書籍紹介 「日本人のための福音入門」 

まなべあきら著 B6 109頁

一度も教会に行ったこともない人、聖書を読んだことのない人にもわかるように、日
本人の考え方や習慣に合わせて、キリストの福音に触れるように配慮しました。

 

 

目次

第1章 なぜ聖書の神でなければならないのか?
1、信仰心は人間の本能です。
2、神仏と名がつけば、何でもよいのでしょうか?
3、天地創造の神
4、人間の父なる神
5、真心の礼拝

第2章 だれでも罪を犯しているのに
1、罪を犯さなかった人はいない。
2、罪はあらゆる不幸を生みます。
3、罪は、成長、繁殖、強化します。
4、自分の善行で自分を救うことはできません。
5、罪を悔い改めて、父なる神に帰りませんか?

第3章 二千年前のキリストと私の間に、どんな関係があるのですか?
l、イエス・キリストは神様です。
2、イエス・キリストは、すべての人の救い主です。
3、今信じれば、今救われます。
4、生まれ変わり
5、平安に満ちた勝利の生活が、約束されています。

第4章 生甲斐のある生活
1、祈る喜び
2、聖書を読む楽しみ
3、クリスチャンであることを、はっきり示しましょう。
4、恵みを他人に分かちましょう。
5、心にキリストの御霊を受けなさい。

第5章 クリスチャンの生活は、窮屈ではないか?
1、クリスチャンの生活は地の塩です。
2、神第一の生活をしましょう。
3、救いと健康の関係
4、キリストの救いは、家庭を幸福にします。
5、死を乗り越えて

以下、一部抜粋

読者の皆様へ

 もし、あなたの家の庭に黄金がうずまっているのを知ったら、あなたは庭を掘りかえさないでしょうか? まことに、これと同じことが聖書に対して言えるのです。聖書は大抵の家に一冊はあるでしょう。しかし、ほこりをかぶっているか、本棚の奥の方に眠らされているか、否、自分の家に聖書があることすら知らない人もいます。ところが、この聖書の中には黄金にまさる黄金、即ちキリストの福音が約束されています。

 今回、多くの方々の祈りのもとに、キリストの福音を分かりやすく御紹介できる本を、ここに出版することが出来たことを、感謝しております。読者の皆様が、かくれた黄金を掘り当てる為に少しでも役に立つことができれば、この上ない喜びであります。御感想等をお寄せ頂ければ幸いです。

一九八〇年二月一日 著者

以下、一部抜粋

第一章 なぜ聖書の神でなければいけないのか?

1.信仰心は、人間の本能です。

 「あれ、なあに? これ、なあに?」ものごころのついた頃の子供は、ホトホト両親を困らせるほど質問します。 「知りたい!」という本能がさかんなのです。この頃は、誰も教えないのに、良い事も悪い事も、何でもおぼえてきます。「もしこの調子で学生時代も過ごしてくれたら?」と思うのが親心でしょう。

 生れたばかりの赤ちゃんをごらん下さい。もうミルクを飲むことを知っています。食欲があるからです。もし食欲がなければ、すぐに死んでしまいます。食欲は健かな成長に欠かせません。

 性欲は、歪められてしまっていますが、元来は神聖なもので、人類の繁栄に欠かすことができません。

 社交欲という言葉は、あまり聞いたことがないかもしれませんが、本能の一つです。以前私が住んでいた家の隣の婦人は、九官鳥に「おはよう」「こんにちは」「ただいま」という言葉を教えて、出勤の時、帰宅した時に、話し合っているのを、よく窓越しに聞きました。恐るべき本能です。 「私はひとりで居るのが好きなんです。孤独を愛しているのです。」という言葉を時々聞きますが、私には「孤独で耐えられないんです。」と聞えてきます。ひとりきりで、話し相手もいない生活が、楽しいはずがありません。

 もう一つ、人間には礼拝心という本能があることも見逃すことが出来ません。特に、礼拝心は人間にしかなく、他の動物にはありません。そういえば、犬やネコが何かを拝んでいたり、動物園の猿やキリンや象が礼拝しているということも聞いたことがありません。人間にだけ礼拝心があるのは、聖書の言うように、「人間は、神によって造られ、神のように造られている」からです。

 私は二十三才の頃、よく高い山に登りました。高い山の頂上では、晴れているのはわずかの間だけで、すぐに吹雪になったり、霧がかかります。しかしその合間に見た、雲海にそびえ立つ嶺々の雄大さには、心が奪われてしまいました。皆さんも、大海原を見て、心洗われるような気持になったり、大自然の雄大さに心うたれた経験がおありでしょう。これはみな、礼拝心という本能が、私達にあるからなのです。偉大なもの、雄大なもの、神秘的なものに出合うと、深く感動し、拝みたくなるのが、私達人間なのです。

 私が靴クリームを造る会社に勤めていた頃、私は同僚の今井さんに「人間は誰でも、何かを信じて生きていますよ。」と話しかけました。すると彼は、すぐに「その通りですよ、私は一才の息子を信じて生きています。」と答えました。何はともあれ、人間は何かを信じていなければ、一日も生きていけないことだけは間違いありません。

 ところが残念なことに、信仰心があっても聖書を知らない私達は、真の神様を見つけ出すことが出来ませんでした。そこで人々は、思い思いに自分が感動した物を、神として拝むようになりました。しかも目に見えない神では心もとないので、石や木や金属に像を刻んで、それを神としたり、人間より偉大なことを表わす為に、手の数を増してみたり、携帯に便利な守り札なども大量生産するようになったのです。日本には八百万(やおよろず)の神があり、インドには数億の神々があると言われています。多分地球上には、人間の数と同じだけ、あるいはそれ以上の神々がまつられているでしょう。これは一体何を物語っているのでしょうか?これは、人間が真の神様を求めている証拠です。「信仰なしでは、人間は生きていけない。信仰なしでは、心に平安をもつことが出来ない。信仰なしでは、幸福になることができない。」ことを物語っているのです。

 けれども中には、「この科学の発達した時代に、神なんか必要ない。」と言う人がいると思います。しかし果してそうでしょうか?ある有名な「絶対に神を信じない」と言いふらしていた学者が、ある時飛行機にのって外国旅行をしていました。ところが突然、その飛行機が乱気流に出合って、翼がもぎとられるかと思うほど機体が揺れ、「あわや墜落か」と、覚悟しなければならなかった時、この学者が何と叫んだと思いますか?「あゝ神様、私を助けて下さい!」これが本音です。誰でも生死が危ぶまれる手術を受ける時、必ず神・命・死・永遠・地獄について考えます。これは本能だからです。陸の上では、元気な無神論者も、空の上では通用しないのです。天気もよく、フトコロ具合も悪くなく、健康な時には、内弁慶で威張っていられても、一寸風向が変わり、嵐にもまれ始めると、小林一茶の俳句のように「ハエが手をする足をする」のような真似をするのです。「困った時の神頼み」とは、このことです。

 しかし、お互の人生、よい天気の日ばかりでないのは確かです。「家族皆んな健康で何より」と思っていれば、やれ交通事故だの、思わぬ病気だの、不況で倒産だの、お金のやりくりがつかない、子育てが嫌になった、生活に疲れた、などと大騒ぎです。一寸気をゆるめると、すぐにわざわいが起きます。そんな時、今まで見向きもしなかった真の神様にお願いするのも心苦しいものです。台風の予報を聞けば、屋根を修理し、冬の来る前に冬支度をするように、わざわいの来る前に、真の神様を信仰することは、私達にとって一番大事なことです。

 人間は、信じ甲斐のあるものを信じていなければ、一日も幸福に生きていけないことだけは間違いありません。信仰心は、人間の本能であり、生命の原則なのですから。

 『あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。』 イザヤ書五五章六~七節

以上、一部抜粋