聖書の探求(209) ヨシュア記20章 六つの「のがれの町」について

この章は、六つの「のがれの町」について記しています。

この「のがれの町」は、故意にではなく、あやまって、知らずに、過失として、人を死なせてしまった場合、その人が復讐者の手にかかって殺されないために、逃げ込むために、主が定めてくださった町です。


上の絵は、1901年にthe Providence Lithograph Companyによって出版されたBible cardの1枚「Cities of refuge, as in Joshua 20:1-9(ヨシュア記20章1~9節より、のがれの町)」(Wikimedia Commonsより)


ヨシュア 20:1そこで主はヨシュアに言われた、 20:2「イスラエルの人々に言いなさい、『先にわたしがモーセによって言っておいた、のがれの町を選び定め、 20:3あやまって、知らずに人を殺した者を、そこへのがれさせなさい。これはあなたがたが、あだを討つ者をさけて、のがれる場所となるでしょう。

それ故、この「のがれの町」は、イエス・キリストの贖(あがな)いの予表です。イエス様は、私たちの罪のためだけでなく、気づかずに犯してしまっている多くのあやまち、過失に対しても十字架にかかって、贖(あがな)いを成し遂げてくださっているのです。

「罪は悔い改めなければならないけれど、過失は悔い改めなくてもいいんだ。」ということにはなりません。過失は罪ではありませんが、やはり、神の栄光を現わさないし、他の人に迷惑をかけてしまいますから、自分で気づいたり、他の人から教えられたりするなら、へりくだって、悔い改め、イエス様の十字架を仰ぐことが必要です。しかし過失の多くは、自分が気づいていません。その気づいていない多くの過失のためにも、イエス・キリストは十字架にかかって、贖(あがな)いを成し遂げてくださったのです(身代わりの代価として死んでくださったのです)。

「わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。」(ヨハネ第一2:1)

「だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。また、あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されることのないようにしてください。そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、大いなるとがを免れることができるでしょう。わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。」(詩篇19:12~14)

この「のがれの町」については、すでに、次の箇所に、記されていました。

出エジプト記21:13、
民数記35:10~15、22~29、
申命記19:1~21、

(聖書の探求)のこれらの箇所にも、記しておきましたので、お読みください。

「のがれの町」の六つは、ヨルダン川をはさんで、西に三つと、東に三つ、定められていました。

ヨルダン川の西には、ナフタリの山地にあるガリラヤのケデシュ、エフライムの山地にあるシェケム、ユダの山地にあるキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンです(7節)。

ヨシュア 20:7そこで、ナフタリの山地にあるガリラヤのケデシ(ケデシュ)、エフライムの山地にあるシケム(シェケム)、およびユダの山地にあるキリアテ・アルバ(キルヤテ・アルバ)すなわちヘブロンを、これがために選び分かち、

「山地」と訳されているのは、山の上というより、「丘の地方」という意味です。丘陵地帯という意味です。

ヨルダン川の東では、ルベン族から高地の荒野にあるベツェル、ガド族からギルアデのラモテ、マナセ族からバシャンのゴランです(8節)。

ヨシュア 20:8またヨルダンの向こう側、エリコの東の方では、ルベンの部族のうちから、高原の荒野にあるベゼル(ベツェル)、ガドの部族のうちから、ギレアデ(ギルアデ)のラモテ、マナセの部族のうちから、バシャンのゴランを選び定めた。

これらの六つの町々は、その当時の社会では、最も冷静に知的な判断ができると思われる祭司やレビ人が割り当てられていた町々の一部から選ばれていると思われます(これは確定的ではありません。)。

4節、「門の入口」は、当時、今日の役所や裁判所のような公的な場所で、そこで取り決めたことは、公的な効果を持っていたのです。

ヨシュア 20:4その人は、これらの町の一つにのがれて行って、町の門の入口に立ち、その町の長老たちに、そのわけを述べなければならない。そうすれば、彼らはその人を町に受け入れて、場所を与え、共に住ませるであろう。

ですから、ルツ記に記されているボアズは、「門のところへ上って行って、そこにすわ」(ルツ記4:1)り、町の長老十人を招いて、エリメレクの畑とルツを買い戻すことについて話し合ったのです。そして、第一の買い戻しの権利のある人が、買い戻しの権利を放棄したので、ボアズは自分が買い戻すことを宣言し、買い戻したのです。その門にいた人々と長老たちは、その証人となりました。この買い戻しをしたボアズは、私たちを贖(あがな)って下さったイエス・キリストを予表する人ですが、門で行なわれたことは、だれも、くつがえすことができない、公的取り決めとなったのです。

殺人者は、この町の門の入口に立って、その町の長老たちに聞こえるように、自分が殺人の意志を持っていなかったことを証明する必要がありました。その後、彼は、その真実さが認められると、のがれの町に受け入れられて、住む所を与えられるのです。

もし、その殺人者が故意に、計画的に人を殺した事実が判明したなら、その殺人者は、死の犠牲者の最も近親者の血の復讐をする者に引き渡さなければなりません。

しかし、人を殺してしまった場合でも、それが故意にでもなく、計画的にでもなく、あやまって過失として殺してしまったことが判明したなら、その人は怒りと憎しみに満ちている血の復讐者から、命が保護されなければなりません。その人は大祭司が死ぬ時まで、その「のがれの町」にとどまることができました。当時は、大祭司の死が、「期限に関する法令」だったのです。

ヨシュア 20:5たとい、あだを討つ者が追ってきても、人を殺したその者を、その手に渡してはならない。彼はあやまって隣人を殺したのであって、もとからそれを憎んでいたのではないからである。 20:6その人は、会衆の前に立って、さばきを受けるまで、あるいはその時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。そして後、彼は自分の町、自分の家に帰って行って、逃げ出してきたその町に住むことができる』」。

ここには深い意味があります。アロン系の大祭司は次々に死んで、その法令の効力は消滅していきました(ここでは、復讐者は復讐する権利を失ったものと思われます。ですから、殺人者には、家に帰る自由が与えられています。)。しかし、イエス様は永遠に生きていて、私たちを永遠に救い、永遠にとりなしていてくださる永遠の大祭司です。彼は死ぬことがなく、彼の贖(あがな)いは効力を失うことがないのです。こうして、罪人であった私たちは、罪に対しても、過失に対しても、神の怒りの審判を受ける危険にさらされることもなく、私たちの罪とあやまちの記録は完全に抹消され、主が備えてくださった父の家に連れて行ってくださるのです(ヨハネ14:1~3)。また、天の故郷に帰らせてくださるのです(ヘブル11:10、13~16)。

「あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。」(コロサイ2:13,14)

「このようにして、イエスは更にすぐれた契約の保証となられたのである。 7:23かつ、死ということがあるために、務を続けることができないので、多くの人々が祭司に立てられるのである。しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。」(ヘブル7:22~25)

この「のがれの町」から、私たちが受けとるべき真理は何か。それを幾つか挙げておきましょう。

1、この「のがれの町」は神ご自身が、優先して定めておられることに注目したい。

各部族の相続地の割り当ては終わったのですが、主がモーセに命じておいた「のがれの町」については、まだ何も手がつけられていなかったので、主はヨシュアに命じて、イスラエル人に実行させたのです。主がこのことを忘れたり、軽視したりしておられないことは、主が、ご自分の民の過失に対しても深いあわれみに満ちた神であることを、明らかに
証明しています。ですから、私たちも、この主のみこころを知って、他の人の過失に対して、あわれみ深く取り扱いたいものです。

「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」(コロサイ3:12,13)

2、主は、故意な、意志的な殺人と、不慮の事故や過失による殺人とを、はっきりと区別されました。

この明白な事実は、主が、結果としての行為よりも、その人の動機を重要視しておられることが分かります。主の裁きは、行為そのものよりも、それを行なった動機に向けられています。ですから、信仰者は、神の愛をいただいていながら、愛の行ないをしなければ、「私は何も悪いことはしていません。」と言い逃れることはできません。主は、「あなたは神の愛を受けていながら、なぜ、まわりの者に愛の行ないをしなかったのか。」と問われるのです。

「すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。
そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。
そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。
そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命(いのち)に入るであろう。」(マタイ25:40~46)

マタイの福音書19章16~22節の金持ちの青年は、どんな悪いことをしたので、永遠のいのちを受けることができなかったと言っているでしょうか。聖書は、彼が悪いことをしたからだとは、一言も記していません。ただ、彼は、自分の多くの財産を惜しんで、彼のまわりに主が置いてくださった貧しい人々に愛の施しをしなかったために、永遠のいのちを受けることができなかったのです。

ルカの福音書16章19~31節の紫の衣を着た金持ちは、どんな悪いことをしたのでハデスの炎の中に投げ込まれたと言っているのでしょうか。聖書は、彼が悪事を行なったことについては、一言も記していません。彼は、主が自分の目の前に置いてくださった貧乏人のラザロに愛の施しをせず、友人とならなかったことによって、ハデスの炎の中に行ったのです。勿論、この上に、さらに悪事を重ねていれば、そして主の贖(あがな)いを拒むなら、その人が永遠の地獄に行くことは、その人の受ける報酬となりましょう。しかし、地獄には、「私は何も悪いことはしなかった。」と言いつつ、自分のまわりに主が置いてくださった人々に対して、愛の動機をもって、主の愛を分かち与えなかった人が沢山いることでしょう。

主は、こう言われています。

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイ7:21~23)

これらのどの聖句を見ても、主の判断は見かけ上の行ないではなくて、その動機である
ことが、お分かりいただけるでしょう。

「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル第一16:7)

「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる。」(歴代誌第二16:9)

「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」(蔵言4:23)

3、9節、「これらは、イスラエルのすべての人々、およびそのうちに寄留する他国人のために設けられた町々であって、すべて、あやまって人を殺した者を、そこにのがれさせ、会衆の前に立たないうちに、あだを討つ者の手にかかって死ぬことのないようにするためである。」

このみことばを見ると、主はイスラエル人だからという理由で、特別に保護されるのではなくて、罪がない人、罪が赦されている人を、保護したいと、特に願っておられることが分かります。

ですから、私たちは、主に救いを求め、助けを求めるために、躊躇したり、遠慮したりする必要はないのです。否、躊躇したり、遠慮してはいけないのです。そうすることは、謙遜に見えていますが、不信仰につながってしまうのです。私たちは主に積極的に大胆に恵みを求めるべきです。

「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」(ヘブル4:16)

(まなべあきら 2001.9.1)
(聖句は、口語訳聖書より)


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