聖書の探求(279) サムエル記第一 10章1~16節 サウル、油そそぎを受ける、王としての召命の三つのしるし
アメリカのCharles Fosterにより1873年に出版された「The story of the Bible from Genesis to Revelation」の挿絵「Saul anointed by Samuel(サムエルに油そそぎを受けるサウル)」(Wikimedia Commonsより)
いよいよサウルが王となるための油そそぎの時が来ました。
サウルを王とするために、二段階の方法が取られています。
第一段階は、サムエルとサウルの二人だけで、密かに非公式に油をそそいでいます。
第二段階は、民の前で公式にサムエルがくじで、サウルが王に選ばれたことを宣言したことです。(10:17~25)
10章の分解
1節、サウル、油そそぎを受ける
2~7節、王としての召命の三つのしるし
8節、サムエルの到着まで七日待つべきこと
9~16節、サムエルの言葉の成就
17~27節、サウル、人々の前で正式に王として選ばれる
1節、サウル、油そそぎを受ける
Ⅰサム10:1 サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、彼に口づけして言った。「【主】が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。
油そそぎの儀式には、オリーブ油が用いられました。油のつぼは首が細くなっており、その細い口から油をふり注ぐか、塗ったのです。この油そそぎは、祭司に(出エジプト記28:41、詩篇133:2、等)、預言者エリシャに、イスラエルの王エフーに(列王記第一 19:16)行なわれている記録があります。この油そそぎは神の主権による任職であることを示しています。
「油そそがれた者」をヘブル語で「マシアク」と言います。これを英語に訳したのが「メシヤ」です。
それはやがて来るべき真の永遠の王に適用されるようになりました。それがギリシャ語の「クリストス」で、ナザレのイエスの称号となったのです。
「口づけして」とは、通常、イスラエルにおいて上位の権威のある者に対する服従と従属することを表わす典型的なしるしでした。
「主が、……あなたに油をそそがれたではありませんか。」直接、油そそいだのはサムエルでしたが、サムエルはこの油そそぎは主のご指示によるものであって、主の預言者を通して行なわれたのですから、主の主権によるものであることをサウルに認識させたのです。サウルがこの認識を軽視した時、彼は主に忠実ではなくなり、主に捨てられ、滅びるに至ったのです。
主は神の人を通してみことばを語られ、人を用いて任命されたりするので、これを軽んじて、主の権威を犯すようなことをしたり、また、人が主の権威を奪うという主を冒瀆することを犯してしまうことがあります。このどちらも、わざわいを招きます。
「ご自身のものである民」イスラエルは二つの意味で、主ご自身の民であるということができます。
第一は、イスラエルの国民が主ご自身の御腕によってエジプトの奴隷の縄目から解放されたことです。
第二は、イスラエルが全世界に向かって神の器として、神の愛と贖いの福音に至るまでの道を示すために選ばれたことです。
サウルはこの二つの重要な使命を持つ神の民を指導する君主として、主の権威をゆだねられたのです。彼はこのことを十分に自覚しなければならなかったのです。
2~7節、王としての召命の三つのしるし
サムエルはサウルに、サムエルが語った言葉が真実であること、サウルが君主として主から任命されたことが確かであることの証拠として、三つのしるしが与えられることを告げました。
1、ラケルの墓のそばで二人の人に出会い、捜していたろばが見つかったことと、サウルの父がサウルたちを心配しているという父の消息を聞くこと。
Ⅰサム 10:2 あなたが、きょう、私のもとを離れて行くとき、ベニヤミンの領内のツェルツァフにあるラケルの墓のそばで、ふたりの人に会いましょう。そのふたりはあなたに、『あなたが捜して歩いておられるあの雌ろばは見つかりました。ところで、あなたの父上は、雌ろばのことなどあきらめて、息子のために、どうしたらよかろうと言って、あなたがたのことを心配しておられます』と言うでしょう。
2、そこから更に進んで、タボルの樫の木のところで、三人の人に出会います。三人の持ち物も具体的に記しています。ひとりは子やぎ三頭、ひとりは丸型のパン三つ、ひとりはぶどう酒の皮袋一つを持っています。彼らはサウルに安否を尋ねた後に、パンを二つくれます。
Ⅰサム 10:3 あなたがそこからなお進んで、タボルの樫の木のところまで来ると、そこでベテルの神のもとに上って行く三人の人に会います。ひとりは子やぎ三頭を持ち、ひとりは丸型のパン三つを持ち、ひとりはぶどう酒の皮袋一つを持っています。10:4 彼らはあなたに安否を尋ね、あなたにパンを二つくれます。あなたは彼らの手から受け取りなさい。
この三人の人々は「ベテルの神のもとに上って行く人」だったと記されていますから、主を礼拝するためにささげ物をたずさえていたのです。その、主にささげる物のうちから二つのパンをサウルに与えてくれたことには重要な意味が含まれています。
3、タボルの樫の木の位置は不明ですが、サウルはそこからペリシテ人の守備隊のいる神のギブアに着きます。彼は臨戦地帯に踏み入ったのです。
Ⅰサム 10:5 その後、ペリシテ人の守備隊のいる神のギブアに着きます。あなたがその町に入るとき、琴、タンバリン、笛、立琴を鳴らす者を先頭に、高き所から降りて来る預言者の一団に出会います。彼らは預言をしていますが、
「ギブア」とはヘブル語で「丘」を意味します。それ故、「ギブア・エロヒム」は「神の丘」という意味です。多分、そこは高地になっており、その地は人々によく知られていたと思われます。そこで預言者の一団に出会います。
彼らは琴、タンバリン、笛、立琴を鳴らす者を先頭に高き所から降りて来ていました。彼らは「預言をしています」と記されていますが、これは主を賛美していたことを表わしています。この時代は、賛美することも、「預言する」と言っていたのです。
ここに記されている楽器は、実際にはどのようなものであったかはわかりません。しかしミリアムの時代(出エジプト記15:20)から、音楽と楽器を用いて主を礼拝していました。(詩篇150)これを公式の礼拝に採り入れたのはダビデです。それ以後、今日に至るまで、クリスチャンは楽器と賛美をもって主を礼拝しているのです。
6節、これらの三つのしるしが実現した時、サウル自身のうちに霊的変化が起きたのです。
Ⅰサム 10:6 主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。
「あなたも彼らといっしょに預言して」は、サウルも彼らと一緒に賛美したことを言っているようです。霊的な信仰について全く無関心であったサウルですら、「主の霊」が下ることによって、「新しい人に変えられ」たのです。主の御霊によらなければ、人は新たに生まれ変わることができませんが、主の御霊を受けるなら、だれでも新しい人に変えられるのです。
「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:23,24)
「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3:9,10)
サウルは主の御霊によって、感情的な面や、多少、信仰に関心を持つようになり、神と神の国のことが分かりかけてきたのですが、新約のクリスチャンに約束されているほどの新しい人となっていなかったので、信仰の奥義にまで到達することができず、再び、自分の考えと力に頼るようになってしまったのです。
新約のクリスチャンでも、感情的な面や、いくらか聖書や信仰の知識を持ったり、賛美や祈りや教会の奉仕をすることで満足していて、信仰の深みにまで到達していない人がいます。このような人は、信仰的言葉を使いながらも、信仰そのものを体験することをせず、自分の考えと力に頼っているのです。
7節、「このしるしがあなたに起こったら、」
Ⅰサム 10:7 このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。
主の任命が明確になったら、という意味です。それは「神があなたとともにおられる」のですから、「手当たりしだいに何でもしなさい。」これは自分の好き勝手なことをしなさいと言っているのではありません。主があなたの心に与えてくださるみこころと志を躊躇することなく行ないなさいということです。
それをも自分の知恵と考えで、細かく「していいのか、してはいけないのか」注意して迷うことはないのです。ここには私たちがしてもいい時はどういう時かを、明確に記しています。それは主があなたとともにおられることが明確になっている時です。その時は、何も躊躇する必要はありません。大胆に勇気をもって実行してください。
8節、サムエルの到着まで七日待つべきこと
Ⅰサム 10:8 あなたは私より先にギルガルに下りなさい。私も全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげるために、あなたのところへ下って行きます。あなたは私が着くまで七日間、そこで待たなければなりません。私がなすべきことを教えます。」
サウルはサムエルより先にギルガルに下って、サムエルが到着するまで七日間、待つように命じられています。サムエルも全焼のいけにえと和解のいけにえをささげるために必ずギルガルのサウルの所に来るのです。主にいけにえをささげることは王のサウルがすることではなく、祭司であるサムエルがすることだったからです。
ここでサウルは「待つ」ことを訓練させられたのです。人にとって、自分の好むこと、興味あることを忙しく行なうことのほうが、じっと待つことよりも、ずっと容易なのです。待てない人は、自分の分を越えてやってしまうので、神に用いられなくなってしまうのです。じっと、あわてず、あせらず待つことができる人は、次になすべきことが教えられるのです。
主の弟子たちも福音宣教に出て行く前に「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(使徒1:4)と主から命じられて、十日間、祈り待ち望んだ後に五旬節(ペンテコステ)の日に聖霊の満たしを受けて、新約の世界宣教が始まったのです。じっと待つことができないで、いつもからだを動かしていることを好む人は、浅薄なことをしがちです。また、待ってばかりいて、行動を起こさない人は、怠惰になってしまいます。パウロは主の御霊に禁じられると止まり、主が新しい幻と使命を与えられると、直ちに行動したのです(使徒16:6~10)。
サウルは、この待つことにおいて失敗してしまったのです(サムエル記第一 13:8~14)。
サウルはほとんど七日間待ったのです。しかし七日目が終わるまで待たなかったのです。イスラエルの民がペリシテ人を恐れて、サウルから離れて散って行こうとしていることに非常な不安を覚え、サムエルとの約束と命令を信じ切らず、従い切れなかったのです。サウルは自分のなすべきでない全焼のいけにえと和解のいけにえをささげてしまったのです。サウルがいけにえをささげ終わったちょうどその時、サムエルが到着したのです。サムエルは約束通り七日間が終わる前に到着したのです。
サウルは信仰と忍耐が試されたのです。彼は九十九パーセント待ったのです。しかし百パーセントではありませんでした。あと一パーセント待てなかったのです。主を九十九パーセント信じる人、主に九十九パーセント従う人はいます。しかし最後の一パーセントを信じないことによって、従わないことによって、主に不信仰、不服従なってしまっている人がいるのです。このような人は主から恵みを受けることができません。
「あなた方が神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。』」(ヘブル10:36,37)
9~16節、サムエルの言葉の成就
サウルがサムエルをあとにして去って行った時、サムエルが告げた三つのしるしはすべて、その日のうちに実現しました。これによってサウルは主の語られたことは必ず実現することを知ったはずです。
「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」(申命記18:22)
預言者とは神のみこころを神に代わって伝え、教え、命じ、導く者です。神のみことばを語る預言者の職務が確立したのは、このサムエルの時です(3:20、9:9)。
「すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。しかし、それを重ねることはなかった。」(民数記11:25)
モーセの時代の長老たちは一時的に預言をしていますが、サムエルの時、特定の人物が預言者として任命されるようになったのです。
(王国時代の預言者)
統一王朝時代
サウル王―預言者サムエル
ダビデ王―預言者ナタン
分裂王朝時代
北王国・イスラエルーエリヤ、エリシャ、ホセア、オバデヤ、ヨナ、アモス
南王国・ユダーシェマヤ(列王記第一 12:22)、ミカ、イザヤ
捕囚時代
エレミヤ、ゼパニヤ、エゼキエル、ダニエル
回復時代
ゼカリヤ、マラキ、エズラ
この預言者の職分が完全に成就したのは、ペンテコステの聖霊降臨の時です。すべての信者が聖霊に満たされると、預言者としての働きをするようになったからです。
「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」(使徒2:17~18)
この預言者の働きはサムエルから始まり、サムエルによって預言者学校が設置され、預言者の養成と訓練が始まっています。預言者学校は神のギブアでも(サムエル記第一 10:5)、ベテルでも(列王記第二 2:3)、エリコでも(同2:5)行なわれていました。
そして当時、「サウルもまた、預言者のひとりなのか。」(サムエル記第一 10:12)ということが、ことわざとして語られたほどに、預言者が脚光を浴び、よく知れわたっていたのです。
9節、「神はサウルの心を変えて、新しくされた。」
Ⅰサム 10:9 サウルがサムエルをあとにして去って行ったとき、神はサウルの心を変えて新しくされた。こうして、これらすべてのしるしは、その日に起こった。
人はだれも、自分で自分の心を変えることができません。「自分の消極的な性格は嫌だ」とか、「暗い性格が嫌だ」という話はよく聞きますが、ほとんどの人が自分の性格を自分の努力で変えた人はいません。神だけが人の心を変えて新しくすることができるのです。
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。……人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」(ヨハネ3:3,5)
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)
「心の一新によって自分を変えなさい。」とは、自分で心がけて努力して、自分を変えなさいというのではなく、自分の決心や努力で自分を変えようとしていたことを止めて、イエス様を信じて、自分の内にイエス様を受け入れることによって、自分を変えなさいという意味です。これが「心の一新」です。人の心は、イエス様に入っていただくまでは、何度、心を入れ換えたつもりになっても、自分中心の性質は変わっていませんから、自分を新しい人に変えることはできないのです。
新約的言い方をするなら、サウルは、
1、「神はサウルの心を変えて新しくされた。」(9節)(贖罪による新生経験)
2、「神の霊が彼の上に激しく下った。」(10節)(恵みの更新)
Ⅰサム 10:10 彼らがそこ、ギブアに着くと、なんと、預言者の一団が彼に出会い、神の霊が彼の上に激しく下った。それで彼も彼らの間で預言を始めた。
3、「民は互いに言った。『キシュの息子は、いったいどうしたことか。サウルもまた、預言者のひとりなのか。』」(11節)
Ⅰサム 10:11 以前からサウルを知っている者みなが、彼が預言者たちといっしょに預言しているのを見た。民は互いに言った。「キシュの息子は、いったいどうしたことか。サウルもまた、預言者のひとりなのか。」
(民が認めたこと)サウルが賛美している預言者の集団の中にいることを見て、民はサウルが新しい人になったことを認めざるを得なかったのです。
12節の、「彼らの父はだれだろう。」という驚きを含んだ質問の意味は不明です。
Ⅰサム 10:12 そこにいたひとりも、これに応じて、「彼らの父はだれだろう」と言った。こういうわけで、「サウルもまた、預言者のひとりなのか」ということが、ことわざになった。
しかし推測してみれば、二つのことが考えられます。
一つは、サウルの父キシュの家系には、預言者に関係する者が見られなかったのに、突然サウルが預言する者たちの中にいて預言していたからかもしれません。
二つ目は、預言者の集団の人々は家柄の低い人々であったのに対して、サウルは相当裕福な家系のキシュのむすこであったのに、サウルが家柄の低い集団の中にいたことへの驚きなのかもしれません。
「兄弟たち。あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」(コリント第一 1:26~29)
13節、サウルは預言することを終えて、高き所に行っています。
Ⅰサム 10:13 サウルは預言することを終えて、高き所に行った。
これは、主を礼拝するために行ったものと思われます。
その後、14~16節で、サウルのおじとの会話が記されています。
Ⅰサム 10:14 サウルのおじは、彼とその若い者に言った。「どこへ行っていたのか。」するとサウルは答えた。「雌ろばを捜しにです。見つからないのでサムエルのところに行って来ました。」
10:15 サウルのおじは言った。「サムエルはあなたがたに何と言ったか、私に話してくれ。」
10:16 サウルはおじに言った。「雌ろばは見つかっていると、はっきり私たちに知らせてくれました。」サウルは、サムエルが語った王位のことについては、おじに話さなかった。
サウルのおじはサウルを捜していたのでしょう。サウルがサムエルの所に行ったことを告げると、おじは預言者サムエルが何を言ったのかを聞き出そうとしましたが、サウルは「雌ろばは見つかっている」ことをはっきり知らせてくれたことだけを話して、「サムエルが語った王位のことについては、おじには話さなかった」のです。彼は身内の者だからと安心せず、慎重さを守ったのです。
あとがき
先日、近所のアパートに住んでおられた母子がご両親のもとに引越して帰って行かれました。そしてお手紙が届いたのです。その中に「二人での生活でしたので、みなさまがいてくれて、とても心強かったです。」と書いてくださいました。この方は集会に来られませんでしたが、会うと挨拶したり、ちょっとした物を差し上げたりしただけでしたのに、そんなふうに心の支えにしてくださっていたのかと、主に感謝しました。
心細く思っておられる方には、自分のことを心に留めていてくれる人が近くにいてくれるだけで、心強くなり、安心して生活できるのです。私たちのまわりには孤独な人、心寂しくしている人がいるはずです。それらの人に心を留めるだけで、主のあかしをすることができます。
(まなべあきら 2007.6.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)