書籍紹介 「心の平安」 

まなべあきら著 B6 53貢

マタイの福音書11章28節は、日本のクリスチャンの70%以上の人が、救いに導かれるために、心に感動を覚えた聖句です。
この本は、この聖句から「心の平安」を持つための秘訣を、多くの経験をまじえて、わかりやすく解き明かしています。
求道者や信仰を持って間もない方へのプレゼントにも適しています。

目次

1章 疲れた人、重荷を負っている人
2草 体ませてあげます。
3章 わたしから学びなさい。

以下、一部抜粋

 平安を求めているあなたに

 だれでも心に平安を求めています。心の平安を失ったために、入院している人が大勢います。ある人はお金で平安を買おうとしました。ある人は酒で平安を手に入れようとしました。またある人は友人を持つことによって、平安を得ようとしました。また他の人は行楽に行くことによって、平安を持とうとしました。しかし、どの人も努力のかいなく、平安を得ることができませんでした。かえって、無駄な努力を後悔し、思いわずらいが増えてしまったのです。

 このことはいったい誰のことでしょうか? この本を読まれた方の中には、「いや、それは私のことだ。」と、おっしゃる方がいらっしゃるかもしれません。そのようなあなたは、もう平安を求めることに疲れておられるのではないでしょうか。私は、そのような方に、すばらしいメッセージをご紹介したいのです。それは、ちょうどそのような方を招いておられるお方がいらっしゃるからです。私は、この本でその方をあなたに紹介したいのです。

 もう平安を求めるのをやめようと思っておられる方は、ちょっとお待ちください。あなたには、今もう一度だけ、平安を求めてみる最高のチャンスが訪れています。そして、あなたが失望していればいるほど、疲れていればいるほど、あなたには平安を手に入れやすい条件が整っていることを付け加えておきましょう。

 もしあなたがこれから先も平安なしの生活を続けるなら、生きた心地がしない生活を送ることになります。あなたに与えられた最高のチャンスを今、活かして、平安をつかんでください。心よりお祈り致します。

一九八六年十一月二一日

著者  まなべ あきら

一章 疲れた人、重荷を負っている人

 私はあなたに、最初から沢山の聖書の箇所を読んでいただこうなどとは思っていません。ただ、次の一節だけを五回読んでいただき、この本を読み終わる前に覚えていただきたいと願っています。この聖句には、何の魔法も暗示も仕掛けられているわけではありませんが、この聖句の中には、あなたが嵐の中でも決して失うことのない平安を得る道が記されています。そしてそれは、この世の様々なものを求めても得られなかった人々が、この聖句が示すとおりにすることによって、確かな平安を得た無数の経験によって裏付けられています。ですから、平安を求めておられるあなたにも、この聖句をぜひご紹介したいのです。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書一一章二八節)
右の聖旬を五回お読みくださったでしょうか。お読みくださったなら、この聖句の中には、「二種類の人物」と、「二つのなされるべきこと」が記されていたことにお気づきになられたでしょう。

 先ず、二種類の人物とは、「わたし」と「あなたがた」です。「わたし」とは、このみことばを語られたイエス・キリストです。「あなたがた」とは、「疲れた人、重荷を負っている人」のすべてです。例外になる人は一人もいません。勿論、あなたもその中にお加わりくださってよいのです。

 もう一つの、「二つのなされるべきこと」とは、「来なさい」と「休ませてあげます」です。「来なさい」というのは、私たちに対するイエス・キリストの招きです。私たちがそれに応答する必要があるということです。そして私たちがこの招きに積極的に応答することが、心に平安を得るための唯一の条件なのです。このことはぜひ記憶にとめておいていただきましょう。もう一つの「休ませてあげます」は、イエス・キリストがしてくださることです。これは「来なさい」という招きに、あなたが応答したときになされる結果です。これはキリストの確かな約束なのです。キリストの約束が確かであることは、無数の疲れ果てていた人々が、キリストによって平安を得てきた事実によって証明されています。私もその証人の一人です。あなたの周囲にもそのことを証明してくれる証人がきっといらっしゃるでしょう。

 さて、ここではこれらの重要な要素のうち、先ず「疲れた人、重荷を負っている人」について、もう少しくわしく考えてみましょう。

 人はなぜ、人生に疲れるのでしょうか。それは重荷を負っているからです。人生の荷物は二種類あります。第一は、重い荷物で、それを背負っている人をへトヘトに疲れさせ、苦しめ、悩まし、滅ばすところの重荷です。「人生とは、重き荷を背負って坂道を登るが如し」と言った人がいるくらいです。しかし軽い荷物もあります。イエス・キリストは「わたしの荷は軽い」 (三〇節)と言われました。これはキリストが私たちに与えてくださる生き甲斐のある人生のことです。それはキリストにあって生きる人に、キリストが喜びと希望に満ちた人生の目的と使命を与え、それをやり抜く力をも与えられるからです。このことについては先に行ってくわしくお話することにしましょう。

 しかしここで知っておいていただきたいことは、あなたがクリスチャンであろうと、なかろうと、人はみな、なんらかの荷物を背負って生きていかなければならないのだということです。ある裕福な人にとっては、生活の苦しみがないことがかえって耐えられないはどの重荷になっているのです。他人を見て、「あの人には何も重荷がないのではないか。」と思われる人が、何もなさすぎるために、自殺を考えるほど苦しんでいることが少なくありません。問題はあなたがどういう苦しみに出会っているかということではありません。どういう心の状態でそれを受けとめているかということが重要なのです。

 心の受けとめ方によって、同じ荷物が軽くもなれば、悲鳴をあげるほど重くもなるのです。

 もしあなたの背負っている人生の荷物がキリストから与えられたものでなかったなら、たといあなたがこの社会で重要な地位にある仕事をしていても、あるいは、どんなに裕福な生活をしていても、あなたの心を締めつけるはずです。問題は大きな借金があるか、ないかではありません。病気か、健康かということでもありません。家庭に問題があるか、ないかということでもありません。つまり、荷物の重さに問題があるのではないのです。その荷物を受けとめるあなたの心の状態、心の在り方に問題があるのです。

 ある人はごくわずかの苦しみで自殺をしたり、一生涯悩み続ける人生を送ります。しかし他の人は人間の力では負い切れないほどの荷物をゆうゆうと背負って、喜びつつ、歌いつつ、芳しい香りを放って生きています。どこに違いがあるのでしょうか。このような人も病気になることがあり、経済的に行き詰まることもあります。しかし彼にとっては、それがすべての終わりではないのです。そこからキリストを信じる信仰の力が発揮されるのです。

 あなたもここで、自分がどういう心の態度で自分の人生を受けとめているかを、真剣に考えてみてはいかがでしょうか。そしてそのことは将来のあなたに大きな益を与えてくれます。あなたはこれから先、どんな大きな荒波にもまれることになるか分かりません。しかしあなたの心がキリストにあって、しつかりと平安を握っているなら、どんな荒波にもビクともしないようになるのです

以上、一部抜粋