聖書の探求(202) ヨシュア記13章 年老いたヨシュアへの挑戦、ヨルダンの東の地の分割
13~24章の記録の中心は、約束の地(カナン国土)の分割です。
上の地図は、ヨシュア記13章~19章に基いて描かれた「 “twelve tribes of Israel” (イスラエルの12部族)」(ダン族が北に移動する前のもの)(Wikimedia Commonsより)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:12_Tribes_of_Israel_Map.svg
この分割によって、イスラエルの各部族は、各々、その定住の地を得ました。これは後々に至っても、相続地の基本となり、何らかの原因で、この相続地が他人の手に渡った時でも、ヨベルの年には回復されました。
ユダヤ人がバビロン捕囚から復帰した時も、この古い分配の方式に従って、定められています。
地は神のものです(レビ記25:23)。
レビ記 25:23地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである。あなたがたはわたしと共にいる寄留者、また旅びとである。
これは、その究極においてだれも私物化することはできません。ただ、神からその使用権を受けているだけです。それ故、現代のように、土地を私有することは、わざわいを招くことになるのです。
13章では、ヨシュアはすでに年を重ねて老人になっていました。しかし主は、そのヨシュアに、なお、取るべき地がたくさん残っていることを指摘されました。
主は年老いた指導者に、さらに挑戦を与えられました。これは一面、残酷なようにも見えますが、神の幻と挑戦を失った指導者は、生けるしかばねになってしまいます。神の使命に生きている人は、年老いても、心に幻を抱き、神の挑戦を受けることを、喜びとしているのです。心に使命を失った時、その人は指導者の立場を去るべき時です。
1~7節、未占領地域のリスト
1節「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」
ヨシュア記 13:1さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた、「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている。
人は、いつか年をとり、神のために働くことができなくなります。しかし、神のお仕事がなくなってしまうことはありません。ですから、指導者は、自分が働くことができなくなる前に、神のために働くことができる霊的指導者を、出来るだけ多く訓練して育てておく必要があります。
この点で、ヨシュアは毎日、戦いに明け暮れして、神の人としての指導者を育てることができなかったのです。その結果、士師記に見られる無政府状態の混乱が続いたのです。ヨシュアの次に見られる霊的指導者は、サムエルの出現を待たなければなりません。
主は、神の民が目先の勝利で安堵して、腰を下ろしてしまわないように、警告しておられるのです。私たちは、いつでも、信仰によって、勝ち取っていくことを覚えなければなりません。幻を失い、今の生活に満足し、怠惰になり始める時、サタンの侵入と大敗北が忍び寄っていることを知らなければなりません。
指導者に幻がないために、国は滅んでいるのです。幻を失った民は、滅びます。幻を失った教会もまた同じです。主がパウロにマケドニヤ人の幻を見せた時(使徒16:9,10)、キリストの福音宣教は、ヨーロッパへと新しい展開を始めたのです。年老いたパウロの前にも取るべき地はたくさん残っていたのです。
2~6節に記されている、なお残っている占領すべき地域は、パレスチナの南西部のペリシテ人の領域と、北西部のシドンからレバノンにかけてのフェニキヤ人たちの領域でした。
ヨシュア記 13:2その残っている地は、次のとおりである。ペリシテびとの全地域、ゲシュルびとの全土、 13:3エジプトの東のシホルから北にのびて、カナンびとに属するといわれるエクロンの境までの地、ペリシテびとの五人の君たちの地、すなわち、ガザ、アシドド、アシケロン、ガテ、およびエクロン。 13:4南のアビびとの地、カナンびとの全地、シドンびとに属するメアラからアモリびとの境にあるアペクまでの部分。 13:5またヘルモン山のふもとのバアルガデからハマテの入口に至るゲバルびとの地、およびレバノンの東の全土。 13:6レバノンからミスレポテ・マイムまでの山地のすべての民、すなわちシドンびとの全土。わたしはみずから彼らをイスラエルの人々の前から追い払うであろう。わたしが命じたように、あなたはその地をイスラエルに分け与えて、嗣業とさせなければならない。 13:7すなわち、その地を九つの部族と、マナセの半部族とに分け与えて、嗣業とさせなければならない」。
この地域では、依然として敵の勢力は根強く、根拠地を持って動いていたのです。サムソンが敗北したのは、ペリシテ人の勢力に対してであり、バアルやアシェタロテの偶像がイスラエルに持ち込まれたのは、フェニキヤからであり、アハブの妻となったイゼベルもフェニキヤ人です。ですから、主のご命令に従って、彼らを滅ぼしておけば、後々の悲惨なことは起きなかったのです。目先、大変だと思って、小さい妥協をしていると、先に行って、それが大きな敗北となって現われてくるのです。
6節で、主は、「わたしは彼らをイスラエル人の前から追い払おう。」と言ってくださっているのですから、これらの敵の攻略を後代の人に残さず、ヨシュアの手で行なっていればイスラエルはもう少し、主に忠実な歴史を残すことができたかも知れません。
私たちも信仰の初期の間に、この世と妥協するものを、すべて滅ぼしてしまっておくなら、後の生活は、非常に恵みに満ちた、主に忠実なものとなるでしょう。しかし、それらを後の課題として残しておくなら、それがあなたを滅亡に引っ張り込まないとも限らないのです。聖書は、聖潔の恵みを約束してくださっているのですから、それを後回しにせず、徹底させてください。
「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」(コリント第二7:1)
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ロ-マ12:2)
1、私たちは、自分の一生涯よりも、ずっと 大きな仕事を、主から委ねられていることを知らなければなりません。
2、私たちがどんなに勤勉に奉仕を続けてもなお、キリストの福音を一度も聞いたこと のない人がいるのだと気づかなければなりません。ヨシュアが一生涯をかけて働いた働きは、イスラエルの民が神の約束の地でずっと生活するための扉を開いたにすぎなかったのです。その働きを続けるには、キリストに忠実に従って来る者が起こされなければなりません。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なう わざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12)
3、神の働き人も、その年齢と共に仕事の内容に変化が生じてきます。
ヨシュアは若い頃は、モーセの従者として働き、その後、彼はイスラエル軍の司令官として働き、この働きが彼の生涯のほとんどの期間でした。老境に入った時、彼は国土を、各部族の相続地とするために分割、調整する行政的な働きをしています。彼の仕事の内容は変わりましたが、彼は神のご命令に従い続けたのです。神の召命の中には、こういう働きも含まれていたのか、と思わせられるものに出会うことがありますが、神の召命の中にとどまり続け、忠実に従いたいものです。
4、神の力や賜物は、種の形で与えられています。それを育てて、活用、訓練し、開発する時、さらに、その利用価値は高まり、多くの収穫を刈り取ることができるようになるのです。しかし、信仰の入口に立ち止まり、それ以上に先に進もうとせず、成長させることを怠るなら、せっかく与えられた賜物も失ってしまいます。一夕ラントを預かった悪いしもべと同じになってしまうのです(マタイ25:24~30)。
5、ヨシュアは、国境の境界線を明確に記すことによって、後々の子孫たちが、争いを起こしたり、巻き込まれたりするのを防いでいます。このように明確な土地の区画の記録を作ることは、大変、面倒なことですが、争いを生じた時は、非常に役立ちます。このことはヨシュアが後々の子孫のために、非常に注意深く作業をしたことが表わされています。
神は、ご自分の民に怠惰でなく、勤勉であることを求めておられるのです。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」(ローマ12:11)
8~33節、ヨルダンの東の地の分割記録
この箇所は、神のしもべモーセが、マナセの半部族とルベン人とガド人に与えたヨルダン川の東の地域の相続地について記しています。
8~13節は、一般的な記録で、14~33節は、各々に与えられた主要な町々と地域について記しています。
ヨシュア記 13:8マナセの他の半部族と共に、ルベンびとと、ガドびととは、ヨルダンの向こう側、東の方で、その嗣業をモーセから受けた。主のしもべモーセが、彼らに与えたのは、 13:9アルノンの谷のほとりにあるアロエル、および谷の中にある町から、デボンとメデバの間にある高原のすべての地。 13:10ヘシボンで世を治めた、アモリびとの王シホンのすべての町々を含めて、アンモンの人々の境までの地。 13:11ギレアデと、ゲシュルびと、ならびにマアカびとの領地、ヘルモン山の全土、サルカまでのバシャン全体。 13:12アシタロテとエデレイで世を治めたバシャンの王オグの全国。オグはレパイムの生き残りであった。モーセはこれらを撃って、追い払った。 13:13ただし、イスラエルの人々は、ゲシュルびとと、マアカびとを追い払わなかった。ゲシュルびとと、マアカびとは、今日までイスラエルのうちに住んでいる。
13節、「ただし、イスラエルの人々は、ゲシュルびとと、マアカびとを追い払わなかった。ゲシュルびとと、マアカびとは、今日までイスラエルのうちに住んでいる。」
「今日までイスラエルのうちに住んでいる。」というのは、この事の記録者ヨシュアが生きている間、イスラエル人の間に異教の民が混在して住んでいたことを意味しています。ヨシュアにとって、よほど、このことが気になっていたのでしょう。あるいは、イスラエル人が彼らの異教の影響を受けて、偶像礼拝に陥るのではないかという強い懸念を示していたと思われます。この心配は、ヨシュアの死後、霊的指導者のいない士師記の時に顕在化してきて、それはサムエルが現われる時代まで続くのです。
これを霊的に考えるなら、パウロは、「この世と調子を合わせてはいけません。」(ローマ12:2)と警告していますが、この世と調子を合わせる性質が、私たちの内に少しでも残っているなら、やがて私たちの内側は、この世に占領され、支配されてしまう危険を孕んでいるのです。一度、回心した人が、再び、この世の罪の生活に舞い戻ってしまっているのは、実に同じ理由によるのです。罪は犯した罪が赦されるだけでなく、罪の根(罪の性質)までも取り除かなければなりません。
パウロは、この経験について、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)と、あかししています。
15~21、23節、ルベンの相続地は、ヨルダンの東の最南端の高地の台地が与えられています。
ヨシュア記 13:15モーセはルベンびとの部族に、その家族にしたがって嗣業を与えたが、 13:16その領域はアルノンの谷のほとりにあるアロエル、および谷の中にある町からメデバのほとりのすべての高原、 13:17ヘシボンおよびその高原のすべての町々、デボン、バモテ・バアル、ベテ・バアル・メオン、 13:18ヤハヅ、ケデモテ、メパアテ、 13:19キリアタイム、シブマ、谷の中の山にあるゼレテ・シャハル、 13:20ベテペオル、ピスガの山腹、ベテエシモテ、 13:21すなわち高原のすべての町々と、ヘシボンで世を治めたアモリびとの王シホンの全国に及んだ。モーセはシホンを、ミデアンのつかさたちエビ、レケム、ツル、ホルおよびレバと共に撃ち殺した。これらはみなシホンの諸侯であって、その地に住んでいた者である。
13:23ルベンびとの領域はヨルダンを境とした。これはルベンびとが、その家族にしたがって獲た嗣業であって、その町々と村々とを含む。
これらの地は、モーセの時代に征服されていました(民数記21:24、31:8)。これらの地域は、すでに強力な王国が築かれており、その支配者たちは「王」、「君主」、「首長たち」と呼ばれており、権力的支配化社会が存在していたことを示しています。
24~28節、ガド部族の相続地はルベンの地の北にあり、ヘシュボンの王国の一部を有し、キネレテ(ガリラヤ)湖にまで達しています。
ヨシュア記 13:24モーセはまたガドの部族、ガドの子孫にも、その家族にしたがって、嗣業を与えたが、 13:25その領域はヤゼル、ギレアデのすべての町々、アンモンびとの地の半ばで、ラバの東のアロエルまでの地。 13:26ヘシボンからラマテ・ミゾパまでの地、およびベトニム、マハナイムからデビルの境までの地。 13:27谷の中ではベテハラム、ベテニムラ、スコテ、およびザポンなど、ヘシボンの王シホンの国の残りの部分。ヨルダンを境として、ヨルダンの東側、キンネレテの湖の南の端までの地。 13:28これはガドびとが、その家族にしたがって獲た嗣業であって、その町々と村々とを含む。
29~31節、マナセの半部族の地は、さらにガドの北に位置し、ギルアデの北半分と、バシャンのオグの王国の全部を含む広大な地が与えられています。
ヨシュア記 13:29モーセはまたマナセの半部族にも、嗣業を与えたが、それはマナセの半部族が、その家族にしたがって与えられたものである。 13:30その領域はマハナイムからバシャンの全土に及び、バシャンの王オグの全国、バシャンにあるヤイルのすべての町々、すなわちその六十の町。 13:31またギレアデの半ば、バシャンのオグの国の町であるアシタロテとエデレイ。これらはマナセの子マキルの子孫に与えられた。すなわちマキルの子孫の半ばが、その家族にしたがって、それを獲た。
これらはすべて、ヨルダン川の東のモアブ、ギルアデ、バシャンの草原で、その東側は荒野になっていたのです。
14、33節、ニ度も、レビの部族には相続地が割り当てられないことが記されています。
ヨシュア記 13:14ただレビの部族には、ヨシュアはなんの嗣業をも与えなかった。イスラエルの神、主の火祭が彼らの嗣業であるからである。主がヨシュアに言われたとおりである。
13:33ただし、レビの部族には、モーセはなんの嗣業をも与えなかった。イスラエルの神、主がその嗣業だからである。主がモーセに言われたとおりである。
彼らの生活はイスラエルの民が主にささげる火によるささげ物によって養われ、彼らの真の相続地は、主ご自身だったのです。
他の部族がすべて広大な土地を相続地として与えられているのに、レビの部族だけ、霊的な相続地として神ご自身だけが与えられたと言われても、もしあなたがレビ人だったら、仲々、納得しかねるところがあるのではないでしょうか。これは神を非現実のお方としてしか見ていないからです。私たちは、自分に納得できないものは、すべて非現実的に見えるのです。
しかしもし、あなたが、本当に、主が天地を創造されたお方であり、すべての恵みも、祝福もみこころのままにお与えになる源のお方であることを体験として知ったなら、広大な土地を相続するよりも、主ご自身を相続することの方を選ぶでしょう。
しかし、現実に主の方を選んでみると、苦しいことの方ばかりが多いじゃないか、と言われるかも知れません。それは、あなたが主から与えられた恵の大きさに気づいていないからかも知れません。主はしばしば、恵みと祝福の種を下さるのです。それを活用する時、その真価を悟るのです。
次に、まだ結論は出ていないことです。紫の衣を着た金持ちはゲヘナに行き、乞食のラザロはアブラハムのふところに抱かれたのです。
私たちは物質的な物に高い価値をつけやすく、神ご自身と霊的いのちには、高い価値を見い出すことができないのです。その価値を実感していないからです。
ですから、肉体的病気のいやしには、奇跡だと言って驚くけれども、魂のいやしには、ほとんど価値を感じないのです。しかし本当は、肉体はやがて朽ちるけれども、魂は永遠に生きるのですから、魂のいやしこそ、重要なのです。さらに、この魂に神の永遠のいのちを持っているなら、朽つべき肉体も復活させていただけることが分かれば、霊的いのちがさらに重大であることを悟ることができるでしょう。
「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」(ヘブル11:24~26)
モーセの信仰の選択は見事で、偉大だったのです。その仕方は、エジプト人を打ち殺すという方法で、芳しいものではなく、若いモーセらしく知恵に欠けていましたが、彼の信仰の選択は間違ってはいなかったのです。彼はその信仰の選択をした時、四〇年、ミデヤンの荒野で、孤独で、自分の無力さを教えられる神の訓練を受けたのです。
私たちは国籍を天に持つ者として(ピリピ3:20)、神の霊的祝福のために奉仕する者とならせていただきたいものです。
主のみこころは、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)です。
レビ族に土地の相続が与えられなかったのは、彼らが神に専心仕えるためだったのです。
「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。」(詩篇16:5)
「私は、レビ人の分が支給されないので、仕事をするレビ人と歌うたいたちが、それぞれ自分の農地に逃げ去ったことを知った。私は代表者たちを詰問し、『どうして、神の宮が見捨てられているのか。』と言った。そして、私はレビ人たちを集め、もとの持ち場に戻らせた。」(ネヘミヤ13:10,11)
「この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする。彼らは、主に、義のささげ物をささげる者となり、ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日のように、ずっと前の年のように主を喜ばせる。」(マラキ書3:3,4)
22節、ベオルの子バラムは剣で殺されています。
ヨシュア記 13:22イスラエルの人々はまたベオルの子、占い師バラムをもつるぎにかけて、そのほかに殺した者どもと共に殺した。
バラムの記事は民数記22~24章に記されていますが、ここでは「占い師」と呼ばれています。かつて、神のみことばを受けて取り次いでいた者も、神から離れてしまうと、この世の占い師になってしまうのです。
この男バラムについては、後の人たちによって警告の材料として度々、引用されています。
「ついで、モアブの王チッポルの子バラクが立って、イスラエルに敵し、人をつかわし、ベオルの子バラムを招き、あなたがたをのろわせようとしたが、わたしがバラムに聞こうとしなかったので、彼は、かえって、あなたがたを祝福した。こうしてわたしは彼の手からあなたがたを救い出した。」(ヨシュア記24:9,10)
「それは、彼らがパンと水をもってイスラエル人を迎えず、かえって彼らをのろうためにバラムを雇ったからである。しかし、私たちの神はそののろいを祝福に変えられた。」(ネヘミヤ13:2)
「わたしの民よ。思い起こせ。モアブの王バラクが何をたくらんだか。ベオルの子バラムが彼に何と答えたか。シティムからギルガルまでに何があったか。それは主の正しいみわざを知るためであった。」(ミカ6:5)
「彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。」(ペテロ第二2:15,16)
「忌まわしいことです。彼らは、カインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。」(ユダ11)
「しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前につまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。」(ヨハネの黙示録2:14)
バラムのように、神の恵みを受けながらも滅んでいった者は、他にも、カイン、コラ、アカン、アナニヤとサッピラを挙げることができます。
バラムから警告として受け止めるべき教訓を以下に挙げておきましょう。
① 自分に与えられている才能や知識や立場を使って、神の民をのろうことは罪である。
② 金銭や名誉や人の評価を手に入れるために神(信仰)を利用することは、神にのろわれる(使徒5章のアナニヤとサッピラの夫婦、使徒8章の魔術師シモン、使徒19章のユダ ヤの祭司長スケワの七人の息子)。
③ 金銭を追い求めることは、霊的破滅をもたらす(テモテ第一6:9,10)
テモテ第一 6:8ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。 6:9富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。 6:10金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。
「・・・貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ。』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」(箴言30:8,9)
④ 自分の信仰の良心に不誠実になり、自分の肉的欲望を押し通すために、いろいろ理由付けをしているなら、その実行する行ないは、腐敗したものとなり、神のみこころを損なう。
⑤ 神(聖霊)の警告を振り切って、故意に神に逆らい続けると、刑罰は遅れても、必ずやって来る。
⑥ 富を手にし、人々からチャホヤされていても、この世の罪の楽しみは束の間のことで、すぐに過ぎ去り、その後にはむなしい惨めな運命が待っているだけである。
⑦ 霊的な力、賜物を持っていることは、キリストの救いを保証していない。
⑧ 自分に与えられている才能、富、時間、健康、知識、その他のあらゆる賜物を、神の栄光を現わすために使わない人は、自分の人生を無駄に終わらせてしまう人である。
⑨ サタンのように聖書のことばや知識を、人をのろったり、悪を助長するために使う人は、神の民の中から断たれてしまう。
⑩ 神をのろう者の仲間となる者は、彼らと同じ運命をたどることになる。
あとがき
今年もー年、聖書の探求をお読み下さり、感謝申し上げます。主の御思いと愛を少しでもお届けできたら、この上ない喜びです。
私たちは、知識や儀式だけの宗教になりたくないと、いつも思っています。いつも精一杯、主を愛して、賛美して、互いにあかしする信仰を持っていたいと思っています。いつも心にイエス様の血潮が流れていて、苦難の中でも喜んで主に従って行くことのできる信仰者でありたいと思います。
来年も、心を尽くして主に仕える働きをする信仰の決意をしております。皆様の働きも祝されますように。今年は災害の多い年でした。私の周りでも、突然、驚くべきことが起こったり、悲しむべきことが起きたりでしたが、主の助けをいただいております。感謝。
(まなべあきら 2001.1.1)
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