聖書の探求(237,238) 士師記9章 シェケムの王となるアビメレク、ヨタムの宣言、アビメレクの死

上の絵は、フランスの画家 James Tissot (1836-1902) により描かれた「A Woman Breaks the Skull of Abimelech(一人の女がアビメレクの頭を打ち砕く)」(ニューヨークのJewish Museum蔵)

9章は、残忍な王アビメレクの陰謀を記しています。

9章の分解

1~6節、アビメレク、シェケムの王となる
7~21節、ヨタムの宣言
22~49節、アビメレクに対するガアルとシェケムの民の反逆
50~57節、アビメレクの死

1~6節、アビメレク、シェケムの王となる

アビメレクが王になるには、

神の召命がありません。
抗争がありました。
彼は、王になるのにふさわしくない手段と方法を用いています。
ヨタムの非難を受けています。

これらのことから、アビメレクが王になるのは不当なことであったと言えます。

士9:1 さて、エルバアルの子アビメレクは、シェケムにいる自分の母の身内の者たちのところに行き、彼らと母の一族の氏族全員に告げて言った。

1節、アビメレクは、多くの国民から尊敬を受けた父親のギデオンに比べて、全く尊敬に値しない息子と言わざるを得ません。彼はシェケムにいたギデオンのそばめの子(8:31)で、彼は父ギデオンが拒否した王となるべき民の申し出(8:22,23)を、受ける野心を持っていました。そのために彼は、ギデオンのそばめだった自分の母方の血筋の者たちの所に行き、自分が王となるべきことを売り込んだのです。彼らの氏族はギデオンの正妻の息子たちに不満を抱いていたものと思われます。アビメレクはそれを利用したのです。

士 9:2 「どうかシェケムのすべての者に、よく言って聞かせてください。エルバアルの息子七十人がみなで、あなたがたを治めるのと、ただひとりがあなたがたを治めるのと、あなたがたにとって、どちらがよいか。私があなたがたの骨肉であることを思い起こしてください。」

2節の彼の話の要旨は、
ギデオン(エルバアル)の七十人の息子全員が指導者となって、あなた方を治めるのと(実際はイスラエルを治めるのですが、アビメレクは、敢えて「あなたがた」と言って、彼らの不満をあおりたてています。)、「ただひとり(すなわち、同じ血筋にあるアビメレクひとり)があなたがたを治めるのと、あなたがたにとって、どちらがよいか。」と、比較して尋ねています。
最後に彼は、「私があなたがたの骨肉であることを思い起こしてください。」と付け加えています。

3節は、母方の人々の反応を示しています。

士 9:3 アビメレクの母の身内の者たちが、彼に代わって、これらのことをみな、シェケムのすべての者に言って聞かせたとき、彼らの心はアビメレクに傾いた。彼らは「彼は私たちの身内の者だ」と思ったからである。

アビメレクの話を聞いた母の身内の者たちは、その話をシェケムの市民に語り伝えたのです。その時、シェケムの人々の心は「彼は私たちの身内の者だ」という思いを持って、アビメレクに傾いていったのです。

今日でも、本人の性質や実質を考えないで、息子や娘だから、身内だからという内的思いから、牧師にさせたり、教団や会社やグループの指導を任せる人がいます。本人が実質を備えた人なら、幸いです。しかしもし、人情や内的欲で動く人なら、そのグループはわざわいに会うでしょう。

シェケムはもともとカナン人の町で、王による支配という考え方は新しいものではありませんでした。イスラエル人がギデオンに、王となってくれることを申し込んだことは、イスラエル人の間で、王という考え方が定着していたことを示しています。すなわち神政政治がすでに忘れ去られていたのです。

こうしてシェケムの人々は互いの血縁関係のために、アビメレクを王にすることを決めたのです。

4~6節は、アビメレクが王となるまでの行動を記しています。

まず、アビメレクは王となるための運動資金を、バアル・ベリテの宮の宝庫から銀七十シェケルを取り出しています。バアル・ベリテはその頃、イスラエル人が拝み始めた偶像の神殿です。彼はここで資金調達をすると、それで彼のために働く「ごろつきの、ずうずうしい者たち(すなわち、価値のない、気ままで、下劣で、それでいて誇り高い者たち)」を雇っています。

士 9:4 彼らはバアル・ベリテの宮から銀七十シェケルを取り出して彼に与えた。アビメレクはそれで、ごろつきの、ずうずうしい者たちを雇った。彼らはアビメレクのあとについた。

「彼らはアビメレクのあとについた。」の「ついた」のへブル語の意味は、アビメレクと一緒に「歩きまわった。さまよい歩いた。」です。

アビメレクが王になるための最初の行動は、オフラにある彼の父ギデオンの家に、雇った自分の、ならず者の一団を連れて行って、自分の兄弟であるエルバアル(ギデオン)の七十人の息子たちを殺すことでした。聖書は「一つの石の上で殺した。」と言っています。多分、これは処刑したのでしょう。

士 9:5 それから、アビメレクはオフラにある彼の父の家に行って、自分の兄弟であるエルバアルの息子たち七十人を一つの石の上で殺した。しかし、エルバアルの末子ヨタムは隠れていたので生き残った。

しかしエルバアルの末の息子ヨタムは隠れていたので、生き残ったのです。ヨタムとは、「主は正しい」という意味です。ヨタムの名の付いている人は、彼の他にヤフダイの子のヨタム(歴代誌第一 2:47)と、ユダの王となったヨタム(歴代誌第一 5:17)がいます。

6節、アビメレクが、ヨタム以外の自分の兄弟をすべて殺した後、シェケムの者とベテ・ミロの者は一緒に集まり、シェケムにある石の柱のそばの樫の木のところで、アビメレクを王としています。

士 9:6 それで、シェケムの者とベテ・ミロの者はみな集まり、出かけて行って、シェケムにある石の柱のそばの樫の木のところで、アビメレクを王とした。

「ミロ」はへブル語で「城壁」とか「土手」という意味です。そこは土と石が多かったためにそう呼ばれたのだと思われますが、そこから「ミロ」は「要塞」を意味するようになりました。その後、「べテ・ミロ(ミロの家)」はシェケムの軍事的な司令部のある要塞として使われていたと思われます。

サムエル記第二 5章9節では、ダビデの時代には「ミロ」はエルサレムの要塞の名前として使われています。
それはソロモンによって再建され(列王記第一 9:24)、ヒゼキヤによって強固にされています(歴代誌第二 32:5)。

Ⅱサム 5:9 こうしてダビデはこの要害を住まいとして、これをダビデの町と呼んだ。ダビデはミロから内側にかけて、回りに城壁を建てた。
Ⅰ列王 9:24 パロの娘が、ダビデの町から、彼女のために建てた家に上って来たとき、ソロモンはミロを建てた。
Ⅱ歴代 32:5 それから、彼(ヒゼキヤ)は奮い立って、くずれていた城壁を全部建て直し、さらに、やぐらを上に上げ、外側にもう一つの城壁を築き、ダビデの町ミロを強固にした。そのうえ、彼は大量の投げ槍と盾を作った。

「石の柱のそば」とは、ヘブル語で、「柵(駐屯地、塹壕)」を意味しています。そのそばの樫の木とは、特別な神聖な場所を意味していると思われます。

「それでヤコブはそれらをシェケムの近くにある樫の木の下に隠した。」(創世紀35:4)

「ヨシュアは、これらのことばを神の律法の書にしるし、大きな石を取って、主の聖所にある樫の木の下にそれを立てた。」(ヨシュア記24:26)

7~21節、ヨタムのたとえ話による宣言

アビメレクが王になったニュースがヨタムに告げられた時、ヨタムはシェケムの南にある標高855メートルのゲリジム山の頂上に登って、そこに立ち、大声で叫んだのです。

士 9:7 このことがヨタムに告げられたとき、彼は行って、ゲリジム山の頂上に立ち、声を張り上げ、彼らに叫んで言った。「シェケムの者たち。私に聞け。そうすれば神はあなたがたに聞いてくださろう。

ゲリジム山は「祝福の山」であり、向かいの「エバル山」は「のろいの山」を意味しています(申命記27:12,13)。

上の写真は、現在のナブルス(古代のシェケム)をはさんで立つゲリジム山(左)とエバル山(右)(Mount Ebal and Mount Gerizim、Wikimedia Commonsよりהר עיבל והר גריזים .jpg)

ヨタムは自ら、「祝福の山」に登ったのです。後に、サマリヤ人はそこに彼らの神殿を建て、その近くにはヤコブの井戸があり、そこでイエス様は水を汲みに来たサマリヤの女と話をされたのです(ヨハネ4:6,20)。

ヨタムは、シェケムの人々に、自分の話をよく聞けば、神があなたがたを悟らせて下さると言いたげです。

8節は、ヨタムの話の中心的なスタイルです。

士 9:8 木々が自分たちの王を立てて油をそそごうと出かけた。彼らはオリーブの木に言った。『私たちの王となってください。』

ヨタムは木々の王の寓話を用いて語っています。木々は実際には話をしないのですが、あたかも話しているかのように使って、現実の問題を表わそうとしているのです。聖書中、たとえ話はよく用いられていますが、寓話は稀れにしか使われていません。

ちなみに、たとえと寓話と隠語の関係を簡単に説明しておきましょう。

たとえは、実際にあり得ること、起き得る出来事を用いて話すことです。
たとえで話す時の目的は、二つあります。
一つは、霊の世界の真理を分かりやすく解き明かすことです。
もう一つは、心の頑な人には、霊の世界の真理を隠すためです。

寓話は、あり得ないこと、起こり得ないことがあたかも起きているかのように話されます。
ヨタムの寓話では、木々は決して話さないのに、木々が話しているように語られています。

隠語は、仲間の者だけに通じて、仲間以外の者には悟られないようにした、隠し言葉、合図、なぞかけなどがあります。サムソンのなぞは、その一つの例です(士師記14章)。

ヨタムの寓話は四種類の木々を用いて語られています。

第一は、オリーブの木です(8,9節)。

士 9:8 木々が自分たちの王を立てて油をそそごうと出かけた。彼らはオリーブの木に言った。『私たちの王となってください。』
9:9 すると、オリーブの木は彼らに言った。『私は神と人とをあがめるために使われる私の油を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』

木々は、自分たちの王となるように仲間の一本の木(一人の人)に油を注ごうとして、オリーブの木に言った。「私たちの王となってください。」
しかしオリーブの木は次のように答えたのです。オリーブの油は神と人とをあがめるために豊かな使命を受けているのです。オリーブ油は旧約時代、主の御名によって預言者や祭司、王たちの任職の油を注ぐために使われていたのです。オリーブは、そのような重大な使命を捨てて、木々の上にそよぐ(人々を支配する王となる)ことなどできましょうか、と言って拒否したのです。
神と人とに賛美を与えることを差しおいて、人々を支配するべきでしょうか。

第二は、いちじくの木です(10,11節)。

士 9:10 ついで、木々はいちじくの木に言った。『来て、私たちの王となってください。』
9:11 しかし、いちじくの木は彼らに言った。『私は、私の甘みと私の良い実を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』

次に、いちじくの木に王となる話を持ちかけましたが、いちじくも、自分の甘みと良い実、すなわち、結実豊かな生活を放棄して、空しい人々を支配する生活をすべきでしょうか。
いちじくも自分の使命をきちんと守って愚かな話を拒否したのです。

第三は、ぶどうの木です(12,13節)。

士 9:12 それから、木々はぶどうの木に言った。『来て、私たちの王となってください。』
9:13 しかし、ぶどうの木は彼らに言った。『私は、神と人とを喜ばせる私の新しいぶどう酒を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』

ぶどうの木も、神と人とを喜ばせる使命を捨てて、空しい支配者になつてよいでしょうか、と言って拒否しました。

9節と22節に記されている「神」と訳されているへブル語は複数で、文脈によれば、「神々」と訳することができます。おそらく、ヨタムはシェケムの人々の多神教を指して言っていると思われます。

第四は、いばらです(14,15節)。

士 9:14 そこで、すべての木がいばらに言った。『来て、私たちの王となってください。』
9:15 すると、いばらは木々に言った。『もしあなたがたがまことをもって私に油をそそぎ、あなたがたの王とするなら、来て、私の陰に身を避けよ。そうでなければ、いばらから火が出て、レバノンの杉の木を焼き尽くそう。』

「いばら」はアビメレクを指していると思われます。
断わられ続けた木々は、必死になつて、いばらに、しつこく王になつてくれるように頼みました。ヨタムがアビメレクをいばらにたとえた皮肉は間違っていませんでした。
オリーブやいちじくやぶどう酒は、パレスチナでは最も重要な農産物です。薬ともなり、栄養価の高い食用品でした。一方、いばらは、燃やす以外、何の役にも立たないものです。

そのいばらが、この時とばかり、「もしあなたがたが真実をもって私を王として選ぶなら、私に従って来て、私の支配下に身を避けなさい。しかし、そうでなければ、いばらから火が出て、レバノンの杉の木を焼き尽くそう。」と豪語したのです。レバノン杉は、高価な香り高い大木の杉です。これは神殿の建築にも使われています。いばらはレバノン杉と比べることもできないほど価値のないものです。いばらは燃やすと、あっという間に燃え尽きてしまうものです。それ故、いばらがレバノン杉を倒すということは、まずあり得ないことです。しかし、いばらは最大の高慢ぶりを示して見せたのです。

教会で本当にカある人が主の働きを喜んで受けずに、この世の仕事にたずさわることによって、また主の働きにふさわしくない人が教会の働きに就くことによって、いばら(アビメレク)と同じことが起きてしまうのです。本当に実質の伴った聖徒たちが指導的地位に就かず、学問だけをすることによって、ふさわしくない人々が世界を治めることになってしまうのです。

16~20節、ヨタムはアビメレク一人に非難の矢を向けず、アビメレクの陰謀に加わったシェケムの住民たちの悪い考えと選択に対しても、彼の非難を向けています。

 

ヨタムは、シェケム人がまことと真心をもってアビメレクを王としたのではなかったことを指摘しています。またエルバアル(ギデオン)とその血族に十分な報いをしていないこと、ミデヤン人からの救出の働きに対して、ふさわしい報酬を与えていないこと、ねんごろに取り扱っていないことを非難しました。

士 9:16 今、あなたがたはまことと真心をもって行動して、アビメレクを王にしたのか。あなたがたはエルバアルとその家族とを、ねんごろに取り扱い、彼のてがらに報いたのか。

ギデオンはシェケムの人々のためにも、命がけで、ミデヤン人と戦い、救出したのでした。

9:17 私の父は、あなたがたのために戦い、自分のいのちをかけて、あなたがたをミデヤン人の手から助け出したのだ。

それに対して、シェケム人がまことと真心をもって行動したのならシェケム人が選んだアビメレクを喜び、アビメレクもシェケム人を喜んだらいいでしょう。

9:18 あなたがたは、きょう、私の父の家にそむいて立ち上がり、その息子たち七十人を、一つの石の上で殺し、女奴隷の子アビメレクをあなたがたの身内の者だからというので、シェケムの者たちの王として立てた。

9:19 もしあなたがたが、きょう、エルバアルと、その家族とにまことと真心をもって行動したのなら、あなたがたはアビメレクを喜び、彼もまた、あなたがたを喜ぶがよい。

しかし実際は、そうではなかったのです。ですからアビメレクから火(わざわい)が出て、シェケムとベテ・ミロ(ミロの家、ミロの要塞)の人たちを食い尽くし、シェケムとベテ・ミロの人たちからも火が出て、アビメレクを食い尽くすことになると、ヨタムは宜言しています。

9:20 そうでなかったなら、アビメレクから火が出て、シェケムとベテ・ミロの者たちを食い尽くし、シェケムとベテ・ミロの者たちから火が出て、アビメレクを食い尽くそう。」

血族関係や一族だからということを重要視し、実質を無視して、一族によって指導者が権限を握ると、必ず、アビメレクと同じ問題を起すのです。この世には、創業者の一族が経営陣となっている一族会社が少なくありませんが、それを続けていると、必ず、争いをひき起こすようになるのです。それは組織が悪いのではなくて、そこで働く人々の自己中心が問題になつているのです。群れを指導し、成長、発展させる実質のある人こそ、その群れのりーダーに選ばれるべきです。これは選挙で決められるべきものではありません。要は、その群れが有能なリーダーを育てることができるか、どうかにかかっているのです。

ヨタムは、この難しいメッセージを多分、預言の霊を受けて語ったのでしょう。彼はこれを語った後、アビメレクの攻撃を避けて、ベエルに逃げ、そこに住んでいます。

士 9:21 それから、ヨタムは逃げ去り、ベエルに行き、兄弟アビメレクを避けてそこに住んだ。

ベエルはモアブとの国境近くにあり、モーセの時代、イスラエル人が一時、滞在した所(民数紀21:16)ですが、その正確な場所は知られていません。「ベエル」とは「井戸」を意味しています。パレスチナの南部は乾燥しており、砂漠が多くて、井戸は非常に大切だったので、多くの場所に「ベエル」という名前が付けられていました。「ベエル・シェバ」もその一例です。

ここで、アビメレクを王にしたことに対するヨタムの非難を、簡単にまとめておきます。

1、シェケムとベテ・ミロの人々は、まことと真心をもって行動していなかったこと
2、エルバアル(ギデオン)の偉大な働きに対して、その家族に十分な報いをしていないこと
3、アビメレクの虐殺行為の非難
4、身内の者だからというだけで、アビメレクを王としたこと
5、まことと真心をもって行動していないのなら、シェケムとベテ・ミロとアビメレクにも、わざわいが及ぶこと

実質のない、ふさわしくない者を、身内だというだけで指導者に押し上げると、必ず、わざわいが起きます。

22~49節、アビメレクに対する反抗

① 22~25節、シェケムの裏切り

ヨタムの預言は、すぐに広がり始めました。アビメレクは三年間、支配しましたが、彼が治めた人々はイスラエルとカナン人の連合体で決して容易に治められる民ではなかったのです。

23節、「神は、アビメレクとシェケムの者たちの間に悪霊を送ったので、シェケムの者たちはアビメレクを裏切った。」

士 9:22 アビメレクは三年間、イスラエルを支配した。
9:23 神は、アビメレクとシェケムの者たちの間にわざわいの霊を送ったので、シェケムの者たちはアビメレクを裏切った。
9:24 そのためエルバアルの七十人の息子たちへの暴虐が再現し、彼らの血が、彼らを殺した兄弟アビメレクと、アビメレクに加勢して彼の兄弟たちを殺したシェケムの者たちの上に臨んだ。

身内の者だからというので、安心して信頼し切っていることはできません。自分中心の性質を持っている者は裏切る可能性をいつも持っているのです。

神はアビメレクとシェケムの人々の両者を罰するために悪霊を送ったと聖書は記しています。ダビデの命を狙っていたサウル王の場合も、「主の霊はサウルを離れ、主からの悪い霊が彼をおびえさせた。」(サムエル記第一 16:14)

イスカリオテのユダの場合も、「彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。」(ヨハネ13:27)と記されています。

人の霊魂は神の御霊が宿っていない時はサタンの悪の霊が宿っているのです。人の霊魂はどんな霊も存在しない真空状態ではいられないのです。人は例外なく、神の霊か、悪の霊か、いずれかを宿しているのです。どんなに真面目で正しい生活をしている人でも、主の霊を宿していなければ、自己中心の悪の霊を宿しているのです。

ここでは「送った」とありますから、神が彼らの罪に対して審判と神の怒りを下されたのです。

神は普段、ご自身の怒りや審判をとどめておられ、私たちをお守り下さっているのですが、神の警告に従わず、罪を犯し、反逆するなら、主はご自身の御怒りを下されるのです。
それは完全な滅亡とまでならなくても、わざわいとなって現われてくるのです。このわざわいを受けても悔い改めないなら、最後の審判に行き着いてしまうでしょう。

アビメレクを王の権力の座に引き上げた同じシェケム人が今やアビメレクの転落のために山々の頂上で彼を待ち伏せしていたのです。神は神に敵対していた者たちを神の刑罰の道具として使われるのです。

25節、「彼らは道でそばを過ぎるすべての者を略奪した。」

士 9:25 シェケムの者たちは、山々の頂上に彼を待ち伏せる者たちを置いたので、彼らは道でそばを過ぎるすべての者を略奪した。やがて、このことがアビメレクに告げられた。

キャラバン(隊商)は、アビメレクから安全の保証を受けてその道を通過していたのです。アビメレクは彼らから彼の領地を通り過ぎる時に通行税を受け取っていたものと思われます。そこで略奪が起きると、アビメレクにとっては経済上の問題、信用上の問題、治安上の問題、政治上の問題が次々と起きて、彼の地位は危くなります。

② 26~29節、ガアル

エベデの子ガアルとその身内の者たちがシェケムにやって来た、その時期はぶどうの収穫の祭りの時で、飲み食いをし、はしゃぎまわり、シェケムの人々は彼らを受け入れて、ガアルを信用しました。

士 9:26 エベデの子ガアルとその身内の者たちが来て、シェケムを通りかかったとき、シェケムの者たちは彼を信用した。
9:27 そこで彼らは畑に出て行って、ぶどうを収穫して、踏んだ。そして祭りをし、自分たちの神の宮に入って行って、飲み食いし、アビメレクをののしった。

その祭りはシェケムのバアル・べリテの宮で行なわれ、ガアルがシェケム人を扇動するには、シェケム人が浮かれている絶好のチャンスでした。ガアルはその時を狙っていたと思われます。彼らは同調して、アビメレクがいない時に、アビメレクをののしり、アビメレクへの反逆の気運を盛り立てました。

ガアルについての記述はあまりありませんが、「ガアル」とは「嫌悪」という意味で、略奪隊の長であったと思われます。彼の身内の人とはカナン人であったようで、彼はシェケムの市民を扇動して、イスラエル人の支配者アビメレクを退け、カナン人の支配者を回復させようとしていたのです。

ガアルは、イスラエル人のアビメレクをののしり、アビメレクの部下であり、シェケムの町の役人だったゼブルをののしり、シェケムの父であるハモルの人々に仕えることを強調しています。

士 9:28 そのとき、エベデの子ガアルは言った。「アビメレクとは何者か。シェケムとは何者か。われわれが彼に仕えなければならないとは。アビメレクはエルバアルの子、ゼブルはアビメレクの役人ではないか。シェケムの父ハモルの人々に仕えなさい。なぜわれわれはアビメレクに仕えなければならないのか。

ハモルは、ヤコブの子シメオンとレビによってだまされて殺害されたヒビ人でした。ハモルが殺された理由は、ハモルの息子シェケムがヤコブの娘ディナと寝てはずかしめ、堕落させてしまったからです(創世記34:2)。そんな古い昔のことの恨みも消えてはいなかったのです。

29節、ガアルは自分が王となってアビメレクを追放することまで考えていました。

士 9:29 だれか、この民を私の手に与えてくれないものか。そうすれば私はアビメレクを追い出すのだが。」そして彼はアビメレクに言った。

ガアルはアビメレクに「おまえの軍隊をふやして、出て来い。」と言って、高慢な挑戦をしています。彼は大きな口をきいていますが、それは多分にぶどう酒を飲み過ぎ、酔っていたからだと思われます。

③30~33節、ゼブルの怒りと進言

シェケムの町の役人で、この町のつかさだったゼブルは、ガアルの大胆なののしりの言葉を聞いて怒りを燃やし、彼は密かにトルマ(別名アルマ、9:41)にいた主人アビメレクの所に使者を送って、メッセージを伝えています。

士 9:30 この町のつかさゼブルは、エベデの子ガアルの言ったことを聞いて、怒りを燃やし、
9:31 トルマにいるアビメレクのところに使者を送って言わせた。「今、エベデの子ガアルとその身内の者たちがシェケムに来ています。今、彼らは町を、あなたにそむかせようとしています。
9:32 今、あなたとあなたとともにいる民は、夜のうちに立って、野で待ち伏せなさい。
9:33 朝早く、太陽が上るころ、町に突入しなさい。すると、ガアルと、彼とともにいる民は、あなたに向かって出て来るでしょう。あなたは好機をつかんで、彼らを攻撃することができます。」

今、エベデの子ガアルとその身内の者たちがシェケムにやって来て、シェケムの人々の心に、アビメレクに敵対するように吹き込んで扇動しています。
それ故、アビメレクとその民が今夜のうちにやって来て、シェケムの町の城壁の外の野で待ち伏せし、夜明けに攻撃するようにと勧めたのです。奇襲攻撃をかけて、ガアルと彼とともにいる人々が、出て来る時、アビメレクたちは勝利の好機をつかむことになります。

④ 34~41節、、アビメレクの反撃

士 9:34 そこでアビメレクと、彼とともにいた民はみな、夜のうちに立って、四隊に分かれてシェケムに向かって待ち伏せた。
9:35 エベデの子ガアルが出て来て、町の門の入口に立ったとき、アビメレクと、彼とともにいた民は、待ち伏せしていた所から立ち上がった。

アビメレクはゼブルの言葉に従い、すぐに民を四隊に分けて、その夜の内にシェケムに向かい、待ち伏せたのです。
翌朝、ガアルが、シェケムの町の門の入口に立った時、アビメレクと彼の軍隊は一挙に突撃し、ガアルたちはあわてて、戦いは一瞬にして決まったのです。

36節、ガアルは、「あれ、山々の頂から民が降りて来る。」とゼブルに言っていますが、ゼブルは「あなたは、山々の影が人のように見えるのです。」と言って、アビメレクたちの攻撃が進んで来るように時間かせぎをしています。

士 9:36 ガアルはその民を見て、ゼブルに言った。「あれ、山々の頂から民が降りて来る。」すると、ゼブルは彼に言った。「あなたは、山々の影が人のように見えるのです。」

ガアルは「いや。人々がこの地の一番高い所から降りて来る。また一隊がメオヌニムの樫の木(うらない者のテレビンの木〉のほうから来る。」と確認しています。

9:37 ガアルはまた言った。「いや。人々がこの地の一番高い所から降りて来る。また一隊がメオヌニムの樫の木のほうから来る。」

ここで、ゼブルは嘲笑うようにガアルに、「あなたが見くびったのは、この民ではありませんか。さあ、今、出て行って、彼と戦いなさい。」と言っています。

9:38 すると、ゼブルは彼に言った。「『アビメレクとは何者か。われわれが彼に仕えなければならないとは』と言ったあなたの口は、いったいどこにあるのですか。あなたが見くびったのは、この民ではありませんか。さあ、今、出て行って、彼と戦いなさい。」
9:39 そこで、ガアルはシェケムの者たちの先頭に立って出て行き、アビメレクと戦った。
9:40 アビメレクが彼を追ったので、ガアルは彼の前から逃げた。そして多くの者が刺し殺されて倒れ、門の入口にまで及んだ。

ここに一つの法則を見ます。ガアルはハモルとシェケムについて、イスラエル人に古い恨みを抱いていたかも知れませんが、敵対者を激しくののしることによって、自分が破滅したのです。アビメレクも自分の兄弟たち七十人を殺して、王となりましたが、彼は自分を王に仕立てた仲間に裏切られ、テベツでひとりの女がアビメレクの頭にひき白の上石を投げつけて、彼の頭蓋骨を打ち砕いて、殺されたのです。

他人をひどくののしり、激しく責め立てて攻撃する者は、必ずと言っていいほど、自分も破滅することになります。神が自分に対して、あわれみをかけてくださったから、自分は今日、滅びずにいることを自覚し、他の人にもあわれみを持つことは大切です。

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」(哀歌3:22)

「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」(マタイ5:7)

41節、アビメレクは自分の居住所である「アルマ」にとどまっています。

9:41 アビメレクはアルマにとどまったが、ゼブルは、ガアルとその身内の者たちを追い払って、彼らをシェケムに住ませなかった。

この地は「ルマ」とも綴られ(列王記第二 23:36)、ここはシェケムの南東22~23KMの所にある、今のエル・オルマです。

⑤ 42~45節、シェケムの完全崩壊

ゼブルは、ガアルと彼の身内の者をシェケムの町から追い払い、シェケムの町に住まわせなかったのです。
そればかりではなく、翌日、アビメレクの民はアビメレクにシェケムの完全破壊を提案したものと思われます。

士 9:42 翌日、民は、野に出かけて行って、アビメレクに告げた。
9:43 そこで、アビメレクは自分の民を引き連れて、それを三隊に分け、野で待ち伏せた。すると、民が町から出て来るのが見えたので、彼らを襲って打った。
9:44 アビメレクと、彼とともにいた一隊は突入して、町の門の入口に立った。一方、他の二隊は野にいたすべての者を襲って、打ち殺した。

シェケムの人々は次の日、おそらく普段の仕事をするために野に出て来たものと思われます。アビメレクは自分の軍隊を三隊に分け、一隊は町の門の入り口に立って、ふさぎ、他の二隊は野にいるシェケム人を襲って打ち殺しています。それからアビメレクの全軍隊はシェケムの町そのものを攻撃し、攻め取って、そのうちにいた住民を殺し、城壁や建物を壊し、町全体を破壊したのです。

9:45 アビメレクはその日、一日中、町で戦い、この町を攻め取り、そのうちにいた民を殺し、町を破壊して、そこに塩をまいた。

「そこに塩をまいた」のは、日本人がするような汚れや厄払いを願うようなものではなく、ソドム、ゴモラのように永久に廃墟となり、憎悪の的となるようにという意味が込められています。

「その全土は、硫黄と塩によって焼け土となり、種も蒔けず、芽も出さず、草一本も生えなくなっており、主が怒りと憤りで、くつがえされたソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようである。」(申命記29:23)

「そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。」(エレミヤ書17:6)

⑥ 46~49節、シェケムのやぐらの虐殺

士 9:46 シェケムのやぐらの者たちはみな、これを聞いて、エル・ベリテの宮の地下室に入って行った。
9:47 シェケムのやぐらの者たちがみな集まったことがアビメレクに告げられたとき、
9:48 アビメレクは、自分とともにいた民とツァルモン山に登って行った。アビメレクは手に斧を取って、木の枝を切り、これを持ち上げて、自分の肩に載せ、共にいる民に言った。「私がするのを見たとおりに、あなたがたも急いでそのとおりにしなさい。」
9:49 それで民もまた、みなめいめい枝を切って、アビメレクについて行き、それを地下室の上に置き、火をつけて、地下室を焼いた。それでシェケムのやぐらの人たち、男女約一千人もみな死んだ。

シェケムのやぐらは、町から離れた所にある要塞で、バアル・ベリテの宮と関係がありました。そこにいた者たち(おそらく彼らは偶像礼拝をしていたと思われます)は、シェケムの町が破壊されたことを聞くと、エル・ベリテの宮の地下室(宮の地下要塞)に逃げ込んだのです。それはアビメレクにとって、彼らを皆殺しにするのに好都合でした。アビメレクはシェケムの残りの者がべリテの地下要塞に逃げ込んだことを聞くと、名案を思いついたのです。彼は民を連れてツァルモン山(シェケムに近いゲリジム山の一つの峰と考えられています。その意味は「黒い物」で、山腹を樹木がおおっていたので、そう呼ばれていたと思われます。)に登り、木の枝を切り取って、肩に載せて持ち帰り、シェケム人が逃げ込んだ地下室の上に置き、火をつけて、地下室を焼いたのです。当時の地下要塞といっても、今のシェルターのように熱を通さないものではなく、非常に浅いもので、中にいたシェケム人は焼き殺されてしまったのです。その数は男女で約一千人と記されていますから、その地下要塞は千人が入るほど、相当広いものであったことが分かります。アビメレクの心には裏切ったシェケムの人々への憎しみがあったものと思われます。そうでなければ、これほどの残忍な殺戮はできません。つい先程、意気投合してアビメレクを王にした仲間が、今はこの状態になっているのです。人間の罪深さを思い知らされます。

50~57節、アビメレクの死

しかしアビメレクの勝利は長く続きませんでした。彼もまた、シェケム人やガアルと同じことをしていたので、ヨタムの預言通り、同じ運命をたどったのです。

間もなく、彼はテベツに行き、これを攻め取っています。

士 9:50 それから、アビメレクはテベツに行き、テベツに対して陣を敷き、これを攻め取った。

テベツはシェケムの北約19KMの所にあります。テベツの人々は先のシェケムの暴動に加わっていたと思われます。

テベツの町の中には、一つの堅固なやぐらがありました。テベツの人々は男も女も、みな、このやぐらに逃げ込み、やぐらの屋根に上りました。

士 9:51 この町の中に、一つ、堅固なやぐらがあった。すべての男、女、この町の者たちはみなそこへ逃げて、立てこもり、やぐらの屋根に上った。

アビメレクはシェケムで成功した火で焼く戦術をここでも繰り返しました。

士 9:52 そこで、アビメレクはやぐらのところまで行って、これと戦い、やぐらの戸に近づいて、それを火で焼こうとした。

その戦術に出ることは、テベツの人に読み取られていたのです。前にうまくいったから、今回も、と考えるのは愚かです。テベツの一人の女は、ひき臼の上石を持って、アビメレクがやぐらに近づいて来るのを待っていたのです。アビメレクは何も知らずに、やぐらに火をつけるために、やぐらの戸に近づいたのです。その時、女はアビメレクの頭をめがけて、ひき臼の上石を投げ落としたのです。

士 9:53 そのとき、ひとりの女がアビメレクの頭にひき臼の上石を投げつけて、彼の頭蓋骨を砕いた。

アビメレクの頭蓋骨は砕かれたと言っていますが、彼は即死ではなく、彼は女に殺されるのを不名誉に思い、自分の道具持ちの若者に、自分を剣で刺し通させています。

士 9:54 アビメレクは急いで道具持ちの若者を呼んで言った。「おまえの剣を抜いて、私を殺してくれ。女が殺したのだと私のことを人が言わないように。」それで、若者が彼を刺し通したので、彼は死んだ。
9:55 イスラエル人はアビメレクが死んだのを見たとき、ひとりひとり自分のところへ帰った。
9:56 こうして神は、アビメレクが彼の兄弟七十人を殺して、その父に行った悪を、彼に報いられた。
9:57 神はシェケムの人々のすべての悪を彼らの頭上に報いられた。こうしてエルバアルの子ヨタムののろいが彼らに実現した。

アビメレクがどんなに上手に立ち回り、また勝利を得ていても、彼の罪に対する神のさばきは避けることができなかったのです。ヨタムの預言通りに、神はアビメレクにも、シェケムの人々の上にも、各々その悪の報いを落とされたのです。人によるさばきを逃れたと思っても、神によるさばきは必ず神の摂理の中で下されるのです。

あとがき

先日、九州の姉妹からお手紙をいただきました。その中に次のようなことが書かれてありました。
現在、申命記をお読みですが、「力のことば申命記」と共に学んでおられます。
「先生の本は霊的成長にたいへんな助けとなっています。回を重ねるごとにつくづくそう思います。他の本は、いのちのことば社からでている講解書を使っていますが、先生の本以上のものはありませんでした。お世辞でも何でもなく心からそう思っています。毎月待ち遠しいほどです。」
また、この姉妹は、ローマ人への手紙の717頁のプリントを7冊に製本されて、ある兄弟に読んでもらっていますが、その兄弟は「今までこんなの読んだことがない、分かり易くて、自分の手元に置いて学びたい。」と言っておられます。感謝。

(まなべあきら 2003.12.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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