聖書の探求(245,246) 士師記14章 サムソン、ペリシテの女を妻に要求、獅子を裂く、祝宴の席での隠語
オランダの画家 Peter Paul Rubens (1577–1640) による「Sansón matando al león(ライオンを殺すサムソン)」(Fondo Cultural Villar Mir, Madrid、Wikimedia Commonsより))
14章は、サムソンの結婚による出来事を記しています。
14章の分解
1~4節、サムソン、ティムナのペリシテの女を妻に要求
5~9節、獅子を裂く
10~20節、祝宴の席での隠語
1~4節、サムソン、ティムナのペリシテの女を妻に要求
若者に成長した時のサムソンは、あまり霊的に育っていませんでした。ナジル人として養育されたのですが、その霊魂の根本までは、ナジル人になっていなかったのです。
若者のサムソンはティムナに下って行って、一人の魅力的なペリシテ人の娘と恋に落ちたのです。
士 14:1 サムソンはティムナに下って行ったとき、ペリシテ人の娘でティムナにいるひとりの女を見た。
14:2 彼は帰ったとき、父と母に告げて言った。「私はティムナで、ある女を見ました。ペリシテ人の娘です。今、あの女をめとって、私の妻にしてください。」
ティムナはダンの相続地として割り当てられていましたが(ヨシュア記15:10、19:43)、この時は、ペリシテ人の手に奪い取られていたのです。この地はエルサレムの西南西約24kmの所で、ユダとダンの境界線上の町です。
サムソンの記事はなんと、この間違った結婚の出来事から始まっているのです。最初から道がはずれています。この最初の出来事は、サムソンの最後を暗示しています。
彼はティムナから帰ると、父母に、「今、あの女(ペリシテ人の娘)をめとって、私の妻にしてください。」と、藪から棒に頼んでいます。父母の意見を聞くこともせず、自分の欲と考えだけで決めています。よく若い人が「自分の相手は自分で決めるので、何も言わないでください。」と言うのを聞きますが、これくらい危険なことはありません。
ナジル人として誕生し、ナジル人の規定に従って育ててきた息子から、突然、ペリシテ人の娘と結婚すると告げられた両親は、気が狂いそうなほど、ショックを受けたでしょう。それはイサクの双子の息子の長男エサウがヘテ人の娘を二人、妻にめとった時のイサクとリベカの悩みに似ているでしょう(創世記26:34,35)。
創 26:34 エサウは四十歳になって、ヘテ人ベエリの娘エフディテとヘテ人エロンの娘バセマテとを妻にめとった。26:35 彼女たちはイサクとリベカにとって悩みの種となった。
なぜ、主に仕える者が異教の娘と結婚したがるのか。それは肉の欲から出ているとしか思えません。
ヘブル人の両親は、息子たちの花嫁を、親が選んでいます。それは神の恵みを子孫に代々受け継がせていく責任を覚えていたからです。ですから、敬虔な親であればあるほど、息子の妻になる人の信仰的人格を試したのです。特に、アブラハムがイサクの妻となる人を選ぶために、しもべに命じている細かい点を見れば、親としての責任感がよく伝わってきます(創世記24章)。
そのイサクが息子ヤコブの妻となる人を選ぶことについても(創世記28:1~6)。
またユダは、その長子エルにタマルという妻を迎えています(創世記38:6)。
しかし他方、エサウは自分の考えで、妻をめとっています。サムソンも、自分の好みと肉の欲で選んだペリシテ人の娘を、自分の妻とするように結婚の取り決めをしてほしいと両親に頼んだのです。これだけでも、この結婚はうまくいきそうにありません。
両親が真面目な信仰者なら、承知するはずがありません。神の民である者が異教のペリシテ人と結婚することは、モーセの律法に反しています。
「あなたがその娘たち(カナンの住民の娘たち)をあなたの息子たちにめとるなら、その娘たちが自分たちの神々を慕ってみだらなことをし、あなたの息子たちに、彼らの神々を慕わせてみだらなことをさせるようになる。」(出エジプト記34:16)
「また、彼ら(七つの異教の民)と互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。
彼はあなたの息子を私から引き離すであろう。彼らがほかの神々に仕えるなら、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主はあなたをたちどころに根絶やしにしてしまわれる。」(申命記7:3~4)
多くのクリスチャンの子どもたちは、神のみことばを教えている、賢明な教会のリーダーたちの忠告や助言に耳を傾けようとはしません。それを受け入れずに、自分の好みと欲の選択の結果、悲劇に会うことになるのです。
サムソンの両親は、「あなたの身内の娘たちのうちに、または、私の民全体のうちに、女がひとりもいないというのか。割礼を受けていないペリシテ人のうちから、妻を迎えるとは。」と言っています。
結婚生活において、信仰はその中心をなすべきものですが、若者は信仰よりも恋愛感情によって、相手を選ぼうとします。しかし恋愛感情は時が経つと冷めてしまったり、利害関係が悪化すると、憎悪の関係にすら変わってしまうのです。
「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。」(コリント第二 6:14~16)
イエス様を信じている人は、イエス様を信じている人と結婚すべきです。悪魔の支配下にある者と結婚して、悲劇が起きないとは、考えられないことです。これは今日でも神の律法です。神の律法を無視して、自分の欲で結婚しておいて、いくら祈っても、真の幸福に到達することは不可能です。それは愚かな祈りでしかありません。
3節、「サムソンは父に言った。『あの女を私にもらってください。あの女が私の気に入ったのですから。』」
士14:3 すると、父と母は彼に言った。「あなたの身内の娘たちのうちに、または、私の民全体のうちに、女がひとりもいないというのか。割礼を受けていないペリシテ人のうちから、妻を迎えるとは。」サムソンは父に言った。「あの女を私にもらってください。あの女が私の気に入ったのですから。」
サムソンのこの言葉は、神の律法をも、神の民としての信仰をも、そして父母の信仰をも拒否し、踏みにじったことを表わしています。彼は自分が気に入ったものを選ぶという、いたって自己中心で、肉欲的で、愚かな、危険な選択をしています。このことによっても、旧約のナジル人が、霊的に優れていたことを保証していません。
かつて、エデンの園でエバは、神のご命令に逆らってまでも、「目に慕わしく」(創世記3:6)見える木の実を取って食べたのです。ここでもサムソンは同じ罪を繰り返しています。
エデンの園には、食べることが禁じられていた善悪を知る木の実以外に、食べてもよい、美味しい木の実が沢山あったように、神の民の娘の中にも、美しい魅力的な娘たちが沢山いたはずです。
しかしなぜか、自分中心の肉的心を持つ人は異教のものに目を向けやすいのです。それは結婚相手の問題だけでなく、音楽でも、本でも、持ち物でも、すべてのことにおいて、異教色の強いものに関心をもちやすいのです。
それは、一つには、イスラエルの娘は毎日見て、見慣れており、ある面で見飽きて、何の新鮮さも感じなくなってしまっていることがあります。もし、神の民の娘の内にある霊魂の輝きや神を第一にする心と生活の愛の深さなどを味わい知っていなければ、ただの見飽きた一人の娘にしか見えないでしょう。
これに比べて、ペリシテ人の女は、人種が異なるので、イスラエルの娘に比べて、目鼻立ちやからだの肉のつき具合いなども違っていたでしょう。若いサムソンにとって、ペリシテの娘は今までに見たこともない、未知の世界の女性に思えたのです。サムソンは一目見て、ペリシテの娘の肉体的な魅力の虜になってしまったのです。しかしその心の性質までは考えが及ばなかったのです。事実は、サムソンが父母の反対を押し切って、その女と結婚した後、サムソンが父の家に帰っている間に、サムソンの妻は、サムソンに付き添っていた客のひとりの妻となってしまっていたのです。自分の好むところを行なう人はみな、かくの如しです。
4節には、恐るべきことが書いてあります。
士 14:4 彼の父と母は、それが【主】によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。そのころはペリシテ人がイスラエルを支配していた。
「彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。」
この言葉によって、サムソンがイスラエルの娘ではなく、ペリシテの娘を求めたのは主が求めさせたのだと、することはできません。主はサムソンの肉的な性質をも、ペリシテを攻めるために用いられたことを示しているのです。主が、主を信じる娘と結婚するよりも、異教の娘と結婚するように導かれることはあり得ないからです。
「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。」(コリント第二 6:14~16)
士師記の記者は突然、4節の終わりに、「そのころはペリシテ人がイスラエルを支配していた。」と記しています。イスラエル人はペリシテ人の屈辱的な支配を受けていたのです。主はこの屈辱的な状態から神の民を救い出すために、サムソンの肉的性質と愚かな選択を利用されたのです。
5~9節、獅子を裂く
士 14:5 こうして、サムソンは彼の父母とともに、ティムナに下って行き、ティムナのぶどう畑にやって来た。見よ。一頭の若い獅子がほえたけりながら彼に向かって来た。
14:6 このとき、【主】の霊が激しく彼の上に下って、彼は、まるで子やぎを引き裂くように、それを引き裂いた。彼はその手に何も持っていなかった。サムソンは自分のしたことを父にも母にも言わなかった。
5節では、サムソンは父母とともに、ティムナに下って行ったことが記されていますが、6節では、サムソンは自分が若い獅子を素手で引き裂いたことを父母に何も言わなかったと、記されています。もし、父母がサムソンと同行していれば、その事件を目撃しているはずですから、この文章は不必要なはずです。ですから、父母はサムソンが不服従だったので、別々の道を通ってティムナに行ったのだと思われます。
ティムナは、ペリシテの地より東にあり、エラの谷があるシェフェラ地方にあります。当時、ペリシテの一般住民がこの地域までイスラエルを侵略していたのです。
サムソンが一頭の若い獅子に出会ったのは、ティムナのぶどう畑までやって来た時でした。獅子と戦った記事は、羊飼いのダビデ(サムエル記第一17:34~36)と、エホヤダの子ベナヤ(サムエル記第二 23:20)にあります。当時、パレスチナで獅子が出ることは、めずらしくなかったのでしょう。
6節、サムソンが獅子を引き裂いた力は、主の霊が激しく彼の上に下った故に与えられた力です。もしサムソンがこれをカリスマ的な力としてだけ経験せず、霊的力として経験する信仰を持っていれば、彼の生涯はどんなに幸いなものになっていたことでしょうか。
サムソンは外から襲いかかって来た若い獅子を子やぎのように引き裂くことができたのに、彼の内に住む肉的欲望に勝てなかったのです。
今の、この世の中には受験戦争に打ち勝ち、仕事の上で大成功しているのに、自分の内側の肉的欲望に負けて、人生の敗北者になっている人が沢山います。
人間が持っている本能的欲望が悪いのではありません。また富を持つことが悪いのではありません。さらに禁欲することが霊的に、信仰的に優れていることではありません。性欲でも、食欲でも、礼拝欲でも、社交欲でも、自ら向上したいという欲でも、お金を持ちたいという欲でも、それを何のために、何に使うのかということが大事なのです。パウロは、
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント第一 6:20)
「・・・あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(コリント第一 10:31)と言っています。
この世の人々は、あなたの才能や力量をほめたり、またそれらが乏しいことの故に、さげすむでしょう。しかし、仕事の面から言えば、各々に与えられている才能や力量にふさわしく生活することができます。ところが肉的欲望の力は、私たちの才能や力量があればあるほど、私たちを滅びの穴に陥れようと働くのです。これに打ち勝つためには、御子イエスの血と、みことばの約束と、聖霊の力に頼るほかありません。聖潔の恵みが必要なのです。
2節で、ティムナの娘に、一目惚れしていたサムソンは、7節で、その娘と話し合って、ますます気に入っています。
士 14:7 サムソンは下って行って、その女と話し合った。彼女はサムソンの気に入った。
「二人が好き合っているのだから、いいじゃないか。」と言われる人も多いと思いますが、ここでは、何を話し合ったのか、何が気に入ったのか、何も、その根拠となるものが記されていません。恐らく、その娘の肉体的美しさに魅了されたのでしょう。箴言31章30節に、
「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」とあるとおりです。
「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル記第一 16:7)
人は容姿にだまされるけれども、主はその人の心の性質、動機をご覧になって、人を選ばれるのです。私たちにも、人の容姿を見る目だけでなく、人の心の性質を見抜く霊眼を持っていなければなりません。
8節の「しばらくたってから」は、サムソンとティムナの娘との婚約後、しばらくして、おそらく一年くらい後と思われますが、サムソンは花嫁を自分の妻とするためにティムナに帰って来たのです。この時も、サムソンの両親はティムナに来ていますが、サムソンと一緒に歩いてはいません。両親がこの結婚に賛成していない態度は変わっていません。
士 14:8 しばらくたってから、サムソンは、彼女をめとろうと引き返して来た。そして、あの獅子の死体を見ようと、わき道に入って行くと、見よ、獅子のからだの中に、蜜蜂の群れと蜜があった。
サムソンは獅子を引き裂いた場所まで来ると、わき道に入って行きました。彼は引き裂いた獅子の死体をわき道に移しておいたのでしょう。
見ると、獅子のからだの中は、蜜蜂の巣になっていたのです。そして蜜が手でかき集められるほどあったのです。彼はそれを歩きながら食べ、わざわざ別行動していた父母の所にも持って行って食べさせています。しかし彼は、その蜜を獅子の死体からかき集めたことは、父母には言わなかったのです。なぜなら、ナジル人は死体にはさわってはならない規定があることをサムソンは知っていたからです(民数記6:6,7)。
サムソンがナジル人として、ただ一つ守ったことは、髪の毛を切らなかったことですが、これも後に、ペリシテの遊女デリラにその秘密を明かして、髪の毛を切られてしまい、自ら滅びを招いてしまったのです。このような危険性は、最初にティムナの娘を選んだ時に現わした彼の肉的性質に見られます。自分の気に入ったことをする、自分の好むことをするという、その自分中心性に、滅びのしるしが見られるのです。このような人は、親の信仰のすすめも、牧師の忠告も聞き入れようとはしないのです。
つまり、「99%の潔めというものはない。」ということです。全き潔めを更新していないと危険だということです。
サムソンが蜜の秘密を父母に言わなかったのは、彼自身、ナジル人として十分でないことを悟っていたことを示しています。彼は知っていて、規定を破っていたのです。
10~20節、祝宴の席での隠語
10~11節、サムソンの祝宴
士 14:10 彼の父がその女のところに下って行ったとき、サムソンはそこで祝宴を催した。若い男たちはそのようにするのが常だった。
14:11 人々は、サムソンを見たとき、三十人の客を連れて来た。彼らはサムソンにつき添った。
10節、「彼の父がその女のところに下って行ったとき」は、この結婚が(信仰面は別として)ペリシテ人にとっても、公式に行なわれたことを示しています。そしてサムソンは当時の若い男たちがするように祝宴を催しています。
11節、「人々」とは、ティムナの人々のことでしょう。ティムナの人々はサムソンの強健な姿を見た時、金持ちであると見たのでしょう。それで三十人の客を連れて祝宴にやって来て、「サムソンにつき添った。」のです。ここには、できるだけ沢山、サムソンに富を使わせ、お金をしぼり取ろうとする魂胆が見られます。
あるいは、ティムナの人々はサムソンを見た時、その強そうな姿を見て、彼を恐れ、ティムナの人々を守るために、祝宴の客という名目で三十人のペリシテ人の護衛をつけて、サムソンを見張らせたのかも知れません。どちらにしても、この最初の時点からペリシテ人はサムソンに警戒心を持ち、敵対心を抱いていたことは明らかです。しかし、異教の娘に目がくらみ、ペリシテ人の企みに気づかないサムソンは愚かです。自分中心の肉的性質は人の知性を盲目にしてしまうのです。
12~14節、サムソンの隠語
士 14:12 サムソンは彼らに言った。「さあ、あなたがたに、一つのなぞをかけましょう。もし、あなたがたが七日の祝宴の間に、それを解いて、私に明かすことができれば、あなたがたに亜麻布の着物三十着と、晴れ着三十着をあげましょう。
14:13 もし、それを私に明かすことができなければ、あなたがたが亜麻布の着物三十着と晴れ着三十着とを私に下さい。」すると、彼らは言った。「あなたのなぞをかけて、私たちに聞かせてください。」
14:14 そこで、サムソンは彼らに言った。「食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た。」彼らは三日たっても、そのなぞを明かすことができなかった。
結婚の祝宴の途中で、サムソンは一つのなぞかけを始めました。それは、あの獅子の死体にあった蜜のことです。それは、彼の信仰の良心にひっかかり、両親にも話さなかったことなのに、祝宴で気をよくしたのか、得意気に、異教の人々の前で、自分の良心にひっかかっていたことを題材にして、なぞかけをしています。ここにもサムソンという人物の人格的軽率さと愚かさの危険を見ます。
あるいは、自分を警戒するために、宴会に集まって来た三十人のペリシテ人に対するサムソンの挑戦状だったのかも知れません。
どちらにしても、このなぞかけは、自分の強い力を誇るところから出ています。
この結婚の祝宴は七日間続けられ、その七日の間に、ペリシテ人が、なぞを解き明かせば、サムソンがペリシテ人に亜麻布の着物三十着と晴れ着三十着を与え、ペリシテ人が解き明かすことができなければ、ペリシテ人が同じ物をサムソンに与えるということでした。ペリシテ人はすぐに、この話に乗って来たのです。
サムソンのなぞは、「食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た。」です。こんな話は、人の知恵を尽くしても、分かるはずがありません。ペリシテ人は三日経っても、なぞを解き明かすことができず、あせり始めたのです。当時、晴れ着や衣服は高価な物の代表です。それを与えることはペリシテ人の若者にとっては大変な損害になります。打つ手は一つしかありませんでした。そしてそれは、サムソンの最も弱いところでもあったのです。すなわち、サムソンの妻になったティムナの女を使って、サムソンの口から、そのなぞの解き明かしを聞き出すことです。サムソンはいつも、一つの自分の弱点を突かれて敗北しているのです。今でもサタンは、いつでも、私たちの一番弱い点を、何回でも、誘惑を繰り返し、突き落とそうとするのです。人は大体、同じ点で敗北を繰り返しているのです。
ここで、サムソンのなぞを、サムソンの出来事と切り離して、霊的に考えてみますと、神とサタンの対決をそこに見ることができます。勿論、サムソンはこういうこと意味して、ペリシテ人になぞかけをしたわけではありませんが、そのことを弁(わきま)えつつ、次のようにサムソンのなぞを考察してみましょう。
サムソンのなぞの中には、神とサタンの様々な働きの特徴が表わされています。
サタンは人に対して強い者、食らう者として襲いかかりますが、神はそのサタンの働きを、主を信じる者、主を愛して従う者には、益に変えて下さって、サタンを信仰の訓練に役立つ者として使い、信仰の成長のための美味な食べ物を出させるのです。ここに神の恵み深い勝利の権能が示されています。
この点で、サムソンのなぞは、神がこの世にあって常に示されている神の方法を、神の摂理のうちに示していると思われます。勿論サムソンは、そのことを意図して、このなぞを出したわけではありませんが。
神は、サタンがある程度、彼の仕事を成功させるのを許しておられます。けれども、その後、神はサタンの働きに介入し、彼の仕事を奪い取って神ご自身のご計画を完成する方向に展開されるのです。これは堕落した人類の歴史の中に見られます。ヤコブ、ヨセフ、モーセ、イスラエル民族、ヨブ、その他の人物の無数の歴史が、それを証明しています。
その中でも、イエス・キリストの十字架の死は、サムソンのなぞを生き生きと表わしている標本です。
神は私たちの罪のために、イエス・キリストから御顔をそむけ、サタンは主イエスが十字架上で死なれたことによって凱旋の声を上げたのです。「食らうもの(サタン)にとって、キリストの死は、なんという勝利だったでしょうか。しかし神は、そのようにサタンが大喜びするようなキリストの死から、滅びの運命にあった私たちの霊魂に、永遠のいのちに至る美味なる「いのちのパン」を生み出して下さったのです。これによって、私たちの死はキリストの十字架によって完全に滅ぼされ、死の力を持つサタンは破滅させられ、死はその力を失効したのです。
こうして主イエスを信じる人はみな、永遠に贖われ、キリストの十字架は世界の災禍と悲惨なことを放逐し、サタンが支配した暗黒の王国を破滅させ、「食らうもの(サタン)」を、永遠に火の池に投げ込んでしまうのです。
15~20節、花嫁の裏切り
祝宴は七日間続くことになっていました。15節で「四日目」と訳されているのは、七十人訳聖書によるのであって、ヘブル語聖書では「七日目」になっています。
しかし、七日経っても、三十人の客たちは、サムソンのなぞを解き明かすことができませんでした。そこで客たちはサムソンの妻となったティムナの女を脅迫したのです。
17節を見ると、彼女は、「祝宴の続いていた七日間」、ずっと「サムソンに泣きすがっ」ていたと記されていますから、ペリシテ人の脅迫はこのなぞかけが始まって、すぐに始めたものと思われます。
士 14:15 四日目になって、彼らはサムソンの妻に言った。「あなたの夫をくどいて、あのなぞを私たちに明かしてください。さもないと、私たちは火であなたとあなたの父の家とを焼き払ってしまう。あなたがたは私たちからはぎ取るために招待したのですか。そうではないでしょう。」
「あなたの夫をくどいて、あのなぞを私たちに明かしてください。さもないと、私たちは火であなたとあなたの父の家とを焼き払ってしまう。あなたがたは私たちからはぎ取るために招待したのですか。そうではないでしょう。」
ペリシテ人の客人たちは、サムソンに財産を使わせて、飲み食いしようとして集まって来たのに、サムソンのなぞが解けないと、自分たちが損をすることになってしまうことに気づいたのです。どんな悪行にも、それなりの理由をつけることができるものです。彼らはサムソンの妻に、「あなたがた(サムソンとその妻)は、私たちからはぎ取るために(最初から騙して)招待したのですか。そうではないでしょう(サムソンの財産を奪うという目的で私たち三十人を招いたのではありませか。)。」
このなぞを解く方法は一つしかないと思ったのです。それはサムソンの妻がサムソンに泣きついて、くどいて、そのなぞの意味を聞き出すことだと言っています。もし彼女が、これに従わないなら、ペリシテ人への反逆罪として、彼女だけでなく、彼女の父の家も焼き払うと脅しています。彼女だけでなく、彼女の父の家を加えたことは、彼女を脅迫するのに大きな効果があったでしょう。彼女を突き動かすのに大きな力となったでしょう。「父の家も焼き払う」ということは、彼女の家系がペリシテ人の中から絶えてしまうことを意味します。
サムソンは、ペリシテ人の娘との結婚の背後で、こんな脅迫を含んだ企みが企てられていることを知らなかったのです。私たちは主イエス様を知らないこの世の中に出て行く時、たといどんなに親切にしてくれたとしても、その背後にサタンの企みがあることを十分承知しておかなければなりません。この世の人々の親切に、丸ごと乗って行ってはいけないのです。
16節、ペリシテ人の妻は、すぐに夫のサムソンに泣いて、すがりました。彼女は夫サムソンを助ける側に立たず、ペリシテ人の本性を表わしたのです。ペリシテ人の妻は、サムソンの特に弱い点に向かって、偽りの涙と言葉と仕草をもって、七日間、集中攻撃を加えたのです。
士 14:16 そこで、サムソンの妻は夫に泣きすがって言った。「あなたは私を憎んでばかりいて、私を愛してくださいません。あなたは私の民の人々に、なぞをかけて、それを私に解いてくださいません。」すると、サムソンは彼女に言った。「ご覧。私は父にも母にもそれを明かしてはいない。あなたに、明かさなければならないのか。」
「あなたは私を憎んでばかりいて、私を愛してくださいません。あなたは私の民の人々に、なぞをかけて、それを私に解いてくださいません。」
士師記16章6~16節を見ると、ガザの遊女デリラから再度、同じ弱点を攻撃されて敗北しています。サムソンは女性の感性の目に、すぐに見破られるほどに、彼の情愛の弱点を露わにしてしまっていたのです。ですから、サムソンは信仰のあつい女性と結婚して、その弱点が守られるのでなければ、幸せな生涯を送ることはできなかったのです。彼の両親は息子サムソンのその弱点を知っていて、忠告したのかも知れませんが、彼はそれを拒み、こともあろうに、主に逆らい、主の民に攻撃を加える性質を持っているペリシテ人の娘を自分の妻としたのです。ペリシテ人がそれを利用しないはずがありません。
ペテロの場合は、サムソンのような異教の異性に対する情愛とは異なりますが、やはり情愛の深さがサタンに利用されています。人としての情愛が細やかで深いことは悪ではありませんが、情愛を信仰よりも優先すると、サタンに利用されることを心に留めておかなければなりません。それは最悪の敗北に至るのです。
サムソンは同じ弱点を、二度も執拗に攻撃され、それが敵の攻撃と知りつつ敗北しているのです。
彼は肉の情欲に溺れて、信仰の大盾を取ることをしなかったからです。しかしサタンの誘惑と攻撃は執拗です。サタンは、私たちが、はっきりと主の御名を信じる信仰を使って追い払うまで、立ち去ろうとはしないのです。サタンが離れて行くのは、主の御名が使われる時だけです。
サムソンは、「ご覧。私は父にも母にもそれを明かしてはいない。あなたに、明かさなければならないのか。」と言っていますが、この言葉の中にはどこにも、彼の信仰は見られません。
17節、祝宴の最後の七日目、彼女は「しきりにせがんだので」。
士 14:17 彼女は祝宴の続いていた七日間、サムソンに泣きすがった。七日目になって、彼女がしきりにせがんだので、サムソンは彼女に明かした。それで、彼女はそのなぞを自分の民の人々に明かした。
彼女は、偽りの涙と言葉と仕草で、最後の猛攻撃を加えて、サムソンの心を悩まし、苦しめたので、サムソンは折れてしまってなぞの秘密を告白してしまったのです。その秘密はすぐに「自分の民の人々に」伝えられています。彼女はあくまでもサムソンの妻としてではなく、主に敵対するペリシテ人として記されています。
士 14:18 町の人々は、七日目の日が沈む前にサムソンに言った。「蜂蜜よりも甘いものは何か。雄獅子よりも強いものは何か。」すると、サムソンは彼らに言った。「もし、私の雌の子牛で耕さなかったなら、私のなぞは解けなかったろうに。」
18節の「七日目の日が沈む前に」は、祝宴の終わりの時、最も祝宴が盛り上がり、この祝宴の終了と同時に、花婿は花嫁の部屋に入って行って結婚式が完了することになっていたのです。ペリシテ人も、サムソンの妻も、この最終の結婚の時をねらって、サムソンに迫っていたのです。それ故、ペリシテ人たちはサムソンの妻の心を支配しておけば、十分勝ち目はあると計算していたのです。サムソンはそのわなに落ちてしまったのです。
サムソンは、ペリシテ人の解き明かしを聞いた時、彼らがそれをどこから仕入れたか、その情報源をすぐに知ったのです。そして、「もし、私の雌の子牛で耕さなかったなら、私のなぞはとけなかったろうに。」と、彼はその妻を「雌の子牛」と言って、卑しい言葉で表現しています。
家庭内のことを何でも外部の人にもらす妻は愚かです。「夫がああ言った。こう言った。夫はこういう人だ。」と言う人も愚かな人です。夫の密か事を外部にもらす人も愚かな人です。また信用のおけない妻に大事なことを全部話してしまうことも愚かなことです。それは家庭の全財産を盗人に見せるのと同じくらい愚かです。
「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。」(詩篇141:3)
「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。」(箴言13:3)
良識があると思われる人でも、大抵の人が「他人に言っていいことと、言ってはいけないこと」とを弁えていないものです。たとい、口止めしておいても、役にたちません。必ず、もれ出て来るのです。ですから、大事なことは、言うべき大事な時にしか言わないことを、守らなければなりません。
サムソンは自分の妻が信用のおけない人物であることを知ったはずですが、彼はなおも、彼女から離れようとせず、ますますペリシテ人のわなの中に入り込んでいます。
士 14:19 そのとき、【主】の霊が激しくサムソンの上に下った。彼はアシュケロンに下って行って、そこの住民三十人を打ち殺し、彼らからはぎ取って、なぞを明かした者たちにその晴れ着をやり、彼は怒りを燃やして、父の家へ帰った。
19節、「そのとき、主の霊が激しくサムソンの上に下った。」
これは祝福のために、主の霊がサムソンの上に下ったのではありません。この時代、主の働きを担う器が乏しかったことを示しています。主はサムソンのような人物しか、用いる人をイスラエルの中に見つけることができなかったのです。
今日、主の教会の中に、主が心から喜んで用いられる、主のみこころにかなった器がどれくらいいるでしょうか。私たちは主の用いられる器が乏しくならないように、まず自分自身が潔められた器となり、「主よ。私がここにおります。私をお用いください。」と言わせていただきたいものです。更に、次の世代を担う神の器たちを次々と育てていかなければなりません。
「身をきよめよ。主の器をになう者たち。」(イザヤ書52:11)
「わたしのために、王を見つけたから。」(サムエル記第一 16:1)
「ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」(テモテ第二 2:21)
主は、サムソンとは関わりなく、これまでのペリシテ人の行動から、ペリシテ人を打つ機会を求めておられたのです(14:4)。そして主は、今回のサムソンの出来事を用いて、サムソンを使って、ペリシテ人を打つことを始められたのです。ですから、サムソンの信仰がすぐれていたから、主の霊が彼に下ったのでもなければ、彼の倫理性がすぐれていたから、主の霊が下ったのでもありません。しかし、この時代、主はますます乏しい器しかお持ちでなかったことを示しています。私たちの時代は果たして、どうでしょうか。その心が主と全く一つになっている人々が大勢いるでしょうか(歴代誌第二 16:9)。
それでも、主はペリシテ人を打つために、サムソンに超人的力を与えておられます。これは明らかに御霊の恵みではなく、御霊の賜物です。これはサムソンが信仰によって受けたものではなく、主がペリシテ人を打つために、一方的に与えられたのです。この力が与えられたことは、サムソンの信仰がすぐれていたことを意味しません。
今回で、サムソンが主の霊に動かされたのは三回目です。
一回目は、ツォルアとエシュタオルで(13:25)、
二回目は、ティムナのぶどう畑で若い獅子を引き裂いたとき(14:5,6)、
そして今回です。主の霊は、常住的にサムソンに与えられていなかったようです。これは賜物として与えられた力の特長です。必要な働きをする時にだけ、与えられています。
サムソンは主の霊を受けると、ティムナから、西に約32kmの地中海沿岸のアシュケロンに行っています。アシュケロンはペリシテ人の主な町の一つでした。なぜ、彼がアシュケロンに行ったのかは、聖書は何も記していません。三十人の客人たちがアシュケロン出身の人たちであったのかも知れませんし、あるいは別の理由であったかも知れません。
彼はそこの住民三十人を打ち殺して、その死体から、戦利品として衣服をはぎ取って、なぞを明かした三十人のペリシテの客人たちに与えています。
彼は激しく怒りに燃えて、花嫁をめとる気にもなれず、花嫁の部屋に入ることなく、父の家に帰っています。
20節、「それで、サムソンの妻は、彼につき添った客のひとりの妻となった。」
結婚式の最終の時、サムソンが怒りに燃え、花嫁の部屋に入らず、父の家に帰ってしまったことは、サムソンがこの妻を嫌ったと思われ、これは花嫁にとっては、結婚式の日に花婿に捨てられたという恥辱をなめさせられたことと受け止められ、その花嫁を慰め、救うためという名目で、祝宴に集まっていた三十人の客のうちの一人の男の妻となったのです。このことはサムソンに何の相談もなく、サムソンの知らない所で行なわれたのです。そのためサムソンの怒りは、ますます激しくなっていったのです。
あとがき
今年の中旬は、集中豪雨、連続の大型台風、地震など、続けての災害で、日本の各地に深い爪跡を残しています。皆様の地でも、ひどい災害を受けられた所もあるかも知れません。主の力と助けが与えられますように。
それにもまして、悲しいことは、幼い子どもたちが、うらみや、のろいや怒りによって、友だちを殺してしまうという恐るべき行為に走ってしまっていることです。現代は大人も子どももスポーツの英雄になることを目指したり、興奮する音楽や楽しいことに目を向けていますが、どこにおいても真実な愛に触れることが極端に少ないのではないでしょうか。この点で私たちは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(ルカ10:27)を実行する時が来ています。
(まなべあきら 2004.10.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)
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