聖書の探求(197) ヨシュア記10章1~15節 ギべオン人の危機、山地の王たちとの戦い

この章から、南方軍の攻略が始まります。すなわち、ギベオン人を中心として、山地の王たちとの戦い(ベテホロンの戦い、10節)を記しています。


上の絵は、フランスのJames Tissot (French, 1836-1902) により描かれた「Joshua Commandeth the Sun to Stand Still(ヨシュアは太陽に天にとどまるよう命じた)」(ニューヨークのThe Jewish Museum蔵)


10章の分解

1~7節、ギベオン人の危機
8~15節、主による勝利
16~27節、五人の王の処罰
28~39節、反乱軍の都市の破壊
40~43節、南方作戦の総括

1~7節、ギベオン人の危機

ギベオン人が南パレスチナの部族の連合体から抜け出して、イスラエルに加わったことは南パレスチナの他の部族にとっては、苦しい危険な状況が到来したことを意味していた。彼らは、ヨシュアが、すぐに攻撃を始めると思った。そこで、エルサレムの王が中心になってイスラエルに対抗する連合軍を組織しました。その手始めに、反逆者であるギベオンを攻撃し始めたのです。

2節、ギベオンは決して小さい町ではなく、大きな町であり、王国の都の一つのようであり、人々は決して弱い民ではなく、みな勇士でした。だから、彼らがイスラエルに加わったのは、決して弱かったからではなく、神の御力とみわざとを恐れたからです。

10:1エルサレムの王アドニゼデクは、ヨシュアがアイを攻め取って、それを全く滅ぼし、さきにエリコとその王とにしたように、アイとその王にもしたこと、またギベオンの住民が、イスラエルと和を講じて、そのうちにおることを聞き、10:2大いに恐れた。それは、ギベオンが大きな町であって、王の都にもひとしいものであり、またアイより大きくて、そのうちの人々が、すべて強かったからである。

この世には、弱い者が信仰に逃げ込むと思っている人がいますが、それは偏見です。勿論、弱さを覚えて主を求める人もいるでしょうが、それであっても、主が真の神であられるから信じるというのが真実なことです。

民が神の側に、はっきり立ったことが分かると、しばしば、すぐに周りから反対が起きるものです。

10:3それでエルサレムの王アドニゼデクは、ヘブロンの王ホハム、ヤルムテの王ピラム、ラキシの王ヤピア、およびエグロンの王デビルに人をつかわして言った、 10:4「わたしの所に上ってきて、わたしを助けてください。われわれはギベオンを撃ちましょう。ギベオンはヨシュアおよびイスラエルの人々と和を講じたからです」。 10:5アモリびとの五人の王、すなわちエルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシの王、およびエグロンの王は兵を集め、そのすべての軍勢を率いて上ってきて、ギベオンに向かって陣を取り、それを攻めて戦った。

ギベオン人は自分たちの危険を悟ってヨシュアの所に使いを出し、助けを求めました。
こうして、イスラエル人はギベオン人と契約を結んだために、その後、五人の王が連合してギベオンを襲った時、ギベオン人の求めに応じて、彼らを助けなければならなかったのです。しかし神はこの愚かな契約をも利用して、南の五人の王をイスラエルの手に渡されたのです。神は私たちの愚かさや失敗をさえ、用いて益としてくださるのです。

「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。」(創世記50:20)

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28)

[危機に対するギベオン人の賢明な対処】

10:6ギベオンの人々は、ギルガルの陣営に人をつかわし、ヨシュアに言った、「あなたの手を引かないで、しもべどもを助けてください。早く、われわれの所に上ってきて、われわれを救い、助けてください。山地に住むアモリびとの王たちがみな集まって、われわれを攻めるからです」。

1、彼らは自ら恥じることなく、助けの必要を告白した。

もし彼らが、こんなことまで助けを求めるのは恥ずかしい。自分の知恵と力でやってしまおうと考えていたら、彼らは全滅していたでしょう。しかし私たちはしばしば、後者を選ぶことによって、神の道からはずれ、破滅への道を歩き始めるのです。

ギべオン人の周りの民は、よく知り合った友人たちの顔をしているけれども、いざとなると、向きを変えて攻撃してくる者たちであることを十分弁(わきま)えておかなければなりません。これは教会の中でも、しばしば起きることなのです。

「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩篇50:15)

「彼らはわたしの災の日にわたしを襲いました。しかし主はわたしのささえとなられました。主はわたしを広い所につれ出し、わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられました。」(詩篇18:18~19)

2、キベオン人は、山地に住むエモリ人の王たちよりも大いなる力をお持ちであるお方、主を信じる信仰を示しました。

彼らの信仰は、これまでヘシュボンの王シホンやバシャンの王オグになされたみわざと、満水のヨルダン川を渡って来たこと、エリコやアイに対するみわざについて聞いたことに基づいていたものであり、主ご自身を自分たち自身で経験したものではありませんでしたが、彼らは賢明に対処し、昔の仲間たちとの関係を戻して、昔の状態に帰ろうとはしなかったのです。彼らは、非常な危険に直面しても、うしろを向かなかったのです。うしろを振り返る者は、ロトの妻と同じようになります(創世記19:17,26)。

創世記 19:17彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」。
19:26しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。

イスラエルの民も、カデシュで、カナンに侵入することを恐れて、騒ぎ出し、「エジプトに帰る」と言い出して、神の刑罰を受けて、四十年間に、カレブとヨシュア以外全員、荒野で死んでしまったのです。これは例外なく行なわれることを示しています。

「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、」(ピリピ3:13)

ギベオン人は、この愚かさを繰り返さなかったのです。

3、キベオン人は、彼らの信仰の態度を示すと、すぐにその応答を受け取りました。

ヨシュアはすべての戦う民と、すべての勇士たちを率いて、ギルガルから上って来ました。

10:7そこでヨシュアはすべてのいくさびとと、すべての大勇士を率いて、ギルガルから上って行った。

そして主からも勝利のご命令が出されました。

10:8その時、主はヨシュアに言われた、「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手にわたしたからである。彼らのうちには、あなたに当ることのできるものは、ひとりもないであろう」。

こうしてギベオン人は、神の民に加わることによって、彼らが期待していた以上に、はるかに良い恵みを受けることを知ったのです。もし彼らが、神の民と戦っているか、また元の仲間との関係に戻っていたなら、彼らは破滅していたのです。この差を、私たちもよくよく認識する必要があるのではないでしょうか。

(エモリ人の五人の王)

エルサレムの王 アドニゼデク(中心)
ヘブロンの王 ホハム
ヤルムテの王 ピラム
ラキシュの王 ヤピア
エグロンの王 デビル

ヨシュアの本営はギルガルにありました(5:10、10:6)。

5:10イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、・・・

10:6ギベオンの人々は、ギルガルの陣営に人をつかわし、ヨシュアに言った ・・・

ギルガルは北のギルガルと南のギルガルがありますが、ここではエリコの近くの南のギルガルです。聖書に添付されている聖書地図などで確かめておいてください。そしてヨシュアの戦いの進め方について学んでいただきたいと思います。

ヨシュアの戦略がいかにすぐれたものであったかは、エモリ人の五人の王が、ヨシュアたちを恐れて、ギベオン人たちを攻撃したことに見られるように、王たちが恐怖で絶望的になっていたことで分かります。

ベテホロンの狭い道をイスラエルに占領されてしまったら、エモリ人たちには自分たちを保護する自然の防御策を失ってしまうことになったのです。

イスラエルは、この重要な自然要塞を占領してからは、さらにマケダからリブナ、ラキシュと勝ち進んでいくことができました。これらの地は、砂漠地帯から南へ上っていく起伏に富んだ丘陵地帯ですが、そこも難無く、勝ち進むことができたのです。

私たちのベテホロンは、自分中心の高慢で頑なな自我が打ち砕かれることです。ここが占領されないと敗北を繰り返すようになります。しかしここを抜けると、その後の生涯は、困難がやって来ても勝ち進むことができます。

8節以下の記録は、ヨシュアたちの作戦が順調に成功していったことを示しています。

8~15節、主による勝利

ヨシュアは最初からイスラエルが勝つことを確信していました。なぜなら、8節で主から「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手にわたしたからである。彼らのうちには、あなたに当ることのできるものは、ひとりもないであろう」と保証の顕現を与えられたからです。

真理とこの世の支配者サタンとの間、光と闇との間で戦っている人々は、主の勝利の約束を受けて確信していなければ、勝つことはできません。主は、いかなる場合にも、豊かな富の供給の源である真理の神なのです。

このような神の保証は、神の民を怠惰にするものではありません。神の民が何もしなくても、勝利を保証するものではありませんでした。ヨシュアたちは、敵に戦いの準備をする余裕を与えないために、夜通し行軍をして、突然、奇襲攻撃を加えたのです。

10:9ヨシュアは、ギルガルから、よもすがら進みのぼって、にわかに彼らに攻めよせたところ、 10:10主は彼らを、イスラエルの前に、恐れあわてさせられたので、イスラエルはギベオンで彼らをおびただしく撃ち殺し、ベテホロンの上り坂をとおって逃げる彼らを、アゼカとマッケダまで追撃した。

これは非常な努力を必要としました。神は怠惰な者や苦労を惜しむ者を助けたり、勝利を与えたりはしないのです。

10節、「主は彼らを、イスラエルの前に、恐れあわてさせられたので、イスラエルはギベオンで彼らをおびただしく撃ち殺し」た。「イスラエルの前に」とあるのは、主が、主の民に関心を示し、ご自分の民のために戦っておられることを表わしています。堕落した宗教と、みだらな生活をしている者たちが、神の民を威嚇し、攻撃しても、主はご自分の民を決して見捨てたりはしません。真理と神の義のために戦う者たちのために、神は御力を現わされるのです。高慢にも、神に敵対する者に対して、神は断固として戦われるのです。この戦いは、一回で勝利を得ています。

「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる。今度の事では、あなたは愚かな事をした。ゆえにこの後、あなたに戦争が臨むであろう」(歴代誌第二 16:9)

「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」(ヤコブ4:6)

11節、「彼らがイスラエルの前から逃げ走って、ベテホロンの下り坂をおりていた時、主は天から彼らの上に大石を降らし、アゼカにいたるまでもそうされたので、多くの人々が死んだ。イスラエルの人々がつるぎをもって殺したものよりも、雹に打たれて死んだもののほうが多かった。」

神はご自身に反抗する者に対して、自然という武器をもって戦われました。そして、決して逃れることができないのです。

「もろもろの星は天より戦い、その軌道をはなれてシセラと戦った。」(士師記5:20)

「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。」(ペテロ第二 3:10)

上の図は、ヨシュアが率いるイスラエル軍と、5人の王の同盟軍の動き。青がイスラエル軍、赤が同盟軍。(参照:「バイブルワールド・地図でめぐる聖書」ニック・ペイジ著、いのちのことば社刊)


12~14節、この部分は、人間の知性では、簡単に科学的に説明することはできません。

10:12主がアモリびとをイスラエルの人々にわたされた日に、ヨシュアはイスラエルの人々の前で主にむかって言った、「日よ、ギベオンの上にとどまれ、月よ、アヤロンの谷にやすらえ」。10:13民がその敵を撃ち破るまで、日はとどまり、月は動かなかった。これはヤシャルの書にしるされているではないか。日が天の中空にとどまって、急いで没しなかったこと、おおよそ一日であった。 10:14これより先にも、あとにも、主がこのように人の言葉を聞きいれられた日は一日もなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。

自然の法則をお造りになられた全能の神は、その自然の法則をご支配なさる権威をお持ちなのです。神の敵を破滅させるために大きな雹の石をお用いになった神は、光と闇を用いることもできるのです。モーセの時代に、エジプトのゴシェンには光を与え、その他の地は真暗闇にされたのです。自然界のすべてを創造され、ご支配される主権をお持ちの神が、ご自分の霊的ご目的を成し遂げるために物質界のものを使ったとしても、少しも不思議ではありません。ダビデは、肉眼で見ている宇宙は、神の霊的ご目的を成し遂げるために存在していると言っています。

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19:1)

「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」(詩篇24:1)

アモリ人の五人の王が支配する国民は、日と月を拝んでいたので、イスラエルの神は天地を創造し、天体をも支配する力を持っていることを示すために、ヨシュアは少しの躊躇もなく、宇宙の力を活用するように主に求めたのです。

私たちは、この奇跡がどのように行なわれたかを、知ることができません。しかし宇宙の創造者である神が、宇宙の運動をも支配している事実を信じるだけで十分です。これが歴史的事実であることは、ギリシャ、エジプト及び中国の昔の年代史に、聖書が示すとおり、一日の「長い日」があったことを記しています。

14節の「このような日は、先にもあとにもなかった。」という言葉は、このようなことが二度と行なわれていないことを強調しており、それは神が条件つきで、イスラエルのために行なわれた奇跡であることを意味しています。この言葉が付け加えられているのは、人間が無闇に奇跡を頼みとすることがないためです。私たちは、奇跡により頼むのではなくて、奇跡を行なわれる主ご自身に信頼して従うことが大切なのです。

旧約の奇跡の意義-神の全能の顕示、神の全能を民に知らせること。

新約の奇跡の意義-主イエスのなされた奇跡、神の愛とあわれみに基づく奇跡、神の愛とあわれみを民に知らせることが目的

【ベテホロンの戦い】

12,13節の記録を、単なる詩的な表現とする人もいます。

10:12主がアモリびとをイスラエルの人々にわたされた日に、ヨシュアはイスラエルの人々の前で主にむかって言った、「日よ、ギベオンの上にとどまれ、月よ、アヤロンの谷にやすらえ」。10:13民がその敵を撃ち破るまで、日はとどまり、月は動かなかった。これはヤシャルの書にしるされているではないか。日が天の中空にとどまって、急いで没しなかったこと、おおよそ一日であった。

たとえば、22節後半の「日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。」は、詩歌の一句として書かれているのであって、本当に奇跡が行なわれたのではないと言う人がいます。しかし、私たちは、神がご自身のしもべヨシュアの求めに答えるために、立ち上がられて、みわざを行なわれたと信じることができます。これらの節そのものは、事実としての奇跡が起きたことを教えています。けれども、この奇跡がどんな性格のものであったのか、正確に説明できる人はいないでしょう。ただ、この五人の王が支配する国民は、日と月を拝んでいたので、イスラエルの神は、天体をご支配される御力を持っておられることを示すために、その日、特別な奇跡を行なわれたことは、十分あり得ることです。

しかし、奇跡は、その行なわれた目的を離れて、誇大に考えたり、話したりすべきではありません。神はご自身の超自然的な力を持って働かれますが、一定の節度を保っておられることも分かります。

天文学者ケプラーは、この奇跡は、光の延長があったと思われると言っています。私たちにとっては、全宇宙の創造者であり、支配者である神が、天体の運動をも支配しておられることを信じるだけで十分です。モーセの時代に、エジプト人が暗黒の闇の中にいた間、ゴシェンのヘブル人には光を与えられた神がギベオンの上に、アヤロンの谷に、限定的に光を与えられることは容易なことです。

この出来事は「ヤシャルの書にしるされているではないか。」と言われていますが、ギリシャ、エジプト及び中国の古い年代史には、聖書が示すとおり、一日の「長い日」があったことを記しています。

あとがき

もし、あなたの生涯が、あと50年あるとすれば、あなたはその50年をどのように使おうと計画するでしょうか。もし、30年だったら、10年だったら、5年だったら。
「そんなの分からない。」と言ってしまえば、具体的な計画は立てられません。私は、今のところ、たいした病気はなく、ますます元気になってきていますので、ひとまず百才まで働く計画を立てようかと思っています。勿論、年とともに若い時のようには多くの仕事ができなくなりますが、充実はしてきます。
最近20代の時の説教ノートを見て、あの頃、もうこんなことが分かっていたのか、と驚くことがあります。百才になった時、どれだけ神に近づけるか楽しみです。そして神の家族が外国にまで広がりつつあることも、嬉しいことです。

(まなべあきら 2000.9.1)
(聖句は口語訳聖書から引用。)


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