聖書の探求_005 聖書の中のタイプ(予型) 旧約聖書中のタイプ (4) 儀式的タイプ(その2) 

「けれども、あなたは学んで確信したところにとどまっていなさい。」(テモテ第二 3:14)


③儀式的タイプ(続)

灯台(燭台)(出エジプト記25:31~40、レビ記24:2~4)

出 25:31 また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作らなければならない。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁がなければならない。
25:32 六つの枝をそのわきから、すなわち燭台の三つの枝を一方のわきから、燭台の他の三つの枝を他のわきから出す。
25:33 一方の枝に、アーモンドの花の形をした節と花弁のある三つのがくを、また、他方の枝にも、アーモンドの花の形をした節と花弁のある三つのがくをつける。燭台から出る六つの枝をみな、そのようにする。
25:34 燭台の支柱には、アーモンドの花の形をした節と花弁のある四つのがくをつける。
25:35 それから出る一対の枝の下に一つの節、それから出る次の一対の枝の下に一つの節、それから出るその次の一対の枝の下に一つの節。このように六つの枝が燭台から出ていることになる。
25:36 それらの節と枝とは燭台と一体にし、その全体は一つの純金を打って作らなければならない。
25:37 それにともしび皿を七つ作る。ともしび皿を上げて、その前方を照らすようにする。
25:38 その心切りばさみも心取り皿も純金である。
25:39 純金一タラントで燭台とこれらのすべての用具を作らなければならない。
25:40 よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ。
レビ24:2 「あなたはイスラエル人に命じて、ともしびを絶えずともしておくために、燈火用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させよ。
24:3 アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝まで【主】の前に絶えず、そのともしびを整えておかなければならない。これは、あなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。
24:4 彼は純金の燭台の上に、そのともしびを絶えず【主】の前に整えておかなければならない。
灯台には光と油の二つの要素があります。
光は、自然界において最初に造られたもの(創世記1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。)で、生命が存在するためにはなくてはならないものであり、すべてのものに美と色彩を与え、私たちの自覚や知力や人間関係にすら大きな影響を与えるものです。
また光は、神の臨在の表われです。神はシェキナの光のうちに顕われ、モーセには燃える柴の中に顕われ、シナイの荒野では火の柱のうちに顕われ、ヨハネの黙示録では太陽よりも強く輝く光と、永久に神の御座を照らす栄光の輝きをもって閉じられています。
一方、油もいろいろな意味を持っています。
油は光のための燃料であり、源です。油はそれ自身で命と癒しの恵みを持っています。油は祭司の聖別式にも用いられて、神の聖別の光を放っています。この油は特に神ご自身によって規定されたもので、これと似たものを調合することを厳しく禁じられています(出エジプト記30:32・37・38)
出 30:32 これをだれのからだにもそそいではならない。また、この割合で、これと似たものを作ってはならない。これは聖なるものであり、あなたがたにとっても聖なるものとしなければならない。出 30:37 あなたが作る香は、それと同じ割合で自分自身のために作ってはならない。あなたは、それを【主】に対して聖なるものとしなければならない。出 30:38 これと似たものを作って、これをかぐ者はだれでも、その民から断ち切られる。」)。
これは聖なるものであるからです。
このことはクリスチャンにとっても大きな警告です。真の神の恵みではなく、それに似た代用品や模造品、すなわち、人間的な感情、熱心さ、単なる儀式的なもの、その他神秘的なものによる自己満足の危険を教えています。ともすると、私たちは信仰によらないで、自分のあせりやがんばりで神の恵みに似たものを得ようとします。これを警告しているのです。
さて、光と油は灯台によって結び合わされます。この灯台は純金で出来ており、エルサレムを征服した権力者たちの誘惑の的となりローマのタイタスの凱旋門のアーチに、数人のローマ兵によってかつがれている灯台が彫刻されています。これは紀元70年、タイタスがエルサレムを陥落させたとき、この灯台を略奪したことをあらわしているのです。

この灯台は次の三つのことを象徴しています。

キリストが世の光であること (ヨハネ1:4・9、同8:12、同12:35・36、ヨハネの手紙第一1:5)
ヨハ1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
同1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
同 8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
同 12:35 イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
同12:36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。
Ⅰヨハ1:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
キリストは真理を悟るための理性の光を人の心に与えられました。また新生した霊魂に霊的光を与えるのもキリストです。そして新しい都エルサレムにおいて、キリストは光そのものであられるのです(黙示録21:23  都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである)。
この光は、神的光であり、人間の資源から出たものではありません。私たちが必要としている光は、知者、学者の哲学や理論からでもまた私たちの最も健全な判断から出るものではなく、キリストと彼のみことばから来る神的光でなければなりません。キリストはその光によって、暗黒も困惑も罪悪もすべてを払いのけてくださるのです。

灯台は聖霊をあらわしている。(ゼカリヤ書4:2~6、ルカ4:18、ヨハネの手紙第一2:27、ヨハネの黙示録1:4)
ゼカ 4:2 彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」そこで私は答えた。「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。
4:3 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」
4:4 さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。「主よ。これらは何ですか。」
4:5 私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」
4:6 すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの【主】のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は仰せられる。
ルカ 4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
Ⅰヨハ 2:27 あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。
黙1:4 ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、

灯台の油は聖霊をあらわしています。神は聖霊をもって主イエスに油を注がれ、また私たちのうちにも注がれるのです。神は聖霊によって聖書の真理を解き明され、私たちは神に全面的に信頼するとき、光を受けるのです。
ヨハネはその黙示録1章4節において、御座の前に七つの御霊がおられる、といっています。この「七つの御霊」とは、七は完全を意味する数ですから、完全な光、私たちが必要とするすべての光を意味しています。すなわち、平和の霊、神の子たることの霊、喜びの霊、愛の霊、信頼の霊、祈りの霊、聖潔の霊、能力の霊などです。ここには異なった色彩があるようですが、すべては同じ神の光なのです。神はこのような光を持って、私たちの罪を照らし、主イエスの十字架を示し、そして罪より救い出して喜びの中に入れてくださり、幸いな光の中に導いてくださるのです。

灯台は教会とクリスチャンをあらわしている。(マタイ5:14~16、ヨハネの黙示録1:20)
マタ5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
黙1:20 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。
これはキリストの光をこの暗い世界に対してあかしをする者をあらわしています。私たちが光なるキリストを心に宿すとき、私たち自身がこの世に対して世の光となり、灯台となるのです。灯台が純金であり、その炎が規則正しく燃えているように、クリスチャンが正しい生活をし、信仰と希望によって満ちたりた生活をすることは、周囲の人々に大きな光となるのです。
また灯台は毎日油を注いだり、灯芯を切ったりして整える必要があったように、クリスチャンが毎日聖霊に満たされ、心がきよく保たれ、愛に輝いている時、それは灯台なのです。
この灯台は自分の光を持っているのではなく、光はイエス・キリストからいただいているのです。ここに信仰の秘訣があります。私たちは自分自身の力で立派な人間になるのではなく、キリストに全く信頼することによってキリストの光を輝かすようになるのです。人間的な己のがんばりほど、人間の人格的成長を妨げるものはないのです。私たちの心、態度、ことば、行ないから輝き出る光は、ただキリストに信頼し、彼に従うことによってのみ与えられるものです。私たちの希望、勇気、忍耐力、あらゆるよいものはすべてキリストから与えられるものなのです。

供えのパン (出エジプト記25:23~30、レビ記24:5~9)

出 25:23 机をアカシヤ材で作らなければならない。長さは二キュビト、幅は一キュビト、高さは一キュビト半。
25:24 これを純金でかぶせ、その回りに金の飾り縁を作り、
25:25 その回りに手幅のわくを作り、そのわくの回りに金の飾り縁を作る。
25:26 その机のために金の環を四個作り、その四隅の四本の足のところにその環を取りつける。
25:27 環はわくのわきにつけ、机をかつぐ棒を入れる所としなければならない。
25:28 棒をアカシヤ材で作り、これに金をかぶせ、それをもって机をかつぐ。
25:29 注ぎのささげ物を注ぐための皿やひしゃく、びんや水差しを作る。これらは純金で作らなければならない。
25:30 机の上には供えのパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする。
レビ 24:5 あなたは小麦粉を取り、それで輪型のパン十二個を焼く。一つの輪型のパンは十分の二エパである。
24:6 それを【主】の前の純金の机の上に、一並び六個ずつ、二並びに置く。
24:7 それぞれの並びに純粋な乳香を添え、【主】への火によるささげ物として、これをパンの記念の部分とする。
24:8 彼は安息日ごとに、絶えずこれを【主】の前に、整えておかなければならない。これはイスラエル人からのものであって永遠の契約である。
24:9 これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、【主】への火によるささげ物のうちから、彼の受け取る永遠の分け前である。」

 パンはキリストご自身と霊魂の必要に対するキリストの供給をあらわしている ヨハネ6:48~58)
ヨハ 6:48 わたしはいのちのパンです。
6:49 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
6:52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。
6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
この象徴的意味は、シナイの荒野において四十年間与えられたマナによってあらわされ、それは「人はパンだけで生きるのではなく神の口から出る一つ一つのことばによる。」(マタイ4;4)という主イエスのことばによって教えられ、主の最後の晩餐によってその真理は教会に永久に保たれることとなったのです。

マタ4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

⑴ パンはキリストの十字架によって分け与えられます。パンは裂いて食されるように、いのちのパンであるキリストは十字架によってご自身の体を引き裂かれて、その命を私たちに分け与えてくださったのです。このことは復活の命がカルバリーの死から生まれることを教えているのです。このパンとは、肉体をとられた救い主イエス・キリストの福音を具体的に示しています。神の受肉されたキリスト、すなわちパンなしに、人を救い、永遠のいのちを与えることはできなかったのです。 供えのパンは12ありました。これはイスラエル十二族のそれぞれにふさわしい十分な備えがなされていることです。キリストの十字架は、全人類の罪を一括して背負われたのではなく、私たち個人個人の罪の一つ一つのために苦しまれたのです。それ故、キリストは個人個人を救われ、個人個人を愛されるのです。

またこのパンはたね入れぬパンでなければなりませんでした。「たね」とは罪と腐敗のことです。キリストは罪なきお方であり、私たちは腐敗しないパンを食べなければならないのです。

⑵ パンは食べられます。これは人間の霊的必要を示しており、また他方、「食べることによって、すなわち信じて受け入れることによって、キリストの永遠のいのちはその人のものとなるのです。このいのちのパンを食べる者には、キリストによる満足感、キリストとの交わりのある生活、罪悪感からの解放の確信と平安の心地好さ、失望と悲しみに打ち勝つキリストの慰め、人の愛に勝るキリストの親しみと愛が与えられるのです。
またパンを食べることによって、体力がついてくるように、私たちはキリストを食べることによって強くされ、手足は神のみこころを行なうことができるようになり、その口は神をほめたたえ、神に祈るようになるのです。それ故、何度もいのちのパンを食べるようにすゝめられた。私たちは毎日、キリストの糧
を食べ、キリストに信頼することによって、日毎に新しい力と恵みを受けることができるのです。
 「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。」 (哀歌3:22~24)

香壇 (出エジプト記30:1~10、34~38)

出30:1 あなたは、香をたくために壇を作る。それは、アカシヤ材で作らなければならない。
30:2 長さ一キュビト、幅一キュビトの四角形で、その高さは二キュビトでなければならない。その一部として角をつける。
30:3 それに、上面と回りの側面と角を純金でかぶせる。その回りに、金の飾り縁を作る。
30:4 また、その壇のために、その飾り縁の下に、二つの金環を作らなければならない。相対する両側に作らなければならない。これらは、壇をかつぐ棒を通す所となる。
30:5 その棒はアカシヤ材で作り、それに金をかぶせる。
30:6 それをあかしの箱をおおう垂れ幕の手前、わたしがあなたとそこで会うあかしの箱の上の『贖いのふた』の手前に置く。
30:7 アロンはその上でかおりの高い香をたく。朝ごとにともしびを整えるときに、煙を立ち上らせなければならない。
30:8 アロンは夕暮れにも、ともしびをともすときに、煙を立ち上らせなければならない。これは、あなたがたの代々にわたる、【主】の前の常供の香のささげ物である。
30:9 あなたがたは、その上で異なった香や全焼のいけにえや穀物のささげ物をささげてはならない。また、その上に、注ぎのぶどう酒を注いではならない。
30:10 アロンは年に一度、贖罪のための、罪のためのいけにえの血によって、その角の上で贖いをする。すなわち、あなたがたは代々、年に一度このために、贖いをしなければならない。これは、【主】に対して最も聖なるものである。」
同 30:34 【主】はモーセに仰せられた。「あなたは香料、すなわち、ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香、これらの香料と純粋な乳香を取れ。これはおのおの同じ量でなければならない。
30:35 これをもって香を、調合法にしたがって、香ばしい聖なる純粋な香油を作る。
30:36 また、そのいくぶんかを細かに砕き、その一部をわたしがあなたとそこで会う会見の天幕の中のあかしの箱の前に供える。これは、あなたがたにとって最も聖なるものでなければならない。
30:37 あなたが作る香は、それと同じ割合で自分自身のために作ってはならない。あなたは、それを【主】に対して聖なるものとしなければならない。
30:38 これと似たものを作って、これをかぐ者はだれでも、その民から断ち切られる。」

香壇も金でつくられており、聖所の第三の備品です。この香壇は通常、至聖所の幕の前に置かれていて、聖所も至聖所も芳しい香りで満ちていました。また香は、先の油と同様模造しないように禁じられており、神聖が保たれていました。

祈り(詩篇141:2、ヨハネの黙示録5:8、同8:3・4)
詩141:2 私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。
黙5:8 彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。
同 8:3 また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。
8:4 香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。

香が祈りのタイプであることは、聖書もすべての聖徒も認めているところです。これはキリストが私たちのために執り成してくださる祈りと、私たちがキリストのみ名によって祈る祈りとをあらわしています。さらにこのよい香りは、神との交わりや愛の息吹をあらわしています。よい香りは呼吸によって感じるものですが、祈りは、芳しい神との交わりや愛の息吹を感じる、快い呼吸なのです。
その最もよい例は、イエス・キリストです。
彼の生涯は祈りで満ちており(マル 1:35 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。)、その生涯を終えようとする時、血の汗を流して切に祈られ (ルカ 22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。)、彼は今も私たちのために執り成しの祈りをしていてくださるのです。
ロマ 8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

ヘブル 7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
主イエスはペテロに「シモンシモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」と言われました。今日、私たちが神の恵みの中にあるのは、主イエスの執り成しの故であることを深く覚えたいと思います。

⑴ 香壇は聖所の中で最も高い所に置かれその香は高く立ちのぼりました。このことは、私たちが祈る時、その祈りは至高者なる神のみもとに達することを意味しています。

⑵ 香壇の縁には冠がついていました。これはキリストの大祭司職をあらわすものです。そしてそれは、キリストが祈り求められるなら、それは不確実な願いではなく、必ず勝利をもって答えられることを意味しています。私たちはキリストのみ名によって祈りますが、これはキリストが私たちの祈りを執り成してくださることを示しています。それ故、私たちがキリストのみこころにかなう祈りをささげるなら、必ず答えられるのです (マルコ11:23・24、ヨハネの手紙第一5:14・15)。
マル11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
11:24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
Ⅰヨハ 5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
5:15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

⑶ 香壇の四隅には角がありました。これはすべての方向に向かって祈ること、すなわち、キリストのすべての民のため、教会のすべての時代のため、地球上のすべての人のために祈ることを教えています。そのためには、私たちは自己中心の思いを除いて祈らなければなりません。

⑷ 香壇には環がついていて、どこにでも移動することができました。これは私たちの行く所どこででも祈ることができることをあらわしています。

⑸ 香はたえず立ちのぼらせていなければなりませんでした。私たちは口で祈るだけでなく、祈りの香りのする生活をするようにすすめられています。

⑹ 香が立ちのぼるには火が必要です。これは祈りが単なる形式的な口上でないことをあらわしています。苦難や問題の中で燃える心をもって祈ることです。火は聖霊です。聖霊は祈りの霊(ゼカリヤ12:10)です。
ゼカ 12:10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。

⑺ 香の成分が完全には知らされていないように、祈りは天的なものであって、私たちには理解できない要素を含んでいます。なぜ答えられない祈りがあるのか、なぜ答えが遅れるのか、自分の祈りはどのように答えられるのか、など、地上の生涯が終わってから明らかにされるものもあります。しかし祈りは答えられると、主イエスは言われました (ルカ11:1~10、同18:1~14)。
ルカ 11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」
11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。
11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
同 18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼ら        にたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。
18:4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
18:5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」
18:6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
18:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
18:8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

⑻ 香物は細かく粉末にせられて燃やされるのです。その一粒一粒の香が燃えて幕屋は香気に満たされたのです。ここにすばらしい真理があります。小さい祈り、小さい心の痛み、小さい課題や願いが主イエスには大切なのです。私たちは小さい祈りは取るに足りないものと思って、祈りもしないことがありますが、実はその小さい祈りが積み重なって、芳しい香りを放つようになるのです。主イエスも小さいものに忠実であった者には大きなものを任せ、主人の喜びに入れてくださると言われました。(マタイ25:21,23)
マタ 25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
マタ 25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』)。
神のみもとに持っていくのに小さすぎるというものは一つもないのです。それをあなたは「小さすぎる」と言うなら、あなたの信仰は現実離れをした宙に浮いたものになるでしょう。小さいものを神のみもとに持っていくためには自分自身が細かく打ち砕かれて、へりくだっていなければなりません。

参考記事:「たけさんのイスラエル紀行(ティムナの幕屋モデル)」

Model of the Tabernacle at Timna(ティムナの幕屋モデル)


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