聖書の探求(219,220) 士師記 序(2) 目的、士師記の構造、士師の活躍地、士師記中の題目

上の絵は、フランスのGustave Doré (1832–1883)により描かれた「Jephthah’s Daughter Comes to Meet Her Father(エフタの娘が父を迎えに出て来る)」(「Doré’s English Bible」の挿絵の一枚、Wikimedia Commonsより)


目的

士師記の目的は、
「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(士師記17:6、21:25)の言葉で、よく表わされています。

本書は、神政政治下の神の民に、正しく霊的に強力な指導者が必要であることを示しています。

神の特別な権威によって統治し、指導する羊飼いがいなければ、神の民と言えども、必ず混乱し、堕落することを証明しています。今日において、イエス様は、強力な、預言者、祭司、王でありますが、それでも、主は神のみことばを、主の権威をもって語る伝道者、牧師、説教者を召して、お立てになっています。こういう霊的に強力なみことばを説教し、主のみこころを行なうように指導する牧師たちがいなくなると、信仰者たちは、たちまち、士師の時代の人々と同じように、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行な」うようになっていくのです。

しかし、

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12、16:25)

「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。」(箴言12:15)

「指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る。」(箴言11:14)

人の御機嫌とりをする牧師や教師たちも愚かで、人を迷わせ、滅びに追いやりますが、自分の罪や過ちを率直に教えてくれる人を悪く言いふらすクリスチャンも少なくありません。この人は、さらに愚かな人です。本当に神の愛と真実を心に持っていなければ、他人の罪や過ちを指摘して教えてくれることなど、決してないのです。しかし、教会の中ですら、みことばをまっすぐに教えてくれる教師を非難する信者が少なくないのです。非難をしていると、もはや教えてくれなくなります。そうすれば、士師記の人々と同じように、自分の知恵と判断によって自分の目に正しいと見えるところを行なうようになって、神の刑罰を受けることになるのです。愚か者とならず、霊的に賢い者となって下さい。

当時、イスラエルの民の統治者は、士師(さばきつかさ)と呼ばれていました。この士師たちは、単なる律法の執行や紛争の調整をする治安判事ではありませんでした。

彼らは、神の霊の力を与えられた解放者(字義通りでは、救拯者(きゅうじょうしゃ)、mosheím)であり、神の民の衰退と抑圧されていた時代に、民を解放し、統治するように召されていた人々でした。
士師記は、モーセの従者から偉大な指導者に任命されたヨシュアの死から、新しい霊的指導者サムエルが主の預言者として登場してくるまでのイスラエルの民の歴史を扱っています。

この期間に、イスラエルの民は残っていたカナン人を追い出し、根絶して、彼らに割り当てられていた土地を占領して神政国家を確立しているはずでした。

しかし、強力な指導者を失った彼らは、間もなく、信仰の働きに倦み疲れ、しばしばカナン人と交友関係を結び、彼らの偶像を取り入れるようになったのです。それ故、神は懲らしめの刑罰として、民を敵の手(支配)に渡されました。

しかし、民が自分たちの罪を悔い改めた時には、主は、救拯者(きゅうじょうしゃ)であり、解放者である士師たちを起こされました。士師たちは、神がご自分の「御霊」を与えられた者たちであり、神の民とその地とを、敵の抑圧から解放したのです。

しかし、士師が死ぬと、民はすぐに背教に陥りました。それ故、士師記の中には、

背教→(その結果生じる)敵の手による抑圧と隷属→民の悔い改め→士師による解放

というサイクルが6回も繰り返されています。この悲劇的事態がサムエルによる預言者制度の設立の道を開いたのです。

士師記の構造

本書の記者は、なぜ、士師の記録を16章で切断して、その後の注意をミカの盗みとギブア人の暴行とに向けたのでしょうか。ここには、聖霊の取り計らいが見られます。

第一部(1~16章)において、神の民が彼らの神ジェホバに対して不忠実であったために、神がその地の腐敗した異教民族に及ぼしたのと同じ惨憺たる結果を記しています。神の民は、自分の知恵と好みによって、神を離れ、偶像礼拝をしたのです。

それ故、神はその保護の御手を神の民から引かれてしまったのです。その結果、彼らはますます、隣国の異教の権力に頼るようになり、神の戒めを冒涜し、異教の権力と同盟を結び、共犯者となってしまったのです。

それで神は異教の敵を遣わして、神の民を懲らしめ、罰せられました。その苦しみの中から、民が神に呼ばわると、神は彼らを救うために士師を遣わされたのです。

第二部(17~21章)においては、不信仰による肉的な選択の結果が、堕落と残虐、不義と不法、そして民衆の深刻な不道徳な行為として現われてきていることを、如実に描いています。

異教の人であったモアブ人ルツの信仰の記録は、士師の時代のこのような悲惨な状況の中にあって、彼女の真実な、そして神の民にとっても模範とすべき信仰者の姿を描き出しています。

ルツ記1章1節によれば、ルツの時代は、さばきつかさがさばいていた時代で、ききんがあったと言っています。

「さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。」(ルツ記1:1)

士師記の中には、ききんについて、特別な言及はありませんが、度重なる敵の侵入やベニヤミン族と戦った内乱も続き、地の産物が荒らされる動乱の時代が続いたわけで、ききんが何回もあったに違いありません。おそらく、ルツの時代のききんはユダのベツレヘムで起きていますので、この付近で起きたベニヤミン族との内乱の時(士師記19~21章)のことと思われます。

この時代の歴史が暗黒だっただけに、ルツの信仰が現わされるに従い、彼女の信仰と忠実な献身の姿に、大きな慰めと喜びを見い出すのです。

士師記とルツ記は、同時代の記録であり、士師記は、人間の罪深さを描き出しており、ルツ記は、人の愛と信仰と献身、そして神のみ救いをあざやかに描き出しています。

士師記の中心思想は、「不従順」です。

中心聖句は、民の罪と主の救出(2:11,12,15,16,18)

政治的にも、宗教的にも、市民生活においても、暗黒時代(17:6、21:25)

士師時代の道徳的世相

士師記は、一言で言って、神の選民としてのイスラエルの失敗の歴史です。

ヨシュアは信仰の活力を示しました。その信仰は、神の約束に基づき、神に信頼しつつ、忠誠を尽くして、その任務を果たしました。

士師記においては、神の選民であったはずの国民が、神に対して不忠実の民となり、その悲惨な状態を露呈しています。また同時に、民の悔い改めに従って、神のあわれみ深い干渉が与えられ、彼らの不忠信が招いた苦難と災害から救われています。この神の介在と干渉は、キリスト教会の歴史の中に起きたリバイバルにも見ることができます。

このヘブル民族は、主が異教民族を駆逐し尽くすように命じられていたにも関わらず、彼らは己が知恵によって異教民族を利用することを好んだのです。そのため、「彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。」(2:3、出エジプト記23:33、34:12、申命記7:16、ヨシュア記23:13、詩篇106:36)ことが、実現してしまったのです。

その結果、

① 偶像礼拝が、淫乱な宗教行事とともに、広く行なわれた(17章)。

森の中のバアルとアシュタロテ、偶像と偶像礼拝は、士師記の中にしばしば見られます。特に、バアリム、アシュタロスなど、複数形で称えられていることは、注目すべきです。礼拝の対象者は一つですが、その対象となる偶像は無数にあったのです。

② 頻繁に軽率な誓約をすることが、この時代の特徴の一つでした。

これらの多くは、異教民族、特に、フェニキヤ人と結んだものです。「ハンニバル」の名は「アスドラバアル」、「アハルバアル」の如く、バアルを指すものです。このような軽率で悲惨な誓約は、士師の時代においては普通でした。ベニヤミン人に対する全イスラエルの誓約(21:1)やエフタの誓約(11:30,31)は、誓約の中でも最も軽率で、悲劇です。サウル王の誓約は、ほとんどヨナタンの命を奪うほどのものでした(サムエル記第一 14:24)。

③ ほとんど無政府状態になり、不法が横行しました。

「隊商は絶え、旅人はわき道を通った。」(5:6)
街道は荒れすたれ、追いはぎ、盗み、略奪は公然と行なわれたが、これを制裁する強力な政府がなかったのです。ですから、旅人は危険な大路を避けて、小道をはうようにして通らなければならなかったのです。

④ 暴虐は普通の行事でした。

ダン人の襲撃(18章)
ギブア人の凶暴(19章)
イスラエルの他の部族たちによって行なわれたベニヤミン族の戦懐すべき虐殺(20章)
⑤ 絶えず悪を行なうこと(2:17~19、詩篇106:34~43)

士師の活躍地

士師記中の題目

1、救い主

士師記は、人間が行ない続けている罪悪及び失敗と、神の継続する忍耐及び恵みのひな型です。

イスラエル人は、七度、神を捨てましたが、神はオテニエル、エフデ、シャムガル、デボラ及びバラク、ギデオン、エフタ、サムソンなどの手をもって、七度彼らを救い出されました。

イスラエルのこれらの救い手は、来たるべき大いなる救拯(きゅうじょう)者の予表であって、イザヤ書の約束には、「主は、彼らのために戦って、彼らを救い出す救い主を送られる。」(イザヤ書19:10)とあります。

神は、人間が罪に陥り、つらい苦役の下にあるのを憐れみ、救い主として主イエスを遣わして下さったのです。

「あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

「この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネ4:42)

「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」(ルカ1:47)

私たちは、主イエスを唯一の救い主として信じ、あるいは世の人のための救い主として知るだけで満足すべきではなく、「私の救い主」と言って、喜び、賛美するようでなければなりません。

士師記に記されている「主の使い」の顕現の記事(2:1~5、6:11~21、13:1~21)は、旧約時代における、受肉前の主イエスご自身の働きを示していると考えられます。

2、堕落の階段

イスラエル人が偶像礼拝の罪に陥った第一の原因は、カナン人を全部追い出さないで、一部のカナン人が自分たちと一緒に住むことを許したことにあります。これは、神のご命令に全面服従しないで、部分服従をして、残りの部分を自分の知恵で判断することによって、敵と妥協したことによるのです。
「この世と調子を合わせてはいけません。」(ローマ12:2)

第二は、イスラエル人がカナン人と互いに結婚したことです(士師記3:6)。
「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とにどんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。」(コリント第二 6:14~16)

第三は、イスラエル人がカナン人の偶像礼拝を受け入れたことです(士師記3:7)。

これらの結果、イスラエルの全国民が神から離れてしまい、腐敗してしまって、イスラエルの歴史中、最も暗黒な時代を迎えてしまったのです。今は、その時と同じ状況を迎えています。これは神の大きな懲しめがないと人間は自覚しないのかも知れません。

17章から21章までの記事は、他の部分と異なっていますが、これは年代の順序によったのではなく、この時代の人々の罪悪極まった実例を挙げているに過ぎません。デボラの歌の中にも、当時の神の民の国がいかに乱れていたかを記しています。
「隊商は絶え、旅人はわき道を通った。農民は絶えた。イスラエルは絶えた。」(士師記5:6,7)

士師記中には、「そのころ、イスラエルには王がなく」という言葉が四回(17:6、18:1、19:1、21:25)、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」が二回(17:6、21:25)記されています。
士師記の特色は、無政府状態にあります。

3、神の律法

このような恐ろしい状態に陥ったのは、イスラエル人が神の律法を真剣に心に留めなくなり、守り行なわなくなったからです。彼らが、モーセの伝えた律法の書を持っていたことは、彼らがモーセの五書を度々引用されたことによって明らかです。

①神が彼らに告げられたみことばを見ても、律法を知っている者たちに語っていることが分かります。
2章1~3節で、神はその契約の条件を民に思い出すように仕向けています。

②またギデオンの軍勢の中で、「恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。」(士師記7:3)と神が命じられたみことばは、申命記20章8節の命令によく似ています。
昔も、今も、臆病は、恐ろしい伝染病であるから、臆病な人物を軍隊の中から除き去ることは、戦いのために実に賢明な準備です。

③神は、サムソンの両親にその子がナジル人となるべきことを告げられました(士師記3:4,5、参照、民数記6:2~5)。

④その他、全焼のいけにえのこと(士師記13:16)
エフデがラッパを吹いて、イスラエルの民を戦いのために集めたこと(士師記3:27)
ギデオンの角笛(士師記7:18)
ヨタムが聖別の油と灯台の油及び灌祭のぶどう酒について語ったこと(士師記9:9、13)
などはみな、当時のイスラエル人がモーセの伝えた神の律法を持っていた証拠です。それ故、信仰復興の時には、この神の律法が崇められたのです。

しかし、この時代の全体の傾向は、律法に無関心で、その結果、イスラエル全国が偶像で満たされ、邪悪、不法が極度にまで達したのです。私たちも、神のみことばをおろそかにすると、結果は同じになるのです。私たちは今、心にどんな恵みを経験していても、心にキリストを持っていても、神が啓示された聖書を離れては、健全にイエス・キリストを知ることはできないのです。

聖書によって、キリストを経験し、聖書のみことばを活用し、聖書の健全な知識を学んでいない者が、キリストの品性(人格的徳)や教え、そしてキリストのみわざについて、何を知ることができるでしょうか。
人間の良心と理性は、真理を悟るためには不十分な導き手です。

士師記中には「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(17:6、21:25)と二回も書いてありますが、これは彼らが良心的に事を行なったことを言っているのでもなく、また良心に咎めを感じながら、あえてしていたと言っているのでもなく、自分の知恵で好ましいと判断したことを行なったことを記しているのです。その結果、恐るべき罪の極限にまで達したのです。

士師記は、王政が立てられて後(士師記21:25)、ダビデがエルサレムを攻め取る前の(サムエル記第二 5:6~8)、サウル王の治世中に書いたのでしょう。

「そのころ、イスラエルには王がなく」(士師記17:6、21:25)という言葉は国家としての法律を執行し、秩序を維持する王がいなかったことを示しています。

このことは、私たちにも大切なことを教えています。もし、私たちの心の中に主イエスが王となっておらず、自分の肉の目で良しと見える、自分の好むところばかりをしていくならば、直ちに私たちの心も生活も混乱、堕落し、士師記の状態に陥ってしまうでしょう。

聖書は神の国の律法を教えています。もし、あなたがこの律法を捨てるなら、あなたは神の国の不忠実な民となってしまうことはいうまでもありません。

「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのみことばに従ってそれを守ることです。」(詩篇119:9)

「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。」(申命記6:6)

士師の時代のイスラエル人の堕落の原因は、神の律法を教えられており、知っていながら、それを顧みず、無視し、無関心になり、実際に生活の中で守り行なわなかったからです。これは、今日、聖書を教えられていながら、学んでいながら、実際に自分の心に留めて、行なおうとしない多くのクリスチャンへの警告でもあります。

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:24~27)

「いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。」(テモテ第二 3:7)

たとい、直接、聖霊の導きを受けたという人がいても、預言や異言や、何時間でも祈ることができるという人がいても、その人が聖書に従った生活をしていないなら、その人は自分を欺いているか、悪の霊に欺かれているのです。聖書がその誤りを明示しています。

信仰生活という航海においては、聖書という海図と、聖霊という羅針盤とを備え、主イエス・キリストを船長として迎えていなければならないのです。もし、航海する者が、これらの一つでも必要ないと言えば、その人は大いなる誤ちを犯している愚かな人です。聖霊は常にキリストを示しており、聖書もまた、キリストについて証ししていますが、この二つは、互いに一致するものであって、聖霊は聖書に啓示されたキリストをもって、私たちの霊魂に生命を与えられるお方です。

4、偶像礼拝

イスラエル人の最大の罪悪は、偶像礼拝でした。
もし、私たちが、聖書に啓示されている神以外のものを神と自ら考えたり、想像したり、あるいは、新約聖書のキリストではない別のキリストと言う名前を自ら想像して、これを拝むならば、たとえ、それにキリスト教という名前をつけても、その人は偶像礼拝と異端の罪に陥っていることになります。今日の教会は、ここに陥っていないか、よくよく点検する必要があります。
偶像礼拝とは、私たちの心の中の王座をキリストから奪い取り、キリストが占めるぺき
地位を偶像に与えることです。

私たちの心の中の最上の地位を占めているものは、一つの罪であるかも知れないし、一つの疑いや勝手な憶測であるかも知れません。それは無邪気なことであったり、神聖な問題に関することであったりするかも知れませんが、いずれにしても、キリスト以外のものが、あなたの心の王座を占めていることは、偶像礼拝そのものなのです。

ギデオンが金のエポデを造った時(士師記8:26,27)の動機と目的は、良かったと思われます。イスラエルの人々がギデオンを王にしようとした時、彼は「私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められ
ます。」(士師記8:23)と言って、断わっています。彼が金のエポデを造ったのは、
自分でこれを着用するためではなく、勝利は主から出たことを表わそうと願ったためであったと思われます。ところがイスラエル人は、その金のエポデを拝み、そのエポデがギデオンとその家族を破滅に陥れるワナとなってしまったのです。

イスラエル人がカナン人と親交をもった一つの理由は、カナン人のように裕福になることを願ったからなのです。
パウロは、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5)と警告しています。

5、神の士師

いつの時代にも、神は必ず、ご自身の証人を持っておられます。この暗黒の士師の時代にも同じでした。神が起こされた士師記の救拯(きゅうじょう)者は、ほとんどキリストの型ですが、クリスチャンにとっても、大いなる教訓となります。これは、私たちもキリストの御力によって、神の証人となることができることを示しています。
「しかし聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き1:8)

士師たちの伝記は、コリント第一 1章27~29節のみことばの実例的注解です。
「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」
主は、よく空の器を用いられるのです。

6、契約の使者の顕現

この士師の時代に、契約の使者として、受肉(人となって飼葉おけに伏して下さったこと)以前の主イエスご自身が民の前に三度現われておられます。

第一回目は、2章1~5節において、

主は、ギルガル(意味は「転び」、ギルガルは主イエスご自身が、主の軍旅の将としてヨシュアに現われた場所、ヨシュア記5:10~15)から、ボキム(意味は「嘆き」)に上って来られて、イスラエル人に語っておられますが、そのみことばは、神の御力と恵みを思い起こさせて、民の反逆の罪を責めています。これは、神ご自身でなければ、だれも語ることのできないみことばであったので、イスラエル人たちは声をあげて泣いて、神にいけにえをささげています。

第二回目は、6章12節~21節において、

第一回目より約百五十年後、ギデオンに現われて、イスラエルの民を救う大事業にギデオンを召しておられます。
その時、ギデオンは神に供え物をささげましたが、神の御使いは、その供え物を岩の上に置くように命じました。この岩も、供え物もみな、キリストの型です。
主の御使いが杖の先を伸ばして供え物に触れると、火が岩から燃え上がって、ギデオンのささげた供え物を焼き尽くしました。これは、主がギデオンとギデオンの供え物を受け入れて下さったしるしです。

第三回目は、13章2~20節において、

第二回目の顕現から約三〇年ほど経って、マノアの妻に現われています。
次に、マノア夫婦が畑仕事をしている時に再び現われています。マノアも供え物を携えて来て、岩の上に置いたところ、「主はマノアとその妻が見ているところで、不思議なことをされた。炎が祭壇から天に向かって上がったとき、マノアとその妻の見ているところで、主の使いは祭壇の炎の中を上って行った。」(士師記13:19,20)と記されています。

ちなみに、エリヤは、火の戦車に乗って、たつまきの中を天に昇って行っています(列王記第二 2:11)

主イエスも復活後、オリーブ山から昇天されていますが、その時には、火は現われていません。

マノアが主の使いの名前を尋ねると、主の使いは、「なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という。」(士師記13:18)と答えておられます。
この「不思議」というお名前は、後にイザヤがメシヤのご降誕を預言した時に用いたお名前で(イザヤ9:6)、主のなさるみわざはいつも大いなる不思議でした。(申命記29:3
)神の奥義はいつも、人の考えの及びもつかない不思議なのです。その中でも、汚れた人間の霊魂を潔めてその内に聖なる神が住まわれるという内住のキリスト経験は奥義中の奥義です。

「そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。」(詩篇139:6)

「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は何と測り知りがたいことでしょう。」(ローマ11:33)

「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)

ベツレヘムの馬小屋の飼葉おけに伏されたみどり子は、士師記では主の使者として民の前に立たれたのです。

ちなみに、主がヤコブに現われた時は、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。」と名乗られました。(創世記28:13)

モーセが主のお名前を聞いた時、主は、「わたしは、『わたしはある。』という者である。」と仰せられました。(出エジプト記3:14)

ヨシュアが不遜にも、「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」と尋ねた時、主は、「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」と答えておられます。(ヨシュア記5:14)

迫害者サウロが天からの光に打たれて、地に倒れて、「主よ。あなたはどなたですか。」と尋ねた時、主は、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:5)と答えておられます。

あなたが主にたずねたら、主はあなたに何と答えられるでしょうか。少なくとも、「わたしはあなたがたを全然知らない。」(マタイ7:23)と言われない者となっていなければなりません。有名な伝道者や、悪霊を追い出したり、奇蹟を行なっていると言ってい
る人々の中に、こういう人がいると聖書が言っているのですから。

(まなべあきら 2002.4.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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