聖書の探求_004 聖書の中のタイプ(予型) 旧約聖書中のタイプ (3) 儀式的タイプ(その1)

「けれども、あなたは学んで確信したところにとどまっていなさい。」(テモテ第二 3:14)


③儀式的タイプ

これは、旧約時代の儀式で用いられていたものが新約のタイプとなっている場合です。たとえば、先にお話した過越は、過越の祭としてイスラエルの民に引き継がれていましたが、これは明らかにイエス・キリストの十字架を表わしています。あるいはモーセがシナイの荒野で旗ざおの上に挙げた青銅の蛇(民数記21:8,9)も、イエス・キリストの十字架のタイプであることは明らかです(ヨハネ3.14)。
民 21:8 すると、【主】はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。
ヨハ 3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

ここでは特に、主を礼拝する場所であった幕屋について考えてみましょう。

幕屋そのもの

キリストの肉体 (ヘブル10:20、ヨハネ1:14)

ヘブル10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
ヨハ 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

幕屋は、神の臨在が人の目に見える形であらわされたものです。幕屋の内側は神の臨在で輝いていましたが、外側は獣の皮でおおった見映えのしないものでした。預言者イザヤはキリストを預言するにあたって、これと全く同じことを言っています。
「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」 (イザヤ53:2)

教会 (マタイ16:18)

マタ 16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
幕屋は神が臨在される場所であるとともに、人が神を礼拝する場所でもありました。主イエスはこう約束してくださいました。
「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)
これが教会の本当の姿です。確かに使徒たちは集まると、そこに主イエスがおいでになるのだと意識していたことは事実です。今日のクリスチャンはもう一回この意識を取り戻す必要があると思います。

クリスチャン (コリント第1 3:9~17、同6:19、コリント第二 6:16、エペソ2:21,22)

Ⅰコリ 3:9 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。
3:10 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。
3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
3:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
3:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
3:17 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
Ⅱコリ 6:16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
エペ 2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。
新約聖書では、神はクリスチャンの内側に住まわれることを強調しています。ですから、実に私たち自身が神の幕屋であり、神殿なのです。だから神殿を汚したり、無茶苦茶に使うということは許されないことです。パウロが言っているとおり、「神の栄光をあらわす」(コリント第1 6:20、同10:31)ように使ってこそ幸いなのです。
Ⅰコリ 6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。
同10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。

祭壇の血

 キリストの血(レビ記17:11、ヨハネ6:54~56、コリント第1 6:19・20、ヘブル9:1~28、10:1~20、ペテロ第1 1:18・19、ヨハネ第1 1:7、ヨハネの黙示録5:6、12)

レビ 17:11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。
ヨハ 6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
Ⅰコリ 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。
ヘブル 9:1 初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。
9:2 幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。
9:3 また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、
9:4 そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入った金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。
9:5 また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません。
9:6 さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつも入って礼拝を行うのですが、
9:7 第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。
9:8 これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。
9:9 この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
9:10 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。
9:11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
9:13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。
9:16 遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。
9:17 遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力はありません。
9:18 したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。
9:19 モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、
9:20 「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言いました。
9:21 また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。
9:22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
9:23 ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
9:24 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。
9:25 それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
9:26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
9:28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

同 10:1 律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。
10:2 もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。
10:3 ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。
10:4 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
10:5 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
10:6 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
10:7 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」
10:8 すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした」と言い、
10:9 また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。
10:10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
10:11 また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。
10:12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
10:13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
10:14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
10:15 聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。
10:16 「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。
10:17 「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」
10:18 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。
10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
Ⅰペテ1:18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
Ⅰヨハ1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
黙5:6 さらに私は、御座──そこには、四つの生き物がいる──と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。
同5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
旧約時代には、朝ごとに夕ごとに人の罪のための犠牲として小羊の血が祭壇の上で流されていました。そして一年に一度、大いなる贖罪の日に大祭司は、その小羊の血を携えて至聖所に入ることがゆるされ、民の罪のために執り成しをしたのです。イエス・キリストが十字架にかかられた日は、ちょうどこの大いなる贖罪の日でした。彼が十字架上で命を御父に渡されたその時、神殿の至聖所の隔ての幕は上から下まで引き裂かれました(ルカ23:45)
ルカ 23:45 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。
これはすなわち、旧約の獣による犠牲の時代は終わり、すべての人の罪のためにイエス・キリストが犠牲となられたことを意味しています。このキリストの犠牲は完全である故に、もはや獣の犠牲は必要がなくなったのです。実に、バプテスマのヨハネが叫んだように、イエス・キリストは「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)なのです。
ヨハ 1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
それ故、もはや人間の大祭司は必要なく、だれでもイエス・キリストをとおして神に近づき、罪の赦しを受け、神と交わることができるのです。これが至聖所の隔ての幕が引き裂かれた意味です。神はイエス・キリストの十字架を教えるために旧約時代約1400年間も小羊の犠牲をもって示されました。ここに、神のご教導がいかに忍耐深いものであるかが分かります。神がキリストの十字架を分からせてくださるためにモーセ以来1400年も費されたとすれば、私たちの伝道が困難でもがっかりできません。

「祭壇の血」は聖書の中心メッセージですから、もう少し詳しく説明しておきましょう。

犠牲の儀式についてはレビ記に詳しく記されていますので、ぜひ心を用いて読んでいただきたいと思います。

幕屋の入口を入ると、すぐ目にはいってくるのが祭壇です。この祭壇にはすべての人が近づくことができます。そこには絶えず火が燃えており、毎日新しい犠牲がささげられ、だれでも神に近づこうとする者は、この祭壇から犠牲の血を取り、聖所に近づくのです。もしこれをしなければ、その人は即刻、死をもって撃たれたのです。この祭壇の血は、神に近づき、神を礼拝し、神と交わり、さらに奥の至聖所に至るための不可欠の条件であり、神と人との関係を結ぶ根底となるものでした。

このことは、新約の私たちに三つのことを教えています。

第一は、祭壇が幕屋の入口に置かれているように、キリストの十字架を私たちの信仰生活の入口に置かなければならないことです。自分の罪のためにイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことを信じることが、クリスチャン生活の入口です。

第二は、祭司や大祭司が聖所や至聖所に入るのに祭壇の血が必要であったように、私たちにとって、地上生活でも、天の御国に入るときでも、キリストの血が唯一の必要なものであるということです。祈るときにもキリストの血に対する信頼が必要です。心に傷を受けたり、重荷を負っているときも、キリストの十字架のもとに荷をおろし、慰めていただかなければなりません。キリストの血から離れては、平安な生活はなく、確信も力も持つことができません。今や私たちは、キリストの血さえあれば、毎日、至聖所の生活を営むことができるのです。これが信仰生活の奥義です。

第三は、祭壇にはすべての人が近づけたように、キリストの血による贖罪の恵みも、すべての人に必要であると共に、すべての人に充分な恵みです。しかしこれは、イエス・キリストを信じる人にのみ与えられるのです。

次に、聖書中、特に血について強調されていることを七つご紹介しておきましょう。

1、出エジプト記12章

イスラエルの人々がモーセに率いられてエジプトを脱出するとき、彼らは家々の門柱とかもいに小羊の血をぬり、それによって彼らは神の裁きによる死を免れ、安全を保ちました。これはキリストの贖罪の血を意味しています。(コリント第一5:7)
Ⅰコリ5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
私もあなたも滅びに定められたけれども、キリストは私たちを贖われました。彼は私をもあなたをも個人的に買い取られたのです。彼は滅びの中にいた私たちを発見し、私たちの責任をご自分で引き受け、苦しまれたのです。そして個人的に愛してくださり、その血によって、罪の奴隷とその刑罰から解放してくださったのです。
「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、賛美を受けるにふさわしい方です。(ヨハネの黙示録5:12)
黙5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

2、ヨハネの手紙第一、2:2,4:10

Ⅰヨハ2:2 この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。
同4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
祭壇の血は、罪に対する神の御怒りをなだめるための血です。なだめの供え物とは、罪咎を洗い去る血、罪の負債を払う血、私たちのなすべき義務を代わって果す血、人の死に代わるキリストの死、そして私たちに永遠の命を与えられる血です。キリストは私たちの罪のためのなだめの供え物となって、私たちの罪の負債を払われたのです。それ故、私たちは罪が赦されるだけでなく、罪の支配からも解放されて自由になることができるのです。

3、レビ記14章には、らい病人のきよめの為に小鳥の血が注がれています。

キリストもまた、らい病人をきよめられました。(マタイ8:1~4)
マタ 8:1 イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。
8:2 すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」
8:3 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。
8:4 イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」
聖書中、らい病人とは特別な意味を持っています。それはきよめられなければならない罪の根、罪の汚れを示しています。らい病がその人のすべてを滅ぼすように罪の性質はその人を滅びに陥れるのです。
「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」 (ヨハネの手紙第一 1:7)
Ⅰヨハ1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
キリストの血は私たちの霊的らい病、すなわち罪の汚れをきよめるのです。古い命を取り除き、新しい神の命を私たちの本質の中に満たされるのです。キリストの血によって、私たちは身も心もきよめられ、新しい人となります。これは単なる理論や思想的な教義ではありません。(コリント第二 5:17)
Ⅱコリ5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

4、レビ記において神との契約はすべて血によって証印され、保証されています。

キリストの血は契約の血でもあります。キリストの血を信じて受け入れるなら、神はその契約を確実に果してくださるのです。
 「神の約束はことごとく、この方において『しかり。』となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン。』と言い、神に栄光を帰するのです。」(コリント第二1:20)

5、 レビ記8:14~36

レビ8:14 ついで彼は罪のためのいけにえの雄牛を近寄せた。そこでアロンとその子らは、その罪のためのいけにえの雄牛の頭の上に手を置いた。
8:15 こうしてそれはほふられた。モーセはその血を取り、指でそれを祭壇の回りの角に塗り、こうして祭壇をきよめ、その残りの血を祭壇の土台に注いで、これを聖別し、それの贖いをした。
8:16 モーセはさらに、その内臓の上の脂肪全部と肝臓の小葉、二つの腎臓とその脂肪を取り、それを祭壇の上で焼いて煙にした。
8:17 しかし、その雄牛、すなわちその皮とその肉とその汚物は、宿営の外で火で焼いた。【主】がモーセに命じられたとおりである。
8:18 次に、彼は全焼のいけにえの雄羊を連れ出した。アロンとその子らはその雄羊の頭の上に手を置いた。
8:19 こうしてそれはほふられた。モーセはその血を祭壇の回りに注ぎかけた。
8:20 さらに、その雄羊を部分に切り分け、モーセはその頭とその切り分けたものと内臓の脂肪を焼いて煙にした。
8:21 それから、その内臓と足を水で洗い、モーセはその雄羊全部を祭壇の上で焼いて煙にした。これはなだめのかおりとしての全焼のいけにえで、【主】への火によるささげ物であった。【主】がモーセに命じられたとおりである。
8:22 次に、彼はもう一頭の雄羊、すなわち任職の雄羊を連れ出した。アロンとその子らはその雄羊の頭の上に手を置いた。
8:23 こうしてそれはほふられた。モーセはその血を取り、それをアロンの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗った。
8:24 さらに、モーセはアロンの子らを近づかせ、その血を彼らの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗り、モーセはその血の残りを祭壇の回りに注ぎかけた。
8:25 それから彼はその脂肪、すなわちあぶら尾、それと内臓の上の脂肪全部、また肝臓の小葉、および二つの腎臓とその脂肪、それからその右のももを取った。
8:26 それにまた、【主】の前にある種を入れないパンのかごから、種を入れない輪型のパン一個と、油を入れた輪型のパン一個と、せんべい一個とを取り、それをその脂肪と右のももの上に置いた。
8:27 それから、彼は、その全部をアロンの手のひらとその子らの手のひらに載せ、奉献物として【主】に向かって揺り動かした。
8:28 ついで、モーセはそれらを彼らの手のひらから取り、祭壇の上で、全焼のいけにえとともにそれを焼いて煙にした。これらは、なだめのかおりとしての任職のいけにえであり、【主】への火によるささげ物である。
8:29 モーセはまた、その胸を取り、奉献物として【主】に向かって揺り動かした。これは任職のいけにえの雄羊のうちからモーセの分となるもので、【主】がモーセに命じられたとおりである。
8:30 それから、モーセはそそぎの油と、祭壇の上の血を取り、それをアロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束の上に振りかけて、アロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束を聖別した。
8:31 そして、モーセはまた、アロンとその子らに言った。「会見の天幕の入口の所で、その肉を煮なさい。そしてそこで、それを任職のかごにあるパンといっしょに食べなさい。私が、アロンとその子らはそれを食べよと言って命じたとおりに。
8:32 しかし、肉やパンの残りは火で焼かなければならない。
8:33 また、あなたがたの任職の期間が終了する日までの七日間は、会見の天幕の入口から出てはならない。あなたがたを祭司職に任命するには七日を要するからである。
8:34 きょうしたことは、あなたがたの贖いをするように【主】が命じられたとおりである。
8:35 あなたがたは会見の天幕の入口の所で、七日の間、昼も夜もとどまり、【主】の戒めを守らなければならない。死なないためである。私はそのように命じられたのである。」
8:36 こうしてアロンとその子らは、【主】がモーセを通して命じられたことを残らず行った。

祭司の右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に血がぬられました。これは祭司が神のために聖別されたことを示しています。その如く、私たちもキリストの血によって聖別されているのです。その耳にて神のみ声を聞き、その手にて神のみこころを行ない、その足にて神の道を歩むために聖別されているのです。これがクリスチャンの生活です。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント第1 6・20)
Ⅰコリ 6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

6、レビ記16章

垂れ幕の内側の贖罪の箱の上の「贖いのふた」に血が注がれています。当時、神はここから人に語られ、ここから神の栄光は発していたのです。大祭司であっても血を携えずに贖いの箱の前に立つことは許されていませんでした。イエス・キリストは実に、ここにご自分の血を注いでくださったのです。それ故、私たちは躊躇することなく、神の臨在の中に入ることができ、神と語ることができるのです。キリストは注ぎの血であるとともに、それを注がれた真の大祭司として私たちのために執り成してくださるのです。
 「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)

7、ヨハネ6・54~56

ヨハ 6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
キリストの血は彼の命です。そしてそれは信じる私たちの命にもなるのです。彼の血を信じる者は永遠のいのちを持っているのですこれはキリストの血による契約です。私たちはキリストの血によって新しい命を持ち、死にも打ち勝つことができるのです。そればかりでなく、疲れた心をいやし、冷やかになった愛に火をつけ、弱い意志を強めるのです。私たちはいつも生けるキリストの血が必要なのです。私たちの体に、いつも新鮮な血が必要なように、霊魂にも新鮮なキリストの血が必要です。

祭司

仲保者としてのキリスト(ヘブル2:17、同5;1~10、同7:1~28、ローマ8:34、ヨハネ第一2:1)

ヘブル 2:17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
同 5:1 大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。
5:2 彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。
5:3 そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。
5:4 まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。
5:5 同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われた方が、それをお与えになったのです。
5:6 別の個所で、こうも言われます。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」
5:7 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。
5:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
5:9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、
5:10 神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。
同7:1 このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。
7:2 またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。
7:3 父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。
7:4 その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。
7:5 レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、自分もアブラハムの子孫でありながら、民から、すなわち彼らの兄弟たちから、十分の一を徴集するようにと、律法の中で命じられています。
7:6 ところが、レビ族の系図にない者が、アブラハムから十分の一を取って、約束を受けた人を祝福したのです。
7:7 いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。
7:8 一方では、死ぬべき人間が十分の一を受けていますが、他の場合は、彼は生きているとあかしされている者が受けるのです。
7:9 また、いうならば、十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して十分の一を納めているのです。
7:10 というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。
7:11 さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、──民はそれを基礎として律法を与えられたのです──それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。
7:12 祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、
7:13 私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。
7:14 私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。
7:15 もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。
7:16 その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。
7:17 この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」
7:18 一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、
7:19 ──律法は何事も全うしなかったのです──他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。
7:20 また、そのためには、はっきりと誓いがなされています。
7:21 ──彼らの場合は、誓いなしに祭司となるのですが、主の場合には、主に対して次のように言われた方の誓いがあります。「主は誓ってこう言われ、みこころを変えられることはない。『あなたはとこしえに祭司である。』」──
7:22 そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。
7:23 また、彼らの場合は、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。
7:24 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
7:26 また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。
7:27 ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。
7:28 律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。
ロマ 8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
Ⅰヨハ2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。

祭司は旧約において特に、民の罪の購いと執り成しのつとめを果しました。イエス・キリストは私たちの罪のために自らが儀牲となり、ご自分でささげて祭司のつとめも果されました。これが父なる神に受け入れられたことは、彼の復活と昇天によって確証されました。そればかりでなく、主は今も私たちひとり一人のために心配し、執り成していてくださるのです。

クリスチャンの祭司職   (ペテロ第一2:5・9)

Ⅰペテ2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
同2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
旧約時代には、民は祭司をとおしてしか、神のみこころを知ることができず、神に祈り、神と交わることができませんでした。しかしイエス・キリストの十字架以後、人による祭司制度は終わり、だれでもイエス・キリストをとおして神に近づき、神に祈り、神と交わり、神のみこころを知ることができるようになったのです。これがクリスチャンの祭司職です。カトリックはこの点で誤っています。

洗盤 (出エジプト記30:17~21、ヨハネ13:8~10)

出30:17 【主】はまたモーセに告げて仰せられた。
30:18 「洗いのための青銅の洗盤と青銅の台を作ったなら、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。
30:19 アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。
30:20 彼らが会見の天幕に入るときには、水を浴びなければならない。彼らが死なないためである。また、彼らが、【主】への火によるささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、
30:21 その手、その足を洗う。彼らが死なないためである。これは、彼とその子孫の代々にわたる永遠のおきてである。」
ヨハ 13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」

洗盤は青銅でつくられ、その中には水が入っていました。洗盤は祭壇の次、会見の幕屋との間に置かれていました。

洗盤で強調されているものは水です。

水は旧約においても新約においても重要です。水は、潔いこと、生かす命、力、豊かさなど霊的なことを表わしています。

・エデンの園には四つの川が流れて園をうるおしていました。(創世記2:10~14)

これは人類に与えられた神の恩寵の表われでした。
創 2:10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。
2:12 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。
2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。
2:14 第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。
ヨハネの黙示録22章を見ると、神の都にはいのちの水の川があります。そして「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」といって、この預言が結ばれています。神はエデンの園で失われたものを、神の国で回復しておられます。

・神はハガルの目を開いて、彼女の息子のために井戸を見つけさせました。(創世記21:19)

創 21:19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。

・モーセは放浪の民のために岩を打って水を得ました。(出エジプト記17:6)

出17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。

・ヨシャパテ王はエドムの方から流れてきた水によって勝利を得(列王記第2、3章)、

列王記大2,3章(聖書参照)

・ナアマンはヨルダン川の水に七度浸って、らい病がいやされました。(列王記第2、5章)

列王記第2、5章(聖書参照)

・エゼキエルは神殿の敷居の下から流れ出ている大河があらゆる生物を生かしている幻を見(エゼキエル書47章)
・ゼカリヤは「罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。」(ゼカリヤ書13:1)と預言しました。
・バプテスマのヨハネは水によって悔い改めのバプテスマを授け、主の道を備えるために働いたのです。 (マタイ3章)。

 

私たちが救われるためには悔い改めと信仰が必要であることを、これは教えています。

イエス・キリストはさらに一歩すすめて新生と聖化をあらわすものとして水を用いました。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」(ヨハネ3:5)
ヨハ3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
 サマリヤの女に向かってはキリストの与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命の水がわき出ると言われました。(ヨハネ4:14)
ヨハ 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
さらにヨハネ7:37~39では、エゼキエル書47章の神殿の下から出る大河の預言の成就と思われる生ける水の川について語られました。
ヨハ 7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
またご自分が十字架の上で刺された時、血と水を流されたのです。(ヨハネ19:34)
ヨハ 19:34 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。

その他、新約聖書の手紙の中には、聖潔のタイプとしての水をいくつも見ることができます。(使徒22:16、コリント第一6:11、エペソ5:26、テトス3:5、ヘブル10:22、ペテロ第一3:21等)
使 22:16 さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』
Ⅰコリ 6:11 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。
エペ 5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
テトス3:5 神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
ヘブル10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
Ⅰペテ3:21 そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。

(タイプについては重要なので、少し詳しくなりました。儀式的タイプではあと、灯台、供えのパン、香壇、契約の箱が残りました。)

参考記事:「たけさんのイスラエル紀行(ティムナの幕屋モデル)」

Model of the Tabernacle at Timna(ティムナの幕屋モデル)


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