聖書の探求 (004) 聖書の中のタイプ(予型) 旧約聖書中のタイプ(4) 儀式的タイプ(その2) 

(4)儀式的タイプ(その2)

灯台(燭台)(出エジプト記25:31~40、レビ記24:2~4)

灯台には光と油の二つの要素があります。
光は、自然界において最初に造られたもの(創世記1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。)で、生命が存在するためにはなくてはならないものであり、すべてのものに美と色彩を与え、私たちの自覚や知力や人間関係にすら大きな影響を与えるものです。
また光は、神の臨在の表われです。神はシェキナの光のうちに顕われ、モーセには燃える柴の中に顕われ、シナイの荒野では火の柱のうちに顕われ、ヨハネの黙示録では太陽よりも強く輝く光と、永久に神の御座を照らす栄光の輝きをもって閉じられています。

一方、油もいろいろな意味を持っています。
油は光のための燃料であり、源です。油はそれ自身で命と癒しの恵みを持っています。油は祭司の聖別式にも用いられて、神の聖別の光を放っています。この油は特に神ご自身によって規定されたもので、これと似たものを調合することを厳しく禁じられています(出エジプト記30:32・37・38)。
これは聖なるものであるからです。
このことはクリスチャンにとっても大きな警告です。真の神の恵みではなく、それに似た代用品や模造品、すなわち、人間的な感情、熱心さ、単なる儀式的なもの、その他神秘的なものによる自己満足の危険を教えています。ともすると、私たちは信仰によらないで、自分のあせりやがんばりで神の恵みに似たものを得ようとします。これを警告しているのです。
さて、光と油は灯台によって結び合わされます。この灯台は純金で出来ており、エルサレムを征服した権力者たちの誘惑の的となりローマのタイタスの凱旋門のアーチに、数人のローマ兵によってかつがれている灯台が彫刻されています。これは紀元70年、タイタスがエルサレムを陥落させたとき、この灯台を略奪したことをあらわしているのです。

この灯台は次の三つのことを象徴しています。

(1) キリストが世の光であること (ヨハネ1:4・9、同8:12、同12:35・36、ヨハネの手紙第一1:5)

キリストは真理を悟るための理性の光を人の心に与えられました。また新生した霊魂に霊的光を与えるのもキリストです。そして新しい都エルサレムにおいて、キリストは光そのものであられるのです(黙示録21:23)。
この光は、神的光であり、人間の資源から出たものではありません。私たちが必要としている光は、知者、学者の哲学や理論からでもまた私たちの最も健全な判断から出るものではなく、キリストと彼のみことばから来る神的光でなければなりません。キリストはその光によって、暗黒も困惑も罪悪もすべてを払いのけてくださるのです。

(2) 灯台は聖霊をあらわしている。(ゼカリヤ書4:2~6、ルカ4:18、ヨハネの手紙第一2:27、ヨハネの黙示録1:4)

灯台の油は聖霊をあらわしています。神は聖霊をもって主イエスに油を注がれ、また私たちのうちにも注がれるのです。神は聖霊によって聖書の真理を解き明され、私たちは神に全面的に信頼するとき、光を受けるのです。
ヨハネはその黙示録1章4節において、御座の前に七つの御霊がおられる、といっています。この「七つの御霊」とは、七は完全を意味する数ですから、完全な光、私たちが必要とするすべての光を意味しています。すなわち、平和の霊、神の子たることの霊、喜びの霊、愛の霊、信頼の霊、祈りの霊、聖潔の霊、能力の霊などです。ここには異なった色彩があるようですが、すべては同じ神の光なのです。神はこのような光を持って、私たちの罪を照らし、主イエスの十字架を示し、そして罪より救い出して喜びの中に入れてくださり、幸いな光の中に導いてくださるのです。

(3) 灯台は教会とクリスチャンをあらわしている。(マタイ5:14~16、ヨハネの黙示録1:20)

これはキリストの光をこの暗い世界に対してあかしをする者をあらわしています。私たちが光なるキリストを心に宿すとき、私たち自身がこの世に対して世の光となり、灯台となるのです。灯台が純金であり、その炎が規則正しく燃えているように、クリスチャンが正しい生活をし、信仰と希望によって満ちたりた生活をすることは、周囲の人々に大きな光となるのです。
また灯台は毎日油を注いだり、灯芯を切ったりして整える必要があったように、クリスチャンが毎日聖霊に満たされ、心がきよく保たれ、愛に輝いている時、それは灯台なのです。
この灯台は自分の光を持っているのではなく、光はイエス・キリストからいただいているのです。ここに信仰の秘訣があります。私たちは自分自身の力で立派な人間になるのではなく、キリストに全く信頼することによってキリストの光を輝かすようになるのです。人間的な己のがんばりほど、人間の人格的成長を妨げるものはないのです。私たちの心、態度、ことば、行ないから輝き出る光は、ただキリストに信頼し、彼に従うことによってのみ与えられるものです。私たちの希望、勇気、忍耐力、あらゆるよいものはすべてキリストから与えられるものなのです。

供えのパン (出エジプト記25:23~30、レビ記24:5~9)

パンはキリストご自身と霊魂の必要に対するキリストの供給をあらわしている(ヨハネ6:48~58)
この象徴的意味は、シナイの荒野において四十年間与えられたマナによってあらわされ、それは「人はパンだけで生きるのではなく神の口から出る一つ一つのことばによる。」(マタイ4:4)という主イエスのことばによって教えられ、主の最後の晩餐によってその真理は教会に永久に保たれることとなったのです。

⑴ パンはキリストの十字架によって分け与えられます。パンは裂いて食されるように、いのちのパンであるキリストは十字架によってご自身の体を引き裂かれて、その命を私たちに分け与えてくださったのです。このことは復活の命がカルバリーの死から生まれることを教えているのです。このパンとは、肉体をとられた救い主イエス・キリストの福音を具体的に示しています。神の受肉されたキリスト、すなわちパンなしに、人を救い、永遠のいのちを与えることはできなかったのです。 供えのパンは12ありました。これはイスラエル十二族のそれぞれにふさわしい十分な備えがなされていることです。キリストの十字架は、全人類の罪を一括して背負われたのではなく、私たち個人個人の罪の一つ一つのために苦しまれたのです。それ故、キリストは個人個人を救われ、個人個人を愛されるのです。

またこのパンはたね入れぬパンでなければなりませんでした。「たね」とは罪と腐敗のことです。キリストは罪なきお方であり、私たちは腐敗しないパンを食べなければならないのです。

⑵ パンは食べられます。これは人間の霊的必要を示しており、また他方、「食べることによって、すなわち信じて受け入れることによって、キリストの永遠のいのちはその人のものとなるのです。このいのちのパンを食べる者には、キリストによる満足感、キリストとの交わりのある生活、罪悪感からの解放の確信と平安の心地好さ、失望と悲しみに打ち勝つキリストの慰め、人の愛に勝るキリストの親しみと愛が与えられるのです。
またパンを食べることによって、体力がついてくるように、私たちはキリストを食べることによって強くされ、手足は神のみこころを行なうことができるようになり、その口は神をほめたたえ、神に祈るようになるのです。それ故、何度もいのちのパンを食べるようにすゝめられた。私たちは毎日、キリストの糧
を食べ、キリストに信頼することによって、日毎に新しい力と恵みを受けることができるのです。
 「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。」 (哀歌3:22~24)

香壇 (出エジプト記30:1~10、34~38)

香壇も金でつくられており、聖所の第三の備品です。この香壇は通常、至聖所の幕の前に置かれていて、聖所も至聖所も芳しい香りで満ちていました。また香は、先の油と同様模造しないように禁じられており、神聖が保たれていました。

祈り(詩篇141:2、ヨハネの黙示録5:8、同8:3・4)
香が祈りのタイプであることは、聖書もすべての聖徒も認めているところです。これはキリストが私たちのために執り成してくださる祈りと、私たちがキリストのみ名によって祈る祈りとをあらわしています。さらにこのよい香りは、神との交わりや愛の息吹をあらわしています。よい香りは呼吸によって感じるものですが、祈りは、芳しい神との交わりや愛の息吹を感じる、快い呼吸なのです。
その最もよい例は、イエス・キリストです。
彼の生涯は祈りで満ちており(マル 1:35 )、その生涯を終えようとする時、血の汗を流して切に祈られ(ルカ 22:44 )、彼は今も私たちのために執り成しの祈りをしていてくださるのです。

主イエスはペテロに「シモンシモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」と言われました。今日、私たちが神の恵みの中にあるのは、主イエスの執り成しの故であることを深く覚えたいと思います。

⑴ 香壇は聖所の中で最も高い所に置かれその香は高く立ちのぼりました。このことは、私たちが祈る時、その祈りは至高者なる神のみもとに達することを意味しています。

⑵ 香壇の縁には冠がついていました。これはキリストの大祭司職をあらわすものです。そしてそれは、キリストが祈り求められるなら、それは不確実な願いではなく、必ず勝利をもって答えられることを意味しています。私たちはキリストのみ名によって祈りますが、これはキリストが私たちの祈りを執り成してくださることを示しています。それ故、私たちがキリストのみこころにかなう祈りをささげるなら、必ず答えられるのです (マルコ11:23・24、ヨハネの手紙第一5:14・15)。
マル11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
11:24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
Ⅰヨハ 5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
5:15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

⑶ 香壇の四隅には角がありました。これはすべての方向に向かって祈ること、すなわち、キリストのすべての民のため、教会のすべての時代のため、地球上のすべての人のために祈ることを教えています。そのためには、私たちは自己中心の思いを除いて祈らなければなりません。

⑷ 香壇には環がついていて、どこにでも移動することができました。これは私たちの行く所どこででも祈ることができることをあらわしています。

⑸ 香はたえず立ちのぼらせていなければなりませんでした。私たちは口で祈るだけでなく、祈りの香りのする生活をするようにすすめられています。

⑹ 香が立ちのぼるには火が必要です。これは祈りが単なる形式的な口上でないことをあらわしています。苦難や問題の中で燃える心をもって祈ることです。火は聖霊です。聖霊は祈りの霊(ゼカリヤ12:10)です。
ゼカ 12:10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。

⑺ 香の成分が完全には知らされていないように、祈りは天的なものであって、私たちには理解できない要素を含んでいます。なぜ答えられない祈りがあるのか、なぜ答えが遅れるのか、自分の祈りはどのように答えられるのか、など、地上の生涯が終わってから明らかにされるものもあります。しかし祈りは答えられると、主イエスは言われました (ルカ11:1~10、同18:1~14)。

⑻ 香物は細かく粉末にせられて燃やされるのです。その一粒一粒の香が燃えて幕屋は香気に満たされたのです。ここにすばらしい真理があります。小さい祈り、小さい心の痛み、小さい課題や願いが主イエスには大切なのです。私たちは小さい祈りは取るに足りないものと思って、祈りもしないことがありますが、実はその小さい祈りが積み重なって、芳しい香りを放つようになるのです。主イエスも小さいものに忠実であった者には大きなものを任せ、主人の喜びに入れてくださると言われました。(マタイ25:21,23)神のみもとに持っていくのに小さすぎるというものは一つもないのです。それをあなたは「小さすぎる」と言うなら、あなたの信仰は現実離れをした宙に浮いたものになるでしょう。小さいものを神のみもとに持っていくためには自分自身が細かく打ち砕かれて、へりくだっていなければなりません。

契約の箱と至聖所(出エジプト記25:10~22、ヘブル9:2~5)

上の図は幕屋の想像図、幕屋の中には、聖所と至聖所があり、聖所には「燭台」「備えのパン」「香をたく祭壇」があり、至聖所には「契約の箱」が置かれていた。(「バイブルワールド(地図でめぐる聖書)」、ニック・ペイジ著、いのちのことば社刊、より)

罪人が主イエスの血をとおして入る所(ヘブル10:19-20)

(下の写真の垂れ幕の向こうに至聖所がある)

至聖所には大祭司が一年に一度贖罪の日に血を持って民のあがないのために入ることができました。その聖所と至聖所を隔てていた幕は主イエスが十字架にかかられたとき、引き裂かれました(マタ 27:51 )。

この幕はキリストの肉体です。このとき、キリストをとおしてだれでも神と交わることのできる新時代が到来したのです。旧約の幕はこのことを啓示していたのです。そして今や神殿は私たちの内側にありますが、この内なる神殿にも肉的幕がかかっているならば、これもキリストとともに十字架にかからなければなりません。そのとき神の栄光を見ることができるのです(ガラ 2:20 )。

 次に、契約の箱について考えましょう。

⑴ 箱の中には律法を書いた石の板が二枚あって、私たちの罪を告発しています。そして箱の上から恐るべき神の目が私たちの罪をにらんでいるとしたらどうでしょうか。ところがこの箱には金のふたがあり、これを贖罪所と呼んでいます。このふたの中に小羊の血を入れるのです。すなわち血によって罪がおお
われるのです。「あがない」とはそういう意味です。ダビデも罪がおおわれた喜びを語っています。(詩篇32:1) 

⑵ この贖罪所はキリストをとおして、神と語り合い、交わる特権が与えられることを意味しています。何の恐れも、隔ても、鋳躇もなく、今自分が必要としている恵みを求めて何度でも来ることができるのです。(ヘブル 4:15 、4:16 、同 10:22 )

⑶ 箱は民の先導者でした。モーセが荒野を旅していた時も、ヨルダン川を渡る時も(ヨシュア記3章、4章)、主の箱が先立った。これは偉大な信仰の先導者である主イエスをあらわしています。(ヘブル12:2、ペテロの手紙第一 2:21 )

⑷ 正方形の至聖所も、契約の箱もキリストの完全な義をあらわしています。箱の中には契約の二つの板と芽を出したアロンの枚とマナのはいった金のツボがありました。(ヘブル9:4) 

契約の石板は律法、すなわちキリストの全き義です。芽ざしたアロンの杖は常に新鮮なキリストの命、つぼのマナは神が備えてくださるいのちのパンを示しています。

(5) 贖罪所をおおっているケルビム(天使)は、獅子と牛と人と鷲の四つの顔を持っています。(エゼキエル書1:4~14、同10:9~22、ヨハネの黙示録4:7~8)。

これらはキリストの特性を表わしています。獅子はキリストの王としての権威、これはマタイの福音書が語っており、牛はキリストのしもべとしての姿、これはマルコの福音書が語っており、人は人の子としてのキリスト、これはルカの福音書が語っており、鷲は神としての崇高なキリスト、これはヨハネの福音書が語っています。

最後に、契約の箱と至聖所は、キリストの再臨によって出現する永遠の世界の栄光のタイプです。すなわち、日月が照らす必要のない、小羊があかりであると言われている都、その都の栄光そのものである御方の御臨在のタイプなのです(ヨハネの黙示録21章、22章)。

参考記事:「たけさんのイスラエル紀行(ティムナの幕屋モデル)」


http://israel.bona.jp/wp/archives/4648/

上記文書中の写真はすべて、イスラエルのティムナ国立公園に造られた「幕屋の実物大模型」におけるもので、2013年の訪問時に撮影したものです。


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