聖書の探求(264) サムエル記第一 序(4)サムエルの生涯のあらまし、サムエルと言う人物

イギリスの画家Joshua Reynolds (1723–1792)による「The Infant Samuel(幼子サムエル)」(The Musée Fabre in the southern French city of Montpellier、Wikimedia Commonsより)

サムエルの生涯のあらまし

一、サムエルの一生

1、誕生(1章)
2、幼少時代(2~3章)
3、預言者としての奉仕
イ、王が立てられる以前の奉仕(4~11章)
ロ、サウル王の治世下における奉仕(12~18章)
4、晩年(19~25章)

二、サムエルの任務

1、主の預言者(3:20)
2、士師(さばきつかさ)(7:6)
3、神の人(9:6)
4、予見者(先見者)(9:9)

三、サムエルの奉仕(約45年間、士師になった時から死まで)

1、国民的偶像礼拝の悔い改め(サムエルの祈りと信仰によって)
2、神とイスラエルとの契約の更新
3、ペリシテ軍に対する完全な勝利(7章、周囲の諸国の政治的状況)
4、神制政治から王国建設へ
5、サウルの油そそぎと王としての即位に密接に関係したこと
6、預言者学校の設立と活動(19:20)

サムエルという人物

1、サムエルは一生涯、ナジル人であった。

母ハンナの祈りに答えられて誕生したサムエルは、幼い時から神に捧げられて聖別され(全く神のものとされること)、神聖なシロの幕屋で育てられました。その間に彼は、単純、献身、真実、意志の堅固な信仰の性質を育て上げられたのです。そして最も苦痛な務めを負わせられた時にも、彼は毅然として動じなかったのです。

「エリは言った。『おまえにお告げになったことは、どんなことだったのか。私に隠さないでくれ。もし、おまえにお告げになったことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられますように。』それでサムエルは、すべてのことを話して、何も隠さなかった。エリは言った。『その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。』」(サムエル記第一 3:17,18)

「すると、サムエルはサウルに言った。『私はあなたといっしょに帰りません。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたをイスラエルの王位から退けたからです。』」(サムエル記第一 15:26)

2、サムエルは祈りの人でした。

サムエルの号泣(ごうきゅう)の祈りは鋭く胸をえぐるようで、危急険悪の場合に神の民のために主に祷告(とうこく)する叫びの祈りでした。
「それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ。」(サムエル記第一 15:11)

聖書中、及び教会の歴史上、すべて真実に神に仕えた人は、みな不撓不屈(ふとうふくつ「たゆまず屈しない」)の、信仰に満ちた祈りの人でした。

「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、『サムエル。サムエル。』と呼ばれた。サムエルは、『お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げた。」(サムエル記第一 3:10)

「それで、サムエルは言った。『イスラエル人をみな、ミツパに集めなさい。私はあなたがたのために主に祈りましょう。』」(同7:5)

「そこでイスラエル人はサムエルに言った。『私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。私たちをペリシテ人の手から救ってくださるように。』
サムエルは乳離れしていない子羊一頭を取り、焼き尽くす全焼のいけにえとして主にささげた。サムエルはイスラエルのために主に叫んだ。それで主は彼に答えられた。」(同7:8,9)

「彼に言った。『今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。』
彼らが、『私たちをさばく王を与えてください。』と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。」(同8:5,6)

「サムエルは、この民の言うことすべてを聞いて、それを主の耳に入れた。」(同8:21)

ここで、サムエルのすぐれている点は、民が異教の国の人々と同じように王を求めたことは、サムエル自身、受け入れられるはずもないことであり、気に入らないことであったのは確かですが、それをもサムエルは自分の考えと理解で処理してしまわないで、すべて「主の耳に入れ」、主のところに持っていって、主の導きとみわざを待ち望んだことです。

私たちも、ぜひこのことをさせていただきたいものです。分かりきっていることでも、自分の考えと理解に頼らず、何事もすべて、主のお耳に入れて、主のお導きとみわざを待ち望むなら、主は必ず最善を成し遂げてくださいます。

「主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて仰せられた。…サムエルがサウルを見たとき、主は彼に告げられた。『ここに、わたしがあなたに話した者がいる。この者がわたしの民を支配するのだ。』」(同9:15,17)

「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。あなた方が悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる」(同12:23~25)

このみことばは、サムエルが口先だけの、言葉だけの祈りをしていなかったことをよく表わしています。彼は生ける神と交わる祈りをしていたのです。それ故、神との交わりが途絶えることは罪だと実感していたのです。これは考えや知識の問題ではなく、霊的経験の上でのことなのです。

「『わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。』それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ。」(同15:11)

サムエルの祈りに比べて、その生活行動において主に不従順、不服従だったサウルの祈りに対しては、主は全く答えられなくなってしまっておられます(同14:37、28:6)

祈りにおいて、また日常生活において、主と交わる生活をするためには、祈る時だけ熱心になっても、主は答えてくださいません。日頃の実際生活において、主のみこころに従順に従う生活こそ、主と交わる祈りをするために不可欠なことです。何度、失敗しても、あきらめずに、心を頑なにせず、いつも心砕かれて、従順な心を持って主に従う生活をさせていただきましょう。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)

他にも、サムエルが祈りの人であったことが記されています。

「モーセとアロンは主の祭司の中に、サムエルは御名を呼ぶ者の中にいた。彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた。」(詩篇99:6)

「主は私に仰せられた。『たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。』」(エレミヤ書15:1)

ここで、主が、主の御前で叫んでいる人物の名前を記しておられることは、祈りの言葉や時間の長さや熱烈さ以上に、祈る人自身の実質を主が重んじておられることを示しておられます。それは日毎に、主に従順で、忠実な生活をすることによって養われてくる信仰の実質です。

3、サムエルの感化は、全国民に行き渡っていました。

サムエルは、イスラエルの士師の最後の人であり、その権能を最も発揮した人でした。ベツレヘムの町の長老たちは恐れながらサムエルを迎えています(16:4)。サウルもサムエルを恐れていました(15:24~30)。
サムエルの感化は、武力のせいでもなく、外交の技量でもなく、政治的手腕でもありません。
主に対する確固として動揺しない彼の誠実さと、光輝ある彼の忠節のためでした。

彼は晩年、長年、負って来た重大な重荷を下ろす時に当たって、彼は全イスラエルに向かって、一点の私欲なく、不義のないことを宣言し、もしあればそれを指摘するようにと言い、それを「あなたがたにお返しする。」と言っています(12:1~5)。

4、サムエルは旧約の預言者の初めの人です。

「また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について宣ベました。」(使徒3:24)

「その後、預言者サムエルの時代までは、さばき人たちをお遣わしになりました。」(使徒13:20)

「これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。」(ヘブル11:32)

ヘブルの政治上の特長である預言者としての任務と命令は、サムエルによって始まりました。

サムエルの前には、「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」(サムエル記第一 3:1)とあり、神からの命令を意味する預言者を通しての「黙示」は、サムエルから始まったのです。

「主は再びシロで現われた。主のことばによって、主がご自身をシロでサムエルに現わされたからである。」(サムエル記第一 3:21)

預言は、預言者の生来の性質や、直感とか、想像によったのではなく、神からの直接の啓示によったのです。

「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならないということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(ペテロ第二 1:20,21)

「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」(ヘブル1:1,2)

「万軍の主はこう仰せられる。『あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。主の口からではなく、自分の心の幻を語っている。…わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続け、わたしは彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。』」(エレミヤ書23:16,21)

サムエルは「予見者」(サムエル記第一 9:9)とも呼ばれています。
この呼び方は、預言者に対する最古の称号で、超自然的視力や、普通の人が持っていない、見えないものを見る力と能力が与えられていることを暗示しています。

バラムに対しては、
「目のひらけた者の告げたことば。神の御告げを聞く者、全能者の幻を見る者、ひれ伏して、目のおおいを除かれた者の告げたことば。」(民数記24:3,4)
「目のひらけた者の告げたことば。神の御告げを聞く者、いと高き方の知識を知る者、全能者の幻を見る者、ひれ伏して、目のおおいを除かれた者の告げたことば。」(民数記24:15,16)と言われています。

5、預言者学校

預言者の働きが長く効果があるように、サムエルが創設した組織です。

その一つはラマにありました。そしてサムエルがその長であったと思われます(サムエル記第一 19:18~20)。この他に、ギブアにもあったと思われます(同10:5)。

その後、エリヤの時代には、ベテル(列王記第二 2:3)、エリコ(同2:5)、ギルガル(同4:38)にも造られていました。

預言者学校における青年預言者たちの主な研究は、おそらく律法とその解釈であったと思われます。

サムエル記第一 10章5節や、歴代誌第一25章1~3節を見ると、神を賛美する音楽を修 学することも、預言者となる者の任務の一部でした。これは預言職の中心ではありませんでしたが、大切なものでした。預言者たちの賛美は、預言の霊が彼らの上に下り、霊魂が預言の霊に全く満たされた状態となり、その話す言葉の音階が整ってほとばしり出るようになり、楽器の演奏に伴って語り出すのです。

その実例としてエリシャのした預言の賛美を挙げておきましょう(列王記第二 3:15)。

現代の私たちクリスチャンも、ただ楽器に合わせて歌詞を歌うのではなくて、心が主の御霊に満たされて、歌う言葉は歌詞であっても、神のことばの預言であったり、生きたあかしとして賛美することができるのです。

6、サムエルは預言者として、神と民との間の道となりました。

主がその民にお告げになられることは、預言者を通して、彼らにお語りになりました。預言者は神のご命令によって活動し、王国を制定し、王に油を注いだのです。サムエルは、みなこれを行ないました(サムエル記第一 8章、10:1)。

さらに、最初の王サウルによって、むなしくされたサウルの王位の喪失を宣言し(サムエル記第一 15:28)、その後継者ダビデに油を注いだのです(同16:12,13)。

この預言職は、その後、イスラエル王国の没落に至るまで、その高い地位を保持したのです。

民は祭司のいけにえをささげる働きと、とりなしを通して神に近づき、神は預言者によって、みこころを明らかにされ、民にお近づきになるのです。

ヘブル1章2節、「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」とヘブル3章1節、「私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」

ヘブル4章14節、「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」において、預言職と祭司職の両者がキリストにおいて合一されたのです。イエス・キリストは預言者として、私たちに神のみこころを告げ、祭司として私たちの罪や苦しみの訴えを神にとりなしてくださるのです。

「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ロ―マ8:34)

あとがき

今、ウツ病になる人や自殺者が急増中です。恐るべき犯罪者が町のどこかにひそんでいます。そんな中、寒い日でも異端の人たちは町のあちこちで活動を続けています。生けるイエス様はこのような日本人の霊魂を放っておくはずがありません。必ず聖霊が働いて下さいます。しかし主は信仰のないところでは働いて下さいません。主は故郷のナザレの人々に信仰がなかったので、みわざを行なわれませんでした。
ですから毎日の生活の中で信仰を活用して下さい。また他人を悪く言ったり、さばいたり、争ったりすることを止めて仲直りしましょう。分れ争う人は立ち行かないからです(マタイ7:1、12:25、コリント第一 13:5)。これらを実行すれば、主は必ず、みわざを行なって下さいます。

(まなべあきら 2006.3.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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