聖書の探求(192,193) ヨシュア記7章 アカンの罪とアイにおける敗北
この章は、アカンの罪とアイにおける敗北を記しています。
上の絵は、フランスの画家 Paul Gustave Doré (1832-1883) により1866年頃に描かれた聖書の挿絵「Achan Is Stoned to Death(アカンは石投げにより殺される)」(Wikimedia Commonsより)
7章の分解
1~5節、主の怒りとイスラエルの敗北
6~9節、ヨシュアの訴え
10~15節、主の答え
16~21節、アカンの罪の発覚
22~26節、罪に対する審判
1~5節、主の怒りとイスラエルの敗北
7:1しかし、イスラエルの人々は奉納物について罪を犯した。すなわちユダの部族のうちの、ゼラの子ザブデの子であるカルミの子アカンが奉納物を取ったのである。それで主はイスラエルの人々にむかって怒りを発せられた。
7:2ヨシュアはエリコから人々をつかわし、ベテルの東、ベテアベンの近くにあるアイに行かせようとして、その人々に言った、「上って行って、かの地を探ってきなさい」。人々は上って行って、アイを探ったが、 7:3ヨシュアのもとに帰ってきて言った、「民をことごとく行かせるには及びません。ただ二、三千人を上らせて、アイを撃たせなさい。彼らは少ないのですから、民をことごとくあそこへやってほねおりをさせるには及びません」。 7:4そこで民のうち、おおよそ三千人がそこに上ったが、ついにアイの人々の前から逃げ出した。 7:5アイの人々は彼らのうち、おおよそ三十六人を殺し、更に彼らを門の前からシバリムまで追って、下り坂で彼らを殺したので、民の心は消えて水のようになった。
エリコの大勝利の次に来たのは、アイにおける敗北でした。アイに行く道は、険しい、狭い岩だらけの山路であって、偵察から帰って来た人々が、民をことごとく行かせるには及びません。ただ二、三千人を上らせて、アイを撃たせなさい。彼らは少ないのですから、民をことごとくあそこへやってほねおりをさせるには及びません」(3節)と言ったのも、当然でしょう。
ところが、アイを襲撃した結果は、敗北と恥かしい退却でした。この時、ヨシュアが心の中で最も重大に思ったのは、神の御名が損われることでした。
1節、「しかし、イスラエルの人々は奉納物について罪を犯した。」とは、イスラエルの人々が、神にささげると契約していた分捕り物に関して、その契約を破ったことを言っているのです。
ここで、一人の人が、一つの罪を犯したことで、イスラエルの民全体に神の怒りが下っていることに注目しなければなりません。ヨシュアが、6章18,19節で、「ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。」と命じたのは、神の民全体に対する警告だったのです。それ故、イスラエル全体にその罪の責任が問われています。神の民が信仰の戦いをする時、信仰の一致と結束が必ず必要です。それ故、各個人が責任を持つこととともに、神の民全体としての信仰の一致と結束が必要です。神は、ほとんどの人が正しくても、ただ一人の人の罪を、そのままにしてはおかれなかったのです。
大勝利を経験した時には、往々にして心のゆるみが生じ、高慢になりやすく、罪を犯しやすいので、よくよく慎まなければなりません。
6章は、信仰の服従による大勝利、7章は、一人の人の不服従による敗北、
「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。」(ローマ11:22)
アイにおける敗北の原因は、
1、アカンの罪
アカンの罪は、貧欲からでた、むさぼりの罪(7:21)であり、神に反逆する不服従の罪です。そして貧欲は、罪の根でもあります。
7:21わたしはぶんどり物のうちに、シナルの美しい外套一枚と銀二百シケルと、目方五十シケルの金の延べ棒一本のあるのを見て、ほしくなり、それを取りました。わたしの天幕の中に、地に隠してあります。銀はその下にあります」。
「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」(創世記3:6)
「人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。」(ヤコブの手紙1:14,15)
2、ヨシュアの軽率な態度
アイの戦いについて、主に問うべきであったのに、主に問うことをせず、アイを偵察して来た人々の言葉を安易に受け入れて、それに従うという軽率な態度をとったこと。これは、大勝利の後の油断だったのです。
(アカンの罪)
1、罪は神のものを横取りすること。すべての金属類は主の宝庫に持ち込むべきでした(6:19)。
6:19ただし、銀と金、青銅と鉄の器は、みな主に聖なる物であるから、主の倉に携え入れなければならない。
2、罪は神が憎むものを楽しむ。「聖絶のもの」とは、アカンの盗んだ金銀、衣服のことです(7:11)。
7:11イスラエルは罪を犯し、わたしが彼らに命じておいた契約を破った。彼らは奉納物を取り、盗み、かつ偽って、それを自分の所有物のうちに入れた。
3、罪は神との契約を破ること。信者はみな、神との契約の関係にあります(7:11,15)。
7:15そしてその滅ぼされるべきものを持っていて、くじを当てられた者は、その持ち物全部と共に、火で焼かれなければならない。主の契約を破りイスラエルのうちに愚かなことを行ったからである。
4、罪は、罪を犯す者自身とともに、まわりの者をも巻添えにします。アカンの罪はすベてのイスラエル人に罪の責任を負わせました(7:11)。罪は決して、罪を犯した本人だけにとどまっていないのです。
5、罪は敗北と、恥辱と、死をもたらします。
使徒の働き5章のアナニヤとサッピラの罪は、そのまま放置しておくと、たちまち教会全体を滅びに陥れることになったでしょう。各々、クリスチャンは自分のしていることが、教会に及ぼす影響の大きさを考えて、十分に慎重に行なうべきです。
2,3節、アイの偵察と報告
7:2ヨシュアはエリコから人々をつかわし、ベテルの東、ベテアベンの近くにあるアイに行かせようとして、その人々に言った、「上って行って、かの地を探ってきなさい」。人々は上って行って、アイを探ったが、 7:3ヨシュアのもとに帰ってきて言った、「民をことごとく行かせるには及びません。ただ二、三千人を上らせて、アイを撃たせなさい。彼らは少ないのですから、民をことごとくあそこへやってほねおりをさせるには及びません」。
アカンの罪は、アイを攻撃するまでは、表面に出てきませんでした。それ故、ヨシュアはアカンの罪を知らずに、エリコの時と同じようにアイの町にも斥候を遣わしました。勤勉で賢いヨシュアは、アイのように町は小さくても、戦略上、重要な位置にある場所は、抵抗も強いことを知っていました。それで、ヨシュアは、斥候が「二、三千人くらい」と言ったのに対して、多めの三千人を遣わしました。しかし、間もなく、神の同行も助けもない軍事力がいかにもろく、敗北しかないことを思い知らされたのです。私たちが勝利を得るか、敗北するかは、私たちが直面する課題によるのではなくて、私たちが神とともに歩み、神に忠実に従っているか、どうかによるのです。
また報告の内容も重要です。信仰のない、表面だけを見た安易な報告は、危険です。民数記13章の報告は、敵を恐れて、攻め上れない、という報告でした。ここでは容易に勝つことができるという報告でした。見たところ内容は反対のようですが、どちらも、神を計算に入れていない、不信仰なものでした。これに比べて、ヨシュア記2章23,24節の報告は、信仰に満ちています。
2:23こうしてふたりの人はまた山を下り、川を渡って、ヌンの子ヨシュアのもとにきて、その身に起ったことをつぶさに述べた。 2:24そしてヨシュアに言った、「ほんとうに主はこの国をことごとくわれわれの手にお与えになりました。この国の住民はみなわれわれの前に震えおののいています」。
私たちが報告したり、発言したりする時は、内容がどうであれ、信仰に満ちていることが重要です。
4,5節、神の支えが取り去られたと感じた時、人々の心はしなえ、水のようになりました。
7:4そこで民のうち、おおよそ三千人がそこに上ったが、ついにアイの人々の前から逃げ出した。 7:5アイの人々は彼らのうち、おおよそ三十六人を殺し、更に彼らを門の前からシバリムまで追って、下り坂で彼らを殺したので、民の心は消えて水のようになった。
こうしてイスラエルが敗北したことは、彼らの信仰がいかに表面的だけで、実質のない好い加減なものであったかを、まざまざと見せつける結果になってしまいました。
36人の死は、戦いにしては少ない人数のように思われるかも知れませんが、これは、神の戦いをする者にとって、決して少なくない人数です。これは敗北だったことを明らかに示しています。その理由は、
1、アカンの罪があったこと、
2、アイが小さい町だったので軽く見たこと、
3、エリコの時ほどの信仰の緊張も、真剣さもなかったこと、信仰に結束がなく、勝利の後の油断があったこと、
それ故、ただ、心がしなえているだけでなく、敗北の原因を調べて、悔い改め、神の御前に出る謙虚さが必要です。イエス様の弟子たちは、屋上の間で十日間、心を合わせて祈り、このことをして、ついにペンテコステの経験をしたのです。私たちにもこのことは必要なのではないでしょうか。
6~9節、ヨシュアの訴え
7:6そのためヨシュアは衣服を裂き、イスラエルの長老たちと共に、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、ちりをかぶった。 7:7ヨシュアは言った、「ああ、主なる神よ、あなたはなにゆえ、この民にヨルダンを渡らせ、われわれをアモリびとの手に渡して滅ぼさせられるのですか。われわれはヨルダンの向こうに、安んじてとどまればよかったのです。 7:8ああ、主よ。イスラエルがすでに敵に背をむけた今となって、わたしはまた何を言い得ましょう。 7:9カナンびと、およびこの地に住むすべてのものは、これを聞いて、われわれを攻めかこみ、われわれの名を地から断ち去ってしまうでしょう。それであなたは、あなたの大いなる名のために、何をしようとされるのですか」。
ヨシュアがしたことは、
1、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏して、頭にちりをかぶりました(悔い改めの姿)。
長老たちとともに、彼らは悲しみと意気消沈の中で祈ったのでしょう(出エジプト記5:22,23、民数記11:11~15)。
出エジプト5:22モーセは主のもとに帰って言った、「主よ、あなたは、なぜこの民をひどい目にあわされるのですか。なんのためにわたしをつかわされたのですか。 5:23わたしがパロのもとに行って、あなたの名によって語ってからこのかた、彼はこの民をひどい目にあわせるばかりです。また、あなたは、すこしもあなたの民を救おうとなさいません」。
これらの祈りの中には、いらだちのようなものさえ見られます。そして主の指導性に対する彼らの確信がゆさぶられていたように見えます。それでも、指導者たちは神に訴えました。
2、「あなたは、あなたの大いなる名のために、何をしようとされるのですか」(9節)
神の栄光を求める祈りを真剣にするなら、あなたのその祈りにあなた自身が応えなければなりません。
「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」(ピリピ1:21)
8節の「ああ、主よ。イスラエルがすでに敵に背をむけた今となって、わたしはまた何を言い得ましょう。」は、指導者の重荷を表わしています。一回の罪がイスラエル全体の士気をしなえさせてしまい、今や敵にその力の決定権を売り渡してしまったと、ヨシュアは思ったのです。
9節の「攻めかこみ」とは、文字通り、取り囲んで、閉じ込めてしまい、全滅させてしまうことを意味しています。ヨシュアはこの敗北によって、民会体の全面敗北の危機を予感して深い失望に陥っていたのです。
しかし、この失意の経験を通しても、ヨシュアは、やみをも見通して神に向かうという信仰の光を持ったのです。彼が、何はともあれ、神に訴える祈りをしたことが、それです。彼はこの祈りという行為によって、もう一度、新たに神に触れたのです。彼は7節で、ヨルダン川を渡らせてくださった神の力を思い起こしたのです。神は信仰さえ回復するなら、再び勝利のみわざを行なってくださると信じることができた。神の民は、いかなる時にも、敵の前から決して敗北すべきではない。このことを認めるなら、あとは、勝利を与えることができる神を信じるしかない。
しかし、ヨシュアは、神の大いなる御名に対して、なお懸念を抱いていた。それはいかにして神が再び勝利を与えて下さることができるのか、彼の信仰では、その神の方法を理解することもできず、心配だったのです。これをヨシュアの不信仰ということはできない。それは、暗やみの状態の中に置かれて、神と組み打ちをして祈る者の信仰の苦悶の言葉であるからです。だれでも、真剣に神と組み打ちする祈りをする者は、この懸念を経験し、その後、すべてを全能の神にまかせ、自分で理解できずとも、主を全く信頼する時、暗やみは夜明けとなり、神の勝利のみわざを経験するのです。
10~15節、主の答え
11節、「イスラエルは罪を犯した。」
7:10主はヨシュアに言われた、「立ちなさい。あなたはどうして、そのようにひれ伏しているのか。 7:11イスラエルは罪を犯し、わたしが彼らに命じておいた契約を破った。彼らは奉納物を取り、盗み、かつ偽って、それを自分の所有物のうちに入れた。 7:12それでイスラエルの人々は敵に当ることができず、敵に背をむけた。彼らも滅ぼされるべきものとなったからである。あなたがたが、その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから滅ぼし去るのでなければ、わたしはもはやあなたがたとは共にいないであろう。
周囲の異邦人が、考えたり、言ったり、行なったりすることが、どんなに危険なわざわいをもたらす罪であったとしても、神はご自分の民が罪を犯さないことを強く望んでおられるのです。ところがイスラエルの中に罪を犯す者がいた。神はアカンが罪を犯すことによって、罪を犯すはずのない「イスラエルは罪を犯した。」と言われました。イスラエルは、その名前に神の御名を帯びていましたが(「イスラエル」とは、「神の皇太子」という意味です)、そのこと自体が、神が守ってくださるという保証ではありません。たとい、神の御名に因んだ名前を自分につけ、神の御名をつけた団体に所属していたとしても、その心が神から離れ、神に忠実でなくなっていれば、それらの名前は何の効力もありません。神の恵みも、祝福も、保護も与えられません。神はご自分の偉大な名前がついているという表面的なことには全く関心がありません。
ヨシュアは、主が、「イスラエルは罪を犯し、わたしが彼らに命じておいた契約を破った。彼らは奉納物を取り、盗み、かつ偽って、それを自分の所有物のうちに入れた。」と言われた時、主がイスラエルを見捨てられたのではなく、イスラエルが神を見捨てたのだと、気がついたのです。これに気づく時、初めて、罪の悔い改めが始まるのです。
「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」(イザヤ書53:3)
「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。」(ヨハネ14:18)
12節、「それでイスラエルの人々は敵に当ることができず」
「その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける。」(箴言28:13)
罪を犯して、離れようとしない者に、神が同行して戦ってくださることは、望むことができません。
神と和解し、神との交わりを回復する道は一つしかなかった。それは、「その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから滅ぼし去るのでなければ」のうちに示されています。
13~15節、主は、その罪を一掃する方法をヨシュアに指示しています。
7:13立って、民を清めて言いなさい、『あなたがたは身を清めて、あすのために備えなさい。イスラエルの神、主はこう仰せられる、「イスラエルよ、あなたがたのうちに、滅ぼされるべきものがある。その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから除き去るまでは、敵に当ることはできないであろう」。 7:14それゆえ、あすの朝、あなたがたは部族ごとに進み出なければならない。そして主がくじを当てられる部族は、氏族ごとに進みいで、主がくじを当てられる氏族は、家族ごとに進みいで、主がくじを当てられる家族は、男ひとりびとり進み出なければならない。 7:15そしてその滅ぼされるべきものを持っていて、くじを当てられた者は、その持ち物全部と共に、火で焼かれなければならない。主の契約を破りイスラエルのうちに愚かなことを行ったからである』」。
第一は、「立って、民を清めて言いなさい、『あなたがたは身を清めて、あすのために備えなさい。」(13節)
まず民に、身をきよめることによって、自分たちは神に属する民なのだという意識を持たせる必要がありました。それは、これから神が彼らに語られることを聞き、神が命じられるすべてのことに従順に従う準備をするという心の状態を持つために必要でした。
第二に、民はくじによって選り分けられるという試みを受けなければなりませんでした。神はすべての部族の中から、罪を犯した者のいる部族を選り分け、その部族の中から氏族が選り分けられ、その氏族から家族が選り分けられ、その家族の中からひとり一人の男が進み出て、その滅ぼされるべきものを持っている者を摘発されたのです(14,15節)。
第三に、罪を犯した者自身だけでなく、彼の息子や娘、そして家蓄、彼の所有物の全部、彼が取った物をも含めて、すべてが破滅させられています。
第四に、彼の罪には、二重の意味があったことが明らかにされています。一つは、主の契約を破ったことであり、もう一つは、イスラエルの中で恥辱になることをしたことです(15節)。
アカンの罪によって、36人の兵士が殺されることになってしまいました。(7:15)
このような罪による敗北と死は、神の民のうちにあってはならないことなのです。当然、罪を犯した者には、刑罰が執行されなければならなかったのです。
「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」(ローマ6:23)
16~21節、アカンの罪の発覚
ヨシュアは主のみこころを悟ると、すぐに回復のための行動を始めました。主が14節で、「主がくじを当てられる」と言われた方法で、ヨシュアは犯罪の発見に取りかかりました。
旧約においては、主は時に、くじを用いておられます。
イスラエルの各部族に相続地を割り当てる時(民数記33:54、ヨシュア記18:10他)
民数記 33:54あなたがたは、おのおの氏族ごとにくじを引き、その地を分けて嗣業としなければならない。
預言者ヨナを見つける時(ヨナ1:7)
ヨナ 1:7やがて人々は互に言った、「この災がわれわれに臨んだのは、だれのせいか知るために、さあ、くじを引いてみよう」。そして彼らが、くじを引いたところ、くじはヨナに当った。
ペテロは、イスカリオテのユダの代わりになる弟子を選ぶ時に、くじを用いて、マッテヤに当たりましたが、これは失敗だったようです。
使徒 1:26それから、ふたりのためにくじを引いたところ、マッテヤに当ったので、この人が十一人の使徒たちに加えられることになった。
主のみこころはパウロにあったようです。なぜ、旧約聖書に記されているくじが成功し、ペテロのくじが成功しなかったのか、というなら、それは、主が取り分けられるくじは有効でしたが、ペテロのくじはペテロ自身が考え出したものだったからです。
ところで、犯人のアカンを見つけ出すのに、なぜ神はくじを用いられたのでしょうか。主は最初から犯人はアカンだと知っておられたはずなのに。それは、このくじを用いることによって、イスラエルの人々全員に、罪を犯すことへの警告を強く印象づけるためだったと思われます。
次の聖句を見ると、旧約時代のくじは、今日の人が考えているくじとは、まるで違っています。
「人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。」(箴言16:33)
「くじは争いをとどめ、かつ強い争い相手の間を決定する。」(箴言18:18)
くじの結果は、当時はまぐれや確率によるものではなくて、神のご支配によって決定されたものとして受け止められていました。少なくとも、神が定められたくじの結果は、事実と一致し、神のみこころと一致していました。
くじはイスラエルの全部族から始まり、ユダの部族、ゼラフ人の氏族、ザブディの家族、アカンと当たりました。
7:16こうしてヨシュアは朝早く起き、イスラエルを部族ごとに進み出させたところ、ユダの部族がくじに当り、 7:17ユダのもろもろの氏族を進み出させたところ、ゼラびとの氏族が、くじに当った。ゼラびとの氏族を家族ごとに進み出させたところ、ザブデの家族が、くじに当った。 7:18ザブデの家族を男ひとりびとり進み出させたところ、アカンがくじに当った。アカンはユダの部族のうちの、ゼラの子、ザブデの子なるカルミの子である。 7:19その時ヨシュアはアカンに言った、「わが子よ、イスラエルの神、主に栄光を帰し、また主をさんびし、あなたのしたことを今わたしに告げなさい。わたしに隠してはならない」。
19節、「わが子よ、イスラエルの神、主に栄光を帰し、また主をさんびし、あなたのしたことを今わたしに告げなさい。」
「 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。 」(ヨハネ第一 1:9)
今日、私たちにはイエス様の十字架の死がありますから、アカンのように殺されることなく、罪を告白して悔い改め、イエス・キリストの身代わりの十字架の救いを信じるなら、主のあわれみによって救われます。
こうして罪の告白は、常に神に栄光を帰し、人々に恵みをもたらします。
20,21節、アカンは自分の罪を告白することによって、神の告発が間違いでなかったことを証明し、イスラエルのアイでの敗北の原因を明らかにしたのです。
7:20アカンはヨシュアに答えた、「ほんとうにわたしはイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。わたしがしたのはこうです。 7:21わたしはぶんどり物のうちに、シナルの美しい外套一枚と銀二百シケルと、目方五十シケルの金の延べ棒一本のあるのを見て、ほしくなり、それを取りました。わたしの天幕の中に、地に隠してあります。銀はその下にあります」。
このアカンの告白は、罪に陥る時の状況をよく表わしています。
1、まず、「見て」 誘惑は見ることから始まっています。この時点で、すばやく拒否し、その場所から立ち去っていれば、罪に陥ることはなかったでしょう。
2、「ほしくなり」誘惑は欲望をゆさぶっています。非常に危険な状態になっています。しかしこの時点ではまだ誘惑の状態にあり、罪にまで到達していません。しかしこの状態をもてあそんでいると、拒否するのが非常に困難になり、ほとんどの場合、罪に陥ってしまいます。
3、「取りました。」自分の意志を働かせて、神のご命令に逆らって、神の宝物倉に入れるべき物を取りました。この時点で、はっきりと罪が発生しています。
4、「隠してあり」罪を犯した後の対処も間違ってしまいます。すみやかに告白して、悔い改めるべき所を、逆に全知の神の前に隠しています。罪を犯した後に来るものは、大抵の場合、隠すか、隠れることです。
この罪への堕落の段階は、アダムとエバが堕落した時も同じです(創世記3:6,8)。
3:6女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
3:8彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
①「女が見ると」
②「目には美しく、・・・ 好ましいと思われた」
③「取って食べ」
④「身を隠した。」
私たちが肉体を持って地上に生きている限り、誘惑が来ないようにすることはできません。しかし、ただちに「下がれ、サタン」と、みことばを使って撃退することはできます。いつも神の武具を身に着けて対処したいものです。誘惑をもてあそぶことは最も危険なことです。
「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである。」(マタイ26:41)
「信心のために自分を訓練しなさい。」(テモテ第一 4:7)
22~26節、罪に対する審判
7:22そこでヨシュアは使者たちをつかわした。使者たちが天幕に走っていって見ると、それは彼の天幕に隠してあって、銀もその下にあった。 7:23彼らはそれを天幕の中から取り出して、ヨシュアとイスラエルのすべての人々の所に携えてきたので、それを主の前に置いた。 7:24ヨシュアはすべてのイスラエルびとと共に、ゼラの子アカンを捕え、かの銀と外套と金の延べ棒、および彼のむすこ、娘、牛、ろば、羊、天幕など、彼の持ち物をことごとく取って、アコルの谷へ引いていった。 7:25そしてヨシュアは言った、「なぜあなたはわれわれを悩ましたのか。主は、きょう、あなたを悩まされるであろう」。やがてすべてのイスラエルびとは石で彼を撃ち殺し、また彼の家族をも石で撃ち殺し、火をもって焼いた。 7:26そしてアカンの上に石塚を大きく積み上げたが、それは今日まで残っている。そして主は激しい怒りをやめられたが、このことによって、その所の名は今日までアコルの谷と呼ばれている。
アカンは一時、自分の欲を満足させたかに見えました。彼がバビロンの美しい外套と銀と金を手に入れる方法はスリルに満ちていたことでしょう。罪に陥る人は、大抵、自分にとって大きな益をもたらすと誤算をしてしまうのです。それが誤算であったことは、明らかです。イスラエルはアイで敗北し、36人の兵士が殺され、アカンもアカンの息子や娘も刑罰を受けて殺され、彼の所有していた財産のすべても破壊されてしまったのですから。
罪の結果が、いかに悲惨であるかは、このアカンの記事を読めば、だれにも分かることです。アカン一人の罪が家族の刑罰にまで、イスラエル全体の刑罰にまで及んでいます。しかし一人の人が神に従うことによって、多くの人に神の恵みを与えることができるのです。
「その所でわたしは彼女にそのぶどう畑を与え、アコルの谷を望みの門として与える。その所で彼女は若かった日のように、エジプトの国からのぼって来た時のように、答えるであろう。」(ホセア書2:15)
24節の「アコルの谷」は、「災いをもたらす谷」を意味しています。26節の「その所の名は、アコルの谷と呼ばれた。今日もそうである。」は、ヨシュア記を書いた記者がこの出来事を目撃していたことを表わしています。しかしホセア書では、アコルの谷が望みの門に変えられると約束されています。これは明らかにイエス・キリストの十字架の救いによって実現したのです。
このアカンの事件は、神の前に従順に生きる人だけが、神から助けを受けることができるという原理を強調することになりました。クリスチャンに与えられる勝利は、才能、知力、富、雄弁などによるよりも、ずっとその人のきよさによって勝ち取られます。その勝利は、内に住まれる聖霊なる神によるものです。アカンは神のご命令とご計画とみこころに従うことを拒みました。そして、彼は自分の肉の欲による自分の生涯の計画を実行したのですが、彼は霊的きよさに欠けていたために、滅びたのです。
また、このアカンの事件は、私たち個人個人の言動が、良きにつけ、悪しきにつけ、まわりの人々に大きな影響と感化を与えてしまうものであることを証明しています。
さらに、アカンの事件は、罪は神の目から決して隠されていないことを示しています。神は、人が目で見て、欲しがるもの、さらに手で握っているものが何であるかを知っておられます。また神は、ご自身に逆らい、ご自身を裏切ることが、人にとって全く無駄な努力であって、大損失、わざわいとなることも知っておられます。そして遅かれ、早かれ、人は自分が行なったことと真正面から直面し、神の前に申し開きをしなければならない時が来るのです。
しかし、先のホセア章2章15節にあるように、罪の贖(あがな)いがなされるや否や、望みの門が開かれるという、もう一つの重要な真理も発見しなければなりません。罪さえ、キリストの血によって解決されるなら、私たちは再び確信を持って前進することができるのです。この真理は今も働き続けています。自分の罪のためにイエス・キリストが十字架にかかってその代価を払ってくださったことを信じて受け入れるなら、ただちに、希望と確信を持って勝利の生活に向かって歩み出すことができるのです。
アイにおける敗北の原因は、隠された罪でした。これは実に厳粛な教訓であって、罪は常に敗北の原因になっていることを示しています。外見は全く正しく見えていても、神は決して欺かれないお方です。
カナンの地において、勝利を得るための条件は、絶対的信頼と服従です。アカンの罪が取り除かれてから、神は、「恐れてはならない、おののいてはならない。いくさびとを皆、率い、立って、アイに攻め上りなさい。わたしはアイの王とその民、その町、その地をあなたの手に授ける。」(8:1)と言われました。どんな小さい町、どんな小さい課題にも、全力を尽くして戦うことが大切なのです。私たちも罪を告白し、罪を取り除く時、神は私たちに勝利を与えてくださるのです。
私たちも、エリコのような大勝利を得た後で、日常生活の小さいアイにおいて敗北するかも知れません。しかし幸いなことに、主イエスは、私たちが打ち破られたその生活の中で、今度は勝利を与えてくださるお方です。私たちは、どんな場合にも、敵を軽視することなく、いつも神により頼んで、信仰の戦いの度に、神のすべての武具を身につけて立たなければなりません。
あとがき
礼拝のメッセージの中で北海道の方々がグループをつくって、地の塩のメッセージテープを使って集会を開いておられるお話をしましたら、今度は九州大分県の水曜会の方からお手紙をいただきました。
この水曜会の方には、もう数年間、毎週テープをお送りしております。なんだか、家の教会を中心に働いていた使徒の時代に帰って行くような気がします。教会の建物があっても、大勢集まっていても、イエス様がそこにいらっしゃらなければ、やがて姿を消していくことになります。
しかし、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)と言われた家の教会は、ますます栄えるでしょう。
(まなべあきら 2000.3.1)
(聖句引用は口語訳聖書から)
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「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」
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