聖書の探求(210) ヨシュア記21章 レビ人の町々

この章は、レビ人の町々を記しています。

1~42節、レビ人の町々
43~45節、主の忠実さと、主の約束の全き成就


上の絵は、Phillip Medhurst Collection of Bible illustrationsより「The allotment to the Levites(レビ人への割当て地)」(Wikimedia Commonsより)


1~42節、レビ人の町々

ヨシヤ 21:1 時にレビの族長たちは、祭司エレアザル(エルアザル)、ヌンの子ヨシュアおよびイスラエルの部族の族長たちのもとにきて、 21:2 カナンの地のシロで彼らに言った、「主はかつて、われわれに住むべき町々を与えることと、それに属する放牧地を、家畜のために与えることを、モーセによって命じられました」。

1,2節、「時にレビの族長たちは、祭司エレアザル(エルアザル)、ヌンの子ヨシュアおよびイスラエルの部族の族長たちのもとにきて、・・・ 彼らに言った」

レビ人のかしらたちは、主が彼らに与えると約束された、「住むべき町々と、家畜のための放牧地とを」土地を分割していたエルアザルとヨシュアたちのリーダーの所に来て求めています。ツェロフハデの娘たちの時も同じでしたが、どんなに約束されているものでも、自分から、自分の意志で積極的に求めなければ、約束のものを自分のものにすることができません。

信仰とは、神が約束してくださったものを、積極的に手を差し出して受け取ることです。もし、レビ人たちが、「自分たちは、神の幕屋で奉仕するために選ばれている特別な役職にあるレビ人だから、黙っていても、約束の地は与えられるはずだ。」と思って、自分のほうから積極的に求めることをせず、ただ、ヨシュアたちのほうから気づいて言ってくれるのを期待して待っていたらどうでしょうか。約束は約束だけで終わってしまっていたかもしれません。あるいは、「なぜ、積極的に求めないのか。」と叱られたかもしれません。事実、レビ人たちは、ヨシュアが相続地を受けた後に、要求しているのですから、その危険性は十分にあったのです。

私たちの信仰は、消極的ではなく、積極的に主の恵み、主の約束を求めるものでなければなりません。たとい約束されている恵みであっても、神の道からはずれた自己流の方法で求めていたり、謙遜振って、遠慮して、消極的になっていれば、何も受けることができません。

「父の約束を待っているがよい」(使徒の働き1:4)ということは、決して、何もしないでいることではありません。弟子たちは十日間、互いに高慢や罪を悔い改め、心を合わせて、祈りに専念していたのです。「ひたすら祈をしていた」というのは、一日中、口から祈りの言葉を出していたということを意味しません。積極的に心を神に向け、神と交わることをしていたのです。

その間には、人の知恵に陥ることもありました。イスカリオテのユダの代わりに、くじでマッテヤを選んでしまったことです。それでも彼らは神のことに熱心だったのです。そして、ついに父の約束である聖霊のバプテスマを受けたのです。

ヤコブは、次のように言っています。
「・・・ あなたがたは、求めないから得られないのだ。 求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」(ヤコブ4:2,3)

「あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。」(詩篇81:10)

「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 」(マタイ7:8)

「まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。」(ルカ18:7)

「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」(ヘブル4:16)

これらのみことばは、ただ知識として学ぶために聖書に記されているのではありません。信じて、実行するために書かれているのです。

レビ人は、主が、「モーセによって命じられ」たことに従って求めており、イスラエル人たちは、「主の命」に従って、各部族の相続地の一部をレビ人の町々とその放牧地として、レビ人に与えました。

ヨシヤ 21:3 それでイスラエルの人々は、主の命にしたがって、自分たちの嗣業(相続地)のうちから、次の町々と、その放牧地とを、レビびとに与えた。

すべて、主のご命令に従って行なわれています。自分勝手の願いや、要求によっていないことが大事です。私たちが主に求める時も、第一に、主が求めなさいと命じておられることに従って求めることが大事です。なんでも、聖書のみことばを使って祈ればいい、と思っている人もいますが、聖書のみことばを使っていても、自分中心の願いや要求をしていることもあります。

「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。 5:15そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。」(ヨハネ第一5:14~15)

モーセは、レビの部族を祭司職のために聖別し、また、神の民の礼拝の奉仕と幕屋全体と至聖所の管理、運搬を命じました(民数記1:47~53、3:6~13、8:6~26)。

それ故、レビ人の存在は特殊性を持っていました。そして、レビ人は国民の宗教的教師、指導者、牧者としても働くようになっていきました。実に、彼らは、国民の間にあって、地の塩として働く必要があったのです。そのために、レビ族は、他の部族のように一箇所に集まって居住することが許されていません。各部族の間に分散して居住するように命じられています(民数記35:1~8)。

クリスチャンも、教会に固まっているだけでなく、未信者のいる家庭や職場や地域社会において地の塩としての役割を十分に果たさなければなりません。その役割が果たせないなら、「ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。」(マタイ5:13)

塩気を失ってしまっているからです。もし、私たちが、みことばの信仰を活用する生活を怠って、この世と調子を合わせる生活をしているなら、この世の人々から、偽善者と言われるようになり、神の恵みの中からは捨てられ、この世の人々に踏みつけられるようになるのです。今日、クリスチャンと呼ばれている人々は、すでにこの状態にあるのではないでしょうか。

4節、ケハテ族のうちより、祭司アロンの子たちは、ユダ部族、シメオン部族、ベニヤミン部族の中の十三の町が与えられています。彼らはエルサレムに近い地域に住んでいます。

ヨシヤ 21:4まずコハテ(ケハテ)びとの氏族のために、くじを引いた。祭司アロンの子孫であるこれらのレビびとは、くじによって、ユダの部族、シメオンの部族、およびベニヤミンの部族のうちから、十三の町を獲た。

5節、残りのケハテ族は、エフライム部族とダン部族、マナセの半部族の中から十の町が与えられています。彼らはパレスチナの中央部分に住んでいます。

ヨシヤ 21:5その他のコハテ(ケハテ)びとは、くじによって、エフライムの部族の氏族、ダンの部族、およびマナセの半部族のうちから、十の町を獲た。

6節、ゲルション族は、イッサカル部族、アシェル部族、ナフタリ部族、バシャンのマナセの半部族の中から、十三の町が与えられています。彼らは北部地域に住んでいます。

ヨシヤ 21:6またゲルションびとは、くじによって、イッサカルの部族の氏族、アセルの部族、ナフタリの部族、およびバシャンにあるマナセの半部族のうちから、十三の町を獲た。

7節、メラリ部族は、ルベン部族、ガド部族、ゼブルン部族の中から、十二の町が与えられています。彼らの居住地は二分されています。ルベン部族とガド部族はヨルダンの東側にあり、ゼブルン部族はガリラヤ湖の西に住んでいました。

ヨシヤ 21:7またメラリびとは、その氏族にしたがって、ルベンの部族、ガドの部族、およびゼブルンの部族のうちから、十二の町を獲た。

彼らはみな、くじで、その居住地が決められていますが、神に仕える働きをするレビ人たちは、各部族の間に散らされて、地の塩の役目を果たして生活することになったのです。

ヨシヤ 21:8イスラエルの人々は、主がモーセによって命じられたとおりに、これらの町と、その放牧地とを、くじによって、レビびとに与えた。
21:9まずユダの部族と、シメオンの部族のうちから、次に名をあげる町々を与えた。 21:10これらはレビびとに属するコハテ(ケハテ)びとの氏族の一つである、アロンの子孫に与えられた。最初のくじが彼らに当ったからである。 21:11すなわちユダの山地にあるキリアテ・アルバ(キリヤテ・アルバ)すなわちヘブロンおよびその周囲の放牧地を彼らに与えた。このアルバはアナクの父であった。 21:12ただし、この町の畑と、それに属する村々とは、すでにエフンネ(エフネ)の子カレブが、それを受けて所有していた。
21:13祭司アロンの子孫に与えたのは、人を殺した者の、のがれる町であるヘブロンとその放牧地、リブナとその放牧地、 21:14ヤッテル(ヤティル)とその放牧地、エシテモア(エシュテモア)とその放牧地、 21:15ホロンとその放牧地、デビルとその放牧地、 21:16アインとその放牧地、ユッタ(ユタ)とその放牧地、ベテシメシ(ベテ・シェメシュ)とその放牧地など、九つの町であって、この二つの部族のうちから分け与えたものである。 21:17またベニヤミンの部族のうちから、ギベオン(ギブオン)とその放牧地、ゲバとその放牧地、 21:18アナトテとその放牧地、アルモンとその放牧地など、四つの町を与えた。 21:19アロンの子孫である祭司たちの町は、合わせて十三であって、それに属する放牧地があった。
21:20その他のコハテ(ケハテ)びとであるレビびとの氏族は、くじによって、エフライムの部族のうちから町を獲た。 21:21すなわち、その町は、人を殺したものの、のがれる町であるエフライムの山地のシケム(シェケム)とその放牧地、ゲゼルとその放牧地、 21:22キブザイム(ギブツァイム)とその放牧地、ベテホロン(ベテ・ホロン)とその放牧地など、四つの町である。 21:23またダンの部族のうちから分け与えた町は、エルテケとその放牧地、ギベトンとその放牧地、 21:24アヤロンとその放牧地、ガテリンモン(ガテ・リモン)とその放牧地など、四つの町である。 21:25またマナセの半部族のうちから分け与えた町は、タアナク(タナク)とその放牧地、およびガテリンモン(ガテ・リモン)とその放牧地など、二つの町である。 21:26その他のコハテ(ケハテ)びとの氏族の町は、合わせて十であって、それに属する放牧地があった。
21:27ゲルションびとであるレビびとの氏族の一つに与えられた町は、マナセの半部族のうちからは、人を殺した者の、のがれる町であるバシャンのゴランとその放牧地、およびベエシテラ(ベエシェテラ)とその放牧地など、二つの町である。 21:28イッサカルの部族のうちからは、キション(キシュヨン)とその放牧地、ダベラテとその放牧地、 21:29ヤルムテとその放牧地、エンガンニム(エン・ガニム)とその放牧地など、四つの町である。 21:30アセル(アシェル)の部族のうちからは、ミシャル(ミシュアル)とその放牧地、アブドンとその放牧地、 21:31ヘルカテとその放牧地、レホブとその放牧地など、四つの町である。 21:32ナフタリの部族のうちからは、人を殺した者の、のがれる町であるガリラヤのケデシ(ケデシュ)とその放牧地、ハンモテ・ドル(ハモテ・ドル)とその放牧地、カルタンとその放牧地など、三つの町である。 21:33ゲルションびとが、その氏族にしたがって獲た町は、合わせて十三の町であって、それに属する放牧地があった。
21:34その他のレビびとである、メラリびとの氏族に与えられた町は、ゼブルンの部族のうちからは、ヨクネアムとその放牧地、カルタとその放牧地、 21:35デムナ(ディムナ)とその放牧地、ナハラルとその放牧地など、四つの町である。 21:36ルベンの部族のうちからは、ベゼル(ベツェル)とその放牧地、ヤハヅ(ヤハツ)とその放牧地、 21:37ケデモテとその放牧地、メパアテ(メファアテ)とその放牧地など、四つの町である。 21:38ガドの部族のうちからは、人を殺した者の、のがれる町であるギレアデ(ギルアデ)のラモテとその放牧地、マハナイムとその放牧地、 21:39ヘシボン(ヘシュボン)とその放牧地、ヤゼルとその放牧地など、合わせて四つの町である。 21:40これらはみな、ほかのレビびとであるメラリびとが、その氏族にしたがって、くじをもって獲た町であって、合わせて十二であった。
21:41イスラエルの人々の所有のうちに、レビびとが持った町々は、合わせて四十八であって、それに属する放牧地があった21:42これらの町々は、それぞれその周囲に放牧地があった。これらの町々はみなそうであった。

レビ人は、神に仕えることのために専念し、食べること、飲むこと、着ることなど、生活上の経済的必要のために働くことから免除されていたのですが、イスラエルと国民が神にささげることを怠った時、レビ人は自らの生活のために働き出し、神と礼拝のために専念して仕えることを止めてしまったのです。

現代でも、伝道者、牧師が、神に専念して仕え、自分の生活費のためにも働くことは不可能です。この二つをやっていれば、必ず、神と礼拝のほうが、おろそかになり、神の民の信仰は低下し、衰退していくのです。

レビ人は神に仕え、礼拝の奉仕に専念するために、彼らの働きに対して、他の部族から収入の十分の一を受け取ったのです。すべての国民がレビ人の働きを通して、主の恵みが受けられるように、人々の近くにレビ人が居住するように、主はレビ人の地を与えられたのです。ここに、主がどんなにか、神の民が常日頃に、神の律法を教えられるように、また実際生活で、神を畏れた敬虔な生活の指導を受けられるようにと、配慮されていることが分かります。またレビ人たちは、自分の手の届く範囲にいる人々に、この教育と訓練をする責任があったのです。

43~45節、主の忠実さと、主の約束の全き成就

43,44節は、イスラエルに、

1、土地が与えられたこと、
2、安息が与えられたこと、
3、敵に対する勝利が与えられたこと

を記しています。

ヨシヤ 21:43このように、主が、イスラエルに与えると、その先祖たちに誓われた地を、ことごとく与えられたので、彼らはそれを獲て、そこに住んだ。 21:44主は彼らの先祖たちに誓われたように、四方に安息を賜わったので、すべての敵のうち、ひとりも彼らに手向かう者はなかった。主が敵をことごとく彼らの手に渡されたからである。

そして、45節は、主の約束の全き成就を記しています。

ヨシヤ 21:45主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つとしてたがわず、みな実現した。

「主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つとしてたがわず、みな実現した。」のです。これが実現するためには、主を信じて、雪解け水で満水のヨルダン川を歩いて渡り、エリコのまわりを信仰で回って城壁を倒して勝利し、カナン七族と連日連夜の戦いを主とともにする必要があったのです。信仰の条件を果たすことなしに、ただ待っていても、約束は実現しません。しかし信仰の条件を忠実に果たし、信仰の戦いをするなら、神の約束は一つもたがわず、みな実現してきたし、これからも必ず、実現するのです。

「イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。 11:23よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。 11:24そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」(マルコ11:22~24)

「地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主、」(エレミヤ書33:2)
この文語訳は、
「事をおこなうエホバ、事をなして之を成就るエホバ」となっています。

「主にとって不可能なことがありましょうか。」(創世記18:14)

「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」(マタイ19:26)

「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」(マルコ9:23)

もし、主の約束に対して、「実現しないのではないか。」と少しでも疑いを抱くなら、それは不信仰です。ですから、他の人が恵みを経験していても、疑っている本人は恵みが得られないのです。それは、神が実現できなかったからではなく、その人が不信仰な思いを抱いたからです。

「ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。」(ヤコブ1:6,7)

この聖句を知っている人は沢山いるでしょう。しかし、それでもなお、心に疑いを抱きつつ、祈ったり、生活したりしているのです。

また、自分の思い通りになることが、神のみわざだと思ったり、祈りに答えられたと思ったりする人が沢山います。しかしそれは、しばしば自分に都合のいい自己中心の解釈であることがあります。その後、そこからわざわいや不幸が始まることがあるのです。私たちの求めが、主のみこころにかなっているか、どうかを、十分に点検してみる必要があります。

しかし、主は、イスラエルがシナイの荒野を旅していた四十年間も、カナンで戦っていた間も、ご自身のなすべきことを全力で成し遂げてくださり、民に必要な恵みと助けと祝福をすべて与えてくださいました。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6:33)

これらのイスラエルの歴史的あかしから、私たちが信仰の重要な教訓とすべきことは、
1、主は、ご自分が約束されたことはすペて、必ず、忠実に成し遂げられるという事実です。

神はご自身の民が、信仰の条件を果たしさえするなら、必ず、ご自身の民に対して勝利と繁栄と安息を保証されました。ですから、私たちは、みことばの信仰に堅く立って、神の忠実さを確信することができるのです。これが私たちの信仰の基礎です。

2、神のみわざが遅れているように見えるのは、拒絶でも、敗北でも、失敗でも、また忘れていることでもありません。
愛子イサクが生まれるまで、アブラハムは長い年月を待たなければなりませんでした。その間、アブラハムは妻サライのすすめに従って、女奴隷ハガルからイシュマエルを生んでしまいました。神の約束を待ち切れなかったからです。そのことの故に、彼はどんなに苦しまなければならなかったことでしょうか。神の約束を待たずに、人の知恵に従ってしまうことが、どんなに悲劇を生むかを、私たちは知らなければならないのです。人の知恵による考えや計画は、その時は、よく見えるもので、だまされやすいので、危険なのです。

イスラエルがエジプトから脱出するのに四百年かかり、バビロン捕囚から解放されるのに七十年かかり、創世記3章15節の救い主来臨の預言の実現には、数千年間かかったのです。しかし、時が満ちた時、すべての約束は実現したのです。神はご性質上、真実であって、ご自身の約束に対して不忠実になったことは一度もありません。

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(ヨハネ第一1:9)

「あなたがたを召されたかたは真実であられるから、(必ず)このことをして下さるであろう。」(テサロニケ第一5:24)

「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」(テモテ第二2:13)

3、主は、約束をされ、そのすべてを実現されるお方です。主はご自身の忠実さをもって、これを保証されました。私たちは、真実で愛の神は、あらゆる時代の、あらゆる人に対して、御約束を必ず実現される神であることを信じなければなりません。

「これは確実で、そのまま受けいれるに足る言葉である。」(テモテ第一4:9)

(まなべあきら 2001.10.1)
(聖句は口語訳聖書より)


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