聖書の探求(211,212) ヨシュア記22章 ヨルダン川の東に定住する二部族半の帰還と築壇

上の写真は、ネボ山の頂上から、北西方面を眺めたものです。中央部を横に続く細い筋が、ヨルダン川沿いに茂る木々の緑です。その上方がヨルダン川の西で古代カナンがあったところ、その下方がヨルダン川の東で、ヨシュアの時代にルベン、ガド、マナセの半部族が定住を決めたところ。現在でも緑が多く豊かな土地のようです。


この章は、ルベン、ガド、マナセの半部族が、カナンの地での戦いを終えて、ヨルダン川の東の地に帰る時の出来事が記されています。その時、大問題となったのが、エド(あかし、新改訳では「証拠」と訳されています。)の壇です。

ヨシヤ 22:34 ルベンの子孫とガドの子孫は、その祭壇を「あかし」と名づけて言った、「これは、われわれの間にあって、主が神にいますというあかしをするものである」。(口語訳)

ヨシヤ 22:34 それでルベン族とガド族は、その祭壇を「まことにこれは、私たちの間で、【主】が神であるという証拠だ」と呼んだ。【新改訳改訂第3版】

イスラエル人は、よく祭壇を築いて、主に感謝したり、信仰や献身を記念することをしていました。アブラハムはしばしば祭壇を築いていますし、サムエルもミツパとシェンの間で、石の祭壇を築き、エベン・エゼル(ここまで主が私たちを助けてくださった。)と呼んでいます(サムエル第一7:12)。

ヨシャパテも、壇を築いたことは明記されていませんが、ベラカ(祝福、感謝、賛美などを含む意味)の谷で、主をほめたたえ、その谷を「ベラカ」と呼んでいます。

しかし、この二部族半のエドの壇は、この壇を築いた目的と動機が今一つ、はっきりしていないし、他のイスラエル部族の人々の目には、異教の偶像と映って、まぎらわしいものでした。それで誤解を招いて、一挙に紛糾したのです。

私たちのあかしも、異教の人々と似ているような、誤解を招くようなものにならないように、いつでも、信仰を鮮明に表わしていたいものです。人の考えでやれば、間違っていなくても、誤解を生じやすいものです。神と私の関係はいつも透明で、他人の前にも、鮮明であることが必要です。そのためには、自分の知恵に頼らず、生ける主との交わりを深め、主のみこころと、主の道をはっきり悟って、旗色を鮮明にしたあかしのある信仰生活を営んでください。

1~8節、ヨシュアの祝福
9~10節、帰還と築壇
11~20節、誤解
21~29節、弁明
30~34節、和解

1~8節、ヨシュアの祝福

ルベン、ガド、マナセの半部族が、ヨルダンの東の地に所有地を持ったことには、ヨシュアは信仰的に不満を感じていたに違いない。信仰を最後まで全うせず、神の約束の地の一歩手前で、腰を下ろしてしまうことに、いささか不満を抱いていたことでしょう。

「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。」(ピリピ2:12)

しかしヨシュアは、彼らがモーセとの約束を果たし、また自ら告白して約束したことを守り、果たし終えた時、彼らを祝福することにやぶさかではありませんでした。

2~5節、彼らに対するヨシュアの最大の注目点は、彼らが主のしもべモーセが命じた命令と律法を、神のご命令と受け留めて、忠実に守り行なうか、人の言葉として軽く受け留めて、忘れてしまうか、好い加減に行なうか、という点です。

ヨシ 22:1 そのとき、ヨシュアはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族を呼び寄せて、
22:2 彼らに言った。「あなたがたは、【主】のしもべモーセがあなたがたに命じたことを、ことごとく守り、また私があなたがたに命じたすべてのことについても、私の声に聞き従った。
22:3 今日まで、この長い間、あなたがたの同胞を捨てず、あなたがたの神、【主】の戒め、命令を守ってきた。
22:4 今すでに、あなたがたの神、【主】は、あなたがたの同胞に約束したように、彼らに安住を許された。今、【主】のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川の向こう側の所有地、あなたがたの天幕に引き返して行きなさい。

またそれは、同胞のために全力を尽くして働くか、それとも自分たちさえ安全に守られればいいという態度を取るか、ということに直結しています。

私たちは、聖書のみことばを神のご命令として受け留めているか。講壇から自分の心に語られる神のみことばを神のご命令として受け留めているか。それとも、聞いては忘れ、聞いては忘れを、繰り返し、少しも自分のものとして受け留めず、相変わらず、自己主張や強情な態度を取り続け、ねたみや嫉妬を持ち続け、自分の知恵と考えに頼り続けているか。

自分と自分の家族さえ安全であるなら、他人のことは無関心か。自分の教会さえ盛んなら、開拓教会は支えなくていいのか。

こういう点を、よくよく点検してみる必要があります。もし、あなたが霊的に恵まれず、今一つ、心に確信と充実感がないなら、自分のことしか求めていなかったか、点検してみる必要があります。

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:4)

「ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」(ガラテヤ6:10)

「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。」(ローマ15:1~3)

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22:39)

「あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。」(伝道者の書9:10)

「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩篇37:3,4)

激しい、困難な戦いが終わった後は、しばしば、主を忘れ、主のみことばを忘れ、主に仕えることを忘れてしまいやすいものです。

仕事が困難な時、状況が苦しい時、戦いの中にある時は、人は真剣に祈りますが、やがて嵐が過ぎ去り、生活が安定してきて、いくらか繁栄してくると、必ず言うのです。「仕事が忙しくて、聖書を読む時間がない。主と交わる時間がない」と。こうして神のご命令に心を尽くし、精神を尽くして従うことをおろそかにしてしまうのです。このことを十分知っていたヨシュアは、モーセが与えていた警告(申命記6:5、10:12~13、11:13、
22、27)を繰り返したのです。

万一、私たちの心がむなしさを覚え、充実感を失っているなら、ヨシュアがしたように、神のみことばに立ち帰ることが大切です。神のみことばから遠ざかるなら、魂は飢餓状態になり、ついに無力、無関心へと落ちて行きます。もし、あなたが牧師や教師なら、毎週、神のみことばの生きたエキスとなるメッセージを持っていないなら、会衆の魂は飢餓状態になり、やがて霊的に無反応な状態になり、人間の知恵による自己主張が吹き出してくるようになります。

もしあなたが教会員なら、毎週生きた神のみことばのエキスのない説教を聞き続けているなら、たとい一日に数時間祈り、異言を語り、病いをいやす働きをしていたとしても、あなたの魂は自己満足の域から脱することができません。自己満足は必ず、あなたの魂を裏切ることになるのです。神のみことばの生きたエキスが、必要なのです。それが永遠のいのちの水であり、いのちのパンなのです。

イエス様が、福音書の中で強調しておられる道も、モーセが語り、ヨシュアがそれを繰り返したのと同じ原理です。すなわち、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主を愛し、主に仕える日々の生活を、主にささげるべきなのです(マタイ22:37、マルコ12:29,30、ルカ10:27)。

ヨシュアは、これこそ、本当の救いに至らせる道であり、主の恵みを保つ道であることをあかしして、これからヨルダンの東の地に別れて行こうとしている兄弟たちに注意をうながしたのです。そして、この道は、ヨシュア自身がモーセの従者であったころからたどってきていた道なのです。ですから、その重要性を自ら体験して知ることができていたのです。このことを体験していない人が、キリスト教について、とやかく言う驚格はありません。

5節、ヨシュアが強調した点は、この5節の中に要約されています。

ヨシ 22:5 ただ【主】のしもべモーセが、あなたがたに命じた命令と律法をよく守り行い、あなたがたの神、【主】を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って、主にすがり、心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えなさい。」

すなわち、

1、主の命令と律法を守り行なうこと
2、主を愛すること
3、そのすべての道に歩むこと
4、主にすがる(信頼する)こと
5、主に仕えることです。

主は、「しかし、良い地に満ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」(ルカ8:15)と言われました。私たちの生活が不毛となるのは、自分の知恵に頼って、神のみことばをおろそかにするからです。クリスチャンと言っても、住んでいる地も違えば、生まれ育った環境も異なり、働きも、生活要素も異なります。しかし、主のみことばを守り行なうこと、主を愛すること、主に信頼すること、主に仕えることは、みな同じです。これを守り行なっている人々は、どこに住んでいても、同じキリストの家族なのです。たとい一度も会ったことのない人でも、会えば互いにキリストの体であることを自覚するのです。

しかし、これらを守り行なっていない二人の主婦を台所に立たせてごらんなさい。「これが私のやり方だ。」と言って、言い争うのです。犬と猿がケンカするように。これを守り行なっていない二人を一組にして、一つの仕事をやらせてごらんなさい。すぐに、上下関係をつくり、主従関係をつくり、先輩後輩の関係をつくり、自分のやり方を主張し、争いを始めるのです。こういうことが、教会員の間で、婦人伝道師や牧師たちの間で、始終行なわれているのです。そういう人たちを主はあかし人として用いて、祝福されるでしょうか。ところが本人たちは「自分は熱心に、一所懸命に、イエス様のために奉仕している。」と思ったり、言ったりしているのです。こういう人たちに主は何と言われるでしょうか。

「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」(マタイ7:23)

主が喜ばれるのは、
「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませる」(マタイ10:42)であり、
「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:40)
ということではありませんか。

主は難しいことを命じられたのではありません。日常に自分にできることを、心をこめ、心を尽くし、精神を尽くして、主のために行なうことではありませんか。これをしないで、いくら「何時間祈った」と言っても、自己満足以上のものではありません。

「私は何をもって主の前に進み行き、
いと高き神の前にひれ伏そうか。
全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって
御前に進み行くべきだろうか。
主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。
私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。
私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。
主はあなたに告げられた。
人よ。何が良いことなのか。
主は何をあなたに求めておられるのか。
それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、
へりくだって、
あなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ書6:6~8)

イエス様のみわざの目的の一つは、

「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたことを、この世が知るためです。」(ヨハネ17:21~23)

に記されているように、イエス様の祈りの重荷は、キリストの弟子となる者が、言い争わず、自己主張せず、キリストを内に宿して一つとなることでした。このことが実現しないと、イエス様を救い主として証しすることができないからです。ほとんどのクリスチャンは、この重要なことに気づかず、自分のやり方、自分の知恵を主張して争っているのです。

8節、ヨシュアは、ヨルダンの東の地に帰って行く二部族半の人々に、戦いの戦利品を持って帰って、同胞と分け合うように勧めています。

ヨシ 22:6 ヨシュアは彼らを祝福して去らせたので、彼らは自分たちの天幕に行った。
22:7 ──マナセの半部族には、モーセがすでにバシャンに所有地を与えていたが、他の半部族には、ヨシュアはヨルダン川のこちら側、西のほうで、彼らの同胞といっしょに所有地を与えた──さらに、ヨシュアは彼らを天幕に送り返すとき、彼らを祝福して、
22:8 次のように彼らに言った。「あなたがたは多くの財宝と、おびただしい数の家畜と、銀、金、青銅、鉄、および多くの衣服とを持って天幕に帰りなさい。敵からの分捕り物はあなたがたの同胞と分け合いなさい。」

ヨシュアは兄弟として互いに分け合うことの大切さを知っていました。二部族半は、戦いを分ち合いました。戦利品も分ち合いました。しかし、同じカナンの地に住んで、日常の生活を分ち合うことをしなかったのです。

9,10節、帰還と築壇

9節、二部族半は、シロでイスラエル人と別れています。

ヨシ 22:9 それでルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるシロでイスラエル人と別れ、モーセを通して示された【主】の命令によって、彼らが得た自分の所有地、ギルアデの地へ行くために帰って行った。

シロは、イスラエルがカナン定住後の初期において、主を礼拝する中心地となった所です。彼らがそこを離れて、ヨルダンを渡ってギルアデの地に行ったことは、なんとも悲しい思いにさせられます。

せっかく教会の近くに住んでいながら、家を貰ったとかで、教会から遠ざかっていくことになる人もいるでしょう。しかし心まで主から離れないでほしいものです。できれば、地理的にも、教会の近くにいることは、大いなる霊的特権に与かることになります。距離が遠くなれば、それだけ時間もかかるようになり、余分な労力も必要になり、教会に行くのも気分的に負担に感じるようになり、普段に互いに交わる機会も、めっきり少なくなります。

10節では、問題の事の発端となる祭壇を築いています。

ヨシ 22:10 ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるヨルダン川のほとりの地に来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた。それは、大きくて、遠くから見える祭壇であった。

聖書は、「カナンの地にあるヨルダン川のほとりの地に来たとき、」ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた、と記しています。これは、二部族半が思いつきで築いたものと思われます。他の十部族はその意味を知らされないまま、築壇したものと思われます。ですから、異教の真似事と誤解されてしまったのです。その祭壇はイスラエル側の岸辺に建てられており、彼らがヨルダンを渡って、東岸から見ても十分、はっきりと分かる大きな祭壇で、ヨルダン川をはさんで両岸の部族の間の絆のあかしの記念碑として建てたと言っています(21~29節)。そうであるなら、予め、他の十部族にも、この築壇について、話しておくぺきではなかったでしょうか。

何はともあれ、私たちも、異教の人々がしていることと同じではないか、と誤解されるようなあかしはしたくないものです。

11~20節、誤解

誤解は、主にある信仰の交わりを破壊し、悪感情が生まれ始め、これはわずかの間に、誇大に膨張し、ついに仲間の間での戦争の気配へと変わっていったのです(12節)。

ヨシ 22:11 イスラエル人はこういううわさを聞いた。「ルベン族、ガド族、およびマナセの半部族が、カナンの地の国境、ヨルダン川のほとりの地、イスラエル人に属する側で、一つの祭壇を築いた。」
22:12 イスラエル人がそれを聞いたとき、イスラエル人の全会衆は、シロに集まり、彼らといくさをするために上って行こうとした。

ヨルダンの西側の部族たちにとって、突然現われたこの大きな祭壇は、東に行く者たちが主を捨てて、偶像礼拝するための祭壇として築いたと考えたのです。西側の者たちがそう考えたとしても、不思議ではありません。たとい東に行く二部族半が、共に戦ってくれたとしても、信仰的にはその根本において、西側に渡って来て、共に住まない態度を取っているのですから、彼らが腹の底では、主に反逆したのだと考えても、おかしくはなかったのです。

19節で、「もしもあなたがたの所有地がきよくないのなら、主の幕屋の立つ主の所有地に渡って来て、私たちの間に所有地を得なさい。」と言っていることからして、この疑念を持っていたことは明らかです。「信仰を鮮明にしたらどうだ。」と勧告しているのです。
ヨシ 22:19 もしもあなたがたの所有地がきよくないのなら、【主】の幕屋の立つ【主】の所有地に渡って来て、私たちの間に所有地を得なさい。私たちの神、【主】の祭壇のほかに、自分たちのために祭壇を築いて、【主】に反逆してはならない。また私たちに反逆してはならない。

そう考えると、西側の者たちにとって、新しい祭壇は容認出来なかったのです。それは神に反逆するものとなってしまうからです(申命記13:13~15)。

西側の人々は、戦いを始めようとするほど強い衝動にかられていたけれども、申命記13章14節の「あなたは、調べ、探り、よく問いたださなければならない。もし、そのような忌みきらうぺきことがあなたがたのうちで行なわれたことが、事実で確かなら、」に従って、激しく戦いに直行することをせず、祭司エルアザルの子ピネハスと各部族から一人ずつ十人の族長たちを、ギルアデの地の二部族半の所に送り、抗議させています。

ヨシ 22:13 それでイスラエル人は、祭司エルアザルの子ピネハスを、ギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに送り、
22:14 イスラエルの全部族の中から、一族につき族長ひとりずつ、全部で十人の族長を彼といっしょに行かせた。これらはみな、イスラエルの分団の中で、父祖の家のかしらであった。

ピネハスは、民数記25章で、モアブの娘たちとみだらなことをしていた者を取り除いて、神の怒りの刑罰を止めさせた、賢明で、勇気ある人物でした。民数記31章で、ミデアンと戦い、ベオルの子バラムを取り除いた時にも、ピネハスはモーセによって任命されて、ラッパを持って、戦いの先頭に立っています。それ故、西側の人々は、最もすぐれた、最も適切な調査団を送り込んだのです。ピネハスなら、相手と妥協せず、徹底的に調べて、直ちに適切な処置をするでしょう。彼らにとって最も信頼出来る指導者だったのです。私たちの群れにも、ピネハスのように、主に忠実で、賢明な判断が下せて、民の信頼を裏切ることのない、勇敢な指導者が育ってほしいものです。

16節、調査団は、二部族半に向かって、「主の全会衆はこう言っている。」と言って、彼らの個人的考えではなくて、主に属している全会衆として訴えています。

ヨシ 22:15 彼らはギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに行き、彼らに告げて言った。
22:16 「【主】の全会衆はこう言っている。『この不信の罪は何か。あなたがたはきょう、【主】に従うことをやめて、イスラエルの神に不信の罪を犯し、自分のために祭壇を築いて、きょう、【主】に反逆している。
22:17 ペオルで犯した不義は、私たちにとって小さなことだろうか。私たちは今日まで、自分たちの身をきよめていない。そのために、神罰が【主】の会衆の上に下ったのだ。
22:18 あなたがたは、きょう、【主】に従うことをやめようとしている。あなたがたは、きょう、【主】に反逆しようとしている。あす、主はイスラエルの全会衆に向かって怒られるだろう。

この抗議の中には、「主の」「主に」と言う言葉が繰り返されています。それは、二部族半がしたことは、ただの仲間割れではなく、主に対する反逆であり、そのことは二部族半の上だけでなく、これまでのイスラエルの歴史の中では、先に、ペオルで犯した不義(民数記25章のモアブの娘たちとのみだらな行動と、バアル・ぺオルを慕うようになった偶像礼拝)やゼラフの子アカンの罪(ヨシュア記7章)に対して、イスラエルの全会衆の上に下った神の御怒りの経験は、記憶に新しかったのです。

ヨシ 22:20 ゼラフの子アカンが、聖絶のもののことで罪を犯し、イスラエルの全会衆の上に御怒りが下ったではないか。彼の不義によって死んだ者は彼ひとりではなかった。』」

自分たちの都合で、ヨルダン川を渡らず、神の約束の地の手前に所有地を取り、主の幕屋に行かず、ヨルダンの西岸に勝手に祭壇を築けば、それはイスラエルの神に対する不法な反逆行為と受け取られても仕方がありません。このことは東の二部族半だけの問題ではなく、イスラエルの全会衆に再び、悲劇をもたらす問題だったのです。ですから、いかにしても、この大惨事だけは防ごうとする重荷が調査団にあったのです。彼らは事によれば、その場で必要な処置を取る覚悟であったと思われます。

21~29節、弁明

22節からは、二部族半が西側のイスラエルの調査団のかしらたちに弁明する回答が記されています。

22節の「神の神、主。神の神、主は、これをご存じです。」は、二部族半の非常な驚きを示しています。

ヨシ 22:21 すると、ルベン族、ガド族、およびマナセの半部族は、イスラエルの分団のかしらたちに答えて言った。
22:22 「神の神、【主】。神の神、【主】は、これをご存じです。イスラエルもこれを知るように。もしこれが【主】への反逆や、不信の罪をもってなされたのなら、きょう、あなたは私たちを救わないでください。
22:23 私たちが祭壇を築いたことが、【主】に従うことをやめることであり、また、それはその上で全焼のいけにえや、穀物のささげ物をささげるためであり、あるいはまた、その上で和解のいけにえをささげるためであったのなら、【主】ご自身が私たちを責めてくださるように。

自分たちは、主に対する反逆の意図は全くなかったし、むしろ主に対する信仰のあかしとして築いた祭壇であったので、西側の調査団の激しい抗議に悲しみと驚きで圧倒されてしまって、22節の「神の神、主。神の神、主は、これをご存じです。」と叫んでしまったのです。

そして彼らは、自分たちが祭壇を築いた意図、動機、目的を説明しました。

ヨシ 22:24 しかし、事実、私たちがこのことをしたのは、次のことを恐れたからです。後になって、あなたがたの子らが私たちの子らに次のように言うかもしれないと思いました。『あなたがたと、イスラエルの神、【主】と何の関係があるのか。
22:25 【主】はヨルダン川を、私たちとあなたがた、ルベン族、ガド族との間の境界とされた。あなたがたは【主】の中に分け前を持っていない。』こうして、あなたがたの子らが私たちの子らに、【主】を恐れることをやめさせるかもしれません。
22:26 それで、私たちは言いました。『さあ、私たちは自分たちのために、祭壇を築こう。全焼のいけにえのためではなく、またほかのいけにえのためでもない。
22:27 ただ私たちとあなたがたとの間、また私たちの後の世代との間の証拠とし、私たちが、全焼のいけにえとほかのいけにえと和解のいけにえをささげて、主の前で、【主】の奉仕をするためである。こうすれば、後になって、あなたがたの子らは私たちの子らに、「あなたがたは【主】の中に分け前を持っていない」とは言わないであろう。』

これは、
主への反逆心からしたのではないこと、
不信仰の罪をもってしたのではないこと、
主に従うことをやめたのではないこと、
また、その祭壇の上で全焼のいけにえや、穀物のささげ物や、和解のいけにえをささげるためではないこと(もし、こういういけにえをこの祭壇でささげたなら、主が定めたのではない祭壇でささげたことになり、主への違反と受け止められてしまいます。29節)。
西側の子孫が、東側の二部族半の子孫に対して、「あなたがたと、イスラエルの神、主と何の関係があるのか。」と言われて、主の民であるという信仰の継承を止めさせられてしまうことを恐れたからだと言っています。しかし、それほど、イスラエルの神の民としての信仰の分け前を失うことを心配し、恐れるのなら、なぜ、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入らなかったのでしょうか。この当たりに、信仰的な弁明をしながらも、二部族半の中には、なお信仰が鮮明でないものを感じさせます。もし、子孫に信仰を継承させたいなら、ヨルダンの東にとどまって、異教の偶像と間違われるような大きな祭壇を建てて誤解されるよりも、もっと確かな方法があるではありませんか。

自分の肉の欲を通しつつ、信仰を大事にして、子孫に継承させたいというのは、世俗的で、熱心なクリスチャンがよく言う言葉ですが、それが実現することは稀ではないでしょうか。

28,29節で、彼らは、異教の偶像にいけにえをささげるためではないことを明確にするために、主の幕屋の前にある主の祭壇の型と同じ設計で、新しい祭壇を作ったと弁明しています。

ヨシ 22:28 また私たちは考えました。後になって、もし私たち、また私たちの子孫に、そのようなことが言われたとしても、そのとき、私たちはこう言うことができる。『私たちの先祖が造った【主】の祭壇の型を見よ。これは全焼のいけにえのためでもなく、またほかのいけにえのためでもなく、これは私たちとあなたがたとの間の証拠なのだ。』
22:29 私たちが、主の幕屋の前にある私たちの神、【主】の祭壇のほかに、全焼のいけにえや、穀物のささげ物や、他のいけにえをささげる祭壇を築いて、きょう、【主】に反逆し、【主】に従うことをやめるなど、絶対にそんなことはありません。」

それならなぜ、そんな似た物を作らず、本物の主の祭壇のもとに行かないのでしょうか。
主は私たちを「主と同じかたちに姿を変え」て下さる(コリント第二3:18)と言っていますが、これはキリストに似たにせ者をつくると言っているのではありません。本物のキリストのご人格を内に宿した者にしてくださることを言っているのです。キリストのいのちのない、キリストに似せた信仰を作ってはいけません。しかし世には、この二部族半が作った祭壇のように、本物と同じ型には作ってありますが、本物の真理でないものが沢山あります。教会の歴史の中で、いつも出没しているのです。パウロはこれを「ほかの福音」(ガラテヤ1:6~9)と言っており、使徒ヨハネは、「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」(ヨハネ第一4:1)と言っています。

二部族半は、「主に反逆し、主に従うことをやめるなど、絶対にそんなことはありません。」(29節)と言っていましたが、ヨシュアがいなくなると、彼らはすぐに主を捨てて、偶像に走ってしまったのです。人間の信仰的決意がどんなにもろく崩れてしまうかを、明らかに示しています。あの有名なべテロも、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マタイ26:35)と言った数時間後に、三度も、主を知らないと、のろいをかけて誓って否定したのです。これらはみな、信仰に熱心だった人々の告白です。信仰は熱心さより、忠実であること、従順であることのほうが、ずっと重要なのです。

30~34節、和解

ほとんどイスラエルの内に内乱が起きるかと思うほどの危機的状態でしたが、二部族半の弁明のあかしから、彼らの間にも神がおられ、彼らの内に主を信じる信仰があることが分かったのでピネハスたちは、それを認めて和解し、満足したのです。

31節を見ると、この最終判断を下し、発表したのは祭司ピネハスだったことを示しています。ここにもピネハスのリーダーシップが明らかに示されています。

ヨシ22:30 祭司ピネハス、および会衆の上に立つ族長たち、すなわち彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足した。
22:31 そしてエルアザルの子の祭司ピネハスは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族に言った。「きょう、私たちは【主】が私たちの中におられることを知った。あなたがたが【主】に対してこの不信の罪を犯さなかったからである。あなたがたは、今、イスラエル人を【主】の手から救い出したのだ。」
22:32 こうして、エルアザルの子の祭司ピネハスと族長たちは、ギルアデのルベン族およびガド族から別れて、カナンの地のイスラエル人のところに帰り、このことを報告した。

ピネハスは、
「主が私たちの中におられるということを知った。」と言っています。彼は「あなたがたの中に」と言わず、「私たちの中に」と言いました。これはピネハスが、ルベン、ガド、マナセの半部族を残りの部族と同様に神の家族であることを受け入れ、認めたことを意味しています。さらに、
「あなたがたは、今、イスラエル人を、主の手から救い出したのだ。」と言いました。確かにその通りです。もし、二部族半が主に対して不信仰になり、反逆していたなら、ただちに神の怒りは下り、イスラエルの間で、激しい内乱が起きていたでしょう。すぐ前まで、カナン七族との戦いが行なわれていたのですが、今度は仲間同志の間で、戦いが始まるところだったのです。仲間同志で争いが始まることは、もうその民が破滅しかかっていることを表わしています。もし、この時、イスラエル同志の間で、激しく戦っていたなら、先のカナン七族の戦いでは、アカンの家族以外、滅びた者はいなかったのですが、今回は大勢の死傷者が出ていたことでしょう。ピネハスはこのことを言ったのです。

伝道者の書10章1節に、
「死んだはえは、調合した香油を臭くし、発酵させる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。」

ガラテヤ人への手紙5章9節に、
「わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。」

と言っています。仲間の間にわずかの罪でも残っていれば、神の民全体を破滅に追いやるのです。ですから、全き愛におおわれ、満たされていなければならないのです。

不信仰はいつも争いを生じ、神の忠実さはいつも平和を生み出すのです。こうして、イスラエルは信仰を確認することによって、流血の惨事を防ぐことができたのです。そして、彼らの真ん中に神が臨在してくださることが神への賛美と感謝を呼び起こしていったのです。

34節、ヨルダンの東の部族は、その祭壇をエド(あかし)と呼んだのです。すなわち、「まことにこれは、私たちの間で、主が神であるという証拠(あかし)だ。」と言ったのです。

ヨシヤ 22:34 ルベンの子孫とガドの子孫は、その祭壇を「あかし」と名づけて言った、「これは、われわれの間にあって、主が神にいますというあかしをするものである」。(口語訳)

こうして、神の民のあかしが鮮明になり、すべての人に受け入れられ、理解されることによって、争いの理由は完全に消え去ってしまったのです。

ここに私たちが学ぶべき教訓があります。

1、信仰はいつも旗色を鮮明にしておくべきこと。

2、似て非なるものを作らないこと、持たないこと、他人に教えないこと。いつも真理そのものを持っているべきこと。

3、私たちの生活は、神に忠実に従えば、神の臨在されるあかしとなり、神を捨てて、忠実に従うことを止めれば、不信仰の証拠となり、必ず争いが生じること。

4、信仰は必ず、子孫に継承すべきこと。そのためには、ただ熱心であるだけでなく、慎重に、本物を継承すべきこと。形だけ、寸法だけ同じで、いのちのない偽りものを伝えないこと。良きにつけ、悪しきにつけ、私たちの生活は、後の人々への記念碑となっていくのです。このことを心に深く留めて、毎日の生活を営みたいものです。

(まなべあきら 2001.11.1)
(聖句は、新改訳、および、口語訳聖書より)


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