聖書の探求(213) ヨシュア記23章 ヨシュアの告別の言葉(勝利の回想と展望)

上の絵は、Biblical illustrations by Jim Padgettの一枚、「Joshua’s charge(ヨシュアの勧告)」(Sweet Publishing/FreeBibleimages.org/CC BY-SA 3.0、Wikimedia Commonsより)


ヨシュア記23章、24章は、ヨシュアの告別の言葉であり、イスラエルの民に対するヨシュアの最後の勧告です。モーセは、神の民に対する最後の勧告のために申命記全部を使いましたが、ヨシュアは、わずかこの二章で終わっています。そして、1~22章の中を見ても、ヨシュアが民の前で、神のみことば、神の戒めを語ったり、教えたりした記事がほとんど見当たりません。ヨシュアは人間の世界の戦いには、すぐれた勇士であり、指導者でしたが、惜しいかな、御霊の剣である神のみことばを使う、すぐれた勇士の姿が、ヨシュア記には記されていません。確かに、ヨシュア自身は、神のみことばを受けて戦い、勝利を経験し、彼自身、謙遜なすぐれた霊性を持っている人でした。しかし惜しいかな、彼は民を彼と同じ信仰の持ち主に育てることができなかったのです。民の中から、神のみことばを語り、教える預言者を育てることができなかったのです。

この後遺症は士師記に現われてきています。士師記では、ヨシュアと同じ、戦いに強い勇士は出現していますが、神のみことばを語る、強力な預言者は現われていません。その結果、ヨシュア記の大勝利の後、彼らはヨシュアが危ぶんでいた通りに、すぐに偶像礼拝に陥り、神の怒りを受けるようになり、異教の民に敗北するようになっています。それでも、この原理をよく学んでいれば、後のアッシリヤとバビロンの捕囚は免れたはずです。しかし彼らは神の選民と呼ばれつつ、神のみことばを強力に語る指導者がいなくなると、いつでも偶像礼拝に転げ落ち、神の怒りを受ける経験を繰り返しています。ヨシュアの後は、サムエルまで、すぐれた預言者は現われなかったのです。

現代の教会は、華やかなイベントや行事を好んで繰り返していますが、神のみことばを深く説き明かす説教に関心を持たなくなったり、聖書を学ぶバイブル・クラスがおろそかになったり、自ら聖書を学ぶことに無関心になって、行事に参加しているだけの信者が増えてくることは、非常に危険な状態に近づいているのです。しかし、今日、クリスチャンのほとんどの人は、この状態にあるのではないでしょうか。そして最も恐ろしいことは、それが危険な士師記の時代からバビロン捕囚の時代に進んでいるのだということに、だれも気づいていないことです。今や、私たちは、預言者アモスのあの警告的預言のことばを聞くべきです。

「見よ。その日が来る。
- 神である主の御告げ。-
その日、わたしは、この地にききんを送る。
パンのききんではない。
水に渇くのでもない。
実に、主のことばを聞くことのききんである。
彼らは海から海へとさまよい歩き、
北から東へと、
主のことばを捜し求めて、行き巡る。
しかしこれを見いだせない。
その日には、美しい若い女も、若い男も、
渇きのために衰え果てる。」
(アモス書8:11~13)

さて、ヨシュアはこの告別の勧告において、これまでの戦いでは、神ご自身が先頭に立って彼らのために戦ってくださったことを、民に思い起こさせています(23:3)。

そして、なお、神の民の間に残っている異教の民を占領し、彼らと交わってはならないことを警告し、モーセの律法に記してあることを、すべて守り、心を尽くして神に仕えるようにと勧めました。

「あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(24:15)と、ヨシュアは自分の信仰の決意を表明したのです。このように会衆の前で、信仰の決意を表明するのは良いのですが、信仰の表明をしたなら、それを反古にせず、一生涯、その信仰を全うしていただきたいものです。そうでないと偽善者として非難されるようになります。

しかし、人の決心と肉の力では、信仰を全うすることはできません。ペテロも、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マタイ26:35)と、信仰の決意を主に向かってした後、数時間後には、主を三度も「知らない。」と誓って否定しているのです。

私は、何人もの人が、「家族のしもべになります。」とか、「教会のドア・マットになります。」という告白を聞きましたが、本当に、そのようになっている人をほとんど見かけません。なかには、その逆に、教会で問題を起こし、家族をののしっている人もいます。彼らが偽善者と言われても、言い訳はできません。教会の集会の時のあかしで、信仰の決意を表明することは簡単です。しかし信仰の決意を一旦、表明したなら、どんな事情が起きても、それを翻さず、生涯を閉じるまで全うしてください。

ヨシュアの最後の働きは、民と契約を結び、これらの言葉を神の律法の書に書き記し、あかしのために、大きな石を主の聖所にある樫の木の下に立てたことでした(24:25~28)。しかし、このような記念の書き物も、記念の石も、何の役にも立たなかったのです。民は、ヨシュアがいなくなると、すぐに主から離れて、偶像礼拝に陥って行ったのです。
どんなに多くの信仰の書物を残しても、どんなに多くのメッセージを残しても、またどんなに大きな教会堂を残しても、その信仰のいのちは自動的には継承していかないのです。生きた人間の信仰の生き様こそが、最も後世の人に信仰の本質を伝えるものです。私も様々な信仰の書物を書き、メッセージのテープも残しています。この「聖書の探求」もその一つですが、これらが、読まれ、活用されるのでなければ、信仰は継承されることができません。

ヨシュアは百十才で死に、よい品性の手本を残しました。
「イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行なわれたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。」(24:31)

ヨシュアの影響が及んだのは、ヨシュアが生きていた間と、ヨシュアとともに戦った長老たちが生きていた間だけであったことを、聖書は記しています。

しかし、幸いにも、私たちのヨシュア(主イエス様)は、決して死ぬことがありません。
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。」(ヘブル13:8)

私たちを約束の麗しい地に導き入れてくださるのは、主イエス様です。私たちは、ただ、このイエス様に従い、イエス様のみことばと愛の中にとどまり続け(ヨハネ15:7、9)、その信仰を毎日の生活の中で活用し続けることによってのみ、その約束の地を占領でき、内なる罪の性質も、外から来る困難、課題、妨害、迫害の敵にも、勝つことができるのです。

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:37)

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(ヨハネ第一 5:4~5)

この最後の告別の言葉は、
23章が、勝利の回想と展望、
24章は、過去の回顧と奨励です。

民の召集

1節、23章での民の召集は、先のカナン攻略の勝利から相当長い間経って、民が安住に慣れてしまっており、ヨシュア自身も年をとり、彼の生涯の終わり近くになって行なわれています。

ヨシ23:1 【主】が周囲のすべての敵から守って、イスラエルに安住を許されて後、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。

それでも彼は、神の民のための重荷を失っていなかったのです。一度、神に召され、真実に神に仕え、信仰の戦いをして来た者にとっては、老人になったからといって、神の民の重荷がなくなってしまうことはないのです。

彼の話は二つの部分からなっています。
一つは、彼が年老いて老人になり、死期の近いことについてです。これは彼の勧告の言葉に切実感と、切迫感を与えています。

ヨシ 23:2 ヨシュアは全イスラエル、その長老たちや、かしらたちや、さばきつかさたち、およびつかさたちを呼び寄せて彼らに言った。「私は年を重ねて、老人になった。

もう一つは、主の豊かなあわれみに対して、主から背信することは、最も危険であることの、熱心な警告です。

しかし、彼は、民に語るべき何か新しい神からのメッセージを受けておらず、持っていなかったのです。ただ、モーセが語ったことを、もう一度、民の心に印象深く刻み込もうとしたのです。モーセの残したメッセージは、旧約の民にとっては十分なものでしたから、それに何か付け加える必要はなかったのかも知れませんが、モーセが地上を去る時、彼の代わりに民を導く指導者を主に求め、そしてヨシュアを民の前で任命したように、ヨシュアも自分が地上を去る前に、彼に代わって民を導く指導者を主に求めるべきでしたし、また、その人物を民の前で任命すべきだったのです。しかしヨシュアは戦いに明け暮れして、彼の後継者を育てていなかったのです。ですから、民全体に一般的な勧告を語って終わらざるを得なかったのです。

《勝利の秘訣》

1、3、5節、主が戦ってくださったこと(主の臨在)

ヨシ 23:3 あなたがたは、あなたがたの神、【主】が、あなたがたのために、これらすべての国々に行ったことをことごとく見た。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、【主】だからである。

ヨシ 23:5 あなたがたの神、【主】ご自身が、あなたがたの前から彼らを追いやり、あなたがたの目の前から追い払う。あなたがたは、あなたがたの神、【主】があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなければならない。

2、5節後半、「主があなたがたに告げたように」(主の約束のみことば)

3、5節後半、「彼らの地を占領しなければならない。」(信仰の活用、実践)

《祝福の条件》

1、6節、神のみことばを、ことごとく断固として行ない、そこから右にも左にもそれないこと(みことばに忠実に従うこと)

ヨシ 23:6 あなたがたは、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく断固として守り行い、そこから右にも左にもそれてはならない。

2、8節、「ただ、今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがらなければならなない。」(信仰の更新、継続的信仰)

ヨシ 23:8 ただ、今日までしてきたように、あなたがたの神、【主】にすがらなければならない。

3、11節、「あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。」 (全き愛)

ヨシ 23:11 あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、【主】を愛しなさい。

《警戒》

7、12、13、15、16節、残存している異教の人々との親しい交わりをすること、異教の人との婚姻、偶像礼拝(この世との分離の必要)

ヨシ 23:7 あなたがたは、これらの国民、あなたがたの中に残っているこれらの国民と交わってはならない。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。

ヨシ 23:12 しかし、もしもあなたがたが、もう一度堕落して、これらの国民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っている者たちと親しく交わり、彼らと互いに縁を結び、あなたがたが彼らの中に入って行き、彼らもあなたがたの中に入って来るなら、 23:13 あなたがたの神、【主】は、もはやこれらの国民を、あなたがたの前から追い払わないことを、しかと知らなければならない。彼らは、あなたがたにとって、わなとなり、落とし穴となり、あなたがたのわき腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなり、あなたがたはついに、あなたがたの神、【主】があなたがたに与えたこの良い地から、滅びうせる。

ヨシ 23:15 あなたがたの神、【主】があなたがたについて約束したすべての良いことが、あなたがたに実現したように、【主】はまた、すべての悪いことをあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、【主】が、あなたがたに与えたこの良い地から、あなたがたを根絶やしにする。 23:16 主があなたがたに命じたあなたがたの神、【主】の契約を、あなたがたが破り、行って、ほかの神々に仕え、それらを拝むなら、【主】の怒りはあなたがたに向かって燃え上がり、あなたがたは主があなたがたに与えられたこの良い地から、ただちに滅びうせる。」

「この世と調子を合わせてはいけません。 いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
キリストとペリアルとに何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。
「わたしは彼らの間に住み、また歩む。
わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となる。
それゆえ、彼らの中から出て行き、
彼らと分離せよ、と主は言われる。
汚れたものに触れないようにせよ。
そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
わたしはあなたがたの父となり、
あなたがたはわたしの息子、娘となる、
と全能の主が言われる。」
(コリント第二 6:14~18)

ここで、ヨシュアが強調している点は、主は、昔も、今も、そして将来においても、契約に忠実に働いておられるし、また働かれることです。

人の側が神との契約に忠実なら、神もその契約どおりに豊かな勝利を与えて下さったし、これからも与えられる。それが、神の民が栄え続ける唯一の方法です。これは聖書が一貫して主張している原則で、今も変わっていません。私たちが、神のご命令に断固として忠実であるなら(神に対して、忠実であり過ぎるということはないのですが)、敵の強さや大きさは問題ではありません。そして、私たちに与えられる力が、どんなに強いものであるかも、測り知ることができません。ヨシュアは、「あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。」(10節)と言っています。

ヨシ 23:10 あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、【主】ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。

すなわち、一人で千人に勝る力が与えられるのです。これに似た約束は、何度も繰り返されています。

「あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。」(レビ記26:8)

「主は、あなたに立ち向かってくる敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。」(申命記28:7)

「主が、彼らを渡さなかったなら、どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか。」(申命記32:30)

「サムソンは、生新しいろばのあご骨を見つけ、手を差し伸べて、それを取り、それで千人を打ち殺した。」(士師記15:15)

「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」(サムエル記第一 14:6)

「なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするために、無に等しいものを選ばれたのです。
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」(コリント第一 1:25~29)

「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(コリント第二 12:9,10)

自分の弱さや困難は課題の事実を正確に認識し、それを主の前に持ち出して、主の恵みを求めるなら、それはよいことです。しかし、自分の弱さ、愚かさに嘆き、困難さに心が奪われてしまわないようにしてください。大事なことは、あなたの弱さでもなく、あなたが今、直面している困難さでもありません。あなたが、神のみことばの契約を断固として、忠実に守り行なうことです。その時、主はあなたに千人以上の力をお与え下さるからです。

しかし、神との契約を守らないなら、その時の悲惨さもまた、真実です。神は契約通り、どんなに勝利を与え、栄誉を与え、祝福していても、その人を、その民を捨ててしまわれるのです。このことについても神は契約に対して忠実です。

13節は、異教の人と婚姻関係を結んだり、親しい関係になってくると、それがじわり、じわりと偶像礼拝へと傾いていく危険を表わしています。それが、わなとなり、落とし穴となり、とげとなり、むちとなり、ついに滅びとなるのです。

ヨシ23:12 しかし、もしもあなたがたが、もう一度堕落して、これらの国民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っている者たちと親しく交わり、彼らと互いに縁を結び、あなたがたが彼らの中に入って行き、彼らもあなたがたの中に入って来るなら、
23:13 あなたがたの神、【主】は、もはやこれらの国民を、あなたがたの前から追い払わないことを、しかと知らなければならない。彼らは、あなたがたにとって、わなとなり、落とし穴となり、あなたがたのわき腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなり、あなたがたはついに、あなたがたの神、【主】があなたがたに与えたこの良い地から、滅びうせる。

「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ 1:15)

神の啓示のみことばは、ただ覚えたり、学んで理解するためではなく、守り行なうために与えられているのです。それ故、聖書を研究して学ぶだけでも、教理的学問として学ぶことだけを強調していても、神の刑罰から免れることはできません。霊的、信仰的、内的経験と、実行すること、そして健全な知識を身につけることの三つのバランスを保つことが大切なのです。どんなに勝利の経験をしていても、信仰を更新することを怠るなら、ただちに堕落を始めます。パウロは、「特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」(ガラテヤ 6:10)と言いましたが、神の家族に善を行ない、愛のわざを行ない、神の家族と親密に交わること以上に、神に忠実であり続ける良い方法は、他にありません。これとは逆に、この世と調子を合わせること以上に、神に不忠実になり、神から離れていく道もないのです。

ヨシュアは、エジプトでの奴隷の生活の苦しさも知っていました。また、イスラエルがカデシュ・バルネアで不信仰になった時、彼とカレブ以外の者は全員、荒野で死んだということも経験していました。シナイ山のふもとでアロンと全会衆が金の子牛を作って偶像礼拝した時の神の御怒りも経験していました。キプロテ・ハタアワで、食べ物の不満を言った時も、アロン、ミリアム、コラ、ダタン、アビラムが反逆した時も、彼らがどんな刑罰を受けたかを知っていました。その恥辱と苦痛と滅亡の徹底さには、容赦がないこと、神が語られたことは徹底して行なわれることを、十分に知っていました。

神の契約は、祝福も、災禍も、必ず、一つもたがわずに、すべて実現したのです。祝福だけを経験している者にとって、神の刑罰の真実性を軽視しがちです。しかしヨシュアはそのどちらも徹底していることを経験していたので、彼は民に特別な警告を与えたのです。

もし、神の民が、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主を愛して仕えるなら、神の恵みとあわれみは、その生涯中、途絶えることはないのです。しかし、人の性質は頑なで、神に反逆しやすく、どんなに熱心な信仰の決心の告白も、神のみことばと聖霊の働きから遠ざかると、翻えされてしまい、ヨシュアの恐れと心配は的中してしまったのです。

(まなべあきら 2001.12.1)
(聖句は、新改訳改訂第3版より))


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