聖書の探求(261) サムエル記第一(序1)諸王記六巻の総論、名称、記者、年代、考古学的発見、史実性、目的

イギリスで1896年出版された「The art Bible, comprising the Old and new Testaments : with numerous illustrations」の挿絵「Samuel brought to Eli(エリのところに連れていかれたサムエル」(プリンストン神学校図書館蔵、Wikimedia Commonsより)

諸王記六巻の総論

ヘブル語聖書では、サムエル記第一から歴代誌第二までの六巻は、元来分けられておらず、三巻になっていて、サムエル記、列王記、歴代誌と、各々、一巻になっていました。

サムエル記と列王記は、ヨシュア記、士師記に続く歴史を記しており、これらの四巻をヘブル語聖書では「前預言書」として扱われていました。これらの四書はヨシュアたちによるヨルダン渡河からバビロン捕囚に至るまでのイスラエルの歴史を記録しています。そのうちサムエル記と列王記は王国時代の始まりから滅亡までを記しています。

歴代誌は、サムエル記第二と列王記第一と第二をユダ王国の面からだけ記しており、その特色は神制政治です。特に、エルサレムの神殿に関わることと、神を礼拝することに関して記されています。
記者は、多分、エズラであったと思われます。

イスラエルの子孫の特権は、神を自分たちの王として戴き、神に選ばれて、神のために特別な民となり、全世界に神の栄光を現わすことでした。

「私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょうか。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」(出エジプト記33:16)

このことは、クリスチャンである私たちにも適用されています。

「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(テトス2:14)

けれども、イスラエル人は士師時代に神を自分たちの王とすることを拒みました。神制政治を拒む、この不信仰な精神は、サムエルの時に至って、ついに絶頂に達し、民は「どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」(サムエル記第一 8:5)と求めたのです。

神の子どもたちが、神のご支配を嫌って、周囲の異教の世の人々と同じような生活をすることを求め、この世の人と違っていることに不満や不平を抱くようになるなら、その人々はすでに神のために証しする、地の塩、世の光としての力を失っているのです。

神はイスラエルの民に、王としてサウルを与えました。サウルは民の心にかなった王でしたが、サウルが神のご命令に不従順になって、神の契約を破った時、神はサウルの代わりに、ダビデを王としました。ダビデは神のみ心にかなった王でした(使徒13:22)。

ダビデは完全な王である主イエス様のひな型(予表)でした。ダビデの子ソロモンも、イエス様を表わす型でしたが、ソロモンが偶像礼拝に心を移して行った後、神の力は王から離れて、預言者たちに与えられるように変わっています。

モーセは預言者であったし(申命記18:15,18、34:10)、サムエルは祭司であり、最後の士師であり、預言者時代の預言者の草分けでもありました。サムエルは預言者を訓練するための預言者学校を開設していたようです。ダビデはそこでいくらかの訓練を受けたと考えられます。

この預言者の訓練は、エリヤによって引き継がれており、預言者時代の多くの預言者群の大系統はエリヤから始まっています。これらの命がけの預言者たちが、南王国ユダ及び北王国イスラエルの衰退と滅亡期を通して、神の代理者として、民の前に立って、神のみことばを語り続けたのです。

名称

サムエル記第一と第二が、サムエルの名で呼ばれているのは、サムエルが第一部の主要人物であったからだけでなく、サムエルが他の二人の主要人物であるサウルとダビデに王とする油を注いだからでもあります。

本来は、これらの二巻は、一つの書でしたが、ギリシャ語訳の七十人訳聖書は本書を二つに分けました。この区別にOld Itala(オールド イタラ)とラテン語訳のヴルガータ版が従ったのです。

七十人訳聖書の記者は、サムエル記第一を第一王国書、サムエル記第二を第二王国書、列王記第一を第三王国書、列王記第二を第四王国書と呼びました。ヒエロニムスは、ブルガータ版で、その表題を「王国書」から「列王記」に変更しています。

ヘブル語写本の中に見られる「サムエル」という名称は、英語訳聖書の中に受け継がれて来ていますが、キング・ジェームス版(欽定訳版)では、「サムエル記」という表題に加えて、「別称 第一(第二)列王記」という言葉が付け加えられています。

記者

サムエル記の二つの書は、偉大な預言者であり、士師であった人物、サムエルの名が付けられていますが、正確な執筆者は不明です。しかし、預言者の重要な任務の一つは、歴史家として歴史を記録することでした。ですから、サムエルが記録したものが、サムエル記の二つの書の中に取り入れられていることは十分に考えられます。

Baba Bathra 14bによれば、「サムエルは彼の名をつけた書と、士師記とルツ記を記した。」とあります。

しかし、15aには、「サムエルは彼の書を記した。しかし、その中に、今、サムエルは死んだ、とは記されていないのか。」と書いてあります。それ故、サムエルが本書を書いたことを、ユダヤ教の伝承は維持してきたけれども、その立場に反する意見は、古い時期から起きていたのです。

サムエル自身が、これらの二つの書全体を書くことができなかったことは明らかです。なぜなら、サムエルの死がサムエル記第一、25章1節と28章3節に記されており、彼の死後、ずっと後になってから起きた様々な事件について記されている部分はサムエルの筆ではないからです。

サムエル記第一 27章6節の「それゆえ、ツィケラグは今日まで、ユダの王に属している。」という言葉は、本書が現在の形に完成されたのは、王国が北のイスラエルと南のユダに分裂した後、しばらくしてからのことであったことは明らかです。

本書の記者がだれであったにしても、彼は、それ以前に存在していた成文書を利用したことは間違いありません。それらは、「先見者サムエルの言行録、預言者ナタンの言行録、先見者ガドの言行録」(歴代誌第一 29:29)であったと思われます。

そこで、記者について、私たちが結論するところは、サムエル記の両書は、神の霊感によって、おそらくユダの、ある預言者によって書き記されたこと。その人は王国分裂直後に生きていた人で、彼はすでに存在していた成文資料を利用し、編入して本書を書き記したことです。

(記者に関する種々の説)

破壊的な批評学説を採る人々が一般に主張してきたことは、サムエル記の主要内容が、二つの多少類似しているけれども、独立した資料の中に保存されていた、ということです。

その二つの資料のうち、初期の物語は、大体ソロモンの時代に起源し、後期の物語は、紀元前八世紀に起源しているとし、その後、約一世紀して、この二つの資料は結合されたと言っています。

初期の文書は、サムエル記第一、4章1節後半に始まるもので、士師記13章~16章の続きとしています。その内容は、イスラエルとペリシテ人との間の最初の戦いから、ソロモンの即位までの様々な事件を記しています。

この部分の記者について、批評家の一人クロスターマンは最初にアヒマアズを示唆しました。アヒマアズであったか、どうかは分かりませんが、もう一人の批評家のファイファーによれば、その記者であった人は、ヘロドトスよりも更に真実の意味で「歴史の父」であると考えられ、その文体はへブル語散文において、すぐれたものであると言っています。

初期資料の主要人物がサウルとダビデであったのに対して、二次的、後期資料の主人公はサムエルであると言われています。

これらの資料は、サムエル記第一 1~24章の部分に限られており、ファイファーの考えでは「伝説によって曇らされ、諸説によって歪められたもの」とされ、しかも多数の記者によるものとしています。

すなわち、
1章の著作年代は、BC750年頃、
17,18章の原形は、それから約一世紀後のもの、
その他の部分は、BC650年~550年の間に書かれたものとしています。

後期の資料は、初期のものの修正であって、二つの観点をとっています。すなわち、

1、王国制度の採用は、主に対する背教であること。
2、人間の幸、不幸は、人間の行為に対する神の厳正な応報である。

こうして、批評家たちは、「伝説の霧と強圧的な教理の権威とが合わさって、後期の資料に、偽りの雰囲気と蜃気楼の幻影をつくり出したのである。」と言うのです。

この他、批評家のオット・アイスフェルトは、サムエル記に三つの資料があったと言っていますが、批評家たちは様々な相違を調和する努力を全然していません。私たちは、これらの批評家たちの説を、サムエル記の統一的な性格と調和しないものとして、拒否せざるを得ないのです。

サムエル記の内容は、最も真実で確かな歴史を描いています。すなわち、偉大な神の見地から、歴史の出来事を評価しています。その神の見地がイスラエルの指導的預言者たちの霊感となり、旧約聖書の中の分類でネビイム(預言書)と呼ばれる「前預言者」の中にサムエル記が置かれるようになったことは十分に正当なものです。

適切に記された歴史は、「神の活動の記録」であり、人間の行為の中に見られる、「義に対しては報いられ、罪は罰せられる」神の権威あるみわざを表わしたものです。イスラエルの勝利と成功は、すべて神のご目的と、約束を成就された神ご自身の証しであり、イスラエルの失敗と敗北は、神に対する反逆と罪の結果であることを明らかに示しています。

イスラエルの歴史は、箴言14章34節の「正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。」ということばを実際に証明している例証です。このことは、私たち個人個人にも、よくよく当てはめて、主の前に真実に、忠実に歩ませていただきましょう。

年代

本書の出来事が起きた年代を詳細に、正確に示すことは困難です。

ソロモンの死とイスラエル王国の分裂をBC931年とする年代学的な提示は多くあります。しかし、ダビデとソロモンの治世が重なっていた時期もありますから(列王記第一 1:32~40)ダビデとソロモンの治世を加えて八〇年として、サウルの死の年を算出することはできません。そこで推定ではありますが、サムエル、サウル、ダビデの年代のおおよそ適切な合理的年代は、次のようなものと思われます。

サムエルの誕生       BC1115年
サムエルの召命       BC1105年
サムエル士師となる     BC1070年
サウルの王としての油注ぎ  BC1043年
サムエルの死        BC1025年
ダビデの即位        BC1010年
ダビデの死           BC970年

考古学的発見

サムエル記第一と第二に記されている期間は、約150年ですが、この期間は、出エジプト記からバビロン捕囚までの間で、最も重要な時代です。そして聖書中では非常に詳しく書かれているのに、この時代の考古学的研究は、まだ十分に成果を上げていません。

パレスチナの地中海沿岸の平野部分の調査では、サムエルとサウルの時代にイスラエルの主要な敵であったペリシテの遺物が多く発掘されています。「パレスチナ」という名称自体、ペリシテという語から派生したものです。この地域の土器の破片は、ギリシャのエーゲ海文明と緊密な結びつきがあったことを示しています。そしてペリシテ人がクレテ島から移住して来た人々であったことは疑いのない事実です。

ペリシテ人は、中東において、鉄器の使用を最初に始めた人々でした。彼らは、サウルの時代には、パレスチナでの鉄器の製造を完全に独占していました。

ペリシテ人の言語は、彼らが碑文を残していないので分かりません。しかし1921年から1933年の間に行なわれたベテシャンの二つの神殿の発掘調査によって、ペリシテ人の宗教に関する多くの証拠が発見されました。その神殿の一つは、間違いなく、ギルボア山の戦いでサウルが死んだ後、サウルの武具が運び込まれた神殿です。

ベテシャンの遺跡:前方の丘の上に旧約時代の遺跡があり、そのどこかにサウルの武具が運び込まれたものと思われます。丘の下には、紀元前1世紀にローマ軍の支配下で作られた大規模な植民都市が広がっています。(参考:たけさんのイスラエル紀行「ベテシャン(その2)」)


サウルの時代についての第二の考古学的発見は、1922年と1923年にウィリアム・F・オルブライトによってギブアのとりで(エルサレムの北約五km、現在のテル・エルフル)の発掘です。このギブアの廃墟は、BC十二世紀の終わりに近い頃、おそらく士師記19~20章に記されているイスラエル人とベニヤミン族が戦った事件の時に焼かれた、その地にそれ以前に人が住んでいたことを示しています。次に、その地に人が住むようになったのは約一世紀後でした。

さらにサウルの時代とされている地層からは、二段階のとりでが発見されています。そのとりでには二重の壁が造られており、各々の角に塔が建てられていました。土器には飾りはありませんが、先端が鉄でできていた鍬が遺物の中から発見されたことは、農業が行なわれていたことを示しています。この地は間違いなく、サウルがペリシテ人と戦った時のサウルの陣でした。このとりではサウルの死後、破壊され、放棄されていたものと思われます。その後、小さい要塞が再建されました。

パレスチナ南東部には、ダビデの時代に要塞化された幾つかの都市がありました。これらの都市は屋根のついた防護壁で囲まれているのが特色でした。これは、比較的薄い壁が二枚並行に建てられ、その間に、直角に支えの壁を屋根のようにわたして支えにしているのです。これは非常に強固で、ペリシテ人の攻撃を防御するためのものであったのです。

エルサレムのエブス人の要塞の占領についても発掘が行なわれています。

ダビデは、「だれでもエブス人を打とうとする者は、水汲みの地下道を抜けて……」(サムエル記第二 5:8)と言っているとおり、考古学者たちは、シオンの要塞が建てられていた岩盤を通して掘られた、たて坑を発見しています。そのたて坑は、シロアムの反対側にある処女の泉から水が引かれてシロアムの池に通じていました。このたて坑によって、兵士たちは要塞の外に行かずに、シロアムの池から水を汲むことができたのです。ダビデの将軍ヨアブとその部下たちは、この無防備だった坑道をのぼって、全く安心しきっていた無警戒なエブス人を奇襲攻撃したことは十分あり得ることです。

ギブオンの地(現在のエル・ジブ)での発掘は、1956年に行なわれました。ここでは、陶器が発見され、周囲に階段が施されている大きな池が見つかりました。その池は、岩の中に約10メ―トル掘られたものでした。この池は、サムエル記第二、2章12~17節で、ダビデの家来とイシュ・ボシェテの家来が戦った時に、互いに挟んで対立した池であると考えられています。

サムエル記の史実性

一、サムエル記の信憑(しんぴょう)性と史実性(歴史的事実であること)は、本書が聖書の他の箇所に引用されたり、言及されたり、暗示されていることによって、十分に証明されています。

1、サムエル記にある事件について、列王記第一(2:27)、歴代誌第一のダビデ王の即位と統治時代の記事、歴代誌第二 1~9章のソロモンの治世、エレミヤ書15:1、詩篇17:11(サムエル記第一 23:26)に言及されています。

2、イエス・キリストは、ダビデが供えのパンを食べたこと(サムエル記第一 21:6)を述べておられます(マタイ12:3,4、マルコ2:25,26、ルカ6:3,4)。

3、パウロは、サムエル記の内容の概要を、使徒の働き13:20~22で述べています。

二、サムエル記第一、第二、列王記第一、第二、歴代誌第一、第二、(歴代誌の歴史は、南王国ユダだけを扱っています。)は共にイスラエル王国の記録であり、その連続する歴史は、ルツ記によって中断されたかに見えましたが、その後、バビロン捕囚時代まで続けられています。

目的

サムエル記の目的は、王国の成立と、それに対するサムエルの役割について述べることにありました。

サムエルは士師(さばきつかさ)(サムエル記第一 7:6,15~17)でもあり、預言者(サムエル記第一 3:20)でもありました。それ故、サムエルは士師記の時代と初期王国とを結びつける役割を果たしています。

王国設立のためには、二重の事情が生じていました。

第一は、士師記の時代の間に、国内で宗教の堕落が進み、そのため隣国からの襲撃を受けて国力は急速に衰え、国内でも内乱が起きるという混乱が波及していました。そのような時期に、民の指導者として奉仕すべきサムエルの息子たちが父サムエルの道を歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていて、民から信頼を失い、サムエル自身も年老いていたため、民はますます不安になっていたのです。再び、堅い信仰を失いかけていたイスラエルの人々は神に立ち帰り、主の指導を第一に求めることをしないで、目に見える人間の力を当てにして、異教の国々の王政制度による中央集権政府を求めるようになっていたのです。

第二は、立てられる王は、善王であって、独裁者ではなく、神のみこころを求める人であり、主に忠実で、公正な統治をすることによって、来るべき大いなる王(イエス・キリスト)を予表する者でなければならないという条件がつけられていました。

しかし、最初に王として油注がれたサウルは、後に主に不従順な、心の頑なな独裁者となり、主によってサウルの王家は没落し、国はダビデに渡されてしまったのです。こうして王となる者は、義をもって治める者でなければならないという教訓を教えられたのです。

あとがき

今年も、はやクリスマスの節季を迎えております。私たちにとっては、まことに有難い時ですが、世相はますます暗く、絶望に向かっております。愛するわが子を失って、悲嘆の中で、このクリスマスを迎え、年を越さなければならない人もいます。新築の立派なマンションを購入して喜んでいたのに、一瞬にして、これからどうして生きて行ったらよいのか分からなくなって、このクリスマスを迎えている人もいます。だれがこのようなことが自分に起きると予期したでしょうか。しかしこのようなことがいつ、私たちの上に起きるか分かりません。本当にイエス様を信じる信仰がなければ、生きる目的を見失ってしまいます。この国に今、緊急に必要なのはイエス様の福音です。マルコ16:15

(まなべあきら 2005.12.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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