聖書の探求(273) サムエル記第一 6章 主の契約の箱、ペリシテの地からベテ・シェメシュへ

1896年頃に出版された「The art Bible, comprising the Old and new Testaments : with numerous illustrations」のサムエル記第一6章にある挿絵(Princeton Theological Seminary Library蔵、Wikimedia Commonsより)


6章は、主の契約の箱がペリシテの地からベテ・シェメシュへ移されることの記録です。

6章の分解

1~9節、ペリシテ人の祭司たちと占い師たちの、主の契約の箱を返す方法の進言
10~18節、主の契約の箱ベテ・シェメシュへ
19~21節、主は不敬虔なベテ・シェメシュ人五万七十人を打たれた。

1~9節、ペリシテ人の祭司たちと占い師たちの、主の契約の箱を返す方法の進言

1節、主の契約の箱は通算して七ヶ月もペリシテ人の野にあったのです。

Ⅰサム 6:1 主の箱は七か月もペリシテ人の野にあった。

ペリシテ人は恐れて、放置しておいたのです。忠実で従順な信仰者には、主の恵みの臨在を表わし、勝利と祝福をもたらす主の契約の箱を奪ったものの、不信仰なペリシテ人にとっては、それが悩みの種となり、処理の仕方に困ってしまっていたのです。

2節、そこでペリシテ人は祭司たちと占い師たちを呼び寄せて、解決方法を教えてくれるように依頼しています。

Ⅰサム 6:2 ペリシテ人は祭司たちと占い師たちを呼び寄せて言った。「主の箱を、どうしたらよいだろう。どのようにして、それをもとの所に送り返せるか、教えてもらいたい。」

「占い師」とは、当時の中東の異教徒たちから尊敬されていた宗教的役人たちでした。彼らは未来のことを予告できると公言していたので、ペリシテ人たちは自分たちの手に負えなくなった主の契約の箱をどう処理すべきか、送り返すなら、どのようにすべきかを彼らに相談したのです。

3節、この占い師たちは、幾らかイスラエルの信仰について知っていたのでしょう。

Ⅰサム 6:3 すると彼らは答えた。「イスラエルの神の箱を送り返すのなら、何もつけないで送り返してはなりません。彼に対して償いをしなければなりません。そうすれば、あなたがたはいやされましょう。なぜ、神の手があなたがたから去らないかがわかるでしょう。」

それで、ただ契約の箱を返すだけでは十分ではなく、「必ず罪過のためにいけにえを返さなければなりません。」と忠告しています。罪過のいけにえを添えて返す時、腫物がいやされるなら、今まで受けていた苦しみがどこから来ていたのか、なぜ来ていたのか、その苦難の源と理由を知ることになるでしょうと、言っています。

4節、しかし、その罪過のいけにえにしたものは、「五つの金の腫物と、五つの金のねずみ」です。

Ⅰサム 6:4 人々は言った。「私たちのする償いとは何ですか。」彼らは言った。「ペリシテ人の領主の数によって、五つの金の腫物、すなわち五つの金のねずみです。あなたがたみなと、あなたがたの領主へのわざわいは同じであったからです。

主が人の罪の代価として旧約時代に命じられていた羊や牛のいけにえではありませんでした。これを見ると、明らかに異教の偶像を拝む者が考えた忠告であることが分かります。

「五つ」というのは、ペリシテ人の領主たちの五つの町々を指しています。「腫物」は、病気の腫物に対しては金の腫物というように、恩には恩をもって答え、恨みには恨みをもって答えるという考え方に基づいています。「ねずみ」は、ねずみによって、この腫物の伝染病が広がったと考えていたからです。

「あなたがたみなと、あなたがたの領主へのわざわいは同じ」は、同じ原因によっているから、同じいけにえでよいという意味でしょう。

5節、

Ⅰサム 6:5 あなたがたの腫物の像、すなわちこの地を荒らしたねずみの像を作り、イスラエルの神に栄光を帰するなら、たぶん、あなたがたと、あなたがたの神々と、この国とに下される神の手は、軽くなるでしょう。

「この地を荒らしたねずみ」は、ペリシテの地方にねずみが異常に発生していたことを示しています。このねずみの死体が町中にころがり、更にノミが異常発生し、伝染病が広がっていたと考えられます。これらの忠告を見ると、自分たちの民の中でのことではない言い方をしていますので、この占い師たちはペリシテ人ではなく、ペリシテの外からやって来た人たちであると思われます。

6節を見ると、「エジプト人とパロが心をかたくなにした」ことを知っており、イスラエルのエジプト脱出の歴史をよく知っています。

Ⅰサム 6:6 なぜ、あなたがたは、エジプト人とパロが心をかたくなにしたように、心をかたくなにするのですか。神が彼らをひどいめに会わせたときに、彼らは、イスラエルを自由にして、彼らを去らせたではありませんか。

主が、イスラエル人をエジプトから救出するために、エジプト人とパロになされたことは、エリコのラハブにも知られていましたし(ヨシュア記2:10)、広く知られていました。
ヨシ 2:10 あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。

それ故、ペリシテ人が心を頑なにしないように忠告したのです。むしろ、「イスラエルの神に栄光を帰するなら、たぶん、あなたがたと、あなたがたの神々と、この国とに下される神の手は、軽くなるでしょう。」(5節)と勧めています。

7~9節、神の箱をイスラエルに送り返すための具体的な準備の指示を始めています。

Ⅰサム 6:7 それで今、一台の新しい車を仕立て、くびきをつけたことのない、乳を飲ませている二頭の雌牛を取り、その雌牛を車につなぎ、子牛は引き離して牛小屋に戻しなさい。

まず、一台の新しい車を仕立て、それに、くびきをつけたことのない、乳を飲ませている二頭の雌牛をつなぎます。子牛は引き離して牛小屋に戻されます。この二頭の雌牛はまだ若く、使い慣らされていない牛です。

Ⅰサム 6:8 また主の箱を取ってその車に載せなさい。償いとして返す金の品物を鞍袋に入れ、そのかたわらに置き、それを行くがままにさせなければならない。

この車の上に、主の箱を載せ、また罪過のためのいけにえの五つの金の腫物と、五つの金のねずみを鞍袋に入れて、主の箱のかたわらに置いて、行くがままにさせます。

この二頭の雌牛は、乳を飲ませている子牛と引き離されて、不安定になっているか、怒っているか、そういう状態の牛ですから、どっと走り出して、車を破壊し、主の箱を振り落としてしまうかもしれないし、あるいは子牛の所から離れないかもしれません。この方法によって、ペリシテ人の苦しみがイスラエルの神による審判か、それとも偶然に起きたものかを判断しようとしたのです。

Ⅰサム 6:9 あなたがたは、箱がその国への道をベテ・シェメシュに上って行けば、私たちにこの大きなわざわいを起こしたのは、あの箱だと思わなければならない。もし、行かなければ、その手は私たちを打たず、それは私たちに偶然起こったことだと知ろう。」

主の箱を載せた車がイスラエルへの道をベテ・シェメシュに上って行けば、ペリシテ人にわざわいを起こしたのは、主の箱だと思わなければならないと言っています。そのように車が上って行くには超自然の神の力が働かなければ起こり得ないと考えたからです。しかし、何もそのような試験をしなくても、明らかに、主の契約の箱をイスラエルから奪い取って以来、ずっとペリシテ人への苦しみとわざわいは止まないのですから、賢い人なら、それは主から来ているわざわいであると悟るはずです。人は愚かにも、いつも目に見えるしるしを求めるのです。

「そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者が、イエスに答えて言った。『先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。』しかし、イエスは答えて言われた。『悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。』」(マタイ12:38~40)

これは、私たちに与えられているしるしは、イエス様の十字架と復活だけだと言われているのです。これで十分なのです。これは不信仰な人々が求めるしるしとは異なるでしょうが、これ以外のしるしを求める人は、イエス様の救いを受けることができません。

10~18節、主の契約の箱ベテ・シェメシュへ

10,11節、ペリシテ人たちは占い師たちの指示に従って、その通りにしました。

Ⅰサム 6:10 人々はそのようにした。彼らは乳を飲ませている二頭の雌牛を取り、それを車につないだ。子牛は牛小屋に閉じ込めた。 6:11 そして、主の箱を車に載せ、また金のねずみ、すなわち腫物の像を入れた鞍袋を載せた。

12節、「すると雌牛は、ベテ・シェメシュへの道、一筋の大路をまっすぐに進み、鳴きながら進み続け、右にも左にもそれなかった。」

Ⅰサム 6:12 すると雌牛は、ベテ・シェメシュへの道、一筋の大路をまっすぐに進み、鳴きながら進み続け、右にも左にもそれなかった。ペリシテ人の領主たちは、ベテ・シェメシュの国境まで、そのあとについて行った。

イスラエルの神の箱のベテ・シェメシュまでの移動経路


主は異教の指導者の言葉をも用いて、ご自身を現わされたのです。ペリシテ人の領主たちは、何が起きるのかを確かめるために、ベテ・シェメシュの国境まで、その後について行っています。彼らにとって、これ以上の明確な証拠は他にないというしるしを見たのです。ベテ・シェメシュは、エルサレムの西方にあり、ペリシテとの国境近くにある祭司の町でした。そこに向かって雌牛と車はまっすぐに走って行ったのです。

13,14節、その時、ベテ・シェメシュの住民たちは、谷間の低地で小麦の刈り入れをしていましたが、二頭の雌牛の鳴き声と車の走る音で、目を上げると、そこに神の箱が見えたのです。彼らは神の箱が自分たちの所に帰って来たことを喜んだのです。

Ⅰサム 6:13 ベテ・シェメシュの人々は、谷間で小麦の刈り入れをしていたが、目を上げたとき、神の箱が見えた。彼らはそれを見て喜んだ。
6:14 車はベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑に入り、そこにとどまった。そこには大きな石があった。その人たちは、その車の木を割り、その雌牛を全焼のいけにえとして主にささげた。

ベテ・シェメシュは祭司の町で、その住民はレビ人(15節)でしたから、すぐに、車の木を割って薪とし、雌牛を全焼のいけにえにしています。

15節、レビ人には主の箱を取り扱うことが許可されていましたので、そばにあった大きな石の上に安置しています。

Ⅰサム 6:15 レビ人たちは、主の箱と、そばにあった金の品物の入っている鞍袋とを降ろし、その大きな石の上に置いた。ベテ・シェメシュの人たちは全焼のいけにえをささげ、その日、ほかのいけにえも主にささげた。

16節、五人のペリシテ人の領主たちは、この出来事を一部始終、すべてを興味深く観察した後、彼らの苦しみとわざわいがイスラエルの神によるものであったことを悟り、その日のうちにエクロンへ帰って行っています。

Ⅰサム 6:16 五人のペリシテ人の領主たちは、これを見て、その日のうちにエクロンへ帰った。

エクロンに帰ったのは、雌牛と車がエクロンから上ったからであり、またエクロンが最も近いペリシテ人の町だったからです。

17,18節では、鞍袋の中に入れられていた五つの金の腫物と、五つの金のねずみの説明が記されています。

Ⅰサム 6:17 ペリシテ人が、償いとして【主】に返した金の腫物は、アシュドデのために一つ、ガザのために一つ、アシュケロンのために一つ、ガテのために一つ、エクロンのために一つであった。 6:18 すなわち金のねずみは、五人の領主のものであるペリシテ人のすべての町──城壁のある町から城壁のない村まで──の数によっていた。終わりに主の箱が安置されたアベルの大きな台は、今日までベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑にある。

五つの金の腫物は、ペリシテ人の主要な五つの町(アシュドデ、ガザ、アシュケロン、ガテ、エクロン)のためであり、五つの金のねずみは、五人の領主たちが支配していたペリシテ人のすべての町、城壁のある町から城壁のない村までを含む数によっていました。

19~21節、主は不敬虔なベテ・シェメシュ人を打たれた。

19節、しかし、ベテ・シェメシュの人々のうち幾人かの者が、主を冒瀆する罪を犯したのです。

Ⅰサム 6:19 主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。そのとき主は、その民五万七十人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。

彼らは不敬虔な好奇心から、主の箱を開いて中を見たのです。これは死の刑罰をもって禁じられていました。

「あなたがたは、彼らに次のようにし、彼らが最も聖なるものに近づくときにも、死なずに生きているようにせよ。アロンとその子らが、入って行き、彼らにおのおのの奉仕と、そのになうものとを指定しなければならない。彼らが入って行って、一目でも聖なるものを見て死なないためである。」(民数記4:19,20)

レビ族の人々には、特にこの律法が教えられていましたから、知らなかったことはあり得ないのです。

このことは、今日でも信仰を自己中心の利益のためであったり、興味本位の好奇心からすべきでないことを示しています。主の臨在の奥義を人の目や感覚で知ろうとすることは、高慢であり、不敬虔であり、主に打たれることになるのです。

「その民五万七十人を打たれた。」キング・ジェームズ訳聖書を翻訳した人たちが用いたヘブル語本文は「七十人と五万人」となっていますが、別のヘブル語本文では、「五万」が欠けていて、「七十人」だけが記されています。どちらが正確であるかは分かりません。それにしても実際に主に打たれた人がいたことは、信仰者の中に、特にレビ人の中にさえ、不敬虔な者がいたことを示しています。

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(ペテロ第一 1:8)

20,21節、ベテ・シェメシュの人々は聖なる神の刑罰を恐れて、キルヤテ・エアリムの祭司たちの所に使者を送って、ペリシテ人が返して来た主の箱を、彼らの所に運んでくれるように頼んでいます。

Ⅰサム 6:20 ベテ・シェメシュの人々は言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立ちえよう。私たちのところから、だれのところへ上って行かれるのか。」
6:21 そこで、彼らはキルヤテ・エアリムの住民に使者を送って言った。「ペリシテ人が主の箱を返してよこしました。下って来て、それをあなたがたのところに運び上げてください。」

ここにも愚かな誤解があります。彼らがわざわいの刑罰を受けたのは、彼らが主を冒瀆する不敬虔なことをしたからであり、そのことの故に、聖なる神が自分たちから離れて、どこか別の所に行ってくれることを願うのは間違っています。自分たちが悔い改めて、主に立ち帰り、主に忠実な歩みをすることこそ、必要なことです。そうするなら、主は彼らに恵みと祝福を回復してくださるのです。今でも、わざわいに会うと、主を恐れたり、のろったりして離れて行く人がいますが、それは更に不信仰な愚かを重ねることになります。

あとがき

信仰が幼いと、聖書のことばより、人のことばに心が動かされます。しかし生けるイエス様を経験すると、人の言葉より、神のみことばに恵みと力を見い出すようになります。
人の言葉は、どんなに親切であっても、私たちの霊魂を救い、潔め、神と交わらせる力がありません。人の言葉は、一時的に慰めを与えてくれても、ずっと私の心を支えてくれる力がありません。聖書のことばが本当に山をも海に移すような、困難に打ち勝ついのちと力として経験できるようになるのは、生けるイエス様の御霊を内に宿した時です。
聖書の探求は機関車に石炭を積むようなものです。その石炭が火の中に投げ込まれる時、機関車はどんな山坂をも乗り越えて行くのです。
みことばと聖霊こそ信仰の奥義です。

(まなべあきら 2006.10.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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