聖書の探求(196) ヨシュア記9章 ギベオン人の計略にだまされたヨシュアの失策
9章は、ギベオン人の計略にだまされた、ヨシュアの失策を記しています。
上の絵は、アメリカのCharles Foster (1822-1887) により1873年に出版された聖書「The story of the Bible from Genesis to Revelation」の挿絵「The Gibeonites come to the camp of the Israelites(ギベオン人たちは、イスラエルの陣営に来た)」(Wikimedia Commonsより)
9章の分解
1~2節、カナン六族の連合軍
3~15節、ギベオン人の計略
16~27節、ギベオン人に対する処置
1~2節、カナン六族の連合軍
9:1さて、ヨルダンの西側の、山地、平地、およびレバノンまでの大海の沿岸に住むもろもろの王たち、すなわちヘテびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとの王たちは、これを聞いて、 9:2心を合わせ、相集まって、ヨシュアおよびイスラエルと戦おうとした。
カナンの各部族は、常日頃は互いに争っていました。しかしイスラエルの侵入に対しては、互いの紛争を止めたばかりでなく、力を合わせて、連合軍を組織し、神の民と戦おうとしたのです。このようなことは、今もしばしば起きています。互いに仲の悪い者たちが組をなして神のしもべを非難攻撃するようになるのです。ヘロデとピラトは、互いに仲が悪かったのに、イエス様を殺すために力を合わせました。あなたが主に従っていく時、まわりから組をなして攻撃を受けても、驚いてはいけません。その背後で悪魔が働いているのですから。
これらのカナンの王たちが連合軍をつくってイスラエルと戦おうとしていることを聞いて、ヨシュアが驚き、悩んだという証拠は、どこにも記されていません。彼はこれまで、主に信頼して従って行けば、必ず勝つことができるという確信に満たされていたからです。
私たちも、毎日、信仰を更新して、信仰を活用することによって、勝利を積み重ねておくことは、どんなに大きな確信を育てていくことでしょうか。次に、今までの何倍もの困難に直面しても、驚かない信仰の力を持つ者とされているのです。
それまでは、ヨシュアはエリコ、アイと一つの戦いで一つの所を攻め取ることをしてきました。しかし今回は、敵の状況から、一度に六部族を占領する機会が訪れたのです。大勝利は、向こうからやって来ます。ヨシュアは、今回は大規模作戦を起こすことができたのです。
信仰の戦いは一回一回異なるものであることをよく自覚しておかなければなりません。神の知恵を持たない者は、どんな働きをしても、去年したもの、前回行なったものを、ただ真似して繰り返すだけです。創造的な知恵を働かすことができないのです。教会は、これをやっている傾向が強いのではないでしょうか。会社なら、倒産してしまうでしょう。同じ働きをしても、毎回、企画の内容は新鮮なものでなければなりません。
何も考えつかないから、前回の真似をしようとか、だれかの真似をしようとかいうのなら、止めたほうがいい。それを繰り返せば、霊的力を失ってしまいます。教会は頭を失ったロボットになってしまいます。主は、私たちを日々に新しくして下さる神です。すべてを新しくされる神です。毎日、新しくされている人が、古いものを真似することなど、あり得ないのです。心の中はいつも新しいいのちで満ちているのですから。
このように組織された敵対者が現われたことは、かえって神の民に新しい力と勇気を与えたのです。初代教会に対するローマ皇帝による迫害から、近代の共産主義や全体主義の迫害まで、教会は決して滅亡することはなかったのです。信仰が不確かであった者たちで背教する者も多く出ましたが、信仰の堅固な者の信仰の火はますます燃えて、リバイバルは続いたのです。教会の火が危うくなった時は、迫害が続いた時ではなく、教会が神と富とに兼ね仕えることを考えるようになり、ついに神よりもこの世の富、地位、権力を求めるようになった時です。そして今日は、そのような時代ではないでしょうか。
「すべてあなたを攻めるために造られる武器は、その目的を達しない。すべてあなたに逆らい立って、争い訴える舌は、あなたに説き破られる。これが主のしもべらの受ける嗣業であり、また彼らがわたしから受ける義である」と主は言われる。(イザヤ54:17)
「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。(詩篇37:1,2)
「天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう。そして主は憤りをもって彼らに語り、激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせて言われる」(詩篇2:4,5)
3~15節、ギベオン人の計画
ギベオンは、エルサレムの北西10km、アイの南西約10kmにある、現在のエル・ジブであると言われています。
17節を見ると、このギベオン人たちは、ギベオン、ケピラ、ベエロテ、キリアテ・ヤリム(キルヤテ・エアリム)の四つの町の連合体であったと思われます。
9:17イスラエルの人々は進んで、三日目にその町々に着いた。その町々とは、ギベオン、ケピラ、ベエロテおよびキリアテ・ヤリムであった。
4~5節、「自分たちも策略をめぐらし、行って食料品を準備し、古びた袋と、古びて破れたのを繕ったぶどう酒の皮袋とを、ろばに負わせ、繕った古ぐつを足にはき、古びた着物を身につけた。彼らの食料のパンは、みなかわいて、砕けていた。」
彼らは、抜け目のない悪知恵を使って、自分たちを装って、イスラエル人と契約を結ぶように仕掛けたのです。
彼らは、神のみわざの幾つかについて、聞き及んでいて、知っており、神が何をしようとしているかを知っていました(3、9、10節)。
9:3しかし、ギベオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイにおこなったことを聞いて、
9:9彼らはヨシュアに言った、「しもべどもはあなたの神、主の名のゆえに、ひじょうに遠い国からまいりました。われわれは主の名声、および主がエジプトで行われたすべての事を聞き、 9:10また主がヨルダンの向こう側にいたアモリびとのふたりの王、すなわちヘシボンの王シホン、およびアシタロテにおったバシャンの王オグに行われたすべてのことを聞いたからです。
ここまでは、エリコの遊女ラハブとよく似ていました。違っている点は、キブオン人が自分の目的を達成するために信仰ではなく、卑劣な偽りの手段を使ったことです。その目的においても、ラハブは神の救いを求めたのに対して、ギベオン人は、自分たちの土地の保全と、自由を確保するために、イスラエルと同盟を結ぶことを求めたのです。彼らは、明らかに恐怖によって動かされていた故に、卑劣な、偽りと欺きの手段に出たのです。信仰による動機から動いていたら、ラハブのような手段を取ったでしょうが、恐怖からは良いものは何も生まれなかったのです。
6節、ギベオン人らは、「ギルガルの陣営のヨシュアの所にき」ました。このギルガルは、どちらのギルガルだったか。
9:6彼らはギルガルの陣営のヨシュアの所にきて、・・・・・
割礼の儀式の更新が行なわれた、エリコの近くのギルガルだったか(ヨシュア記5章)、それとも、ゲリジム山とエバル山の近くのギルガルだったのか(申命記11:30)。
ヨシュアは、全イスラエルをエバル山に連れて行った(ヨシュア記8:33)後、再び、民をエリコの平野に連れて戻っていたとは、考えにくい。ありそうもないことです。おそらく、ヨシュアはカナンの中心にあるエバル山の近くのギルガルを、戦略上の陣営に選んでいたことは、あり得ることです。
8:33こうしてすべてのイスラエルびとは、本国人も、寄留の他国人も、長老、つかさびと、さばきびとと共に、主の契約の箱をかくレビびとである祭司たちの前で、箱のこなたとかなたに分れて、半ばはゲリジム山の前に、半ばはエバル山の前に立った。これは主のしもべモーセがさきに命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。
イスラエル人がギベオン人の罠にかかった理由は、ギベオン人が物的証拠として示した古いはきもの、古びた着物、破れた皮袋、乾いて、かびている、ぼろぼろのパンを見て、彼らの言い分を信じてしまい、神に問うことをしなかったからです(9:14)。
9:4自分たちも策略をめぐらし、行って食料品を準備し、古びた袋と、古びて破れたのを繕ったぶどう酒の皮袋とを、ろばに負わせ、 9:5繕った古ぐつを足にはき、古びた着物を身につけた。彼らの食料のパンは、みなかわいて、砕けていた。9:7しかし、イスラエルの人々はそのヒビびとたちに言った、「あなたがたはわれわれのうちに住んでいるのかも知れないから、われわれはどうしてあなたがたと契約が結べましょう」。 9:8彼らはヨシュアに言った、「われわれはあなたのしもべです」。ヨシュアは彼らに言った、「あなたがたはだれですか。どこからきたのですか」。 9:9彼らはヨシュアに言った、「しもべどもはあなたの神、主の名のゆえに、ひじょうに遠い国からまいりました。われわれは主の名声、および主がエジプトで行われたすべての事を聞き、 9:10また主がヨルダンの向こう側にいたアモリびとのふたりの王、すなわちヘシボンの王シホン、およびアシタロテにおったバシャンの王オグに行われたすべてのことを聞いたからです。 9:11それで、われわれの長老たち、および国の住民はみなわれわれに言いました、『おまえたちは旅路の食料を手に携えていって、彼らに会って言いなさい、「われわれはあなたがたのしもべです。それで今われわれと契約を結んでください」』。 9:12ここにあるこのパンは、あなたがたの所に来るため、われわれが出立する日に、おのおの家から、まだあたたかなのを旅の食料として準備したのですが、今はもうかわいて砕けています。 9:13またぶどう酒を満たしたこれらの皮袋も、新しかったのですが、破れました。われわれのこの着物も、くつも、旅路がひじょうに長かったので、古びてしまいました」。 9:14そこでイスラエルの人々は彼らの食料品を共に食べ、主のさしずを求めようとはしなかった。 9:15そしてヨシュアは彼らと和を講じ、契約を結んで、彼らを生かしておいた。会衆の長たちは彼らに誓いを立てた。
物的証拠として提示されたものは、本当に事実を物語っているのでしょうか。
これは人間の常識を突いた欺きです。神の民の常識に対して、この世の人の知恵のほうが、勝ったということです。神の民であっても、自分の知恵に頼れば、この世の人の策略に敗れてしまうのです。
先に、7章3節では、勝利の後の気のゆるみ、油断による失敗をしました。
7:3ヨシュアのもとに帰ってきて言った、「民をことごとく行かせるには及びません。ただ二、三千人を上らせて、アイを撃たせなさい。彼らは少ないのですから、民をことごとくあそこへやってほねおりをさせるには及びません」。
今回は、自分の常識による判断によって失敗してしまったのです。
私たちは、ダビデが神に信頼し続けた生涯をたどったことを学ぶべきではないでしょうか。(サムエル第ニ 5:19、23~25)
サムエル第二 5:19ダビデは主に問うて言った、「ペリシテびとに向かって上るべきでしょうか。あなたは彼らをわたしの手に渡されるでしょうか」。主はダビデに言われた、「上るがよい。わたしはかならずペリシテびとをあなたの手に渡すであろう」。
サムエル第二 5:23ダビデは主に問うたが、主は言われた、「上ってはならない。彼らのうしろに回り、バルサムの木の前から彼らを襲いなさい。 5:24バルサムの木の上に行進の音が聞えたならば、あなたは奮い立たなければならない。その時、主があなたの前に出て、ペリシテびとの軍勢を撃たれるからである」。 5:25ダビデは、主が命じられたようにして、ペリシテびとを撃ち、ゲバからゲゼルに及んだ。
このギベオン人たちの欺きから、私たちが学ぶべき実際的学課は何でしょうか。
1、目に見える物的証拠は、必ずしも、すべての真理、すべての事実を示しているとは限らない。外のかたちは、人を迷わすことがあること。学歴や社会的地位や技能などは、必ずしも、その人の霊的実質を表わしていない。教会の建物も、人数も、その教会の霊的実質を示していないことがあること。
2、善良な信仰者は、その善良さにつけ込もうとする人々のずる賢さによって、だまされる危険性がある。
ギベオン人たちは、ヨシュアに「私たちはあなたのしもべです。」と、極めて口達者に調子のいいことを言い、ヨシュアの「あなたがたはだれだ。どこから来たのか。」という質問に、決して答えようとせず、この質問を避け続け、自分たちを「非常に遠い国の者」「非常に長い旅」をして来た者と、あいまいな言葉を繰り返し、それを証明するために、もっともらしく装った物的偽りの証拠品を持ち出したのです。自分の所在を明らかにしない者は、要注意です。そこには欺きの動機が仕組まれています。キベオン人は、自分の存在を明らかにしないまま、イスラエルと盟約を結ぶように、ヨシュアに強く迫っています。
自分を明らかにしない者と盟約を結ぶほど、危険なことはありません。私たちは、蛇のように賢く、注意深くあるべきではないでしょうか(マタイ10:16)。
マタイ10:16わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。
言葉がやさしく、親切そうな人には気をつけなさい。だまされることが多いのです。
3、クリスチャンは、相手が「教会に行っている。」「福音的な教会に行っています。」と言うと、安心して自己防衛の警戒心を解いてしまうことがあります。ギベオン人たちはヨシュアの警戒心を解くために、「彼らはヨシュアに言った、『しもべどもはあなたの神、主の名のゆえに、ひじょうに遠い国からまいりました。われわれは主の名声、および主がエジプトで行われたすべての事を聞き、また主がヨルダンの向こう側にいたアモリびとのふたりの王、すなわちヘシボンの王シホン、およびアシタロテにおったバシャンの王オグに行われたすべてのことを聞いたからです。」(9:9,10)と、繰り返しています。このように悪賢い人々は、信仰者を安心させて、だますために、非常に信仰によく似た偽りの言葉を用いて、教会の中に侵入して来るので、注意しなければなりません。彼らを受け入れると、教会の人数が増える、献金が増える、教会がにぎやかになると思って受け入れてしまうと、やがて、その人々が教会の悩みと苦しみの種となってしまうのです。クリスチャンが信仰者らしい人、親切らしい人と結婚して、悲劇を経験するのも、この種の欺きによるのです。しかし、このような偽りで飾られた者たちとの契約からは、何ら益を得ることはありません。
ここで私たちが十分に学んでおくべきことは、信仰生活の中で、私たちは毎日、神に信頼し、信仰を更新しておかなければならないことです。主は、私に関わるどんな小さいことにも、喜んで導きを与えてくださいますが、私たちの側で、いつも主のみ旨を求め、悟るように努めることが必要です。ただ聖書を学んで、理解しているだけでなく、自分個人の生活における、神のみこころは何かを求め続けることが大切です。私たちは、決して目で見るところによって判断したり、自分の知恵によって判断したりしてはいけません。
「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。」(箴言3:5)
16~27節、ギベオン人に対する処置
悪賢い、卑劣な欺きは、そういつまでも続くものではありません。間もなく、真実が明らかにされる時が来ます。
わずか三日後に、ギベオン人の偽りは明らかになりました。
9:16契約を結んで三日の後に、彼らはその人々が近くの人々で、自分たちのうちに住んでいるということを聞いた。9:17イスラエルの人々は進んで、三日目にその町々に着いた。その町々とは、ギベオン、ケピラ、ベエロテおよびキリアテ・ヤリムであった。
偽りの上に結ばれていた平和は、堅固な土台を持っていないのです。いつでも、こんなに早く偽りが暴露されるとは限りませんが、偽りは必ず、打ち砕かれるのです。
一方、イスラエル人たちは、ギベオン人たちにだまされていたことが分かったので、不用意にギベオン人と盟約を結んでしまったヨシュアと族長たちに、不平を鳴らしたのです。
9:18ところで会衆の長たちが、すでにイスラエルの神、主をさして彼らに誓いを立てていたので、イスラエルの人々は彼らを殺さなかった。そこで会衆はみな、長たちにむかってつぶやいた。
この意味は、先にアイとの戦いで、敗北した経験が鮮明に残っており、今回、再び、イスラエルの指導者たちがカナン人の一部の者と妥協し、同調したとあらば、たとえそれが相手の悪意によったとしても、今後の戦いで神の勝利が与えられる希望を抱くことに不安を覚えたのです。
明らかに、族長たちはギベオン人にだまされて、屈辱を感じており、主に問わなかった自分たちの愚かさと、軽率さに恥入っていたに違いありません。しかしイスラエルは「イスラエルの神、主をさして彼らに誓いを立てて」いたので、ギベオン人が不法な方法をもって盟約を結んだからと言って、その誓いを破って、ギベオン人たちを打ち殺してしまうなら、カナン人の間で、主の御名が侮られるようになる可能性がありました。それで、「彼らを生かしておこう」と言ったのです。この時の族長たちはまだ、神の真理に対しては、誠実にこれを守らなければならないという霊的意識を持っていたのです。
9:19しかし、長たちは皆、全会衆に言った、「われわれはイスラエルの神、主をさして彼らに誓った。それゆえ今、彼らに触れてはならない。 9:20われわれは、こうして彼らを生かしておこう。そうすれば、われわれが彼らに立てた誓いのゆえに、怒りがわれわれに臨むことはないであろう」。 9:21長たちはまた人々に「彼らを生かしておこう」と言ったので、彼らはついに、全会衆のために、たきぎを切り、水をくむものとなった。長たちが彼らに言ったとおりである。
しかし、ギベオン人の欺きは、そのまま許されたのではありません。彼らは、生命が奪われることはありませんでしたが、イスラエルの「全会衆のために、たきぎを切り、水をくむもの」とされました。
9:22ヨシュアは彼らを呼び寄せて言った、「あなたがたは、われわれのうちに住みながら、なぜ『われわれはあなたがたからは遠く離れている』と言って、われわれをだましたのか。 9:23それであなたがたは今のろわれ、奴隷となってわたしの神の家のために、たきぎを切り、水をくむものが、絶えずあなたがたのうちから出るであろう」。
ヨシュアはギベオン人たちを呼び寄せ、彼らの欺きを厳しく叱責し、「それであなたがたは今のろわれ、奴隷となってわたしの神の家のために、たきぎを切り、水をくむものが、絶えずあなたがたのうちから出るであろう」(9:23)と命じました。これは信仰によってイスラエルを受け入れたエリコのラハブの受けた祝福と大きく違っています。信仰によらず、自分の知恵と力と、自分のよい行ないによって神に近づこうとする者の受ける分を、よく表わしています。お互い、心に深く刻み込んでおかなければならない教訓ではないでしょうか。
ギベオン人は、神の民の間で生活をする者となりましたが、神の民と同じ恵みを受けることができず、奴隷として扱われたのです。
クリスチャンと呼ばれている人の中にも、神の子どもとしての恵みを知らずに、奴隷の霊しか持っていない人もいるのではないでしょうか。
「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。」(ローマ8:15)
「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。」(ガラテヤ4:6,7)
23節の「神の家」は、当時、まだ神殿はなかったので、幕屋をさしていたものと思われます。
残念ながら、ギベオン人は信仰についての霊的光を心に持っていなかったので、イスラエル人を欺くという方法で、神の民と盟約を結ぶことを企んだのです。それは彼らの運命が破滅に定められていることを実感していたからです。そしてイスラエル人のカナン侵入は彼らの破滅の運命をより確実なものにすると信じたからです。そこで、彼らは生まれ変わっていない心で精一杯考えて、彼らにできる最善の方法としてイスラエル人を欺くことによって助かろうとしたのです。こうして、死の宣告の下にあった者が、かろうじて、死を免れるあわれみを受けたのです。
9:26そこでヨシュアは、彼らにそのようにし、彼らをイスラエルの人々の手から救って殺させなかった。 9:27しかし、ヨシュアは、その日、彼らを、会衆のため、また主の祭壇のため、主が選ばれる場所で、たきぎを切り、水をくむ者とした。これは今日までつづいている。
今や、自分たちの欺きの行為が明らかになったギベオン人は、「われわれは、今、あなたの手のうちにあります。われわれにあなたがして良いと思い、正しいと思うことをしてください」(9:25)と言って、無条件降伏をして、あわれみを求めています。
9:24彼らはヨシュアに答えて言った、「あなたの神、主がそのしもべモーセに、この地をことごとくあなたがたに与え、この地に住む民をことごとくあなたがたの前から滅ぼし去るようにと、お命じになったことを、しもべどもは明らかに伝え聞きましたので、あなたがたのゆえに、命が危いと、われわれは非常に恐れて、このことをしたのです。 9:25われわれは、今、あなたの手のうちにあります。われわれにあなたがして良いと思い、正しいと思うことをしてください」。 9:26そこでヨシュアは、彼らにそのようにし、彼らをイスラエルの人々の手から救って殺させなかった。
ヨシュアがギベオン人の願いを聞き入れ、イスラエルの手にかかって殺されることから救ったことは、周囲のカナン人に大きなあかしとなったでしょう。カナンの神々は残酷であったのに比べて、イスラエルの神は偉大であり、強いだけでなく、あわれみ深いお方であることを印象づけたでしょう。
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ウィリアム・シェイクスピアは、「ベニスの商人」の中で、次のように言っています。「あわれみが審判に味をつけるとき、その時、地上の力は、神の力のようであることを示す。」
ヨシュアは、死の宣告を受けていたギベオン人たちを死から解放しました。イエス・キリストは、永遠の滅亡の宣告を受けていた、死の運命の下にあった私のために、ご自身が十字架の上で命の代価を払ってくださることによって、その死の運命から解放してくださったのです。
そしてギベオン人たちは神の幕屋の礼拝のために、そして会衆のために、主の祭壇で使うたきぎを割る者、水を汲む奉仕者として働くことになったのです。こうして彼らは、奴隷としてではありましたが、神を礼拝するための奉仕として仕える特権にあずかったのです。
「水をくんだ僕たちは知っていた」(ヨハネ2:9)
ヨシュアのこの判断とギベオン人の取り扱い方は、神に受け入れられていたことが、後に分かることになります。それはサウル王がイスラエル人とギベオン人との盟約を破ってギベオン人たちを殺したことがあった時、ギベオン人に償いがなされるまで、三年間も、イスラエルは飢饉で苦しまなければならなかったのです。
ギベオン人がイスラエルの内で生活することは、最初のカナン攻略の目的からすると、不本意なことではあったでしょうが、イスラエルの族長たちの失策もあって、やむを得ない処置でした。しかし、これはこの後、イスラエルがカナンで戦いを続けるのに大いに助けになったことは事実です。なぜなら、それまで、イスラエル人が行なっていた、たくさんの日常の労働と、さらに重い労働とをギベオン人たちが喜んで、熱心に引き受けてくれたからです。これは、その後の攻撃に非常に有利に働いたことでしょう。
このことは、ギベオン人の偽りの欺きと、ヨシュアたちの失策から生じたことでしたが、神は、それを善に変えてくださったのです。
「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。」(創世記50:20)
「 8:28神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28)
27節、主は、このようなギベオン人たちが住む場所をも選んで下さっています。
9:27しかし、ヨシュアは、その日、彼らを、会衆のため、また主の祭壇のため、主が選ばれる場所で、たきぎを切り、水をくむ者とした。これは今日までつづいている。
これによって、ギベオン人はイスラエル人と混じることはなかったでしょう。
あとがき
真理を悟り、それを自分のものにするのに、安易なうまい道はありません。私も最初は、何が何だか、さっぱり分かりませんでした。説教を聞いても、信仰書を読んでも、「ああ、そうか。」という程度の理解しか持てませんでした。しかし私はそこで諦めてしまいませんでした。私はそれから今日まで三十三年間、特別な日以外、ほとんど毎日、聖書を探求し続け、神学を追求し、歴史の跡を追い、人間について学び続けました。私は、他人が教えてくれるのを待っていたのでは限界があると思い、自ら聖書の真理の追求に没頭しました。私は心を決めたのです。自分の生涯のすべてをかけて、聖書の真理だけを求めようと。二つを追うことは不可能に思えたからです。
「求めなさい。そうすれば与えられます。」
(まなべあきら 2000.7.1)
(聖句は口語訳聖書から引用。)
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