聖書の探求(223) 士師記1章8~20節 ユダ族の戦い、オテニエル、ユダ族の不完全な勝利、エブス人

上の地図は、士師記時代のイスラエルの地図。今回の記事に関連した地名を茶色の文字にしています。


8~36節、各々の子孫の戦い

8~20節は、ユダ族の戦いが記されています。

この部分での鍵の言葉は、
「主が・・・ともにおられた」(19、22)
「追い払わなかった」(19、21)です。
一つは、勝利の秘訣を示し、もう一つは敗北の事実を示しています。

8~10節は、ユダ族の輝かしい栄光の勝利の記録です。

この記事は、ヨシュアの時代の勝利を要約して再述していると思われます。

士 1:8 また、ユダ族はエルサレムを攻めて、これを取り、剣の刃でこれを打ち破り、町に火をつけた。

エルサレムの陥落は、ヨシュア記10章の勝利の要約であると思われます。その時、ヨシュアとイスラエル人はエルサレムから下って、また、敵の連合軍を打ち破り、全滅させ、五人の王たちを殺して、木にかけています。士師記の記者は、補足的に「剣の刃でこれを打ち破り、町に火をつけた」ことを記しています。

9節では、ユダ族の勇士たちは、山地やネゲブ(南の方の地)や低地(シェフェラ)に住むカナン人を攻撃するために下っています。

士 1:9 その後、ユダ族は山地やネゲブや低地に住んでいるカナン人と戦うために下って行った。

これは主に、南部の低地ですが、それも、ヨシュア記に記されている過去の勝利の再述と思われます(ヨシュア記10:36、11:21、15:13)。

ヨシ 10:36 ヨシュアはまた、全イスラエルを率いて、エグロンからヘブロンに上り、彼らはそれと戦った。

ヨシ 11:21 そのとき、ヨシュアは行って、アナク人を、山地、ヘブロン、デビル、アナブ、ユダのすべての山地、イスラエルのすべての山地から断ち、彼らをその町々とともに聖絶した。

ヨシ 15:12 また西の境界線は、大海とその沿岸であった。これが、ユダ族の諸氏族の周囲の境界線であった。

10節、彼らはヘブロン(以前の名前は、キルヤテ・アルバ)に住んでいたカナン人を打ち破っています。

士 1:10 ユダはヘブロンに住んでいるカナン人を攻めた。ヘブロンの名は以前はキルヤテ・アルバであった。彼らはシェシャイとアヒマンとタルマイを打ち破った。

ヘブロンは、エルサレムの南西、約30kmにあるユダの山地の要塞の町でした。旧名の「キルヤテ・アルバ」とは、「テトラ・ポリス(四重の町)」という意味です。

ここには首が長く、背の高い巨人(申命記9:2)のアナク人が住んでおり、多分、アナク人の王となっていたアナクの三人の息子、シェシャイ、アヒマン、タルマイ(民数記13:22、ヨシ
ュア記15:14、民数記13:22はアヒマンが先頭に書かれています)を殺しています。

申 9:2 その民は大きくて背が高く、あなたの知っているアナク人である。あなたは聞いた。「だれがアナク人に立ち向かうことができようか。」

民 13:22 彼らは上って行ってネゲブに入り、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマンと、シェシャイと、タルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンより七年前に建てられた。

ヨシ 15:14 カレブは、その所からアナクの三人の息子、シェシャイ、アヒマン、タルマイを追い払った。これらはアナクの子どもである。

これらの記事と、2章10節までに記されている記事は、ヨシュアの時代に獲得した占領地に関する要約で、ヨシュア記に10~24章に、それと同じ出来事を記している多くの関連記事を見ることができます。

テル・ラキシュの丘の上から東方面を望むユダの山地の展望。遠くに見える山地にヘブロンがある。


11~15節、デビル(以前の名は、キルヤテ・セフェル)を攻めた記録

デビルは、ヘブロンの近くのユダの山々に位置し、イスラエルにとって、非常に重要な要所でした。

デビルは、アコルの谷の近くのユダの国境の町にもあり(ヨシュア記15:7)、
マハナイムの近くのヨルダン川の東側にもあり(ヨシュア記13:26)、
エグロンの王の名前にも、このデビルがつけられていた(ヨシュア記10:3)。

デビルは、逃れの町として、祭司アロンの子孫に与えられていました(ヨシュア記21:15)。

ユダ族がこのデビルを攻めたのですが、11~15節は、この進攻がカレブの家の出来事として記されています。

士 1:11 ユダはそこから進んでデビルの住民を攻めた。デビルの名は以前はキルヤテ・セフェルであった。

ここで久し振りに元気なカレブが再び登場して来るのです。

士 1:12 そのときカレブは言った。「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」

カレブの登場はいつも私たちに信仰の励ましを与えてくれます。私たちもそういう人物として、人々の間で、生活させていただきたいものです。「あの人が来ると、何か嫌な問題を起こす。」と思われる人物ではなくて、「あの人が来ると、いつも励ましが与えられる。安心が与えられる。」と思われる人物になりたいものです。

カレブは、デビル攻略の前に、「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」(12節)と約束しました。

カレブがこのようなことを言ったのには、このデビルの存在が、イスラエルにどんなに大きな危険をもたらす可能性があるかを示しています。

また、このような約束をすることは、当時は珍しいことではありませんでした。たとえば、ラバンはヤコブに自分の娘を与える約束をしました(創世記29:18,19,27)。

創 29:18 ヤコブはラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう」と言った。
29:19 するとラバンは、「娘を他人にやるよりは、あなたにあげるほうが良い。私のところにとどまっていなさい」と言った。

創 29:27 それで、この婚礼の週を過ごしなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげましょう。その代わり、あなたはもう七年間、私に仕えなければなりません。」

イスラエル初代の王も、ペリシテ人の巨人ゴリアテを殺す者には、自分の娘を与えると約束しています(サムエル第一 17:25)。

Ⅰサム 17:25 イスラエルの人たちは言った。「あの上って来た男を見たか。イスラエルをなぶるために上って来たのだ。あれを殺す者がいれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」

余談になりますが、私が思うに、カレブはこの時、相当の年令になっていたと思われます(ヨシュア記14:10の時で、すでに85才になっていましたから。)。

ヨシ 14:10 今、ご覧のとおり、【主】がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、【主】は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。

ですから、彼の娘アクサは、カレブの何才の時に生まれた子かは分かりませんが、アクサもそれ相当の年配になっていたと思われますし、まだ独身であったと考えると、仲々、カレブの目にかなう男性がいなかったことになりましょう。

このアクサを妻としたのは、カレブの甥のケナズの子オテニエルです。

士 1:13 ケナズの子で、カレブの弟オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えた。

このオテニエルについては、ヨシュア記15章17,18節に詳しく記してありますので、そちらをご覧くだ
さい。

ヨシ 15:17 ケナズの子で、カレブの兄弟オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを、彼に妻として与えた。
15:18 彼女がとつぐとき、オテニエルは彼女をそそのかして、畑を父に求めることにした。彼女がろばから降りたので、カレブは彼女に、「何がほしいのか」と尋ねた。

14節、新改訳聖書では、オテニエルがアクサに、畑を父カレブに求めるようにそそのかしたと記されています。

士 1:14 彼女がとつぐとき、オテニエルは彼女をそそのかして、畑を父に求めることにした。彼女がろばから降りたので、カレブは彼女に、「何がほしいのか」と尋ねた。

これは、ギリシャ語訳の七十人訳聖書がこの部分を「彼は彼女を」としているので、このような訳になっています。この訳だと、オテニエルは、相当、欲ばりな人間だったという悪い印象を持つでしょう。しかしオテニエルは勇士であるし、相当の財産を所有していたと思われますから、この訳は不自然に思われます。別の訳では、「彼女が彼に」となっており、アクサがオテニエルに、カレブから畑をもらうようにしきりにうながしたとなっています。このほうが、自然的で、最もありそうなことです。その後のアクサの行動からも、ピッタリと当てはまります。アクサのしきりのうながしに対して、オテニエルはためらい、求めなかったのです。それでアクサは自分からろばを降りたのです。このアクサが降りたというヘブル語は、4章12節でヤエルがシセラのこめかみに鉄のくいを打ち込んだ方法を記す時にも同じヘブル語が使われています。これはアクサも、ヤエルも、自分自身の強い意志を表わしています。それ故、アクサはオテニエルにそそのかされて、父に畑を求めたのではなくて、アクサ自身の強い希望で求めたと受け取る方が自然のように思われるのです。

(参考)アメリカの聖書「New International Version」やイギリスの「New King James Version」では、「アクサがオテニエルに畑を求めるようにうながした」と書かれています。
“【NIV】Judges 1:14 One day when she came to Othniel, she urged him to ask her father for a field. ・・・ ”
“【NKJV】Jdg 1:14 Now it happened, when she came to him, that she urged him to ask her father for a field. ・・・ ”

アクサがろばから降りると、カレブはアクサの気持ちを察するかのように、「何がほしいのか。」と尋ねています。するとアクサは、「どうか私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。」と求めたのです。「求めなさい。そうすれば与えられます。」です。

士 1:15 アクサは彼に言った。「どうか私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。」そこでカレブは、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。

ネゲブの地は南方で、ほとんど水のない砂漠地帯です。カレブは、上の泉と下の泉の二つを彼女に与えています。上の泉とは山の中にある泉で、下の泉とは平地にある泉のことでしょう。アクサは要求した以上のものが与えられたのです。すぐれた信仰の持ち主は、愛の持ち主でもあったのです。この記事も、ヨシュア記15:16~19の再述です。

16~20節、ユダ族の不完全な勝利

16節に「モーセの義兄弟であるケニ人の子孫」と記されています。4章11節には、「ケニ人へベルは、モーセの義兄弟ホバブの子孫」とあります。

士 1:16 モーセの義兄弟であるケニ人の子孫は、ユダ族といっしょに、なつめやしの町からアラデの南にあるユダの荒野に上って行って、民とともに住んだ。

士 4:11 ケニ人ヘベルは、モーセの義兄弟ホバブの子孫のカインから離れて、ケデシュの近くのツァアナニムの樫の木のそばで天幕を張っていた。

モーセの妻チッポラの父(モーセにとっての義父)は「レウエル」(出エジプト記2:18)とも言い、「イテロ」(出エジプト記3:1、4:18)とも呼ばれています。

「ホバブ」は「彼(モーセ)のしゅうとミデヤン人レウエルの子ホバブ」(民放記10:29)と言われています。それで、ホバブをモーセの義兄弟と記しているのでしょう。

「ケニ」(ヘブル語のqain)という語は、「鍛冶屋」を意味します。彼らは、アマレク人の隣人で、ネゲブとアラバ地方に住む遊牧民で、巡回の鋳かけ屋でした。

ケニ人は、アブラムの時代には、カナンに住んでいた部族の一族に数えられていました。(創世記15:19)
モーセの時代には、カナンよりずっと南の地方のミデヤンにも住んでいました。ケニ人は荒野の部族で、特にミデヤンの荒野の地理には詳しかったので、イスラエル人のシナイの荒野の旅の道案内に招かれたことがありました(民数記10:31)。

ヨシュアの時代になって、神の約束の地に入り、そこに定住するようになってからは、「なつめやしの町(しゅろの町)」に住んでいました。この「なつめやしの町」は、普通、申命記34章3節にある「エリコの谷」を指しますが、ここでは、もっと南に約140km行ったタマル(「しゅろ」を意味する)を指していると思われます。そこは死海の南端に近い町です。

彼らは、そこからアラデの南にあるユダの荒野に上って行って、イスラエルの民と一緒に住むようになっています。民数記21章1~3節には、ネゲブに住んでいたカナン人アラデの王が敗北した記事が出ています。

民 21:1 ネゲブに住んでいたカナン人アラデの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来ると聞いて、イスラエルと戦い、その何人かを捕虜として捕らえて行った。
21:2 そこでイスラエルは【主】に誓願をして言った。「もし、確かにあなたが私の手に、この民を渡してくださるなら、私は彼らの町々を聖絶いたします。」
21:3 【主】はイスラエルの願いを聞き入れ、カナン人を渡されたので、彼らはカナン人と彼らの町々を聖絶した。そしてその所の名をホルマと呼んだ。

そして、その町は「ホルマ」と呼ばれるようになっています。「ホルマ」の意味は「まかせる」で、完全な破壊にまかせてしまったことを意味して、その名がつけられています。この町の遺跡は、ヘブロンの南26kmにある、現在のテル・アラドだとされています。

テル・アラドにあるカナン時代の遺跡「参考:たけさんのイスラエル紀行(テル・アラド)


「ホルマ」については、その他に民数記14章45節、申命記1章44節を参考にして下さい。この地は、以前にもホルマと呼ばれていたことがあり、アラド王が支配すると、そこはアラデと呼ばれていたようです。

17節は、ホルマに改名した時の経緯を記しています。

士 1:17 ユダは兄弟シメオンといっしょに行って、ツェファテに住んでいたカナン人を打ち、それを聖絶し、その町にホルマという名をつけた。

ユダ族はシメオン族と力を合わせて、ツェファテというカナン人の都の一つを打っています。「ツェファテ」は、「見張りの塔」という意味があります。それはカデシュの北38kmの所にあり、現在はセバイタと呼ばれています。ここは、エドム人の住む南の境界線近くのカナン人の町でした。民数記21章1~3節を見ると、イスラエル人とアラデ王の軍隊との戦いで、何人かのイスラエル人が捕虜として捕えられて行っているのを見ます。

民 21:1 ネゲブに住んでいたカナン人アラデの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来ると聞いて、イスラエルと戦い、その何人かを捕虜として捕らえて行った。
21:2 そこでイスラエルは【主】に誓願をして言った。「もし、確かにあなたが私の手に、この民を渡してくださるなら、私は彼らの町々を聖絶いたします。」
21:3 【主】はイスラエルの願いを聞き入れ、カナン人を渡されたので、彼らはカナン人と彼らの町々を聖絶した。そしてその所の名をホルマと呼んだ。

そこでイスラエル人は主に誓願を立てて言ったのです。「もし、確かにあなたが私の手に、この民を渡してくださるなら、私は彼らの町々を聖絶いたします。」(民数記21:2)この意味は「もし、主がイスラエルにその町を与えてくださるなら、イスラエルの民がその町のものを略奪することを禁じて、主にささげられた、聖別されたものとして、土台まで全く破壊し、その中のすべての生きものを完全に殺してしまいます。」と主に誓ったのです。

「聖絶」とは、ヘブル語の「チェレム」で、「破壊のために分ける」、あるいは「禁止令のもとに置く」という意味です。これは宗教的意味で使われています。それは罪の報いが偶像礼拝者の上に下ることです。このようなことは、今日では道徳的な大問題となりますが、しかし、イエス・キリストは私の罪を赦し、潔め、天の御国に入れてくださるために私の身代わりとなって、聖絶されたのです。これこそ、聖絶の真の意味です。それ故、私たちはキリストの光を照り輝かして、人々の心の中に巣くっている罪を聖絶していく使命を与えられているのです。

神は、このイスラエル人の誓願に応えて勝利を与えられ、民はその誓願を果たしました。そして、その後、その町をホルマと名づけたのです。

18節、ついで、ユダ族は、ガザとアシュケロンとエクロンと、各々の周辺の生活共同体を征服しました。

士 1:18 ついで、ユダはガザとその地域、アシュケロンとその地域、エクロンとその地域を攻め取った。

この地域は、紀元前12世紀初期には、ペリシテ人に占領され、ペリシテ人の重要な地域となっていました。後に、彼らは各々独立政体をとるようになり、繰り返してイスラエルを攻撃し、悩ませる存在となっていったのです(サムエル記第一 4:2)。

Ⅰサム 4:2 ペリシテ人はイスラエルを迎え撃つ陣ぞなえをした。戦いが始まると、イスラエルはペリシテ人に打ち負かされ、約四千人が野の陣地で打たれた。

ガザは、ペリシテの五つの重要な町(アシドデ、アシェケロン、エクロン、ガテ、ガザ)のうち、最も南に位置していました。これは、今のガゼ、あるいはラゼです。アシェケロン(アスケロンとも呼ばれる)は、ガザの北19kmの海のそばの谷にありました(エレミヤ書47:7)。エクロンは、ペリシテの五つの町のうち最も北にあり、最も多く、イスラエルから攻撃を受けた町です。そして何回か、支配関係が変わっています(サムエル記第一5:10、7:14、17:52)。

19節、主はユダ族とともにおられ、主が戦われたので、ユダの人々は山地を占領し、敵対者を山地から追い出すことができたのです。彼らが主に従っている限り、彼らに敵対できる者はいなかったのです。

士 1:19 【主】がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、谷の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払わなかった。

「わたしはまたその地に平和を与える。あなたがたはだれにも悩まされずに寝る。わたしはまた悪い獣をその国から除く。剣があなたがたの国を通り過ぎることはない。あなたがたは敵を追いかけ、彼らはあなたがたの前に剣によって倒れる。あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。」(レビ記26:6~8)

「あなたの神、主が、彼らをあなたに渡し、彼らを大いにかき乱し、ついに、彼らを根絶やしにされる。また彼らの王たちをあなたの手に渡される。あなたは彼らの名を天の下から消し去ろう。だれひとりとして、あなたの前に立ちはだかる者はなく、ついに、あなたは彼らを根絶やしにする。」(申命記7:23,24)

「だれひとりとして、あなたがたの前に立ちはだかる者はいない。あなたがたの神、主は、あなたがたに約束されたとおり、あなたがたが足を踏み入れる地の全面に、あなたがたに対するおびえと恐れを臨ませられる。」(申命記11:25)

しかし、ユダの人々は、平地のカナン人が鉄の戦車を持って抵抗したので、追い払うことができなかったと、記しています。しかし、これは、表面的な理由を書いているにすぎません。カナン人に対する敗北の本当の理由は、神への不服従だったのです。

今日、表面的な理由を挙げて、福音宣教の困難さを語る人がいますが、本当の困難な理由は、クリスチャンの不信仰、不服従にあるのではないでしょうか。私たちの信じている神は、いのちと力を与えてくださるエル・シャダイ、全能の神ではなかったのですか。このお方を心から信じ、愛し、従順に従っていくなら、忍耐強くあかしを続ければ、どこにあっても、エル・シャダイは御力を現わしてくださいます。この世的困難な条件を拾い出す前に、自らの不信仰、不服従を悔い改めようではありませんか。その上で、主がどのように働いてくださるか、見ようではありませんか。

低地のカナン人は他の部族に先駆けて、鉄の文明を発見していました。そして鉄の戦車を造ることによって、彼らの支配権を保ち続け、イスラエルを初めとして、近隣諸国に脅威を与え続けていたのです。鉄は戦車だけではなく、農機具にまで及んでおり、鉄の鍬や鎌はペリシテから買わなければならないし、修理もペリシテに頼らなければならなかったのです。こうして鉄のおかげで、ペリシテは長年にわたって、強力な勢力を保つことができたのです。イスラエル人はこの後、さらに二世紀も製鉄の知識を持つことができなかったのです。多分、彼らが長い間、遊牧民であったからだと思われます。

しかし、ここで注意したいことは、神の民だからといって、すべての面で優れているとは限らないということです。ですから、時代に先駆けて、新しい知識や技術を身につけていくことは大事です。しかしまた、それを信仰なしに行なえば、わざわいにつながることになります。また、自分に不足している知識や技術を敗北の理由にしてはなりません。

ここで、鉄の文化について、ふれておきましょう。ヨシュアの指揮のもとにイスラエルがカナンに侵入した(紀元前1250~1200年)から後の2、3世紀は中東の鉄器文化の初期でもあります。この時代に、鉄の熔解法が考案されました。その前の時代は青銅器時代ですが、青銅の材料となる銅や錫(すず)よりも鉄の原料のほうが圧倒的に多くあり、溢れていました。それより数世紀前から、流星が地上に落下した隕鉄(隕石のうち、約90%の鉄と5~10%のニッケルとわずかのコバルト、マンガンなどを含むもの)でつくった鉄器具の加工例はありますが、大量生産ができなかったので、文明の進歩にまでは至らなかったようです。しかしこの時代になって、鉄の大量生産法が確立してくると、その影響が軍事、農工面に広がっていきました。

鉄の製法を最初に考え出したのは紀元前1400年頃、東小アジアのヒッタイト(ヘテ)人だったようです。「鉄」を意味するへブル語の「barzel(バルゼル)」は、ヒッタイト語の「barzillu(バルジルウ)」から派生しています。

ヒッタイト人とその隣国のミタンニ帝国の王たちは、鉄の製法について、秘密政策をとり鉄の生産と輸出を制限し、富を得たのです。ミタンニの王たちは、自国が紀元前1370年頃、ヒッタイト人に征服されるまで、エジプトのパロに鉄器の貢物を贈っていました。しかし、エジプトの王ラ・メス二世が紀元前1260年頃、ヒッタイトの王ハットウシリス三世に鉄の供給を求めた時、この王は様々な口実を設けて、ラ・メス二世の要求に従わず、一振りの短剣を贈っただけでした。しかし、昔も今も同じで、秘密政策は長く続かず、紀元前1200年頃には、中東にあって、一大文明を誇っていた青銅時代も終わりを告げ、各部族の侵入と混乱のうちに、鉄器文明の花が咲き始めたのです。

旧約聖書では、バシャンの王オグの鉄の寝台(申命記3:11)、カナン人の鉄の戦車(ヨシュア記17:16,18、士師記1:19)、シセラの鉄の戦車900両(士師記4:3)、ペリシテ人の鉄工技術の独占(サムエル記第一 13:19~22)など、鉄器の文明が到来していたことが記されています。

20節、「彼らはモーセが約束したとおり、ヘブロンをカレブに与えたので、カレブはその所からアナクの三人の息子を追い払った。」

これはヨシュア記15章13,14節を再述しています。

ヨシ 15:13 ヨシュアは、【主】の命令で、エフネの子カレブに、ユダ族の中で、キルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを割り当て地として与えた。アルバはアナクの父であった。
15:14 カレブは、その所からアナクの三人の息子、シェシャイ、アヒマン、タルマイを追い払った。これらはアナクの子どもである。

カレブはこの時も、生き残っていたので、この節が特別に付け加えられているものと思われます。カレブは主に忠実であったために、見事に、難事を成し遂げて、よいあかしをしたのです。

21節、エブス人

ヨシュアは、ベニヤミン族にエブス人の地を割り当てていました。(ヨシュア記18:28)

しかしベニヤミン族はエブス人を追い払わなかったのです。それ故、ダビデがシオンを支配し始めた時も、エブス人はダビデを侮って、シオンを自分のものにしていたのです(サムエル記第二 5:6、歴代誌第一 11:4~5)。

Ⅰ歴代 11:4 ダビデと全イスラエルがエルサレム──それはエブスのことで、そこには、この地の住民エブス人がいた──に行ったとき、
11:5 エブスの住民はダビデに言った。「あなたはここに来ることはできない。」しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これがダビデの町である。

「エブス人」という語は、「踏みつける」とか、「軽蔑する」という意味です。エブス人は山地族で、彼らの主な町はエブスでした。エブスはシオンの要塞のあったエルサレムです。

ここでは、ベニヤミン族がエブス人を追い払わなかったと言っているのに対して、ヨシュア記15章63節では、ユダ族がエブス人を追い払うことができなかった、と言っています。
ヨシ 15:63 ユダ族は、エルサレムの住民エブス人を追い払うことができなかった。それで、エブス人はユダ族とともにエルサレムに住んでいた。今日もそうである。

これはエルサレムの南の部分がユダ族に属し、北の部分がベニヤミンに属していたからです。

「エブス人は今日までベニヤミン族といっしょにエルサレムに住んでいる。」と、記していることは、この記事が書かれたのは、ダビデがエブス人を征服し(紀元前1003年)、追い出してしまってダビデ王国を建設する前であったことを示しています。

エブス人は、おそらく、昔ヘテ人がエルサレムにいた後に、入って来て定住したアモリ人たちであると思われます。

しかしダビデ占領後も、ヘテ人とアモリ人はエルサレムに住み続けていたようです。サムエル記第二 24章16~25節の「エブス人アラウナ」は、ヒッタイト詣では「貴族」を意味すると考えられています。

Ⅱサム 24:18 その日、ガドはダビデのところに来て、彼に言った。「エブス人アラウナの打ち場に上って行って、【主】のために祭壇を築きなさい。」

(まなべあきら 2002.10.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


「聖書の探求」の目次


【月刊「聖書の探求」の定期購読のおすすめ】
創刊は1984年4月1日。2023年6月現在、通巻472号 エステル記、まだまだ続きます。

お申し込みは、ご購読開始希望の号数と部数を明記の上、振替、現金書留などで、地の塩港南キリスト教会文書伝道部「聖書の探求」係にご入金ください。
一年間購読料一部 1,560円(送料共)
単月 一部 50円 送料84円
バックナンバーもあります。
(複数の送料) 3部まで94円、7部まで210円.多数の時はお問い合わせ下さい。
郵便振替00250-1-14559
「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」


発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
〒233-0012 横浜市港南区上永谷5-22-2
電話FAX共用 045(844)8421