聖書の探求(277) サムエル記第一9章1~16節 最初の王サウルの人となりと容貌、サウルの召命への経緯(1)

フランスの画家 James Tissot (1836-1902)による「Saul Questions the Young Maidens(サウルは若い娘たちに尋ねる)」(ニューヨークのJewish Museum蔵)

(サウルの人となりと容貌)

1、人間的に非常に恵まれた条件を持っていました。

裕福な家系にあったこと(1節)
Ⅰサム9:1 ベニヤミン人で、その名をキシュという人がいた。──キシュはアビエルの子、順次さかのぼって、ツェロルの子、ベコラテの子、アフィアハの子。アフィアハは裕福なベニヤミン人であった──

肉体的にも恵まれていました。
Ⅰサム 9:2 キシュにはひとりの息子がいて、その名をサウルと言った。彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。
イスラエルの中で彼よりも美しい者はなく、民のだれよりも、肩から上だけ高かった。

2、与えられた職務に忠実な人

父の雌ろばを見つかるまで、どこまでも捜しに行ったこと。

その他の例

ヨセフ(創世記37:12~17)

ダビデ(サムエル記第一 17:17~22)

サムエル(サムエル記第一 3:1~18)

テモテ(ピリピ2:22)
「しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。」(ピリピ2:22)

すぐれた指導者になった人はすべて、自分の親や指導者に忠実に従っているのを見ます。

「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(ペテロ第一 5:5,6)

3、分別のある礼儀正しい人(9:7)

Ⅰサム 9:7 サウルは若い者に言った。「もし行くとすると、その人に何を持って行こうか。私たちの袋には、パンもなくなったし、その神の人に持って行く贈り物もない。何かあるか。」

神の人に導きを求めに行くのに何一つ贈り物を持たないで行くのは、失礼に当たるとサウルは判断しています。

4、自分の生い立ちや環境などを誇らない謙遜な人でした。

サウルの父キシュは有力な裕福な人であったにも関わらず、「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか。どうしてあなたはこのようなことを私に言われるのですか。」(9:21)と言っています。

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言18:12)

「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)

5、良き後見人であり、指導者であるサムエルが与えられていました。それ故、サウルには忠実に服従することが求められていたのですが、それが最後まで守られなかったことが、サウルの破滅の原因となったのです。

「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル記第一 15:22)

6、神の霊に満たされる経験をしていました(10:9,10)。

Ⅰサム 10:9 サウルがサムエルをあとにして去って行ったとき、神はサウルの心を変えて新しくされた。こうして、これらすべてのしるしは、その日に起こった。
10:10 彼らがそこ、ギブアに着くと、なんと、預言者の一団が彼に出会い、神の霊が彼の上に激しく下った。それで彼も彼らの間で預言を始めた。

7、人々の前に、良い評価のある人でした(10:24)。

Ⅰサム 10:24 サムエルは民のすべてに言った。「見よ。主がお選びになったこの人を。民のうちだれも、この人に並ぶ者はいない。」民はみな、喜び叫んで、「王さま。ばんざい」と言った。

使徒たちの教会でも、教会で奉仕するために選ばれた七人の執事も、評判の良い人たちでした。

「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。」(使徒6:3)

「評価の良い人」とは、信仰のあかしが明らかな人という意味です。サウルも最初はそのような人でしたが、それを最後まで全うせず、自分の知恵と考えや部下たちの言葉に従って、主のご命令に従うことをしなくなってしまったのです。そうすると、悪魔が彼の心に侵入し、ダビデに対するねたみと嫉妬、怒りと殺意に捕われるようになってしまったのです。

(サウルの召命への経緯)

分解

3~5節、人間の側のきっかけ
.ろばを捜して、忠実に従ったこと。忠実な服従は必ず神に用いられます。
6~16節、神の摂理
. 6~14節、サムエルへの接近
. 15,16節 神の選び
17~27節、サムエルとサウルの会見
. 16節、事前に、神はサムエルに語られていました。神のみことばは確実です。
. 17節、再び、神はサムエルに語られました。神は念入りに語られます。
. 27節、サムエルはサウルに個人的に神の御旨を伝えました。

3~5節、人間の側のきっかけ

3節、父キシュのろばが迷い出て、いなくなったことが、サウルが預言者サムエルを尋ねていくきっかけとなりました。

Ⅰサム 9:3 あるとき、サウルの父キシュの雌ろばがいなくなった。そこでキシュは、息子サウルに言った。「若い者をひとり連れて、雌ろばを捜しに行ってくれ。」

4節、キシュの家はギブア(11:4、サムエル記第二 21:6)にありましたが、サウルと若い者は北のエフライムの山地を巡り、シャリシャとシャアリム(両方の地とも不明で確認されていない地)の地を巡り歩いても、ろばは見つからず、南に回って自分たちの部族ベニヤミンの地に帰って来ていますが、ろばは見つかりませんでした。

Ⅰサム 9:4 そこで、彼らはエフライムの山地を巡り、シャリシャの地を巡り歩いたが、見つからなかった。さらに彼らはシャアリムの地を巡り歩いたが、いなかった。ベニヤミン人の地を巡り歩いたが、見つからなかった。

彼らは雌ろば一頭のために相当広い地域を捜し歩いています。

5節、「ツフの地」はサムエルの家があったラマの近くで、ベニヤミン族の領地の南に隣接している地でした。

Ⅰサム 9:5 彼らがツフの地に来たとき、サウルは連れの若い者に言った。「さあ、もう帰ろう。父が雌ろばのことはさておき、私たちのことを心配するといけないから。」

ろばがいなくなって三日が過ぎていて(9:20)、サウルは父キシュが、ろばよりも自分たちのことを心配していると思って、ろばを捜すのを諦めて、家に帰ることにしています。

6~16節、神の摂理

6節、サウルがろばを捜すのを止めようとした時、若者の使用人は、非常に重要な提案をしています。

Ⅰサム 9:6 すると、彼は言った。「待ってください。この町には神の人がいます。この人は敬われている人です。この人の言うことはみな、必ず実現します。今そこへまいりましょう。たぶん、私たちの行くべき道を教えてくれるでしょう。」

ここには神の指示があったことは記されていませんが、明らかに信仰の目を持って見れば、主の導きが見られます。

彼はサムエルに相談することをサウルに勧めたのです。彼はサムエルを「神の人」「尊敬されている人」「この人の言うことはみな、必ず実現します。」と言っています。ここにはサムエルに対する過剰な評価はありません。サムエルは実に神に仕えている人、神に用いられている人、神の啓示を受けている人です。主はサムエルとともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかったのです(3:19)。

イスラエルの人々はサムエルの祈りと助言と指導によって、敵から守られ、安定を取り戻していたのです。「この人の言うことはみな、必ず実現します。」とは、サムエルが神の預言者であることが、イスラエルのすべての人々に知れわたっていたことを示しています。

しかし、どんなに知れわたっている人であっても、無関心で知らない人がいるものです。サウルはキシュの息子でありながら、若い使用人が知っていたサムエルを知らなかったのです。サウルは自分の家の農場や家畜のことには強い関心を持っていても、信仰や国の状態については全く無関心だったのです。

7節、当時、礼儀として何かを頼む時には、贈り物をもってするようになっていました。

Ⅰサム 9:7 サウルは若い者に言った。「もし行くとすると、その人に何を持って行こうか。私たちの袋には、パンもなくなったし、その神の人に持って行く贈り物もない。何かあるか。」

ところがサウルたちは三日間もろばを捜して歩いていたので、袋の中のパンもなくなってしまって、神の人に持って行く贈り物がなかったので、サウルは消極的な態度になっています。

8節、しかし若い者は積極的です。「私の手に四分の一シェケルの銀があります。」

Ⅰサム 9:8 その若い者はまたサウルに答えて言った。「ご覧ください。私の手に四分の一シェケルの銀があります。私がこれを神の人に差し上げて、私たちの行く道を教えてもらいましょう。」

当時はまだ貨幣制度がありませんでしたから、銀の重さを量って用いていたのです。四分の一シェケルは約三・五グラムですから、そんなに高い価値ではありません。それでも若者は「私がこれを神の人に差し上げて、私たちの行く道を教えてもらいましょう。」と積極的になっています。積極的に神を求める人は、必ず神にお会いするのです。

サウルの若いしもべもすぐれていましたが、ナアマンのしもべもすぐれていました(列王記第二 5:13)。

Ⅱ列王 5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」

信仰的にすぐれた若者や助力者がいてくれることは、主人にとってすばらしい宝なのです。

9節は挿入です。

Ⅰサム 9:9 ──昔イスラエルでは、神のみこころを求めに行く人は、「さあ、予見者のところへ行こう」と言った。今の預言者は、昔は予見者と呼ばれていたからである──

この挿入の記録の内容は、この記録が書かれた時代には預言者と呼ばれていた人物が、それより前の時代には予見者と呼ばれていたと説明されています。この呼び方の変化には神の人の働きが少しずつ変わってきていたことを暗示しています。

「予見者(ヘブル語でロエ)」は、「見る」ことに強調点が置かれており、おもに将来起きる事実の幻を見て、警告したり、宣言したりすることが任務だったのです。これは初期の頃の神の人の一般的な働きだったので、「予見者」という名称で呼ばれていたのです。

「預言者(ヘブル語でナビ)」は、神のみこころとご命令を公に宣言することが主要な任務でした。

旧約聖書の中で、最後に「予見者」という呼び名が使われているのは、BC10世紀の初めのアサ王の時と思われます。

「そのとき、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、」(歴代誌第二 16:7)

10~12節、サウルと若者は神の人がいる町へ向かいました。

Ⅰサム 9:10 するとサウルは若い者に言った。「それはいい。さあ、行こう。」こうして、ふたりは神の人のいる町へ出かけた。9:11 彼らはその町の坂道を上って行った。水を汲みに出て来た娘たちに出会って、「ここに予見者がおられますか」と尋ねた。9:12 すると、娘たちは答えて言った。「ついこの先におられます。今、急いでください。きょう、町に来られました。きょう、あの高き所で民のためにいけにえをささげますから。

「彼らはその町の坂道を上って行った。」この町とはサムエルの家のあったラマだと思われます。そこはツフの地からは上り坂の所にありました。このことを記しているのは、この地で生活して地形をよく知っている者が書いたという証拠です。

サウルたちがやって来たのは、本当に主に導かれていました。

先ず、水を汲みに出て来た娘たちに出会っています。旧約聖書中、水汲みと水運びは若い娘たちの仕事として記されています。

「彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ」(創世記24:11)

「リベカが水がめを肩に載せて出て来た。」(同24:15)

「ミデヤンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちが父の羊の群れに水を飲ませるために来て、水を汲み、水ぶねに満たしていたとき、」(出エジプト記2:16)

若い娘たちも重労働をしていたのです。

更に、この娘たちの話によると、巡回中のサムエルが、「きょう、あの高き所で民のためにいけにえをささげる」ために、この町に帰って来られていたからです。この時を逃していたら、サウルはサムエルに会うことは出来なかったでしょう。信仰の決断と行動には時が非常に大切です。取税人ザアカイも、イエス様が十字架にかかるために最後にエルサレムに上られていた、ただ一回で最後のチャンスで、イエス様に出会い、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。」と呼ばれ、主を自分の家にお迎えしたのです。

12節の「あの高き所」は、神殿がなかった時代に、公にいけにえをささげる場として、また主を礼拝する場所として、高く土を盛った所を聖別して用いていたのです。

「当時はまだ、主の名のための宮が建てられていなかったので、民はただ、高き所でいけにえをささげていた。」(列王記第一 3:2)

しかしソロモンが神殿を建てて以後、この「高い所」にバアルやアシェラの像を立てて、偶像礼拝を行なうようになっていったのです。

「彼らもまた、すべての高い丘の上や青木の下に、高き所や、石の柱や、アシェラ像を立てた。」(列王記第一 14:23)

13節、娘たちはサムエルがこれから行なうことを詳しく教えています。

Ⅰサム 9:13 町にお入りになると、すぐ、あの方にお会いできるでしょう。あの方が食事のために高き所に上られる前に。民は、あの方が来て、いけにえを祝福されるまでは食事をしません。祝福のあとで招かれた者たちが食事をすることになっています。今、上ってください。すぐ、あの方に会えるでしょう。」

サウルが信仰に無関心であったのとは対照的に、この娘たちは深い信仰を持っていたに違いありません。彼女たちは、求道者を主に導く伝道者のように用いられています。日頃から信仰を篤くして生活している人は、必ず主に用いられるのです。

13節では「食事」のことが言われています。

旧約時代には祭司がいけにえをささげる時、祭壇の上ですべて焼き尽くす全焼のいけにえの場合を除いて、他のいけにえの肉は祭司(レビ記6:26、7:15、10:17,18)と礼拝者たち(レビ記19:5~6)が食べるように命じられていました。いけにえの血と肝臓の上の小葉と肝臓だけは主にささげられたのです(出エジプト記29:13、レビ記3:4,10,15)。

娘たちは、「今、急いでください。」(12節)、「町におはいりになると、すぐ、あの方にお会いできるでしょう。…今、上ってください。すぐ、あの方に会えるでしょう。」(13節)と、預言的に確信を持って語っています。このような様子を見ると、この娘たちも、主が用いておられることが感じられます。すべての神の人との出会いは、主によって導かれているのです。

しかし自分に都合のいいことを求めて出会うのは、主の導きではありません。ルツのように、神によってボアズに出会った人もいれば、自分に都合のいいことを言ってくれる教師を捜す人もいます。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(テモテ第二 4:3,4)

14節、娘たちの言った通り、二人がすぐに上って行くと、町の中央で、ちょうど、ばったり、高き所に上ろうとしていたサムエルに出会ったのです。

Ⅰサム 9:14 彼らが町へ上って行って、町にさしかかったとき、ちょうどサムエルは、高き所に上ろうとして彼らに向かって出て来た。

信仰はいつも「今」です。娘たちは「今、上ってください。」と勧めています。今、上って行けば、今、主と出会うことができるのです。

15節、「主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて仰せられた。」

主に従っていて、だれかと会うのなら、少しも恐れる必要はありません。必ず、主が前もって相手の人に働きかけて、備えをして下さっています。主は私たちを導く時、備えをしてくださらないことは、あり得ないからです。

「耳を開いて」は、主がサムエルに啓示されたことを表わしています。主は迫害者サウロの目からうろこのようなものを取り除いて、目を開いてくださる時もあります(使徒9:18)。また神のみことばを聞くために耳を開いてくださいます。

「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」(ヨハネの黙示録2:29)

更に「イエスは、聖書を悟らせるために彼ら(弟子たち)の心を開いて」(ルカ24:45)くださったのです。

私たちはいつも、主イエスを経験するために霊の目が開かれ、御霊の細い御声(列王記第一 19:12)を聞くために信仰の耳が開かれ、聖書の奥義を悟るために心を用いることが求められています。

16節「あすの今ごろ」、時が指定されています。ですから、娘たちは「今、上ってください。」と強調していたのです。

Ⅰサム 9:16 「あすの今ごろ、わたしはひとりの人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたは彼に油をそそいで、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救うであろう。民の叫びがわたしに届いたので、わたしは自分の民を見たからだ。」

「油をそそいで」は、神ご自身による聖別と任命を意味しています。旧約時代に油そそがれて任職しているのは、祭司と王です。預言者には真実に神の御霊の油そそぎが与えられています。ですから、主イエス様がバプテスマを受けられた時、神の御霊が鳩のように下られていますが、この時主イエスは公に、私たち罪人を神に執り成す大祭司となられ、私たちの心をご支配くださる王となられ、また永遠の王となられ、神のみことばとして働かれる預言者としての職分もお取りになられたのです。この三つの職分が完全に備わっておられるのは、イエス様だけです。

「わたしの民イスラエルの君主とせよ。」主は不本意ながらも、イスラエルの民の要求に応えられたのです。「君主」とは、ヘブル語でナギドゥで、「支配する者」という意味です。

この君主となる者が「ペリシテ人の手から救うであろう。」と言われています。ペリシテ人はこの前にサムエルによって打ち負かされていましたが、再びイスラエルを圧迫し、脅威を与える恐れがあったのです。

主は、民に君主を与えた理由として、「民の叫びがわたしに届いたので、わたしは自分の民を見たからだ。」と言っておられます。主はご自分の民の苦しみの叫びと訴えを、見逃したり、見捨てたりされるお方ではありません。主に叫び続け、訴え続けてください。主は必ず、顧みてくださいます。エジプトで奴隷にされて苦しみの叫びを上げていたイスラエルの民を救い出されたのも、同じ理由によるものです。

「主は仰せられた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。』」(出エジプト記3:7)

「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)

「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。」(ルカ18:7,8)

あとがき

旧約聖書の記録は、私たちに歩むべき道を聖徒たちの実例を通して教えてくれます。また歩んではならない道も示してくれます。もし間違った道を歩んでいるなら、勇気をもって神の道に立ち帰ることも教えています。自分の考えに頼り、自分が正しいと思う道、自分に好ましく思う道を選ぶことがいかに危険かも教えています。
「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(士師記21:25)
「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)
聖書を学ぶだけでなく、「わが歩む道の光」(詩篇119:105)としましょう。

(まなべあきら 2007.4.1)

(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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