第一コリント13章「愛の章」第4回 「愛の特性(2) 自慢せず、礼儀、自分の利益を求めず」
イスラエルのネゲブ砂漠に咲くチューリップの原種、開花時期は2月後半~3月前半
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コリント人への第一の手紙13章4,5節
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず」
<お祈り>
「愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず」
恵みの深い天の父なる神様、もし私たちが聖書から歩むべき道を教えられなかったら、
本当に恐ろしい道を歩んでしまうことであります。
しかし幸いにして、こうしてイエス様の恵みのゆえに十字架の道に入れられ、みことばから魂の糧、真理の道を示してくださり、光に歩むことを許していただき、知らないながらも悟りを与えられて、信仰の生涯へと進んで行けることを感謝いたします。
今日もあなたのみことばに仕えようとしています。
イエス様、あなたの光がなかったら、私たちはすぐに彷徨(さまよ)って、この世に戻ってしまうか、滅びの道に行ってしまうか、恐ろしいことでございます。
しかし、今日も主は、いのちのことばをもって光を与え、悟りを与え、行く道を示してくださることを覚えて感謝いたします。
みことばの尊さを深く心に覚えることでございます。
どうぞ柔らかい心を与えてくださり、真理を悟る力、御霊の力を与えて導いてください。
何物にも代えがたい真理のみことばを、私たちのものとさせてください。
詩篇にございますように、多くの教師たちや多くの経験を積んだ年寄りたちよりも、悟りとあなたの戒めとを得ることができると、約束してくださいました。
あなたのみ言葉は、我が足の灯であり我が道の光である、とも記しておられます。
真に、イエス様あなたのみ言葉は金銀よりも貴いものであると、教えておられるとおりであります。
今日もあなたのみことばを頂き、仕えようとしています。
みことばを通して主を礼拝し、主に近づこうとしています。
どうぞ心を開いて、ただみことばの説明を覚えるだけではなく、イエス様と魂が相交わって立ち上がるものとして下さい。
イエス様を知って体験して、立ち上がらせてくださいますように。
卑し愚かな者を助け、自由に御霊が語らせて、どうぞ真理を解いてくださいますように。すべてを主の御手にゆだねて、尊いイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
はじめに
今日は「愛の特性」について2回目でありますが、先週は「寛容、親切、ねたみません」についてお話させていただきました。
時間の関係から、ちょうどよい区切りで進めないわけですが、今日は「愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず」そこまでにさせていただきたいと思います。
私が信仰を持ってから2,3年過ぎたころだったと思います。
うかつにも、日曜日の夜の教会の集会が終わって、自分の聖書を教会に忘れてきてしまったことがありました。
その聖書を兄弟の一人が見つけて、「誰のだろう」と思って開いたら、第一コリント13章が出てきたんです。
私は聖書に自分の名前を書いていなかったんですね。
この第一コリント13章の余白のところに、「愛のところに真部明を入れて読んでみよ」と書いてあったんです。うかつにもね。
そこの箇所を兄弟が見つけて「あ、これは真部兄弟のだ」ということが分かったんですね。
その後には「イエス・キリストを当てはめて読んでごらん」とも書いてありました。
そのほかにも「クリスチャン、と入れて読んでみよ」とかいろいろ書いてあるんですけどね。今でもその聖書を持っているんです。
兄弟に会った時に、「どうして真部さんのものだと分かったか、分かる? コリント第一の13章に真部さんの名前が書いてあったよ。」と言われて、恥ずかしい思いがしましたけれどもね。
みなさんもこの「愛」の箇所にご自分の名前を入れて、読んでごらんなさい。「愛は寛容である」の「愛」の箇所にご自分の名前を入れて、「〇〇は寛容である」とね。
なんかくすぐったいでしょ。
「〇〇は親切です」って入れたら、もう座っていられなくなるでしょ。
「〇〇はねたみません」って入れたら、もう立って走り出したくなりますねえ。
だんだん、相応しくなくなってしまいますよ。
でもこの「愛」のところにイエス様のお名前を入れてごらんなさい。
「イエス様は寛容である」
「イエス様は親切です」
「イエス様はねたみません」
ピタっと合うでしょ。相応しいでしょ。
だからね、「愛」のところに自分の名前を入れるとね、最後まで読めないですよ。
へりくだらされますねえ。なんと人間は、自分は、愚かで傲慢だということがすぐに分かります。
みなさんも家に帰って、一人でご自分の名前を入れておやりになってごらんなさい。
そうすると、自分の程度というか、自分の実質というのが良く分かります。
私はこの箇所を読むたびにね、冷や汗をかいたのを思い出します。背中にサーっと汗が流れていく思いがしましたね。
私たちは、「愛」をただ学んでいるだけではなくて、そこに自分の名前を入れることによってね、自分はどのくらい愛の人に変わったか、分かりますね。
ヨハネという人がいますが、あの人は短気でね、イエス様から「いかづちの子、雷の子」なんてあだ名をつけられたくらいですからね、もう短気だったんです。
ですけども、彼は「愛の人」に変わりました。
人っていうのは変わるものだなあと思います。
これは、私たちがしっかりと信仰を身に着けている時だけ、こうなるんです。
さて、こうして愛について信仰について、長い間お話してきているわけですけれども、人間というのはなかなか、聞いているけれども自分のものにならない、ということがあるわけなんです。相変わらず、みなさんの中にもそういう人があるかも分からない。
クリスチャンは、あんなところに行ってはいけない、こんなところに行ってはいけないと、律法的になりやすいわけです。
信仰ですよ、愛ですよ、と20年も聞いているのに、やっていることというと、どうも律法的になってしまいやすい。
クリスチャンというのは、もちろん罪を犯すようなところには行かないでしょう。それ以外の場所にも不必要なところには行かないし、あるいはしないでしょう。しかし、これは律法的なんじゃないんです。行っちゃいけない、しちゃいけない、という律法的なことではありません。
もっと主を愛して、イエス様にお仕えしたいからそうするんですね。
しかし、ほとんどのクリスチャンが、「行く、行かない」、「する、しない」を決めるのに、この世的道徳観で律法主義になっています。
「クリスチャンだから、行ってはいけないのか?」「クリスチャンだから、してはいけないのか?」とよく聞かれますけれども、これは律法的です。
みなさんのご家庭でも、こんなふうにして子供たちを教えていないでしょうか?
長男だからこうしなきゃいけない、男の子だからこうしなきゃいけない、女の子だからこうしなきゃいけない。
こういうふうにして、こうだからああだ、ああだからこうだ、こうしろ、ああしろって教えられているわけです。
イエス様に喜ばれるからこうしなさい、なんて教えられていないわけですよ。
動機的なことは全然教えられていない。律法的な教育をずうっと受けている。
6年生なんだから、もう中学生なんだから、と言われますけれども、これは律法的です。
本当は動機的なことを教えなければいけない。
生まれた時から、すべてが律法的に教えられていますからね。私たちがイエス様を信じた後も、律法的な生き方をしてしまいやすい。もうしみついているでしょ。
律法的に言うなら、クリスチャンはどこへ行ってもよろしい。何をしてもよろしい。
しかし、私たちがどれか一つを選ぶとするならば、私たちは一つしか選べないわけですよね。
例えば、みなさんここに座りながら、どこかのパチンコ屋で玉をはじくわけにはいかないでしょ。一つしか選べないでしょ。
もし、私たちが何をしてもいいけれど、ただ一つを選ばなきゃならないとしたら、私たちはイエス様を最も愛し、イエス様に最も仕え、イエス様を最も喜ばせる道を選ぶはずなんです。
自分の限られた生涯の時間のあいだに、何を選ぶべきかということは、自ずと決まってくるんです。
たとえば、私が休みごとに行楽に行かないのは、行っちゃいけないからではないんです。忙しいからでもない。お金がないからでもない。暇がないからじゃない。牧師だからじゃない。
イエス様のために、自分が何をしたら一番良い事なのか、考えます。
私はどこかへ遊びに行くより、イエス様のために生きている方が楽ですね。楽しいです。満足です。
私は生きている限り、聖書の話をしようと思っているんですね。80歳になっても、90歳になっても、腰かけても。入れ歯が持つかというのが心配ですけれどもね。
クリスチャンの中には、聖書を学ぶよりも出歩いて遊んでいる方がいい、と思う人も多いと思います。しかし、たいていこういう人達は、罪を犯さないでは済まなくなってしまいます。
誘惑が茂るところに行って、罪を犯さないでいるというのは難しいでしょ。
たとえ罪を犯さなかったにしても、実を結ぶことは、ほとんどないと言ってよろしい。
クリスチャンはね、律法的に行うと実を結ばないんです。
もう一種類の、全く信仰に成長しない部類の人がいます。
こういう人はね、「クリスチャンはあそこに行ってはいけないんだ、こんなことをしてはいけないんだ」と言ってね、確かにしないけれども、我慢している人です。
我慢は信仰ではないんです。
こういう人は遊びもしないし、キチンと教会にも出席するけれども、全てが律法的なんです。信仰からでも、愛からしているわけでもないんです。
みなさん、今日は日曜日ですけれども、どんなお気持ちで教会に来られましたか。
「今日は日曜日だから、行かなくちゃいけない」と思って、来られた方もあるかもしれない。
親がクリスチャンで子供を連れて教会に来ますが、子供がまだ信仰がよく分からないとき親に従って来る、というのは大事なことなんですが、できるだけ早い時期に、教会に行って神様を賛美することは楽しい事なんだ、喜ばしい事なんだと、これを分からせるようにしていただきたい。
教会に行かなきゃいけないんだ、親の言うことは聞かなきゃダメなんだと、これだけで律法的に教会に連れてくると、高校生ぐらいになって、オートバイをぶっ飛ばしてね、知らん顔して、っていうようになってしまうんです。
これではダメなんです。
できるだけ早く、小さい頃から、「イエス様に喜んでもらえる」、心から賛美したら「今イエス様は喜んでくれたよ」って子供たちに言ったら、子供たちは嬉しくなるでしょ。
おだてているわけではないんですけれどもね。
律法的になる。悪いことはしない、遊びもしない、キチンとやっている。でもそれは、信仰でも愛でもないんです。イエス様に仕える思いでもありませんからね、心の中には満ち足りたものがないんです。みなさんはどうですか。一週間過ごしてきて心に満ち足りたものがありましたか。
聖書を読んでも砂を噛む、とかっていうのがありますよね。
お祈りをしても、のれんに腕押しみたいにね。
多くのクリスチャンが「聖書を読まなければ」って思っていますが、おつとめをやっているんじゃないんです。
「お祈りしなければいけない」ってね。これは信仰ではない。
聖書を読んでも、聖霊が働いてくださらない。お祈りしても、神に届くことがない。
律法的っていうのは、いつもそうなんです。喜びがないんですよ、律法的なのは。
こういう人の信仰生活は、非常に味気ないんです。
クリスチャンの中には、何百回と信仰の働きを聞いていながら、やっぱり生活が律法的であり、とどまり続けているままでいる人がある。しかも自分が律法的な生活をしていることに、全然気づいていないということがある。
一生懸命に歯を食いしばって頑張っている。
私も字を書きますけれども、字を書く時に、手と腕だけに力が入っているんじゃないですよ。歯を噛みしめています。ですから、夜10時か10時半ごろまで字を書いていると、寝ると上顎が痛いんです。寝てから顎をマッサージしている。何しているんだ、と言われますが、「顎が痛くて」と言ってね。こんなことを言っていると、時間が無くなりますけれどもね。
歯医者に行くと「あなたの歯は最初からこんなじゃなかった。歯をくい縛っているでしょ」って言われるんですが、歯医者っていうのはよく分かるんですね。
お笑いになりますけどそうなんですよ。
みなさんも歯を食いしばって信仰生活をやっていませんか。これはね、実らないですよ。
「してはならない」、「ねばならない」、これは、実らないです。
イエス様を愛して、イエス様に信頼して、イエス様に仕える動機、イエス様が喜んでくださる、そういう動機で選んだり行動したりすることを、心掛けなきゃいけない。
もちろん、いろんなお話はしますよ。一日にこれだけ読むと、一年でこれくらい聖書が読めますよ、というと、「読まなくちゃ」とすぐになるわけですよ。
まあ、そういうことも言いますけれどもね、あまり気にしないで、4章が読めなかったら5章が読めればいいわけですからね。これを律法的にやりますとね、私たちがやっていることのすべてが実っていかないんです。
実らせるために、私たちは動機が大事ですね。霊的なことは非常に動機が大事。
イエス様を愛し、信頼し、喜んでいただける、そういう動機を持ってやる。そうすると神様は、出来が悪くても喜んでくださるんです。
一生懸命にやっているんだけれども、心の中で別のことを考えていたら、神様は喜んでくれない。
問題は、出来がいいか悪いかではなくて、私たちの心の中はどうか、ということです。
「愛」についても同じですね。
「寛容でなければならない」、「親切でなければならない」、「ねたんではならない」。
そういう愛の律法的生活、変な言い方ですけれどもね、そういう生活もあり得るわけです。これはね、聖書が言っていることの全く反対のことをしてしまう。
私たちは、愛についてしているにも拘わらず、愛でないこともあるわけです。
イエス様を愛し、イエス様に信頼し、イエス様に仕える、こういう動機でしないと愛の実が実っていかないわけです。
どうぞ、律法的な考え、律法的な生き方を止めていただきたい。
「これをしちゃいけない、あれをしちゃいけない、クリスチャンなんだから」
こういうのはやめていただきたい。
周りの人はこう言うかもしれない。
「教会行っているのにその程度か」、
そう言われることあるでしょ。どうですか。
そういう時はしょうがないですよ。
「教会行って、この程度です。行かないともっと悪くなっちゃうんですよ。」っていうしかありません。
ある奥さんが、こう言ったそうですよ、
「お宅のご主人、教会に行っているそうだけど、たいしたことないじゃないの。」と言われてね、
「たいしたことありますよ。うちの主人が教会に行かなかったら、もっとひどいんだから。」って言ったって。
この奥さんは、教会に行っていない人ですけれどもね、よく分かりますね。
律法的にやると、私たちは実を実らせられないんです。これをよく心に留めて頂きたい。
イエス様を愛し、イエス様を信頼し、イエス様に仕える生き方、これを本当に私たちが根を張るように、自然にそうなるように、心の中がそうなるまで身に着けていただきたいと思います。
これまた、信頼しなきゃいけない、愛さなくちゃいけない、すぐにこんなふうになりますからね。何を教えても律法的な人は、こうしなきゃ、と思うんです。力が入って力んでいる時は、律法的なんです。
Ⅰ.今日の第一の聖書の言葉は、「愛は自慢せず」、その次に「高慢になりません」と続いています。
「自慢」と「高慢」は双子の兄弟のようなものですね。自慢は必ず高慢につながっていきます。
A.「自慢」とは一体何か?
みなさん、自慢したことがありますか。
ありますか。正直で結構ですねえ。
「自慢したい気持ち」っていうのは、一体どんな気持ちでしょうか。
たとえば、親ならだれでも自分の子供を自慢したいでしょ。
反対に、子供が親を自慢してくれたら大したものですけれども、なかなかそうはならないですがね。
親なら子供の成績が良かったら、世界中の人に自慢したくなるんじゃないですか。
私も教会の働きをしていると、いろんなことを経験しますけれども、
「先生、うちの子、賢いんですよ」って言って、私の前でいろんな芸当を見せてくれる。
「どうです、先生」
「君ねえ、そんなことはどこの子でもやるんだよ。」
「いや、他のこともできるんですよ。」
「うちの子、可愛いですよ。」、「うちの子、良い子です。」
誰でもやることなんだけど、自慢したい。
聖書に詳訳聖書というのがあるんですが、自慢というところを読むとね、「自慢せず」、というのは「虚栄を求めず」と書かれています。私はうまい説明だなあと思いました。
自慢というのは、虚栄心から生まれてくるということに気づかされますね。
新しい教会ができるとね、
「先生、見に来てください。」と言われます。
「うちの教会、こんなに素晴らしいんですよ。」
「このステンドグラスは、フランスから取り寄せたんです。」
「あの塔、なんていったって、アフリカから取り寄せたんですよ。」
「この絨毯、インドから取り寄せたんです」
「ところで、お宅の教会員は、どこから取り寄せたの?」
「先生、今度買った車、素晴らしい。一度乗ってください。」
「運転は大丈夫かい」
「免許を取ったばかりですけれども、車は安全ですよ」
「じゃ、運転しなけりゃ、乗るよ」
見ると普通の車。
「どこが自慢なの」
「ここにジュースをのせるところがあるんですよ」
「今はどの車にもついているんだよ、君」
「ここを押すと、椅子が前に行ったりするんですよ」
「どの車もやれるって」
とにかく自慢には誇張が付きものなんです。
アフリカから取り寄せたとか、フランスから取り寄せたって言っていますけれどもね、日本から輸出して、また輸入したってことがあるんですよ。
みんな虚栄心から出ているなあ、ということが分かります。
ですから「自慢せず」の背後には、「虚栄を求めず」ということになるわけですね。
私も時々ね、一年に一回か2回ですけれども、家事の手伝い、と言ってもどうということはないですけれどもね、お茶碗を洗う、とかします。
毎日ではないですよ。
たまにすると、家内にこう言うんです。
「こんなにいい夫なんて、世界にあんまりいないんだ」
家内はすぐにこう言いますよ。
「もう、それで帳消しになった」ってね。
いやあ、しまったなあと思うんですよね。
ちょっとしかしないのに、世界中の人を喜ばしたかのように言う。
自慢とはこういうものなんです。
イエス様も自慢について素晴らしいことを教えてくださいました。
マタイ6章3節、「 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。」
ここでイエス様は、こうすれば自慢しないですよ、と教えてくれました
まだ私が信仰をもった初めのころにね、「どうやって、右の手のしていることを、左の手に知られないようにするんだろう?」と思いましてね、左の手をポケットの中にしまっておくことなんだろうか、とか考えたりしましたが、どうしても知られてしまいますよ。
イエス様がこう言われているのは、何のことなのか。
右手と左手の話をしているわけではありませんよね。
親切をした後で、自分の唇を閉じることを言っているわけです。
愛の美しいことをしたならば、すぐに心の奥の隠れ場に戻って、ひそかに隠れて、それについては何にも言わない。周りの人々から、称賛を受けることから、身を隠していることだ、と言ったんです。
そのあとの方を見ますと、イエス様は、「隠れたところにおられる父のところに行きなさい」、と教えています。これがね、自慢することから免れる道です。
愛の行いをしたならば、すぐに隠れて、誰がしたか分からないようにしてしまう、引っ込んでしまうっていうんですね。
この世の中では、こんなに私は立派なことをした、となんとかして自分を売り込むわけですからね。
ここに橋を建てたのは私です。ここに病院を建てたのは私です。だから私に投票してください。隠れていたら誰も投票しませんよ。
自慢することは、うぬぼれとか誇りとか高慢に直結しています。自慢したり高慢になる人は、その人の人格がまだ幼稚で十分に成長していないんですね。
この前「ねたむ人」の話をしましたが、ねたむ人も同じです。自分の心の不安定さとか、未熟さ、なにかが欠けている感覚が、それを補おうとして自慢することになってしまう。
例えば、たまに試験で100点取ったとする。家に帰ってくるとどうですか。
「お母さん、取った、取った、100点取った」って言うでしょ。
本当に実力がある人って、そうしないんです。いつも100点を取っている人は、そうしないんです。
私の中学の同級生にね、98点から100点までしか取らない子がいた。お寺の坊さんの子なんですけれどもね、高校になったらどうなったか分かりませんけれども。彼が試験の点数で自慢していることは、一度も見たことはない。
私なんか80点も取れた時には、逆立ちでもして喜びたくてね、「今度、俺、すごいよ」なんて、言いまわるんですけどもね。「お前、何点取ったの。」と聞かれると、「80点。こんなの取ったことないんだ。初めてだ。」なんてね。
私はね、その中学の同級生の子が自慢している所を、一度も見たことがありません。
信仰に十分成長している人は、高慢になったり、自慢したりしないんですね。たまにできると、普段の欠けをこの時とばかりに補おうとして、自慢するわけです。
私だってね、毎日毎日台所のお手伝いをしていたら、あんなことは言わない。1年に1,2度だから、この時とばかりに、全部やっているかのように言いたくなる。
神様の愛に満たされていない人は、「自慢しないようにしよう」、「うぬぼれないようにしよう」、「高慢にならないようにしよう」といくら決心しても、自然に口から出ちゃうんですよ。黙っていられないんですよ。いくら決心しても抑えることができない。
人の心は、真空のままではいられないんです。
もし神様の愛に満たされなかったら、必ず代用品を求めますね。ある人は、遊びに行ったり、酒を飲んだりして心の欠けを補おうとするんですけれども、自慢とか高慢の場合も同じです。
たまにうまくいくと、自分の心の不安定さから、それを黙っていることができなくなってしまう。最初は黙っているんですよ。でも、とうとう我慢できなくなって自慢するようになってしまう。
ですからこれは、心の欠けが神様の真の愛で満たされない限りは、人は自らを誇るようになるものだ、ということです。誇らないではいられないんです。誇ることによって、自らの欠けている部分を満たそうとするんです。ですから、神の愛が欠けている人は自慢をします。
Ⅱ.次に5節の「礼儀に反することをせず」に入りましょう。
これは愛の、対他人的な要素ですね。他の人に対する、愛の行為ということができるでしょう。
ことわざに「親しき中にも礼儀あり」というのがありますね。普通、親しくなるとだんだん言葉遣いも乱暴になります。外国人なんかでもそうですね。最初にミスターとかミセスとかつけて呼ぶのに、そのうち、ジョンとか、なんとか言って、ファーストネームで呼ぶようになって、それはお互いの親しさを強める効果もあるでしょう。
しかし、どんな乱暴な言葉や態度のなかにも、ある種の礼儀が守られていることが必要なんです。ある種の礼儀が守られている時にのみ、親しさを強める効果があるんです。
これは親子でも夫婦でも兄弟でも必要なんです。
「オイ、コラ」の仲間でもね、「おはよう」とか「おやすみなさい」とか、感謝の言葉とか、ねぎらいの言葉をかける。そういう礼儀が守られていると、その親密さはより深くなります。
これは親しい仲でも必要ですね。親しい間柄だと乱暴な言葉で愛を表現しますけれども、礼儀によって、相手を尊重しているという愛を現わすことができる。この乱暴さの加減と、礼儀の正しさのバランスが必要なんです。
自由さとバランスが必要なんです。これがなかなか難しい。
もし、乱暴な言葉と態度が、一日中続いていたら、人々の心は、愛を感じ取ることができなくなってくるんです。「オイ、コラ、オイ、コラ」が一日中続いていたら、だんだんとおかしな状態になってきます。傲慢とか横柄さとか怒りを感じてしまうようになるんですね。
この世では、礼儀とか作法は躾ればできると思われています。確かに幼い子供の時代には、キチンと躾けるということは大切ですけれども、その時でも先ほどお話しましたようにね、ただの躾ではなくて、やっぱり神様を畏れる、神様に喜ばれる、ということを躾けることが大事だと思いますよ。
それがやがて人格の成長とともに、花開く時が来るんです。
しかしね、大人の世界では、教養とか学問があると、その人の礼儀や作法も身につけさせてくれると思っている。ですからね、お花とかお茶とか習わせれば、礼儀作法が身に着くと思う。そうではないんですね。
足で戸を開けるのが上手な人もいますよね。猫も上手に戸をあけるかもしれないですけど。
最近は大学に行く人が多くなりましたが、道で会う青年の挨拶を見ると、会釈のつもりでしょうが、大臣式ですよ。上に向ける、顎でしゃくりあげるような会釈ですよ。全然前に曲がらないんですよ、後ろにそっくり返っている。帽子をかぶっていると落ちそうですね。
教養や学問が身に着くと、礼儀や作法も身に着くかというと、どうもそうではないようですね。
みなさんのご家庭ではどうですか。朝起きたら、三つ指ついて挨拶しますか。
私もある家庭に招かれて行った時、小学生ぐらいの女の子が三つ指ついて挨拶しました。こちらも慌てて挨拶をしましたけれども。慌てますよ、そういう時は。
礼儀や作法の鍵は「愛」ですね。高慢やうぬぼれた礼儀なんてありえないわけです。
三つ指ついて挨拶した子が、挨拶した後で、「お母さんこれでいいの?」って聞いた。
きっとお母さんが教えたんでしょうね。
「これでいいの?」なんて、そこで聞かなくてもよかったのにねえ。
今、日本人は教養があるでしょう。経済力もあるかもしれません。だけど、うぬぼれているんじゃないかなと思うんです。
神様の前に頭をたれなくなってしまった。へりくだって聖書を学ばなくてもいい、と思っている人が大勢います。
カーライエルという人が、こう言っていますね。
「ヨーロッパの中でロバート・バーンズほどの真の紳士はいない」と言いました
ロバート・バーンズは農民で詩人でした。彼は、農業をやりながら詩を書いていました。
神様がお造りになった野ネズミやひな菊を愛していた。
誠実な態度で、自分は小さな小屋に住んでいたんですが、宮廷や宮殿に招かれていった、と言うんです。
最も学問を身に積み、宮廷に住んでいる人が紳士なんじゃない、っていうんですね。
イエス様の救いに与(あずか)りましたアマンダ・スミスという婦人がいます。
この人は奴隷の掃除婦であった。この人はのちに、世界的な伝道者になった。彼女は学校で教育を受けた事は一度もないんです。今でいう義務教育でさえ受けていない。
だけど、彼女は、ヨーロッパの王様や貴族に歓待され、もっとも優雅にふるまったと言われています。
礼儀は、学歴や家柄や財産、地位に関わりがないんです。
心の中に神の愛を持っていないと、作法というのは成り立たない。
作法とはこうする、ああするというやり方ではなくて、心の態度なんですね。
神様の愛を心に持ちながら、無作法なことはできなくなります。
我がまま、自己中心、ふてくされ、もめごと、これらは神様の愛を持ったままで、できますか。できないんです。
神様の愛は、こういう礼儀に反する、相応しくないことは、生活のあらゆる面から取り除いていく、ということです。
温和で思いやりの性質はどこから来るか、というと、学歴とか財産とか地位から来るんじゃないんです。
私たちは、無作法に対してどこから来るのか知らなくてはなりません。
マナーとかエチケットとかは、教養講座を受ければできるか、というとそうではないんです。
心の中に神様の愛を持つということを忘れているなら、容器を作って中身がないのと同じで、なんの役にも立たない。
どんな教養講座に行って学んでも、外側を作ったかもしれないけれども、心がない。
日本では、「銭(ぜに)取るマン」を紳士と言うそうです。
イギリスに行くと神の愛を持った、温和な人をジェントルマン(紳士)というそうですね。これ、一日かかって考えたんですけれども。お分かりになりますか。
これが本当ならば、聖書を教えられている国の人と、全然聖書を教えられていない国の人の差が、どんなに大きいかということが分かります。
さあ、みなさんはどちらですか。
「銭(ぜに)取るマン」か、それとも「ジェントルマン」か。
ジェントルマンとは、親切、やさしい、おもいやりがある、そういう人のことです。
「礼儀正しくあれ」というのは、いつでもかみしもを着けて堅苦しくしていることではありません。先ほどお話しました乱暴な言葉があってもいいと思います。
しかし神様の愛から生まれる「思いやり」とか、「相手を尊重すること」などを忘れてはなりません。これを忘れると、お互いの間はまずい関係になっていきますね。
私たちは外側だけを、体裁だけを繕ってうまくやろうとしますけれども、それは長続きしないんです。
Ⅲ.さて第三番目にまいりましょう。「自分の利益を求めず」についてお話します。
まず、ローマ人への手紙15章1節~3節を読んでみましょう。
15:1 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。15:2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。15:3 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった」と書いてあるとおりです。
ここに、「キリストでさえご自身を喜ばせることはなさらなかった」と、イエス様の模範を記しているわけですね。
イエス様が十字架にかかられた時に、自己弁護とか自己主張をなさらなかった。
これは、どうしてなんでしょうか。私は罪を犯していない、と言わなかったんです。
これは、私たちが受ける利益と恵みのことを、イエス様は考えてくださったからなんです。私たちが受ける恵みと利益を考えて、イエス様はご自分の利益を求めなかったからなんです。
ところが私たちはどうです。ちょっと非難されると、自己弁護、自己主張して自分の利益を守ろうとするでしょ。
これだけ考えたって、イエス様がどれだけ偉大な神であるかが分かります。
イエス様には愛が満ちている。イエス様は愛そのものお方であります。
自己中心な人間にとって自分の利益を求めない、ということは大変困難なことなんです。
この箇所をね、英訳聖書で見てみますと、「愛は自分自身のものを求めない」と訳されています。つまり、「自分自身のことすら求めない」ということになります。
自分のものがあるんだけど、それを求めない、ということです。
先ほどご紹介した詳訳聖書を見ると、こう書いてある。
「愛(私たちの内にある神の愛)は、自分の利益(自分の道)に固執しません(利己的ではありません)。」と、こうなっている。
この文章をね、もし神様の愛に満たされていない自己中心のクリスチャンが律法的に読むならば、必ずこう言うと思いますよ。
「聖書は、とうてい人間にはできない理想的なことを教えている。誰一人そんなことをした人はいないと思うよ。自分の利益を求めないなんて、とてもそんなことをできる人はいない。」とね。
だけど、その考えは間違いを犯していますね。聖書は、クリスチャンが自分の権利を要求することを禁じていません。クリスチャンは、自分に与えられている正当な権利を使って、生活することを認められています。ごはんを食べる権利、息をする権利、教会に行く権利などを自由に使って生きているでしょう。
しかし、神の愛に満たされているクリスチャンは、
神の御心を行うために、神に従うために、神の栄光を現わすために、
自分の権利を放棄した方が良い場合は、喜んで放棄することができる、と言っているんです。いつも放棄しているわけではないんですよ。
使う時は使ってよろしい。
パウロは自分のことをこう証(あかし)しています。コリントの第一の手紙9章の4節から6節をご一緒に読んでみましょう。
9:4 いったい私たちには飲み食いする権利がないのでしょうか。9:5 私たちには、ほかの使徒、主の兄弟たち、ケパなどと違って、信者である妻を連れて歩く権利がないのでしょうか。9:6 それともまた、私とバルナバだけには、生活のための働きをやめる権利がないのでしょうか。
パウロはここで、自分にはこれらの権利が与えられている、ということを主張しているわけです。
けれどもパウロは、15節を読むとこれらの権利を一つも用いませんでした。用いなかったのは、彼自身が自発的にそうしたんです。なぜでしょうか。
17節を見ると、「もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。」と言っています。
18節では、「では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないこと」。
これが、私の報酬だと言いました。
パウロは、自由に自分の与えられた権利を使うことができたわけです。実際に使った場合もあります。
ピリピのクリスチャンが送ってくれた贈り物を、喜んでそれを受けています。
しかし、彼は放棄した方が良い時は、それを放棄しています。
イエス様を愛するがゆえに、また多くの人の救いのために、喜んで自発的に、自分の権利を放棄したんだ、と言っています。これはクリスチャンにとって大事なことです。
このみことばは「愛は自分の利益を求めず」と言っているわけですが、どうぞ、この世の低いレベル、低い水準で、律法的に考えないでいただきたい。この世的で自分中心な人には、とても考えることも、行うこともできないことでしょう。
聖書は「できる」「できない」よりも、愛とは、そうはさせないではいられない、と言っているんです。
無理をして我慢してやることではありません。愛はいつでもそうさせる。
例えば献金をするにしてもそうでしょう。二種類の人がいると思うんですね。
惜しみながら無理して献金する人もいるかもしれない。しかしまた、恵みに溢れて、喜んで感謝しつつ献金する人もいる。さあ、神様はどちらを愛するでしょうか。
パウロはコリント第二の手紙の9章7節でこう言いました。
「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」と教えています。
どうぞ私たちの行いのすべてが律法的ではなくて、喜んで自発的で、感謝してしたいと思いますね。
この世には自分の権利、自分の生き方を主張している生きる人もいます。
しかし逆に、愛のゆえに喜んで自分の権利を放棄し、自分のために何も求めないでいながら、真の富を持っている人もいるわけです。二通りの生き方がありますね。
箴言11章24節に、二通りの生き方をする人が書かれていますね。
「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。」
「ばらまく」というのは浪費することではありません。愛のゆえに与えることですね。
しかし、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者があると書いてあります。
自分の権利を一生涯主張し続けて、私たちはどれだけのものを手に入れるのでしょうか。
そうやって手に入れたものは、数年後には手放さなければならなくなるでしょう。
あるいは、自分を贅沢にし堕落した人間にしてしまうことが、非常に多いわけです。
しかし、自分のために求めない人はかえって、真の富を得る、と聖書は言っているんです。
列王記第一3章で、ソロモンが神様に、民を指導する知恵だけを求めました。
すると神様はこう仰ったんです。
「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので ・・・ あなたに知恵の心と判断する心とを与える。 ・・・ そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。」と仰った。
自分のために求める者はかえって失うし、自分のために何も求めなかった者が、真の富を得た、と言っているんですね。
ところがソロモンは後に、この富と誉れを正しく用いることができなくなって、災いを引き起こしてしまっていますね。
イエス様もマタイの福音書16章25節で、
「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」と教えたんです。
パウロが言っていることと同じですね。
私たちは、自分の利益を求めないと何も得られないと思います。
しかし神様は、自分の利益を求めないと、神様はくださるんです。
聖書のなかに、求めるべきものと、与えられるものと、2種類書いてあるのをご存じですか。
今日は読む時間がないから省略しますが、マタイの福音書の6章30節あたりから読んで御覧なさい。
何を求めて、何が与えられるのか。求めるものと、与えられるものとは違うんです。
ここでは求めない方だけのことを言っていますがね。
私たちは自分の利益と権利を主張することによって、実は最大の損失をしていることになるんです。
真の富を失ってしまう。
私たちが自分のために何も求めなくなる時に、真の富を獲得するようになります。
私たちがこの地上で求めている金銭にしても地位にしても、それらの中には高貴なものは何ひとつないんです。
唯一の高貴なものは愛ですね。
ですから、半分自己中心的なクリスチャンにとっては、自分の権利とか自分の利益を主張しないことは我慢できないことです。
しかし愛にとっては、それは少しも苦痛でもなく無理でもなくなってくるんです。
ですから私たちは心の中に、神の愛を満たす、ということです。
みなさん、神様の愛を持って御覧なさい。
この地上の富も地位もあまり欲しくなくなりますよ。
神様の愛の味わいが分からないと、あれも食べてみたい、これも食べてみたいと思うんです。神様の恵みを味わうと、この地上の食べる物はこの程度か、と思うようになる。
みなさんが半ば自己中心的であれば、「あれがないと幸福になれない」と思うかもしれません。
でもどうです、それを得てみたら、本当に幸福になりましたか。
これも足りない、あれも足りないと思っていると、いつまでも心の中が虚しいということを悟るでしょう。
それらは、自分の心を満たすものではない、ということを悟るんです。
「私には、自分の利益を求めないなんて、とてもできそうにない」。という人があるかも分からない。
自分にできるかどうかを考えてはいけません。できるかどうかじゃない。
私たちの心のなかに、神の愛を持つことだけを、考えていただきたいのです。
そうすれば、すべての疑問や議論は消えてしまいます。
神様の愛を持たない人の議論ほど、無意味で虚しいものはない。
リンゴを食べた事のない人が、リンゴが美味しいか美味しくないかを議論するのは、全く無意味なのと同じことです。そんなことを議論するよりも、口の中にリンゴを押し込んでやればよろしい。
そうでしょ、経験をすれば黙ってしまうんです。
キリスト信仰は、愛を持たない人がいくら議論しても、結論は出ません。
まず、神の愛を持つことです。そうすれば私たちの心は神様によって恵まれて、すべては無理ではなくなります。我慢とか無理とかいう思いはなくなってきますね。
そのために私たちは、全面的にイエス様に信頼したいと思います。
これは自分にとってダメなんじゃないか、と思うものは任せましょう。
そうすれば、神の愛を、私たちは経験することができますね。
律法的に行うとできませんよ。
「自慢せず高慢になりません。今日からやりません」、
「礼儀に反することをせず、これも今日から一切いたしません」、
「自分の利益を求めず、これもしません」、
「手足に手錠をかけて頑張ります」、
なんてとてもできることではありません。
どうぞ神様の愛を心に持って、
「イエス様、私にどうぞ愛をください」、先ほど賛美を歌いましたでしょ。
私たちは神様の前に心を開いてね、イエス様を頂けばこれらのことは、すべてできる。
これらのことは、一見すると損をするように見えます。
しかし実は、与えられるものがある。
求めるものと、与えられるものの違いをはっきりさせておきましょう。
求めるものは愛です。後はみんな与えられる。
「くれ、くれ」と言わなくても神様は下さる。
どうぞ、クリスチャンは、このことを悟って頂きたいですね。
今週、どうぞ信仰と愛によって進ませていただきましょう。
<お祈り>
「愛は自慢せず高慢になりません。
愛は礼儀に反することをせず、愛は自分の利益を求めません。」
恵みの深い天の父なる神様、今日もイエス様のみことばを頂きまして、ありがとうございます。
何でも、私たちは自分の力でやろうとすると律法的になって、ついに疲れ果て、行き詰ってしまいます。
しかしイエス様、あなたは私たちに大いなる恵みをくださいます。
あなたを信じ、心の中にイエス様がいてくださることによってだけ、全ては自由であり、無理なく、我慢するのではなくて、すべてが自由にできるようになる。
そして、そこには多くの恵みがあるということを、私たちは体験させていただき、心から感謝いたします。
今週の旅路に必要なのは、あなたの愛であります。
心に愛を満たしてください。そうするなら、すべてが解決します。
問題も疑問もすべて消えていってしまいます。
この経験を私たちにしっかりとさせてください。
どうぞ、導きと悟りを与えてください。
この時を感謝して、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明
第一コリント13章「愛の章」全14回 一覧
第1回 「最高のもの」 12:31、13:13
第2回 「愛がないなら」 13:1ー3
第3回 「愛の特性(1) 寛容 親切 ねたまず」 13:4
第4回 「愛の特性(2) 自慢せず 礼儀 自分の利益を求めず」 13:4~5
第5回 「愛の特性(3) 怒らず」 13:5
第6回 「愛の特性(4) 人のした悪を思わず」 13:5
第7回 「愛の特性(5) 不正を喜ばず、真理を喜ぶ」 13:6
第8回 「愛の訓練(1)」 13:7
第9回 「愛の訓練(2)」 13:7
第10回 「決して耐えることのない愛」 13:8
第11回 「愛の耐久性(1) 完全なものが現われたら」 13:9-10
第12回 「愛の耐久性(2) 子どものことをやめました」 13:11
第13回 「愛の耐久性(3) 今 と その時」 13:12
第14回 「愛・その栄光」 13:13、14:1の前半
コリント人へのの手紙第一 12章31節~14章1節
12:31 .....また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
14:1 愛を追い求めなさい。
(【新改訳改訂第3版】より)
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