聖書の探求(276) サムエル記第一 9章,10章の序、サムエルの奉仕の要点

フランスの画家 François-Léon Benouville (1821–1859)による「The Anointing of David by Samuel(サムエルによるダビデの油注ぎ)」(アメリカのColumbus Museum of Art蔵、Wikimedia Commonsより)

9,10章の序

9,10章は、イスラエルで最初の王となるベニヤミン人キシュの子サウルの選びと油注ぎが記されています。イスラエルの最初の王が、最大部族のエフライム族の中からではなく、最小部族のベニヤミン族から選ばれていることは、主のみこころをよく表わしています。

「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」(コリント第一 1:26~29)

主はご自身で、サムエルに先立って、王として選ばれる男をサムエルの所に連れて来られました。それも、父キシュの雌ろばを捜すという方法によって、サウル自身には知らせずに連れて来ておられます(9:1~14)。

サムエルは、サウルに神のご目的を示し、彼に油を注ぎ、神がサウルを王に選ばれたことの三つのしるし(一つは、ラケルの墓のそばで、ふたりの人に会い、捜していた雌ろばが見つかったことが知らされること[10:2]、二つ目はタボルの樫の木のところで、ベテルの神のもとに上って行く三人の人に会い、パンを二つくれること[10:3,4]、三つ目はギブアの町にはいるとき、楽器を鳴らしながら預言(賛美)している預言者の一団に出会うこと、その時、サウル自身に主の御霊が激しく下り、サウルも新しい人に変えられて、彼らと一緒に預言するようになること[10:5,6])が与えられます。これによって、神がサウルを王に選ばれたことが明らかにされます。サムエルはこれらのことをサウルに語って、去らせています。

Ⅰサム 10:2 あなたが、きょう、私のもとを離れて行くとき、ベニヤミンの領内のツェルツァフにあるラケルの墓のそばで、ふたりの人に会いましょう。そのふたりはあなたに、『あなたが捜して歩いておられるあの雌ろばは見つかりました。ところで、あなたの父上は、雌ろばのことなどあきらめて、息子のために、どうしたらよかろうと言って、あなたがたのことを心配しておられます』と言うでしょう。10:3 あなたがそこからなお進んで、タボルの樫の木のところまで来ると、そこでベテルの神のもとに上って行く三人の人に会います。ひとりは子やぎ三頭を持ち、ひとりは丸型のパン三つを持ち、ひとりはぶどう酒の皮袋一つを持っています。10:4 彼らはあなたに安否を尋ね、あなたにパンを二つくれます。あなたは彼らの手から受け取りなさい。
10:5 その後、ペリシテ人の守備隊のいる神のギブアに着きます。あなたがその町に入るとき、琴、タンバリン、笛、立琴を鳴らす者を先頭に、高き所から降りて来る預言者の一団に出会います。彼らは預言をしていますが、10:6 主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。

ここで強調されていることは、サウルの選びが神によったことであって、サウル自身が自分の意志で王になることを選んだのでもなく、サムエルの考えによってサウルを王に選んだのでもないことです。ダビデもこのことを十分弁(わきま)えていたので、サウル王から命を狙われて追跡されても、決してサウルに刃を向けることをしなかったのです。サウルを殺す機会は何度もありましたが、決して自分の手で敵対することをしなかったのです。ここにダビデの敬虔さがあるのです。

「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」(サムエル記第一 24:6)

「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。」(サムエル記第一 26:9)

「私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。」(サムエル記第一 26:11)

「おまえのやったことは良くない。主に誓って言うが、おまえたちは死に値する。おまえたちの主君、主に油そそがれた方を見張っていなかったからだ。」(サムエル記第一 26:16)

「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」(詩篇105:15)

「主に油そそがれた方に、手を下して殺すのを恐れなかったとは、どうしたことか。」(サムエル記第二 1:14)

今日、神の召命を全うしないで、それて行く人も多いけれど、神の召命を受けて奉仕している者を批判、攻撃する人もいます。そのような人は、自分が何をしているか悟っていないのです。ダビデは自分の命を狙っていたサウルに対して、サウルが主から選ばれた人であることの故に、サウルに敵対せず、さばきを主の御手に任せたのです。その結果、ダビデは主によって守られ、豊かな恵みを受け、イスラエルのすぐれた王となったのです。指導者に対する批判と攻撃は、主に対する敵対であることを知らなければなりません。

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19~21)

サムエルは密かにサウルに油を注いだ後、民をミツパに集め、イスラエルの全部族がくじで選ぶように教えています。民はまず、ベニヤミンの部族を選び、ベニヤミンの中からマテリの氏族が取り分けられ、そしてキシュの子サウルが選ばれたのです。すでに神による任命は決まっていたのですが、民に神による任命が理解できるように、くじという方法を採用したのです。こうして主がサウルを王に選ばれたことが民に確認されたのです。

(サムエルの奉仕の要点)

ここで、サムエルの奉仕の要点を挙げておきましょう。

1、時代が士師の時代から預言者の時代に移る流動的で困難な状況の中で、周囲のアマレクやペリシテなど強敵の国々からの圧制と侵略を受け、イスラエル人の心が動揺しており、異教の国々のような王を立てて、国を再興しようと、間違った動機で王を要求した、そういう時代に奉仕をしました。
2、巡回して神のメッセージを伝え、民の生活上の問題をも裁いて、指導しています(7:15)。

Ⅰサム 7:15 サムエルは、一生の間、イスラエルをさばいた。

3、不断の信仰と祈りによる働きの結果

7章では、イスラエルの人々が祈りの大切さを認め、サムエルに祈ることを止めないように求めています(7:8)。

Ⅰサム 7:8 そこでイスラエル人はサムエルに言った。「私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。私たちをペリシテ人の手から救ってくださるように。」

12章では、サムエル自身が執り成しの祈りの必要性を強く覚えています。

「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。」(12:23)

4、政治的指導者としての王を選ぶ油注ぎ、

サウルに対して(10:1)

Ⅰサム 10:1 サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。

ダビデに対して(16:12,13)

Ⅰサム 16:12 エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」 16:13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。

5、預言者の養成

サムエルは預言者の訓練学校を開設し、その監督をしていました。

「彼らは、預言者の一団が預言しており、サムエルがその監督をする者として立っているのを見た。」(19:20中半)

後に、この預言者学校は、ベテルにも(列王記第二 2:3)、エリコにも(列王記第二 2:5)出来ていました。

Ⅱ列王 2:3 すると、ベテルの預言者のともがらがエリシャのところに出て来て、彼に言った。「きょう、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っているが、黙っていてください」と答えた。

Ⅱ列王 2:5 エリコの預言者のともがらがエリシャに近づいて来て、彼に言った。「きょう、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っているが、黙っていてください」と答えた。

あとがき

今年の冬は異常に暖かで、二月だというのにもう菜の花が満開で、桜が咲き、ラベンダ―が咲きそうだと言われています。私も一月に植えていたイチゴの苗に花が咲き、一粒の果実が大きく赤くなり、食べるととても甘かったのです。これから一雨ごとに暖かくなると草木の芽がどっと出て、花を咲かせ、私たちは自然界にリバイバルの原理を見るのです。
すべての種は適度の水分と日光の暖かさによって発芽します。人の心もイエス様の愛と恵みに包まれていることによって発芽します。批判や冷淡さや正義感や心の頑なさや熱心さでは発芽しません。
イエス様から光と愛とあわれみを受けて、赦し合うこと、相手を受け入れること、へりくだる心で包むなら、あなたの夫も子どもも妻も救いに導かれます。

(まなべあきら 2007.3.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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