聖書の探求(191) ヨシュア記6章22~27節 ラハブとその家族の救い、結語(警告と祝福)
上の絵は、オランダのElias van Nijmegen (1667-1755) により1731年頃に描かれた「Verspieders ontsnappen uit Jericho(エリコからの二人の斥候の脱出)」(オランダのロッテルダム美術館蔵、Wikimedia Commonsより)
22~25節、ラハブとその家族の救い
6:22その時ヨシュアは、この地を探ったふたりの人に言った、「あの遊女の家にはいって、その女と彼女に属するすべてのものを連れ出し、彼女に誓ったようにしなさい」。
神はご自分の約束のみことばを信じる者を決して忘れてはおられません。エリコの城壁が崩壊し、大混乱の真只中でも、ラハブとその家族を約束通り救出させています。決して間違うことのないように、先にエリコを偵察した二人の斥候を救出のために派遣しています。ここには、主が約束のみことばに従って行動しておられることが、はっきりと実証されています。今日、クリスチャンたちは神のみことばに対して、もっと忠実に従うことが必要なのではないでしょうか。
この異邦人の不道徳な遊女ラハブは、エリコの中で、ただ一人、神の警告に心を留め、積極的に神を信じて受け入れ、家族を救いに導き、さらには救い主イエス・キリストの先祖に加えられる栄誉を受けたのです。ここに、神のみことばを信じる信仰が、いかに大いなる栄誉ある報いをもたらすかを、示しています。
ラハブとその家族は、しばらくの間、イスラエルの宿営の外にとどめて置かれています。(23節)
6:23斥候となったその若い人たちははいって、ラハブとその父母、兄弟、そのほか彼女に属するすべてのものを連れ出し、その親族をみな連れ出して、イスラエルの宿営の外に置いた。
まわりは混乱状態にあるので、そのスキに彼女たちは、他のカナン人の所へでも、どこへでも逃げるに十分な時間と機会はありました。だれも彼女たちがイスラエルの中に同化するように勧めていません。強制されてもいません。
しかし25節を見ると、ラハブはイスラエルの中に住んでいます。これは彼女が自ら選んだ道です。信仰は常に自発的で、積極的でなければなりません。
6:25しかし、遊女ラハブとその父の家の一族と彼女に属するすべてのものとは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブは今日までイスラエルのうちに住んでいる。これはヨシュアがエリコを探らせるためにつかわした使者たちをかくまったためである。
「今日まで」という記述は、このヨシュア記が書かれた時、ラハブは生きており、ヨシュア記の記者は、彼女にまつわる出来事を直接ラハブから聞き取ることも可能だったことを示しています。それ故、ヨシュア記が書かれたのは、そんなに後代のことではなくラハブが生きている時代であったことを証明しています。
マタイの福音書1章5節を見ると、ラハブはサルモンと結婚し、神を畏れた信仰の家庭を建て上げ、やがてルツの夫となるボアズを生んでいます。
1:5サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、
ボアズのすぐれた信仰の性質からしても、ラハブとサルモンの夫婦は、良き信仰者であったことが推測できます。ある人は、ラハブの夫となったサルモンは二人の斥候のうちの一人だったかも知れないと言っていますが、そうであったかも知れないし、そうでなかったかも知れません。何の根拠もない、好意的な推測でしかありません。異教の人で、遊女であったラハブは、信仰によって、自分と家族を救いに導き、滅亡と古い生活の道から解放され、新しい神の家族としての共同生活体に加わったのです。
24節、エリコのすべてのものは、聖絶されました。そして銀、金、青銅、鉄器の貴金属類は、主の宮の宝物倉に納められました。
6:24そして火で町とその中のすべてのものを焼いた。ただ、銀と金、青銅と鉄の器は、主の家の倉に納めた。
これらの分捕り品は、征服したから主のものであるというよりも、主が創造したものであり、それが悪用、誤用されていたのを、今やもう一度、正しく主のために使われる状態に戻されたのです。こうして異教に汚染されていたエリコは全く主のもとに返されたのです。
26,27節、結語(警告と祝福)
6:26ヨシュアは、その時、人々に誓いを立てて言った、「おおよそ立って、このエリコの町を再建する人は、主の前にのろわれるであろう。その礎をすえる人は長子を失い、その門を建てる人は末の子を失うであろう」。
邪悪の町は再建されてはならなかったのです。26節の「誓いを立てて言った」は、違反するなら、のろいの刑罰を負わせるという条件で命じることです。
「その礎をすえる人は長子を失い、その門を建てる人は末の子を失うであろう」
これは、すでに取り除かれた偶像や異教的思想や価値観などを、もう一度、取り入れる者は、子孫に大きなわざわいをもたらすことを言っているのです。しかし信仰を子孫に継承する者は、どんなに幸いでしょうか。
「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」(出エジプト記20:5,6)
この警告は、列王記第一16章34節によれば、偶像礼拝が支配的だったアハブの支配する時代に、ベテル人ヒエルがエリコを再建した時に、実現した。
列王記上16:34彼の代にベテルびとヒエルはエリコを建てた。彼はその基をすえる時に長子アビラムを失い、その門を立てる時に末の子セグブを失った。主がヌンの子ヨシュアによって言われた言葉のとおりである。
ヒエルがその礎を据える時、長子アビラムを失い、門を建てる時、末の子セグブを失っています。聖書は、「主がヌンの子ヨシュアによって言われた言葉のとおりである。」と言っています。神のことばは、古くなっていても、決して無効になっていないことを示しています。
ちなみに、旧約のエリコと新約のエリコとは、場所が異なっています。おそらく、この警告を知っていたイスラエル人は滅亡したエリコではなく、別の場所で新しいエリコの町を建築したのだと思われます。
27節、「主はヨシュアと共におられ、ヨシュアの名声は、あまねくその地に広がった。」
これと同様のことは、ヨセフの生涯にも、モーセの生涯にも、ダニエルの生涯にも、イエス様の弟子たちの生涯にも、起こりました。
神にすべてをささげ、主とともに歩む、神中心の生活は、人々の前に穏されていることができないのです。神がその人を用いて、大いなるみわざを行なわれるからです。この世界は、神に全く明け渡した生涯を生きる人が現われる時、神の光を見るようになるのです。モーセも、ヨシュアも、神と出会い、神の御前に足の靴を脱ぎ、全面降伏して、全く神のしもべとなり、ただ神のご計画を成し遂げることだけに専念し、神の栄光だけを求め、人の誉れや評価を求めず、神の力によって神のみことばに従っていったのです。
「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14~16)
「光を人々の前に輝かし」というと、「何か良いことをしなければ」と、力む人がいますが、そうではありません。ヨシュアの如く先ず、主の前で、足のクツを脱ぐ、全面降伏をし、主のしもべとなり、主に全く明け渡した生活をし、主の栄光だけを求め、主のご計画に専念する人、人のほまれや、人の評価を求めず、神の力によって、みことばを行なう人となることです。神はその人とともにおられ、大いなるみわざを行なってくださるのです。
「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)
(カナン民族の絶滅、申命記7:1~6、ヨシュア記6:17~21)
申命記7:1あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを導き入れ、多くの国々の民、ヘテびと、ギルガシびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、すなわちあなたよりも数多く、また力のある七つの民を、あなたの前から追いはらわれる時、 7:2すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らとなんの契約をもしてはならない。彼らに何のあわれみをも示してはならない。 7:3また彼らと婚姻をしてはならない。あなたの娘を彼のむすこに与えてはならない。かれの娘をあなたのむすこにめとってはならない。 7:4それは彼らがあなたのむすこを惑わしてわたしに従わせず、ほかの神々に仕えさせ、そのため主はあなたがたにむかって怒りを発し、すみやかにあなたがたを滅ぼされることとなるからである。 7:5むしろ、あなたがたはこのように彼らに行わなければならない。すなわち彼らの祭壇をこぼち、その石の柱を撃ち砕き、そのアシラ像を切り倒し、その刻んだ像を火で焼かなければならない。7:6あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。
これには、神の公義と神聖が働いており、神がこの命令を下された理由は、
1、パレスチナは、神の恩寵と賜物によってイスラエルのものとなっていた(創世記12:7、13:15、26:3,4など)。
創世記12:7時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
それ故、イスラエルは自分たちの領地を征服しつつあったのです。カナンの民を追放する権利は、この世界を支配し、その主権的意志に従って処分される神の権利によっています。
2、カナンの民に対する執行猶予(創世記15:16)
創世記15:16四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。アモリびとの悪がまだ満ちないからです」。
神は少なくとも、四百年間、彼らの処刑を忍耐されていました。カナン人にはその間、その行動を改め、神に帰るべき機会が与えられていまレた。それなのに、彼らは盲目的に、これを拒絶し、その悪行を続け、ますます罪悪にふけったのです。そしてついに、神の審判が彼らの上に下り、戦慄すべき厳粛な時が来てしまったのです。
3、カナン人の道徳的性格(レビ記18:21~25、27~30、20:1~27、申命記12:29~32)
レビ記18:21あなたの子どもをモレクにささげてはならない。またあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。 18:22あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。 18:23あなたは獣と交わり、これによって身を汚してはならない。また女も獣の前に立って、これと交わってはならない。これは道にはずれたことである。18:24あなたがたはこれらのもろもろの事によって身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い払う国々の人は、これらのもろもろの事によって汚れ、 18:25その地もまた汚れている。ゆえに、わたしはその悪のためにこれを罰し、その地もまたその住民を吐き出すのである。
聖書の中では、カナン人については、最悪の名称で呼ばれています。彼らの凶悪さは、途方もないものでした。世界史も、カナン人(フェニキヤ人、パレスチナの原種族の一部をなしている民族として)を同様の性格として記しています。
彼らは全く偶像礼拝に落ち込んでいました。不道徳な行為の上に、人身御供、淫蕩な酒宴、悪魔礼拝、極悪非道な残虐、最も冒涜的な犯罪が、彼らの宗教の一部をなしていました。
問題は、イスラエルが彼らを皆殺しにして、その聖潔を保つか、あるいは、イスラエルがカナン人の中に混入して行って、神の知識と真理が失われてしまうか、どちらかでした。この両種族がそのまま共存することは有り得なかったのです。
神は、その罪のために、時が来ると、どの国民でも罰しなさいます。イスラエル人も神から離れ、メシヤである主を拒絶したために、この同じパレスチナの国土から追放されてしまったのです。
(信仰の戦い)
新約聖書において、ヨシュア記に対比するものは、エペソ人への手紙です。エペソ人への手紙は、キリストにある信仰者に与えられている産業(約束の地)を示しています。それが良き地です。主は、ご自身に信頼するすべての人を、恵みによって、「天の所」に座らせてくださったのです。
「キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。」(エペソ2:6)
エペソ人への手紙では、クリスチャンに欠いてはならない神の武具について記しており、この戦いは最も激しい戦いです。
「6:12わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペソ6:12)
イスラエルの敵は、私たちの敵のヒナ型です。
エジプトは、この世の型であり、荒野のアマレク人は、肉、すなわち、自己中心の自我のヒナ型です。アマレク人は、一杯のスープのために長子の権利を売ったエサウの子孫の一部で、イスラエルの親族です(創世記36:12)。
創世記36:12テムナはエサウの子エリパズのそばめで、アマレクをエリパズに産んだ。これらはエサウの妻アダの子らである。
しかしカナン人は、私たちの恐るべき敵の型です。当時の歴史や聖書の記録を見ても、カナン七族は罪悪に満ちた民族でした。彼らは、非常に文明に進み、一般の技術にもすぐれており、あらゆる方面にわたって、洗練した知識を持っていたのですが、それにも関わらず、腐敗していたのです。神は、彼らをことごとく滅ぼし尽くすように命じられました(申命記20:16~18)。
申命記20:16ただし、あなたの神、主が嗣業として与えられるこれらの民の町々では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。 20:17すなわちヘテびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとはみな滅ぼして、あなたの神、主が命じられたとおりにしなければならない。 20:18これは彼らがその神々を拝んでおこなったすべての憎むべき事を、あなたがたに教えて、それを行わせ、あなたがたの神、主に罪を犯させることのないためである。
これらの民族に対する記事によって、私たちはすぺての民に対する神の処置される方法を知ることができます。
神はまず、悔い改める時を十分に与え、
「四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。アモリびとの悪がまだ満ちないからです」(創世記15:16)
その後に、審判を行なわれます。
同時に神は、ご自身の民のために、信仰的、道徳的安定をはかられます。神は、悔い改めようとしない罪深い人々を罰するために、どんな方法でも、みこころのままに選ぶ権利を持っておられます。これに対して、人間が口をはさむことを、お許しにならないのです。
(悪魔の策略)
イスラエル人とカナン人との戦いは、クリスチャンと悪魔との戦いの型です。
「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペソ6:11,12)
聖霊の力を最も深く知っている人は、悪魔との格闘を多く経験している人です。
「悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、」(ヨハネの黙示録12:12)
「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。」(ペテロ第一、5:8,9)
今や悪魔は全力をあげて働いています。それ故、悪魔に勝つことのできる人は、ヨハネの黙示録12章11節の三つの秘訣を会得した人だけです。
黙示録12:11兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。
すなわち、
1、小羊の血(キリストの血による救いと潔め)
2、自分たちのあかしのことば(キリストをあかしする生活)
3、死に至るまでもいのちを惜しまないこと(全き献身による忠実な服従)
によって、悪魔に打ち勝つのです。
悪魔のなす策略には、十分注意しなければなりません。
悪魔は、ほえたける獅子のように私たちに襲いかかってくるだけでなく、蛇のように校滑であり(創世記3:1)、
創世記3:1さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」
光の御使いの姿のように、身を装ってくることもあるのです(コリント第二11:14)。
コリント第二11:14しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。
彼は人々の目をくらまし、人々が悪魔の力であることを悟らないように、自分の姿(人格)を否定することもあるのです。たとえば、異端などです。サタンは主義や制度、政府や権力や金力に姿をくらましてやって来ることもありますから、注意しなければなりません。
(信仰の勝利)
1、勝利のための条件
①神の約束(みことば)
②隊列の編成(全員の信仰の一致と動員)
③信仰の服従(日常生活での信仰の活用)
④主の契約の箱の同行(神の臨在の同行)
⑤角笛の音と黙って歩くこと(忍耐と福音宣教)
⑥ときの声(信仰のあかし、賛美)
⑦ラハブの家族の救い(わずかの人でも明確な回心者が起きること)
⑧廉潔であること(分捕り品を主の宝物倉に納めたこと・・・自分中心の欲が取り除かれていること、アカンの罪による敗北)
2、パウロは、「わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。」(コリント第二10:4)と言っています。
聖霊によって生きている人は、自分の知恵による肉の武器で戦うことを止めて、御霊の剣である神のみことばを用い、信仰の盾を持って、悪魔の火矢を消すことを身につけています(エペソ6:16,17)。
エペソ6:16その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。 6:17また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。
聖徒は、ひざまずいて祈っている間に勝利を得、それから静かに立ち上がって、主の救いを見るのです。
「あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい。」(歴代誌第二20:17)
ヨシュア記は、使徒の働きと対照して学ぶこともできます。使徒の働きでは、軍の将であるキリストが、聖霊によって、ご自身の教会を勝利に導き、また堅固な異邦人の城壁も福音宣教と祈りの力によって、陥落していくのを見ることができるのです。
3、ラハブとその家族の救いのしるしは、「赤いひも」でした。
ラハブは先に、偵察員を吊り降ろした窓に、その赤いひもを結びつけて、しるしとしました(ヨシュア記2:18,21、6:22~25、ヘブル11:31)。
ヨシュア2:18われわれがこの地に討ち入る時、わたしたちをつりおろした窓に、この赤い糸のひもを結びつけ、またあなたの父母、兄弟、およびあなたの父の家族をみなあなたの家に集めなさい。 2:21ラハブは言った、「あなたがたの仰せのとおりにいたしましょう」。こうして彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は赤いひもを窓に結んだ。
これは、出エジプトの時、過越の夜に、門の柱と鴨居に小羊の血を塗ったのと同じ意味です。キリストの血による贖(あがな)いの赤いひもは、 創世記からヨハネの黙示録まで、一貫して通っているのです。
(まなべあきら 2000.1.1)
(口語訳聖書を引用)
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