聖書の探求(278) サムエル記第一9章 17~27節 サウルの召命への経緯(2)、サムエルとサウルの会見
フランスの画家 James Tissot (1836-1902)による「Saul meeteth with Samuel(サウルはサムエルに会う)」(Wikimedia Commonsより)
17~27節、サムエルとサウルの会見
17節、「サムエルがサウルを見たとき」
Ⅰサム 9:17 サムエルがサウルを見たとき、主は彼に告げられた。「ここに、わたしがあなたに話した者がいる。この者がわたしの民を支配するのだ。」
主はサムエルに直接、啓示を与えておられます。
サムエル記第一 16章6節でサムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ。」と思っています。しかし、これは主からの啓示ではなく、サムエル自身の自分の知恵による判断だったのです。主はサムエルに自分の見識による判断を叱っておられます。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」このみことばには、人の知恵による判断が陥りやすい原因を明らかにしています。それは「うわべを見て」判断するからです。ここでは容貌や背の高さのことが言われていますが、おとなしそうとか、真面目そうとか、熱心そうとか、純粋そうとか、敬虔らしさや、信仰深そうに見えるところ、人の性格などを見て判断してしまうので、判断を誤るのです。それらは故意に本人が偽っていなくても、神から出たものではありませんから、神のご用にかなうことができません。これらは人の知恵による判断では識別ができませんから、主の指示を受けなければなりません。
「支配する」は16節の「君主(ナギドゥ)」と同じ語原です。
18節、「門の中で」は、ラマが門のある町だったことを示しています。
Ⅰサム 9:18 サウルは、門の中でサムエルに近づいたとき、言った。「予見者の家はどこですか。教えてください。」
門は外敵の突然の襲撃を避けるために作られていました。サウルは門を入ったすぐの所でサムエルに会ったと思われます。サウルはサムエルに向かって、「予見者の家はどこですか。教えてください。」と尋ねていますから、これまでサムエルとは一面識もなかったのです。また服装では、予見者だと分からなかったのです。サムエルが特別な予見者とすぐ分かる服装をしていなかったからです。
19節、サムエルは「私がその予見者です。」と名乗っています。そしていけにえをささげ、その後、食事をすることになっている「あの高き所に上りなさい。」と指示しています。
Ⅰサム 9:19 サムエルはサウルに答えて言った。「私がその予見者です。この先のあの高き所に上りなさい。きょう、あなたがたは私といっしょに食事をすることになっています。あしたの朝、私があなたをお送りしましょう。あなたの心にあることを全部、明かしましょう。
「きょう、あなたがたは私といっしょに食事をすることになっています。」これと同じようなことを主はザアカイに語られています。
「きょう、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(ルカ19:5)
サウルは今、初めてサムエルに出会ったのに、サムエルのほうではすでにサウルが来ることを知っていて、一緒に食事をする計画も立てられていたのです。私たちは主が、私たちの知らない所で、前もって備えをしていて下さる神様であることを信じなければなりません。この信仰を持つと、私たちは将来のことに全く不安や心配を持たなくなります。
「あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(ペテロ第一 5:7)
「そしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエ(「主が備えてくださる。」という意味)と名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。」(創世記22:14)
主に真実に、忠実に従って下さい。そうすれば、あなたが行く所どこにおいても、主がすべての必要な人や必要なものを備えていてくださることを経験します。
「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。」(詩篇138:8)
私たちが自分の考えで歩み始める時、この主の備えはなくなってしまうのです。サウルも主のご命令に従わず、自分の考えで行動した時、祈っても主は答えてくださらなくなり、主に捨てられ、自ら滅びていく道をたどってしまったのです。サウルはすべてを備えてくださる主を拒んでしまったのです。
「あしたの朝、私があなたをお送りしましょう。」直接的にはサウルたちが父キシュのもとに帰ることですが、もっと重要な意味では、サウルは明朝からは、神の使命を帯びた新しい旅立ちを始めることになるのです。それをサムエルが送り出してくれると言ったのです。
「あなたの心にあることを全部、明かしましょう。」一つは、捜していたろばのことです。もう一つはペリシテ人の圧迫に対する心配です。主は、ろばを見つけるという小さなことにおいても、イスラエルを敵の圧迫から守るという大きなことに関しても、常に充分に対処してくださる神なのです。これらを明かすことによって、サムエルは自分が神の預言者であり、神のみことばが必ず実現することをサウルに信じさせたのです。
20節、
Ⅰサム 9:20 三日前にいなくなったあなたの雌ろばについては、もう気にかけないように。あれは見つかっています。イスラエルのすべてが望んでいるものは、だれのものでしょう。それはあなたのもの、あなたの父の全家のものではありませんか。」
「イスラエルのすべてが望んでいるもの」は「イスラエルの望ましいものすべて」と記すほうがより良い訳です。前者の訳だと、「イスラエルのすべての人が望んでいるもの」という意味になりますが、後者の訳は、「イスラエルの国民にとって、本当に望ましいもの」という意味になります。
「それはあなたのもの、あなたの父の全家のものではありませんか。」これはサウルの支配下に全イスラエルが置かれ、サウルの指揮と指導のもとにイスラエルは望ましい状態に回復していくべきことを示唆したのです。主はサウルに、それを成し遂げるために必要な恵みと力の権威をお授けになられたのです。
21節、サウルはサムエルの語った言葉の重大さを幾分か悟ったようです。
Ⅰサム 9:21 サウルは答えて言った。「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか。どうしてあなたはこのようなことを私に言われるのですか。」
彼はろばを捜しに来ていたのですが、王国を受け、国民を指導していく重大な任務を受けることになってしまったのです。地位、名誉、富と権力を求めている高慢な人なら、飛び上がって喜ぶでしょうが、サウルは、「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか。どうしてあなたはこのようなことを私に言われるのですか。」と言いました。確かにベニヤミン族は、士師記19~21章のギブアで、他のイスラエルの部族からの攻撃を受けて、最も弱小の部族になってしまっていました。このサウルの返事には、彼の謙遜な態度も表わされていますが、実際はそれだけではなく、サウル自身には明らかにイスラエル全体を率いていく力も自信もなかったし、周囲の敵国の脅威を考えるととても喜んで受ける状態にはなかったのです。
22節、サムエルはサウルと若い者を広間に連れて入りました。
Ⅰサム 9:22 しかし、サムエルはサウルとその若い者を広間に連れて入り、三十人ほどの招かれた者の上座に彼らを着かせた。
広間は食堂になっているホールのことです。そこはすでに三十人の招待客が座っていました。これはすでにサムエルによって用意されていたものです。そしてサウルを三十人の招待客の上座に着かせています。こうしてサウルはますますイスラエルの王となるべく認識を深めていったのです。上座は権力のある者の着く座ですが、そこは責任も重大になる場所であり、高慢になる危険もある場所です。
主は、「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。」(マタイ22:2)と言っておられます。主はいつも私たちに祝宴を備えていてくださるのです。
23,24節、サムエルは料理人にサウルのために特別に取っておいた「ももとその上の部分」をサウルの前に置くように言っています。
これは主の祭壇でささげられた肉で、祭司たちのために取っておかれたもも肉のことです。これは最高に高い名誉のしるしとしてサウルの前に置かれたのです。
Ⅰサム 9:23 サムエルが料理人に、「取っておくようにと言って渡しておいた分を下さい」と言うと、9:24 料理人は、ももとその上の部分とを取り出し、それをサウルの前に置いた。そこでサムエルは言った。「あなたの前に置かれたのは取っておいたものです。お食べなさい。私が客を招いたからと民に言って、この時のため、あなたに取っておいたのです。」その日、サウルはサムエルといっしょに食事をした。
24節の「取り出し」は、文字通りの訳は「持ち上げた」となります。これは揺祭の儀式をしたのです。
「あなたがアロンとその子らの任職用の雄羊の、奉献物として揺り動かされた胸と、奉納物として、ささげられたももを聖別するなら、」(出エジプト記29:27)
おそらくサムエルはサウルの王としての任職のために、この揺祭を行なったのだと思われます。
25節、食事が終わると、サムエルはサウルを連れてラマの町に下って、自分の家の屋上で話をしています。
Ⅰサム 9:25 それから彼らは高き所から町に下って来た。サムエルはサウルと屋上で話をした。
この部分について七十人訳聖書では、「人々はサウルのために屋上に寝床を用意しており、サウルは寝た。」となっています。サムエルは、サウルが王となることをまだ秘密にしておく必要があったのです。もしこのことがペリシテなど敵国に知られたなら、即刻、攻め上って来ることになるからです。そこで、だれもいない屋上で、国家や政治、宗教など、重要な問題を話したのです。イスラエルの家の屋上は平らになっており、しばしば屋上で寝ることがあったので、彼らにとっては別段、珍しいことではありませんでした。
26節、「朝早く、夜が明けかかると」、すなわち、まだ人目につかないうちにサウルを帰らせたのです。
Ⅰサム 9:26 朝早く、夜が明けかかると、サムエルは屋上のサウルを呼んで言った。「起きてください。お送りしましょう。」サウルは起きて、サムエルとふたりで外に出た。
ここにもサムエルの慎重な姿勢が見られます。充分に準備が整うまでは、サウルが王に選ばれたことは秘密にしておかなければならなかったのです。
27節、サムエルはサウルに「この若い者に、私たちより先に行くように言ってください。」と言うように頼んでいます。
Ⅰサム 9:27 彼らは、町はずれに下って来ていた。サムエルはサウルに言った。「この若い者に、私たちより先に行くように言ってください。若い者が先に行ったら、あなたは、ここにしばらくとどまってください。神のことばをお聞かせしますから。」
サムエルは更に慎重になっています。秘密は人の口からもれるからです。どんなに「だれにも言ってはいけない。」と口止めしておいても、人の口は黙っていられないのです。また今、味方であり、仲間である人でも、明日、敵対者に変わることがしばしば起きるのです。そうなると、悪意をもって尾ひれをつけて、誇張して、「あなたがこう言った、ああ言った。」と言うのです。ですから敵に対してだけでなく、仲間の人に対しても、不必要なことは語らず、慎重にならざるを得ないのです。サムエルのこの慎重さは、無事にサウルの王就任に必要だったのです。
サムエルは、「若い者が先に行ったら、あなたは、ここにしばらくとどまってください。神のことばをお聞かせしますから。」と言っています。主は興味本位で聞く人がそばにいる時には、真理のみことばを語られません。
主イエス様は、裏切り者のイスカリオテのユダが外に出て行った後に、ヨハネの福音書14~17章でイエス様の奥義を弟子たちに語られたのです。主は真剣に最後まで忠実に従って来る者に真理の奥義を語ってくださるのです。この点でサウルは途中から、神の道をはずれて行ってしまい、実に残念です。
あなたが神のみことばを聞きたいなら、主にのみ真直ぐに心を向けて、生きている限り、主に忠実に従ってください。主は必ず、語りかけてくださいます。それは明らかに人のことばとは異なるものなのです。
あとがき
聖書を読むことが大切なのは、読んだ回数を増やすためではなく、一日の宗教的義務を果たしたという自己満足をするためでもありません。聖書を読むのは、聖書全巻を通して貫かれている主のみこころを知るためです。
信仰の実を結ぶためには、感動する聖書のことばばかりを追いかけていてはいけません。聖書全体の健全な理解から真理を悟るように心がける必要があります。人は間食だけを食べていれば不健全になります。一日三度の主食を食べることが大事なのと同じです。聖書全体を一貫して流れているイエス様の全き救いの恵みに根を下していけば、必ず豊かな実を結びます。大地に根をしっかり張らない木から豊かな収穫を期待することはできません。あせらず、あわてず、あきらめずに聖言を。
(まなべあきら 2007.5.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)