聖書の探求(198) ヨシュア記10章16~43節 5人の王の処罰、反乱軍の都市の破壊、南方作戦の総括

16~27節、五人の王たちの処罰

南の五人の王たちは、連合軍をつくって戦えば勝てると計算したのでしょう。そして、自分たちはイスラエルのように奴隷にされた民ではない。勇敢な戦士であると、自ら誇り、神の民に対して攻撃していたのです。


上の絵は、フランスのJames Tissot (French, 1836-1902) により描かれた「Joshua and the Five Kings(ヨシュアと5人の王)」(ニューヨークのThe Jewish Museum蔵)


今日、人数は多い、大きな教会堂がある、有名な牧師がいると誇っている人がいるなら、危険です。その高慢と見栄は、敗北のしるしです。敗北の原因になります。

高慢な人ほど執念深く、ギベオン人がイスラエルに属したことを裏切り行為だとして、憎み続け、その怒りと憎しみの故に、ギベオンを執拗に攻撃したのですが、太陽が天中でとどまっていたために、その日が終わる前に、五人の王たち全員は、逃げて、ほら穴に隠れていたのです。

この戦いはエルサレムの王アドニゼデクが言い出したことで、彼は自分一人では、とても勝てそうになかったので、周りの四人の王に応援を頼んで、応援団までつくって戦いを挑んだのですが、その結果は、応援団をも含めて、彼らは自ら墓穴を掘ってしまったのです。

高慢と見栄、怒りと憎しみによって引き起こした戦いは、どんなに大勢で、執念深くても、必ず敗北する運命にあるのです。カインは滅び、エサウの子孫のエドム人も消えたのです。自ら消滅していくのです。クリスチャンを迫害したローマ帝国は今、どこにあるでしょうか。ドイツのナチスは今、どこにあるでしょうか。共産主義の崩壊ぶりは世界的に急速に進んでいます。

キリストの福音は、少しも進んでいないように見えますが、主は確かに働いておられます。ですから、私たちはしっかりと、あかしをさせていただきたいものです。つけ加えておきますが、イスラエルの民も、やがて主を捨てて、異教の偶像を受け入れた時、捕囚という神の懲らしめを受けることになったのです。神の審判の前に、自分の主張や自分の正しさや、自分の知恵や力で立つことのできる人は、一人もいないのです。

御子イエス・キリストの血潮だけが、私たちを神の御前に立たせてくださるのです。ですから、毎日、信仰を更新してください。自己義を主張している人は危険です。砕かれて、キリストの血の注ぎを受けてください。自分の罪深さに嘆いている人も、危険です。キリストの血を受けてください。そうすれば、あなたもパラダイスに入る者としてくださるのです。

ヨシュアは、五人の王たちが隠れているほら穴に大きな石を転がして逃げられないようにし、見張りを立てておいて、逃げていく敵を追撃しました。

10:16 かの五人の王たちは逃げて行って、マッケダのほら穴に隠れたが、17 五人の王たちがマッケダのほら穴にかくれているのが見つかったと、ヨシュアに告げる者があったので、18 ヨシュアは言った、「ほら穴の口に大石をころがし、そのそばに人を置いて、守らせなさい。19 ただし、あなたがたは、そこにとどまらないで、敵のあとを追い、そのしんがりを撃ち、彼らをその町にはいらせてはならない。あなたがたの神、主が彼らをあなたがたの手に渡されたからである」。

ヨシュアのこの判断は正しかった。ほら穴に隠れている五人の王たちを処分している間に、敵の大部分は、自分の町に逃げ帰ってしまうでしょう。そうすれば、全面勝利は困難になります。

ヨシュアは、「彼らのしんがりを攻撃しなさい。」と命じています。「しんがり」とは、軍が退却する時、軍の最後にあって、敵の追撃を防ぐ軍勢のことです。ですから、通常、この「しんがり」には、強い者が当たっていたのです。五つの連合軍は、首領を失い、そして「しんがり」が打たれてしまうと、彼らは大混乱を起こして、逃げるのが遅くなってしまうのです。戦いは、敵のどこでもいいから、ワァと攻めればいいのではありません。要所を攻め落とすことによって、敵は一挙に壊滅状態になるのです。

たとえば、今の世の社会はどこが要になっているかというと、すなわち、何が崩れると、一般社会は混乱を起こすかというと、それは二つです。一つは政府が安定した力を失うことです。それは医療保険制度や、年金支給が危うくなってくること、増税によって現われてきます。ソロモン王国の崩壊も、偶像礼拝と増税によって国民を苦しめたからです。レハブアムもそれを続けてイスラエルは分裂したのです。もう一つは、会社の年功序列と終身雇用制度が崩れることによって、人々は非常な不安に陥り、自殺する者が急増するのです。他にもありますが、この二つは、社会混乱の要因だということができるでしょう。そしてそういう時が、今、私たちの周りに起きているのです。

その状況の中で、私たちは何をしなければならないのでしょうか。世の中が混乱し始める時、福音宣教にはチャンス到来ということができるでしょう。こういう混乱した社会にあって、確信を持って生き抜いている姿を見せ、互いに助け合って生きている姿を見せることは大きなあかしです。初代のクリスチャンたちが、迫害の中で、互いに分かち合い助け合って生きていた姿があかしとなって、救われる人が起こされ続けたのです。

ヨシュアの計画通り、逃げて行く敵はしんがりが打たれ、大混乱を起こし、ヨシュアたちは容易に彼らを非常に激しく打って、ほぼ全滅状態にすることができたのです。

10:20 ヨシュアとイスラエルの人々は、大いに彼らを撃ち殺し、ついに彼らを滅ぼしつくしたが、彼らのうちのがれて生き残った者どもは、堅固な町々に逃げこんだので、21 民はみな安らかにマッケダの陣営のヨシュアのもとに帰ってきたが、イスラエルの人々にむかって舌を鳴らす者はひとりもなかった。

生き残って、城壁のある町々に逃げ込んだ者たちは極めて少数でした。彼らは再び、軍勢を仕立てて大勢力となってイスラエルを攻撃することはできなかったのです。あの高慢と虚栄と怒りと憎しみに満ちた連合軍はこうして、露となって消えていったのです。神と神の民に敵対した者たちの運命がこのようになることは、歴史上、何度も繰り返されているのです。

21節の終わりを見ると、「イスラエルの人々にむかって舌を鳴らす者はひとりもなかった。」と記しています。というのは、それまではイスラエルに対する、ののしり、悪口、誹誘が続けられていたことを表わしています。しかし彼らの大部分は、ののしっていた口を死をもって封じられてしまったのです。生き残った者の口も恐怖の故に、封じられてしまったのです。

あなたの口からは、どんな言葉が出ていますか。ヤコブは、「わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。 同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。」(ヤコブ3:9~10)と言いました。ダビデは、「主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください。」(詩篇141:13)と祈っています。

22~27節、ヨシュアは敵の連合軍のほとんどを全滅させた後、高慢で、見栄と自己過信をもって神の民を征服しようとした五人の王たちの処分に取りかかりました。

10:22その時ヨシュアは言った、「ほら穴の口を開いて、ほら穴から、かの五人の王たちを、わたしのもとにひき出しなさい」。 10:23やがて、そのようにして、かの五人の王たち、すなわち、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシの王、およびエグロンの王を、ほら穴から彼のもとにひき出した。

ヨシュアが追撃の途中で、これらの五人の王たちを処分してしまわなかったのは、イスラエルの戦士たちに霊的教訓を十分に教えるためでした。高慢になって神に敵対する者に対する刑罰がいかなるものであるかを、じっくりと教えるためだったのです。

ヨシュアは、五人の王たちをほら穴の中から引き出して、イスラエルのすべての人々の前に連れてきて、自分といっしょに行った戦士たちを率いた人たちに、「近寄って、この王たちのくびに足をかけなさい」と命じました。

10:24この王たちをヨシュアのもとにひき出した時、ヨシュアはイスラエルのすべての人々を呼び寄せ、自分と共に行ったいくさびとの長たちに言った、「近寄って、この王たちのくびに足をかけなさい」。そこで近寄って、その王たちのくびに足をかけたので、 10:25ヨシュアは彼らに言った、「恐れおののいてはならない。強くまた雄々しくあれ。あなたがたが攻めて戦うすべての敵には、主がこのようにされるのである」。

この命令は、次の詩篇を思い起こさせます。

「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」(詩篇110:1)

これはイエス・キリストのご支配を預言しているのですが、ヨシュアという名前は「イエス」を予表する名前でもあり、ヨシュアのこの命令はイエス様の権威を予表する神の権威を表わす命令です。

神に敵対する高慢な征服者たちは、いつまでもその権力をほしいままに振る舞うことは許されないのです。「あなたがたが攻めて戦うすべての敵には、主がこのようにされる」(25節)のです。

「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。」(ペテロ第一 5:5)

こうして、この思いがけない戦いでの勝利は、ますます、イスラエルの戦士たちに、主の戦いに対する勝利を確信させ、再保証することになったのです。

25節の「恐れおののいてはならない。強くまた雄々しくあれ。」は、1章6、9節で、主がヨシュアに与えられた激励と保証でしたが、ヨシュアは自ら、そのことをよく経験して悟ったので、イスラエルの戦士たちにも、それを分かち与えたのです。

ヨシュア記1:6強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない。

ヨシュア記1:9わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない。

お互い、このように信仰を分かち合うことによって、共に信仰による勝利を経験していくようになれば、どんなに幸いなことでしょうか。

こうして、カナン南部の五人の王たちは、神の民が約束の地を受け継ぐことを妨げることができなかったのです。むしろ彼らの抵抗と妨害は、彼ら自身の絶滅を早めてしまう結果となってしまったのです。

エジプトの王パロも、アッシリアの王セナケリブもバビロンの王ネブカデネザルも、メドペルシャ時代のハマンも、神の民を撲滅しようとしましたが、すべて失敗に終わったばかりでなく、自らの絶滅を早めていったのです。その後のローマ帝国も、ドイツのナチスも、神の民を迫害することによって、同じ運命をたどって行ったのです。このことは、いかなる地上の権力者も、神のご計画を妨害し、阻止することはできないことを証明しています。

ですから、私たちも、もっと確信を持って、神の国を積極的に建設していこうではありませんか。困難や妨害する者たちは連合軍を組んで押し寄せて来るでしょう。しかし彼らは自らの破滅を早める行為をしているだけなのです。サタンは自分の命の短いのを知って、激しく吠えているだけなのです。

「それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである」。」(ヨハネの黙示録12:12)

これらの戦いの出来事についての聖書の歴史的記録と、実際上のこの地方の自然界の地理的地形との間には、細かい点に至るまで、一致して調和していることは、このことについての聖書の歴史的記録が正確であることを証明しています。

17節の「マッケダのほら穴」について。

この地域に、大きなほら穴があったことは、創世記19章30節、サムエル第一22章1節、同24章3節、列王記第一 18章4節、などに記されています。

創世記19:30ロトはゾアルを出て上り、ふたりの娘と共に山に住んだ。ゾアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘と共に、ほら穴の中に住んだ。

サムエル記22:1こうしてダビデはその所を去り、アドラムのほら穴へのがれた。彼の兄弟たちと父の家の者は皆、これを聞き、その所に下って彼のもとにきた。

サムエル記24:3途中、羊のおりの所にきたが、そこに、ほら穴があり、サウルは足をおおうために、その中にはいった。その時、ダビデとその従者たちは、ほら穴の奥にいた。

列王記上18:4イゼベルが主の預言者を断ち滅ぼした時、オバデヤは百人の預言者を救い出して五十人ずつほら穴に隠し、パンと水をもって彼らを養った。

28~39節、反乱軍の都市の破壊

ここでは、先の南部の五人の王たちに続いて、西部の地での戦いの勝利を簡潔に記しています。ここに記されている都市は、エルサレムから見て西に位置し、ヘブロンを高峰にして西の方に広がっている山のふもとに位置する小さい幾つかの丘につくられていた要塞都市であったのです。

ヨシュアは、マッケダを攻め取り、マッケダの王を打ち、その地のすべての者をひとりも残らず聖絶しています。

10:28その日ヨシュアはマッケダを取り、つるぎをもって、それと、その王とを撃ち、その中のすべての人を、ことごとく滅ぼして、ひとりも残さず、エリコの王にしたように、マッケダの王にもした。

マッケダの王と住民たちも反乱軍に加わっていたからでしょう。

その後すぐに、西に向かってリブナに向かい、主がその地もイスラエルの手に渡されています。

10:29こうしてヨシュアはイスラエルのすべての人を率いて、マッケダからリブナに進み、リブナを攻めて戦った。 10:30主が、それと、その王をも、イスラエルの手に渡されたので、つるぎをもって、それと、その中のすべての人を撃ち滅ぼして、ひとりもその中に残さず、エリコの王にしたように、その王にもした。

28節と30節に、「エリコの王にしたように、その王にもした。」と繰り返されていることは、エリコの攻略が基準になっていたことを示しています。

それからヨシュアはイスラエルの全軍を率いて、少し南に下り、ラキシュを攻めています。

10:31ヨシュアはまたイスラエルのすべての人を率いて、リブナからラキシに進み、これに向かって陣をしき、攻め戦った。 10:32主がラキシをイスラエルの手に渡されたので、ふつか目にこれを取り、つるぎをもって、それと、その中のすべての人を撃ち滅ぼした。すべてリブナにしたとおりであった。

主がラキシュをもイスラエルの手に渡されたので、二日目にラキシュは二日で陥落しています。ここでは、「すべてリブナにしたとおりであった。」とあり、リブナでの処置がその基準となっています。すべて徹底して、偶像礼拝といまわしい慣習と罪が取り除かれることがその基準となっていることを見ます。

ここでは、ラキシュと同盟を結んでいたゲゼルの王ホラムがラキシュを助けるために上って来ています。

10:33その時、ゲゼルの王ホラムが、ラキシを助けるために上ってきたので、ヨシュアは彼と、その民とを撃ち滅ぼして、ついにひとりも残さなかった。

「上ってきた」と記されているのは、ゲゼルがラキシュより低い地にあり、更に北にはずれていたからでしょう。そしてゲゼルも打ち破られてしまったのです。

ヨシュアはラキシュから更に西に向かってエグロンに進み、その日のうちに打ち取っています。ここでは、ラキシュがその基準になっています。

10:34ヨシュアはまたイスラエルのすべての人を率いて、ラキシからエグロンに進み、これに向かって陣をしき、攻め戦った。 10:35その日これを取り、つるぎをもって、これを撃ち、その中のすべての人を、ことごとくその日に滅ぼした。すべてラキシにしたとおりであった。

そこから真っ直ぐ、東のへブロンの高峰の要塞を攻めて、打ち落としています。ここではエグロンがその基準になっています。

10:36ヨシュアはまたイスラエルのすべての人を率いて、エグロンからヘブロンに進み上り、これを攻めて戦い、 10:37それを取って、それと、その王、およびそのすべての町々と、その中のすべての人を、つるぎをもって撃ち滅ぼし、ひとりも残さなかった。すべてエグロンにしたとおりであった。すなわち、それとその中のすべての人を、ことごとく滅ぼした。

ちなみに、このヘブロンは、アブラハムが住んだマムレの樫の木のあった所であり(創世記13:18)、アブラハムはここに祭壇を築き、ここで三人の旅人(一人は主)を迎え、サラをこの地のほら穴に葬り、彼自身もここに葬られていた(創世記25:9,10)。

創世記13:18アブラムは天幕を移してヘブロンにあるマムレのテレビンの木のかたわらに住み、その所で主に祭壇を築いた。

創世記25:9その子イサクとイシマエルは彼をヘテびとゾハルの子エフロンの畑にあるマクペラのほら穴に葬った。これはマムレの向かいにあり、 25:10アブラハムがヘテの人々から、買い取った畑であって、そこにアブラハムとその妻サラが葬られた。

この意味で、イスラエル人はぜひとも、このヘブロンを取り返したかったでしょう。

そこから更に南西に向かって、南の最後の要塞都市デビルに向かっています。

10:38またヨシュアはイスラエルのすべての人を率いて、デビルへひきかえし、これを攻めて戦い、 10:39それと、その王、およびそのすべての町々を取り、つるぎをもってそれを撃ち、その中のすべての人を、ことごとく滅ぼし、ひとりも残さなかった。彼がデビルと、その王にしたことは、ヘブロンにしたとおりであり、またリブナと、その王にしたとおりであった。

聖書が「デビルにひきかえし」と記しているのは、南パレスチナの地図を見ていただけると、よく分かると思います。ヨシュアたちはガザに近い西の低い地エグロンから、標高差八百メートルはあると思われる南パレスチナの最も高い地であるヘブロンを一気に攻めた後、今度、標高差約五百メートルは低いデビルに引き返しています。この行軍がどれくらい厳しいものであったかはお分かりでしょう。しかし、神による勝利を確信しているイスラエルの民には耐えられたのです。こうして彼らは南部パレスチナを征服したのです。

上の図は、ヨシュアが率いるイスラエル軍が反乱軍を攻め取っていく動き、青がイスラエル軍、赤が反乱軍。(参照:「バイブルワールド・地図でめぐる聖書」ニック・ペイジ著、いのちのことば社刊)


ここでの私たちが学ぶべき教訓は、何でしょうか。

ヨシュアが最後の敵が取り除かれるまで進軍し続け、戦い続けたように、私たちは最後の敵なる死が打ち破られるまで、信仰の戦いを続けるぺきではないでしょうか。この地上に生きている間は、悪魔の策略は毎日、やってきます。誘惑や試練、困難は絶えることがありません。また、私たちは弱さや欠点がなくなることはないでしょう。私たちは、毎日、信仰の更新をすることによって、全生涯が神に似た者へと変えられ続けていくのです。その間に、多くの人間の惑わしの声があなたにかけられるでしょう。「連合軍に加わらないか」という誘いも受けるでしょう。もし、その誘いに乗ってしまうと、自分に破滅をもたらすことになってしまいます。

カナンの住民が破滅させられた理由は、すべて霊的な理由によるのです。神は、エリコ人ラハブの家族やモアブ人ルツを神の家族として受け入れられたのですから、民族を滅ぼすことを目的としておられたのではないことは明らかです。神の刑罰は、すべて霊的理由によるのです。

神は肉の欲による生活と偶像礼拝が、どんなに人間を堕落させ、それが神の民にも悪い影響を及ぼすかを知っておられたのです。ですから、たとい、神の民であっても、神の戒めを無視して、肉の欲をほしいままにして生き、偶像礼拝を行なう者を、そのまま放置しておかれることはありません。(レビ記18:24、30、申命記9:5、同18:9~14)

レビ記 8:24またモーセはアロンの子たちを連れてきて、その血を彼らの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指とにつけた。そしてモーセはその残りの血を、祭壇の周囲に注ぎかけた。

レビ記 8:30モーセはまた注ぎ油と祭壇の上の血とを取り、これをアロンとその服、またその子たちとその服とに注いで、アロンとその服、およびその子たちと、その服とを聖別した。

申命記 9:5あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。

申命記 18:9あなたの神、主が賜わる地にはいったならば、その国々の民の憎むべき事を習いおこなってはならない。 18:10あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる者があってはならない。また占いをする者、卜者、易者、魔法使、 18:11呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。 18:12主はすべてこれらの事をする者を憎まれるからである。そしてこれらの憎むべき事のゆえにあなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。 18:13あなたの神、主の前にあなたは全き者でなければならない。 18:14あなたが追い払うかの国々の民は卜者、占いをする者に聞き従うからである。しかし、あなたには、あなたの神、主はそうする事を許されない。

この神の霊的原則は、今も変わっていません。魂の生まれ変わりが明確でない人に洗礼を授けて、「あなたはクリスチャンだ」と言って教会員にし、聖書をよく読んだことのない人を教会学校の教師にし、楽器が出来るから、話が上手だから、というので教会の奉仕を任せ、教会に来ている期間が長いからというだけで教会の役員にしているなら、わざわいを招くことになるでしょう。
神が霊的原則によって、敵対者を処分された、この方法は、イスラエルの民に対してだけではなく、すべての民に対して、聖書の主が全地の神であることを実際に分からせるのに、最も有効な方法であったと思われます。また、この方法は、神が、神の戒めを破って敵対する者の罪を、決して大目に見ることはないということを、強く印象づけることでも、有効であったと思われます。このことについて、パウロは、次のように言っています。

「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。」(ローマ11:22)

40~43節、南方作戦の総括

10:40こうしてヨシュアはその地の全部、すなわち、山地、ネゲブ、平地、および山腹の地と、そのすべての王たちを撃ち滅ぼして、ひとりも残さず、すべて息のあるものは、ことごとく滅ぼした。イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。10:41ヨシュアはカデシ・バルネアからガザまでの国々、およびゴセンの全地を撃ち滅ぼして、ギベオンにまで及んだ。

40節の、「ヨシュアはその地の全部、すなわち、山地、ネゲブ、平地、および山腹の地と、そのすべての王たちを撃ち滅ぼして、」は、占領した地域を大まかな地形で、総括的に表現しています。

「ひとりも残さず、すべて息のあるものは、ことごとく滅ぼした。」は、文脈から理解する必要があります。ガザには、アナクの子孫が残っていたし(11:22)、エルサレムには、エブス人が住み続けていました(15:63)。

ヨシュア記11:22それでイスラエルの人々の地に、アナクびとは、ひとりもいなくなった。ただガサ、ガテ、アシドドには、少し残っているだけであった。

ヨシュア記15:63しかし、ユダの人々は、エルサレムの住民エブスびとを追い払うことができなかった。それでエブスびとは今日まで、ユダの人々と共にエルサレムに住んでいる。

「彼らのうちのがれて生き残った者どもは、堅固な町々に逃げこんだ」(10:20)という記事もあります。それ故、これは総括的表現ということができます。ヨシュアは、これらの残っているカナン人たちと交わることに対する警告を忘れなかったのです(23:12,13)。

ヨシュア記23:12しかし、あなたがたがもしひるがえって、これらの国民の、生き残って、あなたがたの中にとどまる者どもと親しくなり、これと婚姻し、ゆききするならば、 23:13あなたがたは、しかと知らなければならない。あなたがたの神、主は、もはや、これらの国民をあなたがたの前から、追い払うことをされないであろう。彼らは、かえって、あなたがたのわなとなり、網となり、あなたがたのわきに、むちとなり、あなたがたの目に、とげとなって、あなたがたはついに、あなたがたの神、主が賜わったこの良い地から、滅びうせるであろう。

「イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。」は、カナン人に対する根絶命令は、神の審判の行為だったことを示しています。

「その地もまた汚れている。ゆえに、わたしはその悪のためにこれを罰し、その地もまたその住民を吐き出すのである。」(レビ記18:25)

「あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。」(申命記9:5)

「主はすべてこれらの事をする者を憎まれるからである。そしてこれらの憎むべき事のゆえにあなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。」(申命記18:12)

カナン人の心も生活も、悪に満ちており、それは社会生活の中に浸透し、宗教的にも習慣化しており、それは人間の創造者であられる神の御目に忌みきらわれるものとなっていたのです。

しかし、神の憐みは、長い間、与えられていたのです。ロトの時のソドムとゴモラの滅亡について、カナン人たちはよく知っていたし、オグとシホンの王たちについての審判も知っていたのに、これらのカナン人は悔い改めることをしなかったのです。そして、いざ、カナン全体に神の審判が下されることに気づいても、エリコのラハブの家族と、ギベオン人以外の部族たちは、神の憐みを求めて、神に立ち帰ろうとせず、神の民と戦うために同盟を結び、連合軍を組織したのです。

また、神に敵対したカナンの部族が根絶したことは、残っているカナン人に、イスラエルの神が全地の、すべての人間の主なる神であることを明確に悟らせるのに効果があったでしょう。

また、イスラエルの民は、神の力によって戦うことの意味を経験したばかりでなく、偶像礼拝と堕落した生活が、いかなる結果を招くかも学んだはずです。しかしこの教訓はヨシュアの死後、ほとんど活かされていません。クリスチャンは、毎週、神のみことばを聞いているのですが、それは生活の中で活かされているでしょうか。

「そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。」(ヤコブ1:22)

42節を見ると、ヨシュアは、この南部の地域を「いちどきに取った」と、一気に攻めたと示しています。

10:42イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたので、ヨシュアはこれらすべての王たちと、その地をいちどきに取った。 10:43そしてヨシュアはイスラエルのすべての人を率いて、ギルガルの陣営に帰った。

敵が息つくひまを与えなかったのです。長期戟になっていれば、ヨシュアの軍隊は危なかったかも知れません。

ヨシュアは、この勝利の秘訣を、「イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたので、」と言っています。

「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。」(ローマ8:31)

あとがき

今年は、猛暑の夏が過ぎ行くか、行かないかという時、今度は大雨による大洪水の被害。私共の所でも大雨と爆弾が破裂したような雷が鳴り響き、その雷で電話機とFAXが壊れてしまいました。電線を通じて過剰電流が流れたためだそうです。皆様の所では、いかがだったでしょうか。
私たちの教会員の家族に九月八日、女の赤ちゃんが誕生しました。赤ちゃんが生まれる度に思うことは、「この子も、イエス様を信じて天国に行ってほしい。」ということです。そのためには、ぜひとも両親に、良き信仰のあかしを立てていただかなければなりません。先日、私の兄が「世の中の子供たちのために何かを残したい。」と言っていましたが、私たちは信仰を残したいものです。

(まなべあきら 2000.10.1)
(聖句は口語訳聖書から引用。)


「聖書の探求」の目次


【月刊「聖書の探求」の定期購読のおすすめ】

創刊は1984年4月1日。2022年11月現在、通巻465号 エステル記、まだまだ続きます。

お申し込みは、ご購読開始希望の号数と部数を明記の上、振替、現金書留などで、地の塩港南キリスト教会文書伝道部「聖書の探求」係にご入金ください。
一年間購読料一部 1,560円(送料共)
単月 一部 50円 送料84円
バックナンバーもあります。
(複数の送料) 3部まで94円、7部まで210円.多数の時はお問い合わせ下さい。
郵便振替00250-1-14559
「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」

【地の塩支援献金のお願い】

地の塩文書伝道支援会は、福音宣教のために、ご協力をいただいています。ご献金くださる方は、郵便振替をご利用ください。(振替用紙は郵便局にもあります。)
・ 口座番号 00250一1-14559
・ 加入者名 宗教法人 地の塩港南キリスト教会 電話・FAX 045(844)8421
ご献金には、通信欄に「支援会のため」とお書きください。

お手元に使わない切手や書き損じのハガキなどがありましたら、ささげていただけませんか。(ハガキはそのままお送りください。)送料に大変役立ちます。


発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
〒233-0012 横浜市港南区上永谷5-22-2
電話FAX共用 045(844)8421