聖書の探求(003) 聖書の中のタイプ(予型) 旧約聖書中のタイプ(3) 儀式的タイプ(1)

(3)儀式的タイプ(その1)

これは、旧約時代の儀式で用いられていたものが新約のタイプとなっている場合です。たとえば、先にお話した過越は、過越の祭としてイスラエルの民に引き継がれていましたが、これは明らかにイエス・キリストの十字架を表わしています。あるいはモーセがシナイの荒野で旗ざおの上に挙げた青銅の蛇(民数記21:8,9)も、イエス・キリストの十字架のタイプであることは明らかです(ヨハネ3.14)。
ここでは特に、主を礼拝する場所であった幕屋について考えてみましょう。

上の図は幕屋の想像図、幕屋の中には、聖所と至聖所があり、聖所には「燭台」「備えのパン」「香をたく祭壇」があり、至聖所には「契約の箱」が置かれていた。(「バイブルワールド(地図でめぐる聖書)」、ニック・ペイジ著、いのちのことば社刊、より)

幕屋そのもの

キリストの肉体 (ヘブル10:20、ヨハネ1:14)

幕屋は、神の臨在が人の目に見える形であらわされたものです。幕屋の内側は神の臨在で輝いていましたが、外側は獣の皮でおおった見映えのしないものでした。預言者イザヤはキリストを預言するにあたって、これと全く同じことを言っています。
「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」 (イザヤ53:2)

教会(マタイ16:18)
幕屋は神が臨在される場所であるとともに、人が神を礼拝する場所でもありました。主イエスはこう約束してくださいました。
「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)
これが教会の本当の姿です。確かに使徒たちは集まると、そこに主イエスがおいでになるのだと意識していたことは事実です。今日のクリスチャンはもう一回この意識を取り戻す必要があると思います。

クリスチャン (コリント第1 3:9~17、同6:19、コリント第二 6:16、エペソ2:21,22)
新約聖書では、神はクリスチャンの内側に住まわれることを強調しています。ですから、実に私たち自身が神の幕屋であり、神殿なのです。だから神殿を汚したり、無茶苦茶に使うということは許されないことです。パウロが言っているとおり、「神の栄光をあらわす」(コリント第1 6:20、同10:31)ように使ってこそ幸いなのです。

祭壇の血

キリストの血(レビ記17:11、ヨハネ6:54~56、コリント第1 6:19,20、ヘブル9:1~28、10:~20、ペテロ第1 1:18,19、ヨハネ第一1:7、ヨハネの黙示録5:6、12)
旧約時代には、朝ごとに夕ごとに人の罪のための犠牲として小羊の血が祭壇の上で流されていました。そして一年に一度、大いなる贖罪の日に大祭司は、その小羊の血を携えて至聖所に入ることがゆるされ、民の罪のために執り成しをしたのです。イエス・キリストが十字架にかかられた日は、ちょうどこの大いなる贖罪の日でした。彼が十字架上で命を御父に渡されたその時、神殿の至聖所の隔ての幕は上から下まで引き裂かれました(ルカ23:45)
これはすなわち、旧約の獣による犠牲の時代は終わり、すべての人の罪のためにイエス・キリストが犠牲となられたことを意味しています。このキリストの犠牲は完全である故に、もはや獣の犠牲は必要がなくなったのです。実に、バプテスマのヨハネが叫んだように、イエス・キリストは「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)なのです。
それ故、もはや人間の大祭司は必要なく、だれでもイエス・キリストをとおして神に近づき、罪の赦しを受け、神と交わることができるのです。これが至聖所の隔ての幕が引き裂かれた意味です。神はイエス・キリストの十字架を教えるために旧約時代約1400年間も小羊の犠牲をもって示されました。ここに、神のご教導がいかに忍耐深いものであるかが分かります。神がキリストの十字架を分からせてくださるためにモーセ以来1400年も費されたとすれば、私たちの伝道が困難でもがっかりできません。

「祭壇の血」は聖書の中心メッセージですから、もう少し詳しく説明しておきましょう。

犠牲の儀式についてはレビ記に詳しく記されていますので、ぜひ心を用いて読んでいただきたいと思います。

幕屋の入口を入ると、すぐ目にはいってくるのが祭壇です。この祭壇にはすべての人が近づくことができます。そこには絶えず火が燃えており、毎日新しい犠牲がささげられ、だれでも神に近づこうとする者は、この祭壇から犠牲の血を取り、聖所に近づくのです。もしこれをしなければ、その人は即刻、死をもって撃たれたのです。この祭壇の血は、神に近づき、神を礼拝し、神と交わり、さらに奥の至聖所に至るための不可欠の条件であり、神と人との関係を結ぶ根底となるものでした。

このことは、新約の私たちに三つのことを教えています。

第一は、祭壇が幕屋の入口に置かれているように、キリストの十字架を私たちの信仰生活の入口に置かなければならないことです。自分の罪のためにイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことを信じることが、クリスチャン生活の入口です。

第二は、祭司や大祭司が聖所や至聖所に入るのに祭壇の血が必要であったように、私たちにとって、地上生活でも、天の御国に入るときでも、キリストの血が唯一の必要なものであるということです。祈るときにもキリストの血に対する信頼が必要です。心に傷を受けたり、重荷を負っているときも、キリストの十字架のもとに荷をおろし、慰めていただかなければなりません。キリストの血から離れては、平安な生活はなく、確信も力も持つことができません。今や私たちは、キリストの血さえあれば、毎日、至聖所の生活を営むことができるのです。これが信仰生活の奥義です。

第三は、祭壇にはすべての人が近づけたように、キリストの血による贖罪の恵みも、すべての人に必要であると共に、すべての人に充分な恵みです。しかしこれは、イエス・キリストを信じる人にのみ与えられるのです。

次に、聖書中、特に血について強調されていることを七つご紹介しておきましょう。

1、出エジプト記12章

イスラエルの人々がモーセに率いられてエジプトを脱出するとき、彼らは家々の門柱とかもいに小羊の血をぬり、それによって彼らは神の裁きによる死を免れ、安全を保ちました。これはキリストの贖罪の血を意味しています。(コリント第一5:7)
私もあなたも滅びに定められたけれども、キリストは私たちを贖われました。彼は私をもあなたをも個人的に買い取られたのです。彼は滅びの中にいた私たちを発見し、私たちの責任をご自分で引き受け、苦しまれたのです。そして個人的に愛してくださり、その血によって、罪の奴隷とその刑罰から解放してくださったのです。
「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、賛美を受けるにふさわしい方です。(ヨハネの黙示録5:12)

2、ヨハネの手紙第一、2:2,4:10
祭壇の血は、罪に対する神の御怒りをなだめるための血です。なだめの供え物とは、罪咎を洗い去る血、罪の負債を払う血、私たちのなすべき義務を代わって果す血、人の死に代わるキリストの死、そして私たちに永遠の命を与えられる血です。キリストは私たちの罪のためのなだめの供え物となって、私たちの罪の負債を払われたのです。それ故、私たちは罪が赦されるだけでなく、罪の支配からも解放されて自由になることができるのです。

3、レビ記14章には、らい病人のきよめの為に小鳥の血が注がれています。

キリストもまた、らい病人をきよめられました。(マタイ8:1~4)
聖書中、らい病人とは特別な意味を持っています。それはきよめられなければならない罪の根、罪の汚れを示しています。らい病がその人のすべてを滅ぼすように罪の性質はその人を滅びに陥れるのです。
「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」 (ヨハネの手紙第一 1:7)
キリストの血は私たちの霊的らい病、すなわち罪の汚れをきよめるのです。古い命を取り除き、新しい神の命を私たちの本質の中に満たされるのです。キリストの血によって、私たちは身も心もきよめられ、新しい人となります。これは単なる理論や思想的な教義ではありません。(コリント第二 5:17)

4、レビ記において神との契約はすべて血によって証印され、保証されています。
キリストの血は契約の血でもあります。キリストの血を信じて受け入れるなら、神はその契約を確実に果してくださるのです。

5、 レビ記8:14~36 祭司の右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に血がぬられました。
これは祭司が神のために聖別されたことを示しています。その如く、私たちもキリストの血によって聖別されているのです。その耳にて神のみ声を聞き、その手にて神のみこころを行ない、その足にて神の道を歩むために聖別されているのです。これがクリスチャンの生活です。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント第一6・20)

6、レビ記16章 垂れ幕の内側の贖罪の箱の上の「贖いのふた」に血が注がれています。
当時、神はここから人に語られ、ここから神の栄光は発していたのです。大祭司であっても血を携えずに贖いの箱の前に立つことは許されていませんでした。イエス・キリストは実に、ここにご自分の血を注いでくださったのです。それ故、私たちは躊躇することなく、神の臨在の中に入ることができ、神と語ることができるのです。キリストは注ぎの血であるとともに、それを注がれた真の大祭司として私たちのために執り成してくださるのです。
「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)

7、ヨハネ6・54~56 キリストの血は彼の命です。
そしてそれは信じる私たちの命にもなるのです。彼の血を信じる者は永遠のいのちを持っているのです。これはキリストの血による契約です。私たちはキリストの血によって新しい命を持ち、死にも打ち勝つことができるのです。そればかりでなく、疲れた心をいやし、冷やかになった愛に火をつけ、弱い意志を強めるのです。私たちはいつも生けるキリストの血が必要なのです。私たちの体に、いつも新鮮な血が必要なように、霊魂にも新鮮なキリストの血が必要です。

祭司

仲保者としてのキリスト(ヘブル2:17、同5;1~10、同7:1~28、ローマ8:34、ヨハネ第一2:1)

祭司は旧約において特に、民の罪の購いと執り成しのつとめを果しました。イエス・キリストは私たちの罪のために自らが儀牲となり、ご自分でささげて祭司のつとめも果されました。これが父なる神に受け入れられたことは、彼の復活と昇天によって確証されました。そればかりでなく、主は今も私たちひとり一人のために心配し、執り成していてくださるのです。

クリスチャンの祭司職(ペテロ第一2:5・9)

旧約時代には、民は祭司をとおしてしか、神のみこころを知ることができず、神に祈り、神と交わることができませんでした。しかしイエス・キリストの十字架以後、人による祭司制度は終わり、だれでもイエス・キリストをとおして神に近づき、神に祈り、神と交わり、神のみこころを知ることができるようになったのです。これがクリスチャンの祭司職です。カトリックはこの点で誤っています。

洗盤 (出エジプト記30:17~21、ヨハネ13:8~10)

洗盤は青銅でつくられ、その中には水が入っていました。洗盤は祭壇の次、会見の幕屋との間に置かれていました。

洗盤で強調されているものは水です。

水は旧約においても新約においても重要です。水は、潔いこと、生かす命、力、豊かさなど霊的なことを表わしています。

・エデンの園には四つの川が流れて園をうるおしていました。(創世記2:10~14)

これは人類に与えられた神の恩寵の表われでした。

ヨハネの黙示録22章を見ると、神の都にはいのちの水の川があります。そして「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」といって、この預言が結ばれています。神はエデンの園で失われたものを、神の国で回復しておられます。

・神はハガルの目を開いて、彼女の息子のために井戸を見つけさせました。(創世記21:19)
・モーセは放浪の民のために岩を打って水を得ました。(出エジプト記17:6)
・ヨシャパテ王はエドムの方から流れてきた水によって勝利を得(列王記第2、3章)、
・ナアマンはヨルダン川の水に七度浸って、らい病がいやされました。(列王記第2、5章)
・エゼキエルは神殿の敷居の下から流れ出ている大河があらゆる生物を生かしている幻を見(エゼキエル書47章)
・ゼカリヤは「罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。」(ゼカリヤ書13:1)と預言しました。
・バプテスマのヨハネは水によって悔い改めのバプテスマを授け、主の道を備えるために働いたのです。 (マタイ3章)。

私たちが救われるためには悔い改めと信仰が必要であることを、これは教えています。

イエス・キリストはさらに一歩すすめて新生と聖化をあらわすものとして水を用いました。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」(ヨハネ3:5)

さらにヨハネ7:37~39では、エゼキエル書47章の神殿の下から出る大河の預言の成就と思われる生ける水の川について語られました。
またご自分が十字架の上で刺された時、血と水を流されたのです。(ヨハネ19:34)
その他、新約聖書の手紙の中には、聖潔のタイプとしての水をいくつも見ることができます。(使徒22:16、コリント第一6:11、エペソ5:26、テトス3:5、ヘブル10:22、ペテロ第一3:21等)

(タイプについては重要なので、少し詳しくなりました。儀式的タイプではあと、灯台、供えのパン、香壇、契約の箱が残りました。)

参考記事:「たけさんのイスラエル紀行(ティムナの幕屋モデル)」


http://israel.bona.jp/wp/archives/4648/

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