聖書の探求(190) ヨシュア記6章1~21節 信仰によってエリコを陥落

上の絵は、アメリカのthe Providence Lithograph Companyによって1901年に出版されたBible cardのイラスト「The Fall of Jericho(エリコの陥落)」 (Wikimedia Commonsより)


この章は、信仰によってエリコを陥落させた章です。エリコはカナンの全地を攻略するための関門となる地です。この地点で勝利が得られたことは、その後の戦いに重要な影響を与えました。もしここで敗北していたら、万事休すでした。しかし彼らは敗北しませんでした。神が先頭に立って戦ってくださったからです。

彼らの戦いは、ただ七人の祭司たちによって七日間エリコの城壁のまわりをめぐり、七日目には七回めぐり、七回目の終わりに軍隊は「ときの声」を上げただけでした。

神の戦い方には、人の目にはいかにも馬鹿げているように見えるものがあります。ギデオンの三百人の精兵士が、空のつぼとたいまつを持って戦ったことも同じです。しかし今日、信仰者はこれを愚かと見て侮り、真剣に信仰を持って戦わないので、福音の勝利を得られないでいるのです。愚かと見える神の戦い方よりも、自分たちの知恵で考え出した戦い方に頼るために、この世に敗北し、よみの門に打ち破られてしまっているのです。

「 1:21この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。 1:22ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。 1:23しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、 1:24召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。 1:25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。1:26兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。 1:27それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、 1:28有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。 1:29それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。 」(コリント第一 1:21~29)

アメリカの南北戦争の時、グラント将軍は、音楽隊だけでヴィクバーグを陥落させています。

エリコの兵士と市民は、自分たちの町の周囲を回っているイスラエルの行軍の光景を見て、嘲笑したでしょう。しかしその気分は長くは続きませんでした。神の民の「ときの声」とともに、彼らが頼りにし、誇っていたエリコの城壁が突然、崩壊してしまったからです。

考古学者のジョン・ガースタングたちは、エリコの遺跡を発掘して、エリコの町の崩壊の時が、およそBC1400年であり、その城壁が完全に内側に向かって崩壊したので、攻撃者(イスラエル)は破れた所をよじ登り、それを乗り越えて、エリコの町の中に侵入することができたという事実を確証しています。

そレて、ラハブとその家族だけが命を助けられて、ヘブル人の社会に加わることを許されました。ラハブは後に、ユダの部族サルモンと結婚し、ボアズの母となりました。ついでポアズがモアブ人ルツと結婚し、この家系からイエス・キリストの先祖の一人であるダビデが生まれたのです(マタイ1:5,6)。

1:5 サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、1:6 エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、

このエリコの城壁が崩壊した事件の史実性は、ヘブル人への手紙11章30,31節に記されていることによって明らかにされています。

ヘブル11:30 信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。11:31 信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。

またヨシュア記6章26節の「エリコを再建する者ののろい」については、列王記第一16章34節に、その実例が記されています。

Ⅰ列王記34 彼の代にベテルびとヒエルはエリコを建てた。彼はその基をすえる時に長子アビラムを失い、その門を立てる時に末の子セグブを失った。主がヌンの子ヨシュアによって言われた言葉のとおりである。

6章の分解

1節、エリコの町の状態
2~5節、主が与えた計画
6~21節、ヨシュアの命令、人々の実行、その結果
22~25節、ラハブとその家族の救い
26~27節、結語(警告と祝福)

1節、エリコの町の状態

6:1 さてエリコは、イスラエルの人々のゆえに、かたく閉ざして、出入りするものがなかった。

エリコの王は、城壁の門さえしっかり守るなら、イスラエルは町の中に侵入出来ないと確信して、城門を堅く閉ざす命令を出して、戒厳令の軍事行動に出ていたものと思われます。彼らは、まさか、彼らが頼りにしていた城壁そのものが崩れてしまうことなど、考えられなかったのです。

「主にとって不可能なことがありましょうか。」(創世記18:14)

「『ああ主なる神よ、あなたは大いなる力と、伸べた腕をもって天と地をお造りになったのです。あなたのできないことは、ひとつもありません。・・・「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。」(エレミヤ書32:17,27)

「主の手は短かろうか。あなたは、いま、わたしの言葉の成るかどうかを見るであろう」(民数記11:23)

「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」 (マタイ19:26)

エリコの王は、神の力を計算に入れていなかったのです。それは彼が神の力を日頃経験していなかったからです。彼はイスラエルがヨルダン川を歩いて渡って来たことも見ていたのですから、幾分か神の力を感じていたでしょう。しかし直接、自分たちの城壁が崩されるカとなるとは、つなげて考えることが出来なかったのです。これは彼が、毎日、神の力を経験していなかったからです。神の力を他人の事として見ていたり、知識として学んでいるだけでは、自分の危機に活用することはできないのです。
1節の「かたく」は、「水も漏らさないほどに」、あるいは「完全に」という意味で、城壁の門がいつもの状態以上に、厳重に閉じられていたことを示しています。

2~5節、主の与えた計画

2節、「見よ。わたしは、・・・あなたの手にわたしている。」

6:2 主はヨシュアに言われた、「見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている。

この「わたし」は、主ご自身のことで、この戦いは、主による戦いであることを示しています。イスラエルは、主がエリコを渡してくださるという確信を持って、エリコの嘲笑の叫び声の中を、行軍したのです。

3,4節、この戦いには、方法と目的(城壁が崩れること)との間には、何の関連性も見られません。イスラエルの民には、人間のどんな力も知恵も使うことを求められていません。

 6:3あなたがた、いくさびとはみな、町を巡って、町の周囲を一度回らなければならない。六日の間そのようにしなければならない。 6:4七人の祭司たちは、おのおの雄羊の角のラッパを携えて、箱に先立たなければならない。そして七日目には七度町を巡り、祭司たちはラッパを吹き鳴らさなければならない。

剣を一本も抜かず、作戦もなく、兵士が城壁に穴を開けることもなく、攻撃一つ加えたわけでもありません。彼らは、六日間、毎日一回、町の城壁のまわりを回り、行軍が終わると、陣営に帰りました。七日目は七回回り、合計十三回まわりました。それ以外のことは何もしていません。

しかし、彼らには、神から割り当てられていた仕事があった。3節の「回れ」は、一周すること、あるいは、そのまわりを通り過ぎることを意味しています。まさに、「あなたがたの足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」(ヨシュア記1:3)の一つの実現です。このように、エリコの町は神に忠実に従う人々に与えられることになっていたのです。神の約束は、神に従うことを拒む人々には、決して実現しないのです。

4,5節、イスラエルは全員、主のご命令に従おうとしていました。

6:4 七人の祭司たちは、おのおの雄羊の角のラッパを携えて、箱に先立たなければならない。そして七日目には七度町を巡り、祭司たちはラッパを吹き鳴らさなければならない。6:5 そして祭司たちが雄羊の角を長く吹き鳴らし、そのラッパの音が、あなたがたに聞える時、民はみな大声に呼ばわり、叫ばなければならない。そうすれば、町の周囲の石がきは、くずれ落ち、民はみなただちに進んで、攻め上ることができる」。

七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って行進しています。この「雄羊の角笛」は、解放を宣言する「ヨベルの角笛」です(レビ記25:8,9)。この角笛はイスラエル人にとって、特別な意味を持っていました。

七日目には、七回まわって、祭司たちの吹く角笛の音を聞く時、民はみな、大声でときの声をあげるのです。その時までは、民はどんなあざけりを受けようと、黙っていなければならないのです(10節)。

6:10 しかし、ヨシュアは民に命じて言った、「あなたがたは呼ばわってはならない。あなたがたの声を聞えさせてはならない。また口から言葉を出してはならない。ただ、わたしが呼ばわれと命じる日に、あなたがたは呼ばわらなければならない」。

これは信仰の訓練でした。
「信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。」(ヘブル11:30)

信仰は、神の指導に従うところに実現するのです。彼らは、神を信じました。民は、この方法(ただ、エリコの城壁の回りを回るだけ)が、目的をかなえるには足りないことを十分知っていました。しかし神がお語りになり、神がお命じになられました。彼らはそれらを聞きました。それで十分だったのです。信仰が何事かをなしたのではありません。信仰が何事かをさせたのでもありません。ただ神が約束されたことがあり、信仰はその約束を土台として働いたのです。神が約束され、導かれる時、信仰は何事かをすることができます。その時、信仰は山をも海に移すのです。

「「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。」(マルコ11:22,23)

6~21節、ヨシュアの命令、人々の実行、その結果

この行軍は、朝早く行なわれています(12節)。

6:12翌朝ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱をかき、 6:13七人の祭司たちは、雄羊の角のラッパ七本を携えて、主の箱に先立ち、絶えず、ラッパを吹き鳴らして進み、武装した者はこれに先立って行き、しんがりは主の箱に従った。ラッパは絶え間なく鳴り響いた。 6:14その次の日にも、町の周囲を一度巡って宿営に帰った。六日の間そのようにした。

七日目は七回まわるので、「夜明けに、早く起き」回り始めています。

6:15七日目には、夜明けに、早く起き、同じようにして、町を七度めぐった。町を七度めぐったのはこの日だけであった。 6:16七度目に、祭司たちがラッパを吹いた時、ヨシュアは民に言った、「呼ばわりなさい。主はこの町をあなたがたに賜わった。

行軍は、先頭に武装した者たち、次に七人の角笛を吹く祭司たち、次に主の契約の箱、そしてしんがりに無言の民が続いていました。

これらのことすべては、偶像礼拝者のエリコの人々には愚かに見えたでしょう。しかし神を信じ、真剣に従っていたイスラエル人は、なぜ、このような形態をとらなければならないのかは分からなかったでしょうが、彼らはだれに従っているのか、そしてその目的は何なのか、を知っていました。そして神の方法は必ず勝利を得ると確信して実行していたのです。

もし半信半疑で、疑いつつ従っていたら、城壁は崩れず、物笑いとなり、エリコの襲撃を受けて滅んでいたことでしょう。今日の私たちも、だれの命令によって、だれのために、何のためにしているのかをよく知り、勝利を確信してするのでなければならないことを、真剣に受けとめる必要があります。

そして、ラハブとその家族の救出が命じられ、聖絶のものに手を出さないように命じられ、銀、金、青銅、鉄の器は、主の宝物倉に納めるように命じられています。

6:17この町と、その中のすべてのものは、主への奉納物として滅ぼされなければならない。ただし遊女ラハブと、その家に共におる者はみな生かしておかなければならない。われわれが送った使者たちをかくまったからである。 6:18また、あなたがたは、奉納物に手を触れてはならない。奉納に当り、その奉納物をみずから取って、イスラエルの宿営を、滅ぼさるべきものとし、それを悩ますことのないためである。 6:19ただし、銀と金、青銅と鉄の器は、みな主に聖なる物であるから、主の倉に携え入れなければならない」。

命じられていたことは、そう多くはありませんでした。そのうち、民が困難を覚えたのは、七日聞、エリコの住民の嘲笑の声を聞きつつ、黙って行進を続けることではなかったでしょうか。

6:10しかし、ヨシュアは民に命じて言った、「あなたがたは呼ばわってはならない。あなたがたの声を聞えさせてはならない。また口から言葉を出してはならない。ただ、わたしが呼ばわれと命じる日に、あなたがたは呼ばわらなければならない」。 6:11こうして主の箱を持って、町を巡らせ、その周囲を一度回らせた。人々は宿営に帰り、夜を宿営で過ごした。

「主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。」(哀歌3:26~28)

勝利は突然やって来た。それは忍耐深い信仰の服従の後にやって来た。「みな大声をあげて呼ばわったので、石がきはくずれ落ちた。」(20節)

 6:20そこで民は呼ばわり、祭司たちはラッパを吹き鳴らした。民はラッパの音を聞くと同時に、みな大声をあげて呼ばわったので、石がきはくずれ落ちた。そこで民はみな、すぐに上って町にはいり、町を攻め取った。 

そしてイスラエルはエリコの町に上って行き、エリコの男も女も、若い者も年寄りも、牛も、羊も、ろばも、すべて剣の刃で聖絶した。

21 そして町にあるものは、男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも、ことごとくつるぎにかけて滅ぼした。

この奇跡は、イスラエルの民の神への信頼と熱情を非常に強めました。彼らは、神のご命令を成し遂げるために、不可能に見えた困難と障害に遭遇しました。しかし、ときの声によって、目の前の巨大なエリコの城壁が内側に崩れていくのを見たのです。彼らは、この戦いの先頭に立って、お進みになる神の力を意識しないではいられなかったのです。この出来事がどんなにイスラエル人の心を勇気づけ、主への信頼心で満たし、また感謝させたことでしょうか。

44:1神よ、いにしえ、われらの先祖たちの日に、あなたがなされたみわざを彼らがわれらに語ったのを耳で聞きました。44:2すなわちあなたはみ手をもって、もろもろの国民を追い払ってわれらの先祖たちを植え、またもろもろの民を悩まして、われらの先祖たちをふえ広がらせられました。44:3彼らは自分のつるぎによって国を獲たのでなく、また自分の腕によって勝利を得たのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたのみ顔の光によるのでした。
あなたが彼らを恵まれたからです。」(詩篇44:1~3)

この出来事は、すべてのカナン人の心を震えあがらせるのに十分でした。偶像礼拝者の心は戦慄して消えるばかりになっていたのです。
エリコの町がとった最大の間違った処置は、城門を堅く閉ざしたことでした。もし城門を開いて、無条件降伏をしていたら、このような惨事には至らなかったでしょう。ヨシュアも主の御前にクツを脱いで、無条件降伏をしていたのです。私たちにとってもまた同じです。自己中心の自我を突っ張っていないで、全く明け渡し、無条件降伏をし、主に全く信頼して従うようになる時、主が私たちの内を全く占領してご支配くださることを喜ぶ時、恵みと祝福は与えられるのです。

「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。」(詩篇34:18)

「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(詩篇51:17)

エリコの人々は、イスラエルの民に示された神のご真実さを話に聞き、また目の当りに見ていたはずです。紅海を歩いて渡ったことや、荒野での勝利、つい先程は満水のヨルダン川が二つに分けられ、歩いて渡ったことも知っていたのです。神は契約を忠実に守られる神であることを知っていたはずです。その神に対して、自分たちの門戸を堅く閉じてしまったことは、大変な間違いをしてしまったのです。エリコのすべての住民は契約を守られる神について聞かされ、目の前に見て知っていたのです。しかしこの知っていた神に対して、心を開いて受け入れたのは、ラハブとその家族だけだったのです。

今日、教会員のすべての人は、この神について聞き、知っていることでしょう。しかし心を開いて主を受け入れているでしょうか。それとも心を頑なにして、堅く閉じている人はいないでしょうか。教会の姿勢は、主に対して開け放たれ、主を受け入れ、主に満ちて頂き、主に自由に用いられているでしょうか。主に対して心を堅く閉ざすことは、最大の間違った態度をとっていることなのです。

主の契約の箱の後には、大勢のイスラエルの人々が従っていました。彼らは信仰者であるとともに、神のみわざをあかしする証人たちです。聖書は彼らは「しんがり」と訳していますが、これは「集団」とか、「軍勢」という読み方もあり、「後衛」という意味もあります。これらの人々は、荒野での多くの試練を乗り越えて来た人々で、神の恵みを受けて来た人々です。神の恵みを受けるに値しない人々に、豊かなあわれみを、その生涯の間、ずっと与えて来られたのです。

エリコの住民たちは、このあわれみ深い、生ける神について聞き、また見てきて、この神に対して全面降伏をして受け入れるように警告を受けていたのです。彼らは大勢の生きた証人たちを見ていたのです。神は長い忍耐をもって警告を与え続けていたのです。そして七日目についに、あわれみと恵みを施すための警告の期間は終わったのです。あわれみと恵みは取り去られ、強烈な審判が下されました。心を頑なにして城門を堅く閉ざしている偶像礼拝者に対して、罪の報いが下ったのです。

18節の「聖絶の」という語は、ヘブル語の「チェレム」を訳したもので、その意味は、「破壊のために分ける」とか、「禁止令のもとに置く」です。

6:18また、あなたがたは、奉納物に手を触れてはならない。奉納に当り、その奉納物をみずから取って、イスラエルの宿営を、滅ぼさるべきものとし、それを悩ますことのないためである。 6:19ただし、銀と金、青銅と鉄の器は、みな主に聖なる物であるから、主の倉に携え入れなければならない」。

これは宗教的意味を持っており、略奪や強奪のことではありません。これは神の刑罰によって、生きている者は殺され、燃えるものは燃やされ、貴金属は主の幕屋の宝物倉に運び込むことを意味していました。

21節の容赦のない大虐殺は、あまりにも冷酷ではないか、という問題が生じると思います。

 6:21そして町にあるものは、男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも、ことごとくつるぎにかけて滅ぼした。

これまでにも、エジプトでは人の子も、獣の子も、長子が滅ぼされたり、紅海では悔い改めないパロの軍隊の追跡者らが全員、絶滅しています。なぜ神はこのような大惨事を命じられたのかという疑問が残るかも知れません。これは、神が残虐であったというは、滅ぼされた人間のほうが、神が許容出来ないほど残虐であったということができるでしょう。神はご自分の世界のはなはだしい悪を見過ごしにすることができるでしょうか。悪に満ちた人々が、神が創造された地に住み、「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。」(詩篇24:1)と言われた主が、極まりない悪を放置して置くことができるでしょうか。

パウロは、「この世と妥協してはならない。」(ローマ12:2)と言いましたが、悪と妥協に妥協を重ねていくと、人間の生活と宗教は果しなく堕落し、破壊されていきます。罪悪は、妥協によって一度、受け入れてしまうと、その伝染力は強く、人類を絶望的状態にまで陥れてしまうのです。ですから、神は避けられない限界までくると、罰しないではおられないのです。すべての被造物の創造者であられる神のご目的を妨げるものは、人であっても、天使であっても、神の世界で存在する権利が与えられていないのです。
しかし、神は大審判を下す前に、証人を通して、預言者を遣わして、忍耐強く、警告や説得や約束を宣言されたのです。神はしきりに和解するように求めておられます。このことを私たちは痛切に自覚する必要があります。

「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」(ヨハネ3:18)

「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」(ヨハネ3:36)

神は、イエス・キリストの十字架の身代わりの死を信じることによって、人の内に霊的聖さを与えられます。これについて自覚するようになる時、私たちはこの世の悪の影響と感化を受けることを恐れ、避けて生きるようになります。そして、この内的聖さを価値高いものと思うようになるのです。このことが人々の心の中に起きない限り、世の中は決して改善されていくことはありません。逆に、イエス・キリストを信じることを止め、教会から離れることによって、罪と咎(とが)に対する警戒心を失うことが、何でも自分の好き勝手なことができる自由を得たと思うことは、大きな間違いを犯しているのです。こういう人は自ら、神の怒りの下に自分を置いているのです。

あとがき

西暦二千年。世の中はコンピューター問題で騒いでいますが、私たちにとっては、ますます、イエス様の再臨を意識させる年です。

昨年末、私の兄が、私たちの幼い頃の生活ぶりを書いた本を送ってきました。私はその本を、泣いたり、吹き出したりしながら読み終え、またたく間に五〇年タイムスリップして、あの日あの頃がよみがえりました。

そして、今日の日まで主がくすしくもお導き下さったことに深く感謝しました。決して楽しいことが多くあったこれまでの人生ではありませんが、五〇年経つと、全部笑えるようになることも知りました。教会の人々も、この本を読んで「おもしろい、おもしろい」と言ってくれました。「私の何かが変わった」とも言ってくれました。今年も、恵み豊かに。

(まなべあきら 2000.1.1)
(聖書箇所は口語訳聖書を引用。)


下の写真は、古代エリコがあったと言われる遺跡「テル・アッスルターン」(2013年訪問)。この遺跡に関しては、次の記事を参照ください。

参照「たけさんのイスラエル紀行 Jericho(エリコ)」


【月刊「聖書の探求」の定期購読のおすすめ】
創刊は1984年4月1日。2022年11月現在、通巻465号 エステル記、まだまだ続きます。

お申し込みは、ご購読開始希望の号数と部数を明記の上、振替、現金書留などで、地の塩港南キリスト教会文書伝道部「聖書の探求」係にご入金ください。
一年間購読料一部 1,560円(送料共)
単月 一部 50円 送料84円
バックナンバーもあります。
(複数の送料) 3部まで94円、7部まで210円.多数の時はお問い合わせ下さい。
郵便振替00250-1-14559
「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」


発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
〒233-0012 横浜市港南区上永谷5-22-2
電話FAX共用 045(844)8421