週報No.2172 涙の預言エレミヤ書(80)「預言を書く」エレミヤ書36:1~7
2019年3月10日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明 牧師
エレミヤ書36章1~7節
36:1 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、【主】からエレミヤに次のようなみことばがあった。
36:2 「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。
36:3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる。」
36:4 それでエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述に従って、彼に語られた【主】のことばを、ことごとく巻き物に書きしるした。
36:5 そしてエレミヤは、バルクに命じて言った。「私は閉じ込められていて、【主】の宮に行けない。
36:6 だから、あなたが行って、【主】の宮で、断食の日に、あなたが私の口述によって巻き物に書きしるした【主】のことばを、民の耳に読み聞かせ、また町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。
36:7 そうすれば、彼らは【主】の前に祈願をささげ、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。【主】がこの民に語られた怒りと憤りは大きいからである。」
【新改訳改訂第3版】
<礼拝メッセージの要点>
エレミヤ書は、聖書が神のことばであることについて、多くの光を与えています。エレミヤ書には、「主はこう仰せられる。」という句が、多く見られます。
この言葉によって、エレミヤは自分が語ることばは、神のみことばであることを、大胆に表わしたのです。彼が語ったのは、道徳的、宗教的思想ではなく、哲学でもなく、戒律でも、儀式でもありません。
神が語られた、みことばそのものです。私たちが取り次ぐメッセージも、真理のみことばそのものでなければなりません。
そしてヨハネ1章1節に「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。」とあるように、私たちが伝えるみことばは、聖書の知識ではなく、イエス・キリストのご人格が伴っていなければなりません。
イエス・キリストが体験できない説教は、神のみことばではありません。人の知恵による教えに過ぎません。
神のみことばであれば、
「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(詩篇119:130)
私たちは、証ししようとする時、上手に説明しようとせず、何を、どのように順序立てて話そうかと考えずに、今、あなたが一番恵まれているみことばを伝えて下さい。
そうすれば、聖霊が働いてくださいます。
<今週の活用聖句>
ローマ人への手紙12章1節
「そういうわけですから、兄弟たち。神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
<集会案内>
◇3月13日(水)聖別会 午前10時半
パリサイ的クリスチャン(3)
「へりくだる者」
地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421