聖書の探求(194,195) ヨシュア記8章 アイの攻略と勝利

この章は、アイの攻略と勝利を示しています。


上の絵は、フランスのJames Tissot (French, 1836-1902) により描かれた「Ai Is Taken by Joshua(アイはヨシュアに攻略される)」(ニューヨークのThe Jewish Museum蔵、Wikimedia Commonsより)


ここから教えられることは、勝利は、罪を取り除き、聖潔の恵みを更新し、神のみことばに忠実に従うことにあるということです。これは旧約においても、新約においても、変わることのない信仰の原理です。このことを知識としてうなずく人は、大勢いると思います。しかし大切なことは、体験として身につけていることです。それでこそ、信仰が分かったと言えるのです。私たちも、毎日の信仰の戦いをしているわけですが、その中でぜひとも、その信仰の原理を自分のものにしておきたいものです。

[8章が7章と異なっているところ]

1、動員数、7章は三千人、8章は三万人(3節)

8:3ヨシュアは立って、すべてのいくさびとと共に、アイに攻め上ろうとして、まず大勇士三万人を選び、それを夜のうちにつかわした。

2、差し伸ばした投げ槍(18節、出エジプト記17:11)

8:18その時、主はヨシュアに言われた、「あなたの手にあるなげやりを、アイの方にさし伸べなさい。わたしはその町をあなたの手に与えるであろう」。そこでヨシュアが手にしていたなげやりを、アイの方にさし伸べると、

出エジプト 17:11モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。

3、最後まで戦い、戦利品を受け取ったこと(2、26、27節)

8:2あなたは、さきにエリコとその王にしたとおり、アイとその王とにしなければならない。ただし、ぶんどり物と家畜とは戦利品としてあなたがたのものとすることができるであろう。あなたはまず、町のうしろに伏兵を置きなさい」。

8:26ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった。 8:27ただし、その町の家畜および、ぶんどり品はイスラエルびとが自分たちの戦利品として取った。主がヨシュアに命じられた言葉にしたがったのである。

4、在留異国人の前で、モーセが命じたすペてのことばを読み上げたこと(35節)

8:35モーセが命じたすべての言葉のうち、ヨシュアがイスラエルの全会衆および女と子どもたち、ならびにイスラエルのうちに住む寄留の他国人の前で、読まなかったものは一つもなかった。

[勝利の条件]

1、「いくさびとを皆、率い、」(1節)全力を注いで戦いに当ったこと、

8:1主はヨシュアに言われた、「恐れてはならない、おののいてはならない。いくさびとを皆、率い、立って、アイに攻め上りなさい。わたしはアイの王とその民、その町、その地をあなたの手に授ける。

「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」(コリント第一 15:58)

2、「あなたの手にあるなげやりを、アイの方にさし伸べなさい。」(18節)

主の明確で具体的な指示に対して、具体的に従っていること。信仰は持っているだけでなく、実際に主のご命令に従って活用する必要があります。

3、途中で止めない(26節)。

8:26ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった。

例、アマレクとの戦い(出エジプト記17:8~16)で、ヨシュアはかつて、このことを経験していたのです。

「もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。 」(ヘブル3:14)。

「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」(ヘブル10:35,36)

神のご命令に最後まで従うことの大切さ

「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。 1:17あなたの死なれる所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。もし死に別れでなく、わたしがあなたと別れるならば、主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください。」(ルツ記1:16,17)

「主はわたしのために、みこころをなしとげられる。」(詩篇138:8)

8章の分解

1~9節、戦略
10~29節、完全な勝利
30~35節、エバル山とゲリジム山(祝福とのろい)

1~9節、戦略

1節、過去の罪は取り除かれ、潔められた後、神との交わりは回復されました。

8:1主はヨシュアに言われた、「恐れてはならない、おののいてはならない。いくさびとを皆、率い、立って、アイに攻め上りなさい。わたしはアイの王とその民、その町、その地をあなたの手に授ける。

それ故、主はヨシュアに、「恐れてはならない。おののいてはならない。」と語られたのです。これは、特に、7章の事件の後だったので、ヨシュアにとって意味深かったのでしょう。

「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。」(ルカ1:30)
「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。 」(使徒18:9)

罪を離れる時、神は恵みを与えてくださるのです。

「その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける。」(箴言28:13)

「いくさびとを皆、率い、立って、アイに攻め上りなさい。」

アイを占領するという課題は、依然として神の民の前に置かれていました。前に敗北したから、もう戦わなくていい。避けて通ってもいいということにはならないのです。私たちは何度、失敗し、敗北していても、それに勝利し、乗り越えるまで、その信仰の課題は避けて通れません。その課題を乗り越えないで、先に進むことはできないのです。ある人との人間関係がうまくいかなくて、その人を避けて通っても、他の所で、同じような人間関係に直面させられるのです。

前回は、わずか三千人で戦いましたが、今回は民全部、三万人で戦いの重荷を分かち合うように命じられています。敵のアイは、前回、神の民に勝った経験を味わっていたので、神の民が戦うには、さらに力を増し、全力で戦う必要があったのです。

今日、教会でも、少数の特定の人が献金し、特定の人だけが熱心に奉仕するのではなくて、全員で主のために働くなら、それこそ、神に祝福される秘訣です。心から主を信じている人なら、「私は何もできません。」という人は、いないはずです。大人も、子どもも、お年寄りも、全員が一丸となって、各々の立場で、各々にふさわしく、主をあかしすることに取り組むなら、大いなる勝利を見ることができます。少数の者が自らの力を過信したり、高慢になったり、また残りの者たちが、怠慢や自己卑下に陥っているなら、主はその教会を祝福することができるでしょうか。

主は「わたしはアイの王とその民、その町、その地をあなたの手に授ける。」と、約束しておられます。この約束のみことばによって、ヨシュアはアイにおける完全な勝利を確信することができたのです。勝利を確信したからこそ、先に敗北した敵に対して、大胆に、勇敢に戦うことができたのです。

私たちは、あかしに勝利が確信できなければ、勇敢に、大胆に働くことはできません。それは、教会においてだけでなく、職場においても、家庭でも、学校でも同じです。戦う前に、主のみことばを信じて、勝利を確信してこそ、その戦いは意味があるのです。ダビデは少年でしたが、五つの石を持って巨人ゴリヤテと戦う時、すでに勝利の確信に満ちていたのです。ペテロやヨハネは無学な凡人でしたが、大胆に主をあかししたのです(使徒4:13)。

4:13人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。

ですから、毎日、一日の仕事を始める前に、信仰の更新をして、一日の勝利を確信してから、仕事につけば、いかに多くの恵みを経験することができるでしょうか。

2節、先のエリコの戦いでは、聖絶のものを取ってはならないと禁じられていましたが、今回はアイの分捕り物と家蓄を民の戦利品として取ってよいと許可されています。

8:2あなたは、さきにエリコとその王にしたとおり、アイとその王とにしなければならない。ただし、ぶんどり物と家畜とは戦利品としてあなたがたのものとすることができるであろう。あなたはまず、町のうしろに伏兵を置きなさい」。

なぜ、エリコの時はいけなくて、アイの時はいいのか、と言ってはいけません。主は神の民がご自身のご命令に忠実に従うかどうかを試みておられるのです。私たちは自分の知恵で、その理由や意味を考えて判断しようとしますが、神が求めておられることは、どういう理由だからいいとか、いけないとかで、なさっておられないことがあります。ただ、私たちが本当に全面的に主を愛し、主に信頼して忠実に従うかどうかを試みられていることが、しばしばあるのです。「なぜ、あの人にはよくて、私にはいけないのか。」「前はこうだったのに、なぜ今回は違うのか。」と言う人がいますが、そういう考えを持ち、そういう態度をとることは、主に忠実な者としては、ふさわしくありません。「自分で十分理解し、納得しないと従いません。」と言う人ですから、その人は高慢で不服従と見なされてしまいます。

神があなたになさろうとしていることを、全部説明されたとしても、そのすべてを理解することができるでしょうか。私たちは今、主に導かれていることが、将来、どんな意味を持ってくるのか、ほとんど理解していないのです。アブラハムは、神のご命令だったので従ったのであって、どこに行くのか、彼の生涯の終わりまでも理解したので従ったのではないのです。イサクをモリヤの山で全焼のいけにえにすることだって、聖なる生ける神がそんなことを命じるなんて、無茶苦茶で、理解できないことです。しかし、彼は神のご命令であったから、ただ、その理由だけで従ったのです。理由を理解しようとする人と、まず信仰の服従をする人とでは、その道筋は大きく異なってしまいます。だからと言って、いつまでもその理由が分からないままではありません。後に、主の祝福を受けることによって、主のみこころを悟るようになります。ヨブは終わりまで、彼がなぜ苦難に会ったのか、知らされませんでしたが、彼は二倍の祝福を受けることによって、生ける神を知ったのです。

「あなたはまず、町のうしろに伏兵を置きなさい」

神の戦略は極く簡単なものでした。三万人の勇士のうち、五千人(12節)をベテルとアイの間に伏兵として配置した。

8:12ヨシュアはおおよそ五千人をとって、町の西方、ベテルとアイの間に、伏せておいた。

そしてヨシュアと残りの二万五千人の本隊は敵の正面から向かい、敵が町から出て来たところで、負けた振りをして退却する。すると、敵は調子に乗って追跡して来る。そこをねらって五千人の伏兵がアイの町に入って火をつける。町は炎と煙に包まれ、敵はあわてて激しく動揺する。その時、負けた振りして退却レていたヨシュアの本隊が引き返し、伏兵とはさみ打ちにして倒すという戦略です。

これはあまり正々堂々としていないと、非難される人もいるかもしれませんが、とにかく勝利を得るためには、自分はどう思うかではなくて、神のご命令に忠実に従うことです。

この、ヨシュアの本隊が負けた振りして退却することは、先に一度、イスラエルに対して勝利を経験していたアイの人々には、ひっかかりやすい戦略だったのです。敵に油断させ、そこを一気に突くのです。かつてイスラエルはアイが小さい町だったことに油断し、またアカンの罪のために敗北したのです。今度は先に自らが陥った失敗を利用したことになります。

私たちは課題が大きくても、小さくても、油断せず、またこれまで勝利を得ていたからといって油断せず、主のご指示を受けて忠実に従いたいものです。また計画が簡単なものであっても、忠実な献身的に働く働き人によって、非常に大きな効果を上げることができるのです。大金をつぎ込み、大仕掛けの働きが効果があるとは限らないのです。また派手なことは、一時、人目を引きますが、あまり効果はありません。数万発の花火をあげても、その一つも夜空には焼きつかないのです。むしろ地道に、ひとり一人の信仰者が毎日の生活を通してあかししていくことを訓練することは大事です。教会を通しての働きが、ヨシュアの本隊なら信仰者ひとり一人の生活のあかしは伏兵と言うことができるでしょう。この二つの働きで連繋することによって、より大きな効果を上げることができるのです。

3~5節、ヨシュアは神の戦略を聞かされた時、主の方法はいつも有効に働くことを確信した。

8:3ヨシュアは立って、すべてのいくさびとと共に、アイに攻め上ろうとして、まず大勇士三万人を選び、それを夜のうちにつかわした。 8:4ヨシュアは彼らに命じて言った、「あなたがたは町に向かって、町のうしろに伏せていなければならない。町を遠く離れないで、みな備えをしていなければならない。 8:5わたしとわたしに従う民とは皆共に、町に攻め寄せよう。そして彼らが前のようにわれわれにむかって出てくるとき、われわれは彼らの前から逃げるであろう。

そう疑わずに確信できたのは、罪が解決していたからです。彼は戦いを始める前に、勝利を確信していたのです。これに対して、いかなる人間の知恵も太刀打ちできません。彼は夜の闇に三万人の勇士たちと戦略を分かち合い、翌朝、敵が目を覚ます前に伏兵を配置してしまいました。これは戦略が敵にもれないために重要なことでした。戦いには迅速性を欠かすことができません。敵に手の内を知られてしまうと、効果は逆になってしまうからです。

今日の仕事を明日に先送りしないように。主から与えられた知恵は、新鮮なうちに活用しましょう。だれかに手紙を書くこと、祈ること、その他何でも主から示されたことは、できるだけ早く、その思いが新鮮なうちに実行してください。ヨシュアたちは、敵が目を覚ます前に、戦いのための準備は終えていたのです。ですから、敵がまだ目をこすっている朝早くに奇襲攻撃をかけることができたのです。主のご計画であることの上に、十分な備えをしておくことは、勝利をより確かなものにします。特に、伏兵を設けるような計画の時には、退却するタイミング、伏兵が出て来て町に火をつけるタイミング、本隊が引き返してはさみ打ちにするタイミングなどを、戦う者全員が十分によく知っておく必要があります。一人だけ余計な、先走ったことをすると、敵に勘ずかれて敗北の原因になります。教会の中で何かをする時には、その目的や方針など、手を抜かないで、毎回、すべての人に周知徹底しておくことが大切です。毎年やっていることだから、分かっていることにしてしまわないことです。上手の手から、水はこぼれるものです。

6節、ヨシュアは、先にイスラエルを打ち負かしたアイの軍隊の心理状態を読み取っています。

8:6そうすれば彼らはわれわれを追って出てくるであろうから、われわれはついに彼らを町からおびき出すことができる。彼らは言うであろう、『この人々はまた前のように、われわれの前から逃げていく』。こうしてわれわれは彼らの前から逃げるであろう。

これは武力戦というより、心理戦です。この作戦は敵の心理を十分活用した作戦です。私たちが主をあかしする時、こちらが言いたいことだけ話しても、あまり効果がありません。むしろ反発をかってしまうことがあります。私たちはこの世にいる人がどのような心理状態にあるのかをよく知った上で、それを活用してあかしするなら、もっと効果を上げることができるでしょう。それはこの世の人と調子を合わせなさいと言っているのではありません。人の心理状態を逆なですることばかり言っていては、話を最後まで関心を持って聞いてくれることはないでしょう。

ヨシュアは、一時の成功に酔い、誇りで心が満たされ、尊大な態度をとっている人が、神のご計画に勝つことはできないことを知っていたのです。

7節、私たちは全力を尽くして働くのですが、勝利は主が与えてくださるのです。

8:7その時、あなたがたは伏せている所から立ち上がって、町を取らなければならない。あなたがたの神、主がそれをあなたがたの手に与えられるからである。

自分たちが一所懸命に働いたから、勝利が得られたと思うなら、栄光は神に帰さずに、自分に帰しています。このようにすることは、最も神が嫌われることです。

「それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。」(コリント第一 1:29)

8節、「町に火を放ち、主が命じられたようにしなければならない。」

8:8あなたがたが、町を取ったならば、町に火を放ち、主が命じられたようにしなければならない。わたしはこう、あなたがたに命じるのである」。

分捕物のために、その町を惜しんではならない。目先の物を惜しむことによって、主に不服従となり、もっと大きなものを失ってしまうことになるのです。サウル王は、アマレク人の家蓄を惜しんで聖絶しなかったことによって(彼は神にささげるつもりだったと言い訳をしましたが)、神のご命令に不服従になり、神から捨てられ、回復することなく、また王国はダビデの手に渡されてしまったのです。

目先、損をしているように見えても、主のご命令に忠実に従うことが大切なのです。その報いの豊かさはかり知れません。

「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」(サムエル第一 15:22,23)

「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(マタイ16:25,26)

「主が命じられたようにしなければならない。」 これは信仰の基本中の基本です。主を信じていることは、主のご命令を心から喜んで受け入れ、従うことを意味しています。これをしなければ、敵(サタンやこの世)に勝つことはできません。

「 神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」(ヨハネ第一 5:2~5)

9節、「ヨシュアはその夜、民の中に宿った。」

8:9そうしてヨシュアが彼らをつかわしたので、彼らはアイの西方、ベテルとアイの間の待ち伏せする場所に行って身を伏せた。ヨシュアはその夜、民の中に宿った。

ここには、その夜、ヨシュアが民の中で何をして過ごしたか記していませんが、次の日の早朝からの民の行動を見ると、ヨシュアが民の一人一人に彼らが何をすべきか、を詳しく指示を与えていたのです。翌朝早く、民が戦場に着いた時には、彼らは一人一人自分が何をなすペきかを知っていただけでなく、聖なる確信に満たされていました。この状態だと、勝利は間違いありません。その日の夕方には、彼らは、アイの住民をことごとく聖絶していたのです(26節)。

8:26ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった。

このことから、私たちが学ぶべき教訓は何か。

① 罪による敗北や失敗も、勝利に変えられる可能性があること。その秘訣は、罪を取り除いた後、神のご計画と方法に従って、忠実に行なうことです。

② 主に全く信頼する信仰を更新することの必要性。主イエス様は、弟子たちに、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっているように命じられました(ルカ24:49)。

ルカ 24:49見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。

主の御霊を受けた後にだけ、彼らは全世界に出て行き、主の証人となることができたのです。

この原理が、アカンの罪を取り除いた神の民に対して、主によって強調されました。神はヨシュアに、「立って、民を清めて言いなさい、『あなたがたは身を清めて、あすのために備えなさい。」(7:13)と命じられました。民は、神のご計画に全く忠実に従おうと しました。しかも、主に全く降伏し、全く信頼することによって、神の臨在を確信したのです。主は、このように潔められた民とともに戦われ、アイは陥落したのです。

③ 神の働きに、神の民全員が加わっていることは非常に重要なことです(8:1,3,13)。
8:1主はヨシュアに言われた、「恐れてはならない、おののいてはならない。いくさびとを皆、率い、立って、アイに攻め上りなさい。わたしはアイの王とその民、その町、その地をあなたの手に授ける。

8:3ヨシュアは立って、すべてのいくさびとと共に、アイに攻め上ろうとして、まず大勇士三万人を選び、それを夜のうちにつかわした。

8:13こうして民の主力を町の北におき、しんがりを町の西においた。ヨシュアはその夜、谷の中で宿った。

神のご計画にふさわしくなかった一人の人アカンは、敗北を満たらした人物でしたが、全員の信仰が一致し、一つ心、一つ思いになった時、敵は滅びてレまったのです。

「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。」(ピリピ2:1,2)

④ 神が嫌われるもの、憎まれるものを、全く取り除くことは、勝利に不可欠であること。

アカンとその盗み隠した物は取り除かれなければなりませんでした。これは神が民の中に住まわれるための条件の一つです。勝利は、罪が取り除かれるだけでなく、神が満ちてくださることによって、実現するのです。神はご自分以外のものを愛し、より頼む者がいる時、みわざを行なわれません。

⑤ 神の前に何事も隠すことはできません。罪をおおうためのものは、キリストの血以外には何もないのです。どのような罪もキリストの血によって贖(あがな)われる以外に解決する道はありません。

10~29節、完全な勝利

10~29節は、1~9節で命じられた主の戦略が実際に忠実に実行されたことを、細かく記しています。

8:10ヨシュアは明くる朝、早く起きて、民を集め、イスラエルの長老たちと共に、民に先立って、アイに上っていった。 8:11彼と共にいたいくさびとたちもみな上っていって、町の前に近づき、アイの北に陣を取った。彼らとアイの間には、一つの谷があった。 8:12ヨシュアはおおよそ五千人をとって、町の西方、ベテルとアイの間に、伏せておいた。 8:13こうして民の主力を町の北におき、しんがりを町の西においた。ヨシュアはその夜、谷の中で宿った。 8:14アイの王はこれを見て、すべての民と共に、急いで、早く起き、アラバに行く下り坂に進み出て、イスラエルと戦った。しかし、王は町のうしろに、すきをうかがう伏兵のおることを知らなかった。 8:15ヨシュアはイスラエルのすべての人々と共に、彼らに打ち破られたふりをして、荒野の方向へ逃げだしたので、 8:16その町の民はみな呼ばわり集まって彼らのあとを追い、ヨシュアのあとを追って町からおびき出され、 8:17アイにもベテルにも残っているものはひとりもなく、みな出てイスラエルのあとを追い、町を開け放して、イスラエルのあとを追った。
8:18その時、主はヨシュアに言われた、「あなたの手にあるなげやりを、アイの方にさし伸べなさい。わたしはその町をあなたの手に与えるであろう」。そこでヨシュアが手にしていたなげやりを、アイの方にさし伸べると、 8:19伏兵はたちまちその場所から立ち上がり、ヨシュアが手をのべると同時に、走って町に入り、それを取って、ただちに町に火をかけた。 8:20それでアイの人々が、うしろをふり返って見ると、町の焼ける煙が天に立ちのぼっていたので、こちらへもあちらへも逃げるすべがなかった。荒野へ逃げていった民も身をかえして、追ってきた者に迫った。 8:21ヨシュアとすべてのイスラエルびとは、伏兵が町を取り、町の焼ける煙が立ち上るのを見て、身をかえしてアイの人々を撃った。 8:22また町を取ったものは町を出て彼らに向かったので、彼らは、こちらとあちらとからイスラエルの中にはさまれた。こうしてイスラエルびとが彼らを撃ったので、生き残ったもの、逃げおおせたものは、ひとりもなかった。 8:23そしてアイの王を生けどりにして、ヨシュアのもとへ連れてきた。
8:24イスラエルびとは、荒野に追撃してきたアイの住民をことごとく野で殺し、つるぎをもってひとりも残さず撃ち倒してのち、皆アイに帰り、つるぎをもってその町を撃ち滅ぼした。 8:25その日アイの人々はことごとく倒れた。その数は男女あわせて一万二千人であった。 8:26ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった。 8:27ただし、その町の家畜および、ぶんどり品はイスラエルびとが自分たちの戦利品として取った。主がヨシュアに命じられた言葉にしたがったのである。 8:28こうしてヨシュアはアイを焼いて、永久に荒塚としたが、それは今日まで荒れ地となっている。 8:29ヨシュアはまた、アイの王を夕方まで木に掛けてさらし、日の入るころ、命じて、その死体を木から取りおろし、町の門の入口に投げすて、その上に石の大塚を積み上げさせたが、それは今日まで残っている。

どのようなすばらしい神のご計画も、それが実際に忠実に実行されなければ、全くむなしくなってしまいます。そして、クリスチャンほど、永遠に至るまでの、すばらしい神のご計画を与えられている者はありません。これは、日々に私たちが神のみことばに従った生活を実際に営むことによって、実現していくのです。もし、クリスチャンが神のみことばを行なわなければ、神のご計画はむなしくなってしまいます。

18節の、「あなたの手にあるなげやりを、アイの方にさし伸べなさい。わたしはその町をあなたの手に与えるであろう」という主のご命令は、予め、伏兵が行動を開始するための合図として定めておいたものと思われます。

しかしこれはまた出エジプト記17章8~13節で、アマレクとの戦いの時、モーセが手を上げていたのに似ています。それは祈りを象徴しています。

そしてこれはもう一つ、指導者自身が確信を持って、タイミングをはずさず、主に忠実に従うことの大切さを教えています。

25節、その日、アイの住民のすべて、一万二千人が打ち倒されています。

8:25その日アイの人々はことごとく倒れた。その数は男女あわせて一万二千人であった。

今日、私たちが悪魔とその勢力に勝つためには神の武具を身につけて、忠実に戦う以外に方法はないのです。

「 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。」(エペソ6:11~13)

30~35節、エバル山とゲリジム山(祝福とのろい)

エバル山はアイの北、48kmの所にあるため、「ヨシュアは、アイを征服した直後、敵の領土の中を48kmも旅をしたのか。」と問題視する学者もいます。ヨシュア記は、この旅がどのようにして行なわれたのか、何も説明していません。しかしヨシュアと民が、エリコとアイとの戦いで勝利を得たことを、神の真実な働きの証拠として確信していたなら、申命記27~28章でモーセから命じられていた命令(カナンの地に入ったら、主の律法を守るようにという命令)を、できるだけ早く、遅くならないように、民に教えたことは、当然あり得ることです。

このエバル山とゲリジム山は敵の領土の中心地であるシュケムにありましたが、先のエリコとアイの勝利の故に、周囲のカナンの王たちはだれもイスラエルとの戦いの危険を犯したいとは思っていなかったのです。むしろ、おぴえていたのです。この機会をとらえて、ヨシュアとイスラエルは、敵の攻撃の恐れもなく、この行進を敢行することができたのです。勝利はますます人を強くし、敗北はますます人を弱くするものです。しかし勝利の後、高慢になったり、油断をすると最初のアイとの戦いの時のように、敗北してしまう危険もあります。しかし信仰によって、毎日の戦いに勝利を重ねていくことは、私たちの確信をますます強くしていきます。

「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」(ヨハネ第一 5:4,5)

「 21:7勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」(ヨハネの黙示録21:7)

ヨシュアは、モーセの教えを注意深く、忠実に実行しています。

30節の、エバル山に築いた一つの祭壇は、「イスラエルの神、主のため」と言われています。

8:30そしてヨシュアはエバル山にイスラエルの神、主のために一つの祭壇を築いた。

この「イスラエルの神、主」とわざわざ記しているのは、カナンにおいて、今後イスラエル人が礼拝する神は、他にいない主であることを主張しています。これはこの地でカナン人が従来から礼拝していた神々を認めることをせず、生ける真の神のみを礼拝することを強調しています。

イスラエルの十二部族は、主の契約の箱をはさんで、半分はゲリジム山の前に、残りの半分はエバル山の前に立ち、ゲリジム山からは、律法の祝福を読み、エバル山からは、律法ののろいの言葉を読み聞かせています。

ゲリジム山とエバル山の間は、相当の距離があるので、両方の声が聞こえるはずがないと言った人がいましたが、このことを確かめるために、カノン・トリストラムは現地に行ってテストした結果、両方の山の谷間には、特殊な音響効果があって、その時、二人ずつ両側の山に立って、代わる代わるモーセの十戒を読んだけれど、とてもよく、お互いの声が聞こえたということです。
エバル山は谷の北にあり、ゲリジム山は谷の南にあります。契約の箱をかつぐレビ人の祭司たちは、おそらく東を向いていたと思われます。というのは、幕屋はどこに建てても、東向きにしたからです。もし、そうであれば、エバル山は祭司の左側にあり、ゲリジム山は祭司の右側にあったことになります。これは、イエス様の羊と山羊のたとえにおいて、羊をご自分の右に、山羊を左に分けて置かれたのと同じです(マタイ25:32~46)。この羊と山羊のたとえは、祝福とのろいを与えられる者を意味しています。

幕屋においても、いけにえの獣は、祭壇の北側で、神の御前にほふられています(レビ記1:11)。

レビ記 1:11彼は祭壇の北側で、主の前にこれをほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を祭壇の周囲に注ぎかけなければならない。

このように、北側のエバル山に、いけにえの祭壇を設け、神の怒りの雲のかかっているその所で、贖(あがな)いをしたのです。これらは細部に至るまで、みな神のご計画によるものであって、すべてが完全に調和しています。

歴史的に興味深いこととしては、アブラハムがカナン人の地シェケムのモレの樫の木の所で、主に祭壇を築いていることです。主はここでアブラム(当時まだ、アブラムと呼ばれていた)に現われ、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます。」と約束されました(創世記12:6,7)。そしてモーセは、この約束が実現することを非常に期待しており、イスラエルの子孫に、神との契約を更新するように教えたのです。ヨシュアは、アブラハムの時に、最初になされた約束の地に、カナンで二つの勝利を経験して、チャンスが与えられるとすぐに躊躇せず、イスラエルの民をその場所に連れて行って、神との契約を更新したのです。

このようにして、神とアブラハムとの間で結ばれた契約は、名実ともに、この谷間で、神の戒めを読み上げる声と、賛美の声が響きわたって実現しました。そして、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇が、その証拠となったのです。「鉄の道具を当てない自然のままの石」で築いた祭壇とは、人間の知恵や力が混入していない、神の知恵によって創造されたままの材料を意味しています。今日の神学や儀式には、神の知恵によらない、人間の知恵によるものが、沢山混入されていますから、よく識別する必要があります。

しかし、この神の約束は、まだ完全に成就してしまっているわけではありません。ここには、神の約束が究極の成就に向かって、進展している過程を見ることができます。

この約束は、最初、アブラハムと結ばれ、モーセによって、イスラエルの民に提示され、ヨシュアによって、カナン入国を果たして、一部分、実現し、ダビデによって、大きく繁栄しましたが、それでもなお、この約束は発展途中にあるのです。

「これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。」(ヘブル11:39)

この約束は、どんなにすぐれた神の人であっても、ひとりの人の生涯の範囲において、完全に成就することは、あり得ないのです。

「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた。」(コリント第一 2:9)

(礼拝に必要な四つの要素)

この箇所から、私たちが主を礼拝するのに必要な四つの要素を拾い出すことができます。

1、神と人が会うために祭壇が築かれています(30節)。

8:30そしてヨシュアはエバル山にイスラエルの神、主のために一つの祭壇を築いた。

私たちは主を礼拝するために聖別された場所を必要としています。それは現代人がイメージしている教会堂の形をしている必要はありません。ピリピのルデヤたちは川辺で礼拝をしていました。イエス様の弟子たちは、エルサレムのニ階の間で礼拝していました。第一世紀のクリスチャンたちは、だれ一人、今日のような屋根の上に十字架のついた教会堂の中で礼拝した者はいなかったのです。主の御名によって聖別された祭壇が必要なのです。

2、民によって、全焼のいけにえと和解のいけにえがささげられています(31節)。

8:31これは主のしもべモーセがイスラエルの人々に命じたことにもとづき、モーセの律法の書にしるされているように、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であって、人々はその上で、主に燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。

私たちは、身も心もささげる献身をもって礼拝し、賛美のいけにえをささげ、一週間の働きの収穫をささげて、礼拝する必要があります。

3、律法のことばが読まれていますが、その中には、祝福とのろいの両方が含まれていて、警告を与えているのです(32,33,34節)。

8:32その所で、ヨシュアはまたモーセの書きしるした律法を、イスラエルの人々の前で、石に書き写した。 8:33こうしてすべてのイスラエルびとは、本国人も、寄留の他国人も、長老、つかさびと、さばきびとと共に、主の契約の箱をかくレビびとである祭司たちの前で、箱のこなたとかなたに分れて、半ばはゲリジム山の前に、半ばはエバル山の前に立った。これは主のしもべモーセがさきに命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。 8:34そして後、ヨシュアはすべての律法の書にしるされている所にしたがって、祝福と、のろいとに関する律法の言葉をことごとく読んだ。

今日の礼拝においても、神のみことばが解き明かされなければなりません。その中には、当然、祝福とのろいの両要素が含まれていなければなりません。

4、集会には、大人の男子だけではなく、女、子どもも加えられ、さらに在留異国人も加えられています(35節)。

8:35モーセが命じたすべての言葉のうち、ヨシュアがイスラエルの全会衆および女と子どもたち、ならびにイスラエルのうちに住む寄留の他国人の前で、読まなかったものは一つもなかった。

私たちの礼拝には、性別の差別はなく、年令の制限もありません。特に、異教の民の中から救われて、礼拝に加わる者が起こされてくるなら、さらに幸いです。彼らはみんな、神のみことばを学んで、神のみこころを理解するように訓練される必要があります。

あとがき

「心のやさしい人」になりたいと思っても、自分の努力でなれるものではありません。幼い子が自分の責任ではないのに辛い環境に置かれているのは、見るに忍びないことです。しかしその中でイエス様を心に迎え入れるなら、念願の「心のやさしい人」になることができます。イエス様の恵みがないと、苦しい辛い環境は、人の心をひねくれさせてしまいますが、イエス様の恵みを心に頂いていれば、苦しい、辛い環境は人の心をやさしくしてくれるのです。他人の痛みや苦しみの分かる人、苦しいことも忍耐して乗り越えられる人にしてくれます。この面で、苦難は私たちにとって、良い教師になってくれます。しかし幼い子に、苦しみが重すぎないようにと祈る者です。あなたも「心のやさしい人」になって。

(まなべあきら 2000.5.1)
(聖書箇所は口語訳聖書を引用。)


「聖書の探求」の目次


【月刊「聖書の探求」の定期購読のおすすめ】
創刊は1984年4月1日。2022年11月現在、通巻465号 エステル記、まだまだ続きます。

お申し込みは、ご購読開始希望の号数と部数を明記の上、振替、現金書留などで、地の塩港南キリスト教会文書伝道部「聖書の探求」係にご入金ください。
一年間購読料一部 1,560円(送料共)
単月 一部 50円 送料84円
バックナンバーもあります。
(複数の送料) 3部まで94円、7部まで210円.多数の時はお問い合わせ下さい。
郵便振替00250-1-14559
「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」


発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
〒233-0012 横浜市港南区上永谷5-22-2
電話FAX共用 045(844)8421