ロ-マ人への手紙(002)「キリストのしもべ使徒パウロ」1:1~7

フランスの画家 Valentin de Boulogne (1591–1632) による「Saint Paul Writing His Epistles(書簡を書いているパウロ)」(アメリカのMuseum of Fine Arts, Houston(ヒューストン美術館)蔵、Wikimedia commons より)


ロ-マ人への手紙
1:1 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、1:2 ──この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、1:3 御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、 1:4 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
1:5 このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。
1:6 あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です、──このパウロから、1:7 ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。【新改訳改訂第3版】

 ロ-マ人への手紙の構造

このロ-マ人への手紙は、序文と結論の部分は手紙の形をとっていますが、本文はすべて神学的教理論文です。ところがパウロは、この序文においてさえ、本論の主張をあふれさせています。パウロにとっては、序文も、結論も、ただの挨拶ではなかったのです。

そこで、簡単にロ-マ人への手紙の構造的な分解をご紹介しておきましょう。

序文(挨拶)1章1~17節
本論    1章18節~15章
①教理的部分 1章18節~11章
②実際的部分 12章~15章
結論(個人的挨拶)16章

今日は、その序文の一部に入っていきます。

この序文も、もう少し詳しく見てみますと、

1:1~5 パウロ自身と神との関係
1:6~7 手紙の読者と神との関係
1:8~17 パウロと手紙の読者との関係
を示しています。

まず、最初の数節を読んで、すぐに感じさせられることは、何ですか。パウロが、このキリストの福音の働きに身を投じているのは、この世の人が考えているような、就職するといった考えからではないということです。パウロと神との関係そのものが、パウロをこの働きにつかせているのです。このことについては、後にお話するとして、最近、主の奉仕をするのを、軽く考える傾向があります。

イエス様のために何かをしたいという軽い気持ちで、神学校に入る人がいます。しかし数ヶ月経って、夏頃になると、召命感が問われるようになり、自分の考えの甘さに気づき、神学校の学びと訓練が続けられなくなり、相談される人もかなりいます。

ピアノが弾けるというので、教会の奏楽や讃美の指導に当たり始めますが、神を讃美することが分からず、ただ自分を誇る高ぶりだけが現われて、苦しみ、相談される人もいます。

特に、軽く見られているのが、子どもたちの教会学校の教師です。子どもに教えるのだから、と甘く見ているのでしょうが、聖書を一度も全部通して読んでいない人が、教師になっていることが多いのです。こういう人は長続きしないばかりでなく、その不忠実さと、無知と、怠慢の故に、子どもたちに最も悪い影響を与えています。

この他にも、係、幹事、役員などが、軽く考えられています。その結果、これらの働きにつく人は、自ら悩むか、それとも人の前に立つので、高ぶるようになるか、どちらかに陥っています。これは、ほとんどすべての教会において見られることです。それは、主に仕え、福音のために働くことを軽く考えているからです。たとえ、牧師や伝道者、宣教師になったり、またその他の働きのために、生涯を用いたとしても、それは、この世で言う就職ではありません。

パウロは、その点を私たちに明確に教えています。

まず、パウロは、この手紙を書くに当たって、自分と神との関係を明確に伝えています。

「神の福音のために選び分かたれ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」

この句を、原語のもつ意味を表わすように並べ替えてみますと、

「キリスト・イエスのしもべパウロ、
召されて使徒となり、
神の福音のために選ばれる」となります。

この三つの順番は大切です。

パウロは、第一に、自分がキリスト・イエスのしもべであることを、強調したかったのです。

「しもべ」とは、奴隷です。しかし、この奴隷は、手足が鎖につながれた奴隷ではありません。心がキリストの愛に捕らえられてしまった奴隷です。

私は、ルツの出来事を「愛の絆によって」という題で、本に書きましたが、ルツは愛という鎖で神につながれた愛と自由の奴隷でした。自ら、すすんで奴隷になった人でした。それ故、ルツは大いなる神の栄えを受けました。

もし、皆さんが、神にすべてを任せ、委ね、明け渡すことに、少しでも抵抗を感じているなら、まだ、キリストの奴隷ではありません。あなたの心の中に、神の愛が全うされていないからです。愛の絆によって、しっかりとキリストに支配されていないからです。その代わりに肉の性質の綱によって、縛られています。だから、心も、生活も、自由ではありません。

大抵のクリスチャンは、自分の願いや好みに捕らわれていたり、明日のことを心配して、神にすべてを委ねていません。このような人は、キリストのしもべではなく、肉のしもべです。
しかし、ルツは将来の幸福のことで、心配していたでしょうか。彼女には、人並みの幸福などは、ひとかけらも、その可能性は見えませんでした。しかしルツにとっては、そんなことは、どっちでもよかった。考えてもみなかった。彼女の心は、神を思う思いで満ちていました。彼女は、神と将来の幸福とを天秤にかけてから、神に従ったのではありません。彼女は、自分の将来がどうなろうと、問題ではなかった。すべてを神に任せた。彼女がしたかったことは、ただ、ひたすら、神を愛して、神に従いたかっただけでした。これが、神のしもべの信仰です。
心が神の愛に満たされていない、肉的クリスチャンは、こういう人を見ると、それは無茶苦茶だと言います。それでは、そういう肉的な人が、毎日、勝利ある生活を営んでいるのか、と言えば、悩みと敗北の日々を送っているのです。彼らはただ、臆病と不信仰の故に、そう言っているだけです。

モ-セは、神ご自身から、「わたしのしもべ」(ヨシュア記1:2)と呼ばれました。これは人間につけられた最も崇高な称号です。パウロは、自らを「キリストのしもべ」と言いました。この「しもべ」は、ただの奴隷ではありません。Bond Servantです。神と自分とが、強く、堅く結びつけられた「しもべ」のことです。

パウロは、ロ-マ人への手紙8章35,38,39節で、この神との愛の鎖は、どのように強いと言っているでしょうか。患難も、苦しみも、迫害も、飢えも、裸も、危険も、剣も、また死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高さも、深さも、どんな被造物も、引き離すことができないと言っています。
キリストのしもべは、このようにキリストと結びついているのです。簡単にキリストから離れる人のことではありません。

私たちの心の状態は、どうでしょうか。このようにキリストとしっかりと結びつきたいでしょうか。もし、そうであるなら、キリストに自分のすべてを委ねてください。

過去の自分も、
現在の自分も、
そして、将来の自分も、

ルツの如く、パウロの如く、すべてを神に委ね切ってください。そして、キリストに全く信頼して従ってください。

キリストのしもべとは、キリストの愛の故に、自らすすんでキリストの束縛を受けることを、この上もない喜びとする人のことです。

自分の好みで、長い間キリストに従って、ずい分失敗したペテロも、このことがやがて分かったようです。
「イエス・キリストのしもべであり、使徒であるシモン・ペテロから」(Ⅱペテロ1:1)

「シモン」とは、彼が主にお会いする前の、罪人時代の彼の名前です。「ペテロ」は、彼が主とお会いした時に、主につけていただいた名前で、「岩」という意味です。それは、後の彼の信仰を表わすものでした。

その次に、彼は自分を、「イエス・キリストのしもべ」と呼んでいます。ついにペテロは、キリストのしもべとなることができました。 そして、最後に、彼は自分を「使徒」と呼びました。

血筋の上では、主イエスの弟にあたるヤコブも、自分を、「神と主イエス・キリストのしもべ」(ヤコブ1:1)と呼んでいます。

彼らはみな、「キリストのしもべ」とは、何たるかを知った人々です。今日、私たちも、その知識としての意味を知りました。しかし、もう一歩、霊的経験としての「キリスト・イエスのしもべ」の意味を自分のものとさせていただきましょう。
もし、あなたが「キリストのしもべ」とならなっかたら、「キリストのしもべ」についての知識は、あなたを高ぶらせるようになるでしょう。この知識は、高度な知識だからです。そして、その知識で他人を裁くようになるでしょう。

クリスチャンは、教会に来る時、牧師に何でもしてもらう、お客さんであってはいけません。また、ただの出席者であってもいけません。

それでは、何であれば、いいのですか。主は、「みな仕える者になりなさい。」「みなしもべになりなさい。」と言われました。
しもべとは、何をする人だと、主はいわれましたか。主から与えられた恵みを使って働く人、あるいは、給仕する人だと、言われました。つまり、他人の世話をする人です。パウロは、クリスチャンは互いに仕え合うことによって、成長するように教えています。

「自分のことだけではなく、他人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:4)
教会に来て、自分ひとり恵まれて、帰って行くなら、半分しか、なすべき事をしていません。あなたは隣に座っている人の心の悩みや精神的助けを必要としていることを知っていますか。その人のために祈っていますか。そのために心を用いていますか。たえず、そのように心を用いる人が、キリストのしもべです。特に、クリスチャンの間では、そのようでなければなりません。

次に、彼は、「召されて使徒となった」と言いました。

パウロは、奴隷となるために召されたのではありません。奴隷となるために召された人はいません。主は「私の奴隷になりなさい。」とはいわれません。キリストのしもべになるのは、自分からすすんでなるのです。私たちは、キリストのしもべにならなくても、どっちみち、罪の奴隷であって、その絆から抜け出すことはできません。

しかし神は、かつてキリストの敵対者であり、迫害者また罪の奴隷だったサウロ(パウロの元の名前)を、使徒として召されたのです。「使徒」とは、イエス・キリストご自身から特別に、直接に召された者のことです。パウロは使徒の働き9章において、主ご自身によって直接に召されたのです。それ故、今日では、もはや新しい使徒が生まれることはありません。

しかも、この使徒たちは、新約聖書の大半の啓示を記した者たちですから、その存在は重要です。ヨハネの黙示録21章14節には、新しい神の都の十二の土台石には、十二使徒の名前が書かれています。これは十二使徒たちによって書き記された神のみことばが、神の都の基礎であることを示しています。

確かに、パウロはすばらしい人物です。しかしパウロは、ここでは自分のすばらしさを発表しているのではありません。彼は自分を召してくださった神の崇高さ、偉大さを示しているのです。もし、私たちが、この朝、パウロの偉大さに目をとめて、パウロを召された神に目をとめていないなら、これらのことばは、みなさんにとって何の関係もないものに聞こえるでしょう。パウロは偉大だった。しかしそれはパウロだったからで、自分には関係ないと思うでしょう。
しばしばメッセ-ジは、自分に直接関係ないものとして、語られ、聞かれています。それ故、クリスチャンは、いつまでも、少しも、変わらないでいるのです。パウロを見ないで、パウロを召された神を見なさい。パウロは自分を見てもらいたいのではありません。自分を召してくださった神を見てもらいたいのです。

神はもはや、使徒に召すことはありません。しかし神は、私たちを宣教師や教師に召されます。パウロは、こう言いました。
「私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。」
パウロは自ら好んで、使徒、宣教者、教師になったのではありません。彼は、神によって任命されたのです。

「私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。」(ガラテヤ1:1)

私が牧師、伝道者になることを迷っていた時、このみことばは私の召命をはっきりさせてくれました。私が神に従うためには、多くの乗り越えなければならない課題がありました。しかし神は、乗り越えなければならない課題のない人を召したりはしません。

しかし、この召命は人間の決心でも、勧めでもなく、神によっています。パウロは、神のために何か働きたかったから、宣教者、使徒、教師になったのではありません。ペテロやヨハネのお手伝いがしたかったから、神の働きについたのでもありません。彼は神によって任命されたのです。それ故、彼の働きには、神的権威が伴っています。
今日、教会には、人間の思いから働いている働き人がたくさんいます。しかし私たちの教会には、ぜひ、神によって召された働き人で満たされていたいものです。人の思いは、すぐに変わり、崩れ去り、争いを起こし、高ぶりを生じさせます。

さて、第三に、パウロは、「神の福音のために選び分けられ」たと言っています。

「選び分けられる」というのは、神のために、特別に取っておかれること、聖別され、分離されることです。パウロ自身と彼の生涯は、神のために用いられるべく、特別に聖別されたのです。これは、パウロだけのことではありません。あなたが真のクリスチャンなら、あなた自身とあなたの生涯は、神のものです。そして神のために用いるべきなのです。しかし、もっと狭い意味において、神の御用に召された者は、自分のすべての思いと時間と能力を神のために用いるのです。

さて、彼は、何のために召されたのですか。「神の福音のため」です。
「神の福音」とは、「神からの良い音信」です。今日、教会では、「神からの福音」が「人からの福音」に変質しつつあります。

讃美は、もはや神へのささげものではなくなり、人が満足すべきものになりました。人々の霊魂を神に導くものではなくなり、人々の心を酔いしれさせるものに堕落しました。
説教は、神のメッセ-ジではなくなり、人間の死んだ研究発表会のようになりました。
教会員は、神を礼拝するために教会に集まるのではありません。みんなと歓談するために集まっています。ある人はこう言いました。「私は教会に行って、みんなの顔を見ると安心します。」これも一部あるでしょうが、これだけでは、「神からの福音」の姿ではありません。これは「人からの福音」です。
説教も、讃美も、交わりにも、人、人、人、人、神がどこにもいません。パウロは、このような働きをするために神に召されたのでしょうか。もっと神的な働きをするためでは、ありませんでしたか。しかし、いつでも、私たちの思いや働きや生活は、死んだ雀のように地に落ちてしまいやすいのです。神の福音を、人の福音に、地の福音に変えてしまいやすいのです。

パウロは、こう言いました。
「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(ロ-マ8:6)

いつも、あなたの思いに気をつけなさい。
その思いが、人の思いか、神からの思いか、
肉の思いか、御霊による思いか
に十分気をつけなさい。
人の思い、肉の思いであれば、神の福音ではありません。それ故、死です。御霊による思いなら、それは神の福音です。そして、いのちと平安があたえられます。パウロは、このことのために召され、また私たちも、このために召されたのです。

今日は、1節から、三つのことをお話しました。

第一、お互いは、キリストのしもべになりたいのか? なりたいのなら、一体どうすればいいのでしょうか。あなた自身とあなたの生涯をキリストの御手に委ねてしまってください。

第二、「キリストのしもべ」になるのは、私たちの自発的な愛の献身によるものです。しかし、キリストがあなたを特別なキリストのご用のために召されていませんか。クリスチャンはすべて、キリストによって召された者です。キリストはすべてのクリスチャンに使命を与えられました。すべてのクリスチャンは、すべての場所で、キリストのために生き、働きます。しかしまた、イエス・キリストは、宣教者、牧師、伝道者、教師となって働く者も召されます。勿論、これ以外に、多くの働きがあります。私たちの教会にも、すぐれた働き人が必要です。しかし就職気分では困ります。神に召された人でなければなりません。

第三、 人の思いではなく、神の思いをもって、生活のすべてに当たることです。そうでなければ、神の福音を拡大することはできません。生活のすべてにおいて、自らの思いを点検してください。