、主がイスラエルの人々の前で、ヨルダンの水を干しからして、彼らを渡らせられたと聞いて、イスラエルの人々のゆえに、心は消え、彼らのうちに、もはや元気もなくなった。

アモリ人とは比較的山地の住民であり、カナン人は海辺近くの低地に住む人々でした。すなわち、山地に住む人々から低地に住む人々まで、異教の人々は、イスラエルの神に敵対して勝つことができないことを認めざるを得なかったのです。

彼らがこのように、イスラエルと戦う前に、自らの完全な敗北を認めたのは、なぜでしょうか。彼らは常日頃から、ヨルダン川は彼らの領地を守るための東側の自然の防御壁であると考えていたのに、イスラエルが、しかもヨルダン川の洪水は、一年中でも一番渡るのが危険と思われる(アモリ人やカナン人にとっては、一番安全と思っていた)時期に渡って来たからです。これで、彼らの安心していた確信は一気に崩れ去ったのです。イスラエルは洪水状態のヨルダン川を、足もぬらさずに渡って来たのです。それ故、彼らは、「自然は彼らの味方になってくれない」ことを悟らざるを得なかったのです。これに対して、イスラエルには、自然を支配し、制御なさる全能の神がおられることを思い知らされたのです。私たちの救い主イエス様も、自然界を支配なさる全能の神であることを忘れてはなりません。こうして異教の民にとって、最も強固で安全に守ってくれると思っていた防御壁も、全能の神に対しては、全く何の役にも立たないことを見せつけられたのです。彼らは戦う前に、すでに敗北をしていたのです。

「主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。主は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。」(詩篇118:6,7)

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

2~9節、ギルガルでイスラエル人に割礼が施されています。
2節は、割礼の命令(主からヨシュアヘ)

5:2その時、主はヨシュアに言われた、「火打石の小刀を造り、重ねてまたイスラエルの人々に割礼を行いなさい」。

3節は、割礼の実行

5:3そこでヨシュアは火打石の小刀を造り、陽皮の丘で、イスラエルの人々に割礼を行った。

4~6節は、その理由と事情です。

 5:4ヨシュアが人々に割礼を行った理由はこうである。エジプトから出てきた民のうちの、すべての男子、すなわち、いくさびとたちは皆、エジプトを出た後、途中、荒野で死んだが、 5:5その出てきた民は皆、割礼を受けた者であった。しかし、エジプトを出た後に、途中、荒野で生まれた民は、みな割礼を受けていなかった。 5:6イスラエルの人々は四十年の間、荒野を歩いていて、そのエジプトから出てきた民、すなわち、いくさびとたちは、みな死に絶えた。これは彼らが主の声に聞き従わなかったので、主は彼らの先祖たちに誓って、われわれに与えると仰せられた地、乳と蜜の流れる地を、彼らに見させないと誓われたからである。

エジプトから出て来た時のイスラエルの民は、神の民である契約のしるしとしての割礼を受けていました。しかしカデシュ・バルネアでのイスラエルの不信仰と反逆のために、その契約のしるしは不適切なものとなってしまい、その後、シナイの荒野で生まれたイスラエルの子どもたちは、割礼を受けないままになっていました。しかし今や再び、神はご自身を信じて従い、ヨルダン川を渡って新しい世代の神の民を持っておられたのです。神はこの新しい世代のイスラエル人をご自分の民と認めて、契約を結ぼうとされていたのです。

しかし戦いを目前にして、男性の生殖器の包皮を切り取る、いわば、手術をする割礼を受けることは、イスラエルにとって、戦いに不利になるように思えます。イスラエル人は身に痛みを覚えて、戦えなくなり、完全に癒えるまでには、二、三週間はかかったでしょう。しかし主は、ヨルダン川を渡った、その大成功に酔っている民を、そのまま戦いに進ませなかったのです。主はここで割礼を施して、とどまることを命じました。それには各々が神の民であることを身を持って自覚すべきことと、身に痛みを覚えることによって、自らの弱さを自覚し、勝利は自分たちの力によるのではなくて、神の全能の御力によることを悟らせるためでした。

主イエスは弟子たちに、「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)

「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:4,5)と命じておられます。

主は前進をとどめることがあります。それは人の力に頼らないためです。そしてこのとどまっている間が、重要な準備の時となるのです。

「主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。」(詩篇118:89)

「神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。主を畏れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。」(詩篇147:10,11)

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ書40:31)

割礼は、神の民としての神との契約のしるしでした。そして契約は、服従を前提としています。エジプトを出たイスラエル一世の人々は、神の民としての契約のしるしの割礼を受けていましたが、カデシュで不信仰と不服従をもって神との契約を破った時、その契約は実効を失ってしまったのです。「彼らは主の御声に聞き従わなかったので、主が私たちに与えると彼らの先祖たちに誓われた地、乳と蜜の流れる地を、主は彼らには見せないと誓われたのであった。」(6節)

主はイスラエル一世の人たちに代わって、シナイの荒野でイスラエル二世の人々を起こされました。しかし彼らはまだ神の民としての契約を明確に結んでいなかったので、そのまま神の約束の地に住むことができなかったのです。それでイスラエルニ世の人たちとの間に、新に契約を結ぶ必要があったのです。

5:7ヨシュアが割礼を行ったのは、この人々についで起されたその子どもたちであった。彼らは途中で割礼を受けていなかったので、無割礼の者であったからである。
5:8すべての民に割礼を行うことが終ったので、民は宿営のうちの自分の所にとどまって傷の直るのを待った。

 

パウロは、

「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ2:28,29)

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6)

「どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」(ピリピ3:2,3)

「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」(コロサイ2:11)

と言っています。

今も、教会員の中には水のバプテスマ(洗礼)を受けることが回心であり、神との契約を結ぶことであると思っている人がいるようですが、水のバプテスマを受けることは、回心経験をすることでも、神の民となる契約を結ぶことでもありません。水のバプテスマはすでに主イエスの十字架の贖(あがな)いを信じて回心しており、神との契約を結んでいる人が、神と会衆の前で、それを公に表わし、あかしすることを意味しています。すなわち、水のバプテスマを受ける前に、回心し、神との契約を結んでいなければならないのです。しかしもし、回心する前に、神との信仰による契約を結ぶことなしに、水のバプテスマを受けてしまっている人は、遅くはありません。今、ここで、イエス・キリストがあなたの罪のために身代わりとなって十字架にかかり、死の代価をもってあなたを罪の支配と滅びの中から買い戻してくださったことを、約束のみことばによって信じてください。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(ペテロの手紙第一 2:24)

この約束のみことばを信じて、主と救いの契約を結んでください。

この割礼を受けるという出来事は、ヨシュアにとって第一義的には、神のご命令に対して忠実であることを意味していましたが、第一義的には、これからのカナンの地での戦いの軍事的な意味で、良い結果を得ることになったでしょう。

割礼の傷が治るまで動けないという危険はありました(その間に敵の攻撃を受けるという危険。しかしその頃、敵は勇気を失い、心がしなえていましたので、その心配はありませんでしたが)。しかしそのことを除けば、割礼を受けることは、イスラエル人にとってますます神の民としての自覚が強くなり、戦いのための一致の精神が高まってくるのに効果があったでしょう。他方、周囲の敵に対しても、イスラエルがあの洪水のヨルダン川を、足もぬらさず渡らせた神の民であることを、より一層鮮明に印象づけたでしょう。

こうして割礼を受けることは、イスラエルの男性に傷をつけ、一瞬時であるとはいえ、全軍を戦いを前にして敵の前に、「全く無力にしてしまうのです。ヨシュアはこのことを知っていたと思います。しかしそれを敢えてしたことは、神への全き明け渡しと全き信頼を表わしています。その結果、イスラエルの全軍は、神の力を帯びた神の軍隊となったのです。このことがその後のカナンでの連戦連勝につながっていくのです。

9節、ヨシュアはここで、敵を恐れて、割礼を受けるようにという主のご命令を拒むなら、再びエジプトのそしりと屈辱を受けることもあり得ることを知っていました。

5:9その時、主はヨシュアに言われた、「きょう、わたしはエジプトのはずかしめを、あなたがたからころがし去った」。それでその所の名は、今日までギルガルと呼ばれている。

しかし主に従った時、このギルガルで割礼を受けることによって、長い間、引きずって来たエジプト人のそしりを完全に取り除かれたことをヨシュアは喜んだのです。不信仰と不服従と反逆の日々は、自分の好き放題のことが出来るように思えても、それはほんの一時で、そのほとんどの日々は悲しみと落胆の生活になってしまいます。しかし「自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行な」います(ダニエル書11:32)。「神の国とその義とをまず第一に求め」る人は(マタイ6:33)、永遠に価値あるものを見失うことはありません。

主はここでは、割礼を受けることによって、そのまま前進することをとどめられました。主は私たちが一所懸命に主のために働いている時、何らかの方法を用いて、そのまま前進することをとどめられることがあります。そのことは私たちに大きなショックを与えます。しかしそれは人の力に頼らないためです。これが次の大きな前進と成長のための重要な準備の時となるのです。そして神のご命令に従った時、過去の絆から解放され、全く新しくされるのです。これがギルガル(転がす)です。これは過去の一切の罪を取り去ってくださるヒナ型です。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント第ニ 5:17)

10~12節、過越の祭

5:10イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕暮、エリコの平野で過越の祭を行った。 

ここでの過越の祭の記録は三番目の記録です。第一番目は、出エジプト記12章3節以下で、この時はエジプトでの最後の日で、エジプト脱出の日の出来事でした。これは最初の過越の祭です。第二番目は、民数記9章で、エジプトを出てから第二年目の第一月に行なわれています。

イスラエルの贖(あがな)いの歴史は、エジプトの奴隷状態において、贖(あがな)いの頂上的出来事、すなわち、子羊がほふられるという(エジプト人にとっては、長子の死)ことから始まりました。

私たちにとっては、贖(あがな)いは、イエス・キリストの十字架の死という、贖(あがな)いの大いなる出来事から始まっています。贖(あがな)いは、地上から段々、積み上げて出来上がったものではなく、神の恵みの頂上から与えられたものであることを自覚しなければなりません。

次に、紅海を渡った転機的出来事は、エジプトの奴隷の状態から訣別することでした。これは私たちに当てはめて言うなら、罪の奴隷から離れた、悔い改めの実を結ぶ生活を意味しています。

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 ・・・ 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」(ローマ6:6,17,18)

第ニの転機となった出来事は、ヘルモン山の雪解け水で洪水状態になっていたヨルダン川を渡ったことです。これは四十年間の荒野の放浪生活に訣別したことです。

これは私たちにとっては、救われた後、再び、自分中心の性質が残っていて、信仰が確立しないで、迷い出してしまっている生活から訣別して、聖潔の生活へと入ることを意味しています。

「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」(ローマ6:22)

これらのどの出来事も、確かに生ける神である主が彼らとともにおられることを証明しており、神の民の間では、だれ一人、このことを疑う者はいなかったのです。信仰者にとって大事なことは、毎日、信仰を活用し、主に従うことによって、生ける主が自分とともにいてくださることを自覚していることです。これによってのみ、疑うことのできない信仰の確信を持ち続けることができるのです。

そして、ここでカナンでの戦いが始まる前に、過越の祭を行なったことは、最も意義深かったと言えるでしょう。もう一度、恵みの頂上に立ち帰って、信仰を更新することは、戦いの前に最もふさわしい準備であったと言えるでしょう。

「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」(イザヤ51:1)

受けた恵みを忘れて、反抗したり、争いを起こしたりする人は、わざわいな人です。決して勝利も、祝福も受けることはできません。どんな理由を立てても、「恵みは恵みとして受けて」と言って、反抗や争いを起こす人に、さらなる恵みが加わることはありません。必ずや、その反抗の刈り取りをさせられる時が来ます。それは現実にやってくるのです。そのことを知っていたダビデは、自分を殺そうと追跡していたサウル王に対して、機会が何度かあったにもかかわらず、彼は自ら刃を向けることはしなかったのです。彼は神が油注がれた者に反抗することの危険を知っていたからです。ダビデ自身、油注がれた人でしたが、やはりダビデに刃向かった息子のアブシャロムも滅んでいます。神があわれまれるのは、砕かれた、悔いた心の人だけです(詩篇51:17)。

反抗と争いによって勝利を得ようとすること、自分の言い分を通そうとすること、自分の怒りの憂さ晴らしをすることは、自ら、わざわいを招き、自己破滅をもたらすだけです。これは必ず、やってくるのです。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖(あがな)い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」(詩篇103:2~5)

過去に受けた恵みに、深い感謝を表わし、忠実な信仰を更新することは、将来の試練や成長のために最も必要な準備です。試練の中にある人、これから困難と戦おうとしている人は、それまでに受けた主の恵みと、あわれみ深さとを思い起こしてください。びっくりするほどの力と支えを経験するでしょう。

11,12節、過越のいけにえをささげた翌日から、すなわち、カナンの地での生活が始まると同時に、食事の内容が変わりました。

5:11そして過越の祭の翌日、その地の穀物、すなわち種入れぬパンおよびいり麦を、その日に食べたが、 5:12その地の穀物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエルの人々は、もはやマナを獲なかった。その年はカナンの地の産物を食べた。

エジプト脱出の時に持ち出した食糧がなくなり始めた時(第ニの月の十五日)から、与えられ続けた天からのパン(マナ)(出エジプト記16章、民数記11:7~9、申命記8:13,16)は、カナンの地で穀物が手に入るようになると、天から降ることが止みました。

このことは、

①、神は私たちの必要にふさわしい助けを与えてくださることを示しています。人がどんなに努力しても、食糧を得ることができないシナイの荒野の状況の中にいる間は、天からマナを降らせて助けられました。しかし人が働いて食糧を手に入れることができる状況になると、マナは止みました。その間に丸一日と間を置かなかったのです。それ故、私たちが自分の力で努力して手に入れることができるものについては、祈って、ただ待っていても、神は助けを与えられないでしょう。神は人が出来ることを、代わりにはしてくださらないのです。

②、天から降ったマナは神の奇跡で、カナンで手に入れた穀物は神の奇跡ではないと思われるかも知れませんが、決してそうではありません。天からのマナも、カナンの麦も、神が神の民のために備えてくださったものです。私たちは自分の生活のすべての中に神の働きを見る必要があります。

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:6)

③、イスラエル人がカデシュで不信仰になって放浪を始めてからも、マナが与えられ続けていたのは実に神のあわれみによるものでした。しかし彼らはそのマナを食べつつ、荒野で死んでいったのです。しかし最後まで従い続けたヨシュアとカレブと、シナイの荒野で生まれたイスラエル二世の人たちは、カナンの麦を食べることができたのです。荒野で天からのマナを食べることも幸いですが、潔められて成長し、自らの信仰を働かせて収穫を得、それを食べることができることは、もっと幸いなことではないでしょうか。カナンは、乳と蜜の流れる地であったと言われています。その豊かさにあずかることは、なんと幸いなことでしょうか。主もまた、いのちを与えるだけでなく、豊かに与えると約束してくださっています。

「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)

奴隷の地エジプトを出て、天からのマナを食べていた多くの者たちが、途中、荒野で不信仰になり、滅んでしまったことは、今日の私たちへの警告ではないでしょうか。最後まで主に従い、潔められて実を結び、永遠のいのちをともに相続する者とならせていただきましょう。

「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」(ローマ8:17)

13~15節、主の軍の将の顕現

ギルガルにおける割礼の契約が更新され、過越の祭が行なわれた後、ヨシュアは戦いのために偵察しています。

「エリコの近くにいたとき」とありますが、ヨシュアはエリコの頑丈な城壁を見て、何を感じていたのでしょうか。ここに主の軍の将(受肉前のイエス・キリスト)が現われておられることは、ヨシュアの心中が暗くなっていたことを示していると思われます。ヨルダン川を渡ったものの、もうすぐ目の前に、今度はそびえ立つ巨大な城壁があったのです。これをどうやって乗り越えるか。彼は自分の知恵で考えて、「不可能」という字しか見つからなかったでしょう。

私は二十五才の救われた時から、この日本の福音宣教をずっと考えてきましたが、私の考えでは「不可能」以外の何物も見つけることができませんでした。主を見上げていないと、今だって「不可能」という字しか見つけることができなくなってしまいます。

それでもヨルダンを渡ったからにはカナンと戦わなければなりません。ですから主の軍の将が現われてくださったのです。

現われて下さったお方が、「抜き身の剣」を持っていたことは、このお方が戦いに備えておられるお方であることを示しています。しかしそれにしても、ヨシュアは不意に抜き身の剣を持ったお方に出会ったことにびっくりし、身構えたことでしょう。彼はすぐに「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」と言っていることで分かります。

5:13ヨシュアがエリコの近くにいたとき、目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身のつるぎを手に持ち、こちらに向かって立っていたので、ヨシュアはその人のところへ行って言った、「あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか」。

人間の発想はいつも、「味方か、敵か」です。しかし主は「いや、」と答えています。これは「あなたの態度次第で、味方にもなり、敵にもなる」ことを示しています。ローマ人への手紙8章31節に、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」と言っていますが、「神が私の味方」となって下さるためには、「私が神に忠実な礼拝者」となることが必要なのです。

主のしもべとなって働く者はすべて、主の顕現に出会っています。モーセは、燃える柴の中から主に呼ばれております(出エジプト記3章)。モーセもヨシュアも戦いにつく前に、主の顕現に触れて、徹底的に打ち砕かれ、へりくだって、忠実なしもべとしての態度をとって、主を礼拝しています。これこそ、主がともに働いて下さる最大の秘訣です。

13節、「目を上げて見ると」

私たちは目の前の大きな困難な課題に心が奪われてしまうと、課題のもう一段上を見ることができなくなります。これを見ることが出来るか、出来ないかが、神の人と、そうでない人の違いです。

「それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。」(マタイ17:8)

「ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。」(マルコ16:4)

「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」(ヨハネ4:35)

「そして、エリシャは祈って主に願った。『どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。』主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」(列王記第二 6:17)

「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。」(イザヤ6:1)

「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇121:1,2)

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)

どんな状況の中からでも、主を見上げて、目を離さない人は幸いです。主こそ、すべての勝利の秘訣なのです。

14節、ヨシュアは抜き身の剣を持ったお方の素姓を知ろうとしましたが、そのお答えはヨシュアが全く疑うことができない神の権威を示すものでした。

5:14彼は言った、「いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」。ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」。

そのお方は「主の軍の将」と名乗られた。これぞ、受肉前のイエス・キリスト以外のだれであろうか。神の権威を直観したヨシュアは、顔を地につけて伏し拝み、「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」と、ご命令を待ち望みました。ヨシュアは、「味方か、敵か」という態度から、しもべの態度に変えています。

15節、主の軍の将はヨシュアに、「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」と命じられました。

 5:15すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である」。ヨシュアはそのようにした。

実は、モーセも神のしもべとして召される時、同じ命令を受けています(出エジプト記3:5)。

3:5神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。

「足からくつを脱ぎなさい。」とは、何を意味しているのでしょうか。

① 徹底的に自己主張が打ち砕かれて、生涯変わることのない、へりくだったしもべとして服従することを表わす態度です。ヨシュアは14節で、「しもべに」と言っていますが、言葉だけでなく、明確に態度と行動で示すことが求められています。

② これは神を礼拝する態度です。14節でヨシュアは顔を地につけて伏し拝んでいますが、その心の態度は、まだ十分ではなかったようです。主は私たちに、ことばの賛美や祈りや礼拝式に出席するという外側の態度だけでなく、霊とまことを持って礼拝することを求めておられます(ヨハネ4:24)。

③ さらにこれは献身の態度を示しています。身も心も、全生涯を主にささげ、主のものとしてお使いいただく信仰を表わしています。

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

これらの三つのことが、神が私の味方となり、私とともに働いてくださる条件であり、秘訣なのです。主はこのことを、カナンでの戦いの前に、ヨシュアに求められたのです。

「あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」主が臨在してくださる所は、どこでも聖所となるのです。あなたが主とともに生活しているなら、あなたの職場は聖なる所となり、あなたの台所も聖なる所となり、礼拝の場所となるのです。

ヨシュア記では、キリストがヒナ型として予表されているだけでなく、主ご自身が現われてくださっているのを見ます(5:13~15)。

ここに現われてくださった主の軍の将は後に十字架にかかって私たちを贖(あがな)ってくださる、永遠のみことばである神の御子、そのお方です。もし、主のために、福音の一大事業に取り組んでいて、責任の重大さを痛感し、悩んでいる人がいるなら、その人は目を高く上げて見てください。救いを施す全能のお方が、助けるためでもなく、敵対するためでもなく、全体を支配するために来ておられることを見ることができます。

このお方は、あなたが不確かな信仰の態度のままでいることを許されません。ヨシュアの如く、足からはきものを脱ぐか、それとも主に高慢な自己主張を続けるか、どちらかを選ばなければならないのです。

ヨシュアはイスラエルの民の前に最高の指導者の立場にありましたが、彼はさらに最高の指導者としてこのお方に服従したのです。これがカナンでの連続勝利をもたらしたのです。

この地上の生活においては、潔められた後においても、信仰の戦いは毎日続くのです。カナンでの戦いはそれを意味しているでしょう。カナンに入国したから、もう安心で、何も戦いがなくなってしまうのではありません。思い違いをしないでいただきたいものです。むしろ、この世やサタンとの戦いは、ますます激しくなってくるでしょう。ですからこそ、主の軍の将が来てくださったのです。私たちが主の軍の将に全面的に従っている間は、連戦連勝が約束されているのです。ヨシュアの出来事は、この真理を示しています。

このエリコ攻略のためになされた準備は、

①敵に対しての準備・・・アモン人、カナン人に与えた影響

②イスラエルの民の準備・・・割礼と過越

③指導者の準備・・・ヨシュアに主の軍の将が現われてくださったこと

(聖句は、口語訳聖書を引用)

あとがき

私に相談を持って来られる方の中には、自分が本当に悩みにしていること、課題にしている肝心なことを何も話さないで、私から答えや助言を得ようとする人がいます。しかしそれでは何の役に立つ助言も得られないのは当然です。なぜなら、私には相談されている方のことが何も分からないからです。私が「イエス様を求めてみませんか。」と言うと、「もう一歩の勇気がないんです。」と言って、それっきりにしてしまいます。このような人は、生涯の終わりまで光を見いだすことはできないでしょう。ところで、あなたは主に祈る時、心の戸を全開にして、何でもすべてのことを申し上げているでしょうか。願い事を並べる祈りから、主に打ち明ける祈りにしてごらんなさい。主の親しさは増して来ます。

(まなべあきら 1998.12.1)


 

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