音声:使徒の働き(014) 五旬節到来 2:1~4

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使徒の働き2:1~4
2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
【新改訳改訂第3版】

(たけさんの一口まとめ)
モーセがユダヤの民を率いて紅海を渡ってからシナイ山で律法を授けられるまでが約50日とされ、当時のユダヤ人は、これを記念して、過ぎ越しの祭りから50日目を五旬節(ヘブライ語でシャブオット(7週の祭り)、ギリシャ語でペンテコステ)として祝っていました。五旬節は、過ぎ越しの祭り、仮庵の祭りと並び、ユダヤの三大祭りの一つであり、世界中のユダヤ人がエルサレムに集まりました。

私たちクリスチャンが祝う五旬節(ペンテコステ)は、キリストの復活から50日目の聖霊降臨があった日で、旧約の五旬節とは意味がちがいますが、この二つには、重要な関係があります。
旧約の五旬節は、それまでただの群衆であったイスラエルの民が、律法を与えられて国家となったことを意味します。
一方、新約の五旬節は、それまでバラバラだった弟子たちに聖霊、つまり、神のいのちが与えられ、神の民の秩序ができたことを意味します。
この二つの間には、実に1400年の期間がありました。

旧約の律法は、石の板に書かれた十戒であり、罪を知らせる律法です。イスラエルの民は、皆、それを守ると誓いましたが、偶像崇拝に陥ったりして、守ることができませんでした。つまり、外的な律法では罪を示すことはできますが、魂を救うことはできないのです。
一方、ペンテコステの神の律法は、人の心の板に書かれました。(Ⅱコリント3:3)つまり、聖霊の注ぎにより、人の心に働く霊的な力が与えられました。
いわば、モーセの律法が外的エンジンであるのに対し、聖霊の内住は、人の内側に神の働きをできるようにする内的エンジンです。
この内的エンジンにより、神のみこころを行う信仰、動機、愛、力が与えられ、自ら何をすればよいかを知ることができます。
この聖霊の力を持たずに自分の力でやってしまう人は、神からの導きがあっても、「しかし、私はこう思う。」と言って、別の方向を向き、迷子になってしまいます。一方、内に聖霊を持つと、神のみこころに聞き従い、あきらめず、ついに達成することができます。この差は、天と地ほど大きいのです。

ペンテコステの日に弟子たちの内側に何が起きたか、それは、彼らが、その後の大激動の時代をどのように生きたかによって知ることができます。
それまでは、自己中心で、臆病で、都にとどまっていなさいと言われていた弟子たちに、聖霊の注ぎがあり、神の武具のすべてが備わり、船出していく準備が整いました。そして、ローマが世界制覇している困難な時代に、イエス様は、弟子たちに全世界に向けて出て行きなさいと言われました。
弟子たちは、ローマの迫害の中で助け合って信仰を守り続け、神の国の力強さを証明し、結果的に、ローマ帝国は姿を消し、神の国だけが残りました。
弟子たちが神のために有用になったのは、聖霊の注ぎがあったからです。同じように、私たちにも聖霊の注ぎが必要です。

写真は、スペインの画家El Greco (1541–1614)が描いた「The Pentecost(ペンテコステ)」(Wikimedia Commonsより、Prado Museum蔵)