聖書の探求(005) 聖書の中のタイプ(予型) その他のタイプ、モーセの五書

〔付〕バプテスマ(洗礼)の起源と意味

バプテスマは、旧約の儀式とはいえませんが、ペテロが、ノアの洪水のとき、八人の人々が箱舟の中で、水を通って救われたのが、バプテスマを示した型だ(ペテロの手紙第一 3章20,21節)と言っていますので、ここで少し触れておきたいと思います。

ペテロは、ここで、「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」(21節)と言っています。

またパウロは、モーセとイスラエルの民が紅海を渡ったことをバブテスマのタイプとして取り上げています。(コリント人への手紙第一 10:1 )

さらにパウロは、旧約の割礼をクリスチャンのバプテスマの起源として採用しています。(コロサイ人への手紙 2:11 ,12)

先の二つのノアの洪水と紅海渡過は水が強調されています。ここで思いめぐらしてみますと、

創世記1章2節を見ますと、「やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」とあります。つまり神のことばによって光が出現する前に、地は水でおおわれ、やみに包まれていたのです。それはまさに死の状態です。光の出現によってやみは追いやられ、次に水と水が分けられて命が誕生していったのです。このことは非常に霊的なことです。光をキリストと考えるなら、地(人類)はキリストに出会うまで、やみに包まれ、水におおわれていたのです。しかしこの死の状態は、光なるキリストの出現によって命に向かって胎動を始め、やがて水から上がって命を受けるのです。

天地創造の記事をこのように考えるのは行き過ぎと言われる方もあるかもしれませんが、しかし、創世記のこの記述と私たちが受けたキリストの救いの経験とはピッタリ一致するのです。

また、列王記第二、5章14節で、「そこでナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」とあります。これも直接、バプテスマのことを言っているわけではありませんが、非常に興味深い出来事です。バプテスマという言葉は「水に浸す」という意味ですから、ナアマンは、神の人エリシャの言葉に従って、バプテスマを受けたことになります。その時、彼のらい病がいやされ、きよくなったというところは、バプテスマのヨハネの悔い改めのバプテスマよりも、イエス・キリストの恵みのほうを強調しているように思われます。

今日のキリスト教会のバプテスマ(洗礼)の式は、バプテスマのヨハネにその起源があることは明らかです。
ところが、このバプテスマのヨハネは、「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、‥・。あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(マタイの福音書3:11)と言いました。彼は罪を悔い改めるための水のバプテスマではない、もっとすばらしい、罪の性質をきよめるところの聖霊のバプテスマがあることを語ったのです。ここで思い出していただきたいことは、先にパウロが割礼をバプテスマの起源としていたことです。パウロが割礼と言っているときには、いつでも体に受ける割礼ではなく、心の割礼です。肉の心、神に対してかたくなな心が取り除かれることです。ですから、パウロが旧約の割礼をバプテスマの起源としたのは、聖霊のバプテスマをさすためであったと思われます。

イエス・キリストは弟子たちに、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」(マタイの福音書28:19)なさいと命じられましたが、これは「水のバプテスマの儀式だけをしておればよい」と言われたのではないと思います。それ故、「バプテスマ(洗礼)を受けたから、もう信仰を卒業した。」などと思ってはいけません。バプテスマ(洗礼)を受けることは、大きな恵みであり、大きな区切りではありますが、それは信仰生活のスタートなのです。パウロはローマ人への手紙6:4で、「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」と言っているように、これからの歩みが大切なのです。そして一日も早く、聖霊のバプテスマを受けるように待ち望みたいものです。

以上で、儀式的タイプを終了します。

(4)旧約聖書中のある特定の書そのものが持つタイプの特長

創世記

個人的で、かつ歴史的タイプが中心です。創世記は、罪と裁き、憐みと赦しの発端の書です。それ故に、創世記には救い主のご人格と御業に関するタイプが見られます。たとえば、アダム、メルキゼデク、アブラハム、ヨセフたちです(参考、ローマ5:15、4:1~25、ガラテヤ3:6~14、ヘブル7;17)。

出エジプト記

血によるあがないと、その恵みの結果をあらわす儀式的タイプが中心です。
過越の祭りの羊の血は、神の民イスラエルと神との関係の土台となるものです。また羊の血は、イエス・キリストの大いなるあがないを予表したものです(出エジプト記13:16,17、コリント第一5:7)。

レビ記

レビ記も儀式的タイプが主ですが、出エジプト記のタイプとは異なっています。レビ記は、神に近づくことのタイプ、礼拝のタイプです。罪によって妨げられていた神との交わりが、神の恵みによって回復することを予表しています。

民数記

神の民イスラエルがシナイの荒野で営む生活とその旅路を物語る歴史的タイプが中心です。
ここでは、クリスチャンの信仰生活中における信仰と不信仰の危機的経験を予表しています。

ヨシュア記

神の約束されたカナンの地の占領、分割、相続がその中心テーマですが、この中にクリスチャンのキリストの兵士としての信仰の戦いと生活のタイプが見られます。ヨシュア記はエペソ人への手紙と比べながら学ぶことができます。

最後に注目しておきたいことは、創世記が信仰者個人個人について教えることを目的にしているのに対して、出エジプト記以後の書は信仰者の集まりについて教えていることです。すなわち、信仰は個人個人が明確でなければならないとともに、教会全体が一致して信仰に進んでいなければならないことを教えています。

(以上で、旧約聖書中のタイプについて、完了。)

3、新約聖書中のタイプの種頬

新約聖書中には、タイプをいろいろな形で表現しています。それらをいくつか拾い出してみましょう。

  • 跡(ヨハネ20:25)ここでは釘の跡を科学的根拠のタイプとして用いています。
  • 偶像、ひな型(予表)(使徒7;43、ローマ5:14)ここでは偶像を不信仰、不服従を表わすものとし、またアダムを第二のアダム、すなわちキリストを表わすタイプとして用いています。アダムの罪によって全人類を征服した死は、ひとりの人キリストによって回復されることを示しているのです。
  • 形(使徒7:44)この幕屋の形は神の臨在、ひいてはキリストの肉体を表わすタイプとして用いられています。
  • 文面(使徒23:25)これは手紙の文面のことですが、これは意志を伝える手段として用いられています。新約聖書のほとんどすべては手紙として書かれたことは、すでにご存知のとおりです。
  • 規準(ローマ6:17)これはキリストの教えが罪から解放することを示しています。
  • 型(ヘブル8:5) 山で示された型とは神の完全なみこころを示すタイプです。
  • 戒め、手本、模範(コリント第一10:6,11、ピリピ3:17、テサロニケ第一1:7、同第二3:9、テモテ第一4:12、テトス2:7、ペテロ第一5:3) これらは教訓として見習うことのタイプです。

タイプとは、神が私たちに神の恵みと救いの力を教えるための実物教材なのです。

モーセの五書

旧約聖書の歴史的時代区分を大まかに知っておくことは、旧約聖書を学ぶときに助けとなると思いますので、ご紹介しておきましょう。

  • アブラハム以前の時代・・創世記1~11章
  • 族長時代・・創世記12~50章
  • モーセの時代・・出エジプト記~申命記
  • 土師の時代・・ヨシュア~サムエル
  • 最初の三人の王の時代・・サウル、ダビデ、ソロモン
  • 分裂王国の時代・・北王国イスラエルと南王国ユダに分裂
  • 捕囚の時代・・北王国イスラエルはアッスリヤに、南王国ユダはその後バビロンに囚われ、七十年が過ぎる。この期間にエステル書やダニエル書が記された。
  • 捕囚後の時代・・捕囚の民は三回に分けて母国に帰還した。しかしバビロンに残った者も大勢いた。この期聞のことはエズラ、ネヘミヤなどが記している。

⑴ 「モーセの五書」の名称について

この呼び名は、旧約聖書の第一区分(創世記~申命記)を示しています。そしてこれをヘブル語聖書では「トーラー(律法)」と呼んでいます。それは、この五書が律法制定上の背景として物語や歴史的部分を含んでいるものの、主に律法的要素が強調されているからです。

⑵人間の側の記者について

五書の外的、内的性格からして、偉大な律法の賦与者モーセが記者であることは、確かです。

(イ)五書自身の証言

五書中に律法の主要部分がモーセによって書かれたことを示す章句があります。

出エジプト記17:14
ここではすでにモーセが書きしるしていた書物が存在していました。

出エジプト記24:4~8
4節でモーセが書きしるしたのは「契約の書」です。

出エジプト記34:27
ここでは34:10~26の第二の十戒とも呼ぶべき契約を、主はモーセに書きしるすように命じられています。

民数記33:1,2
ここではモーセがエジプトからモアブまでのイスラエルの民の全旅程を書きしるしたことが言われています。そうであるなら、その旅の途中に起こった記録、すなわち五書全体の記事もモーセが記したことは明らかです。

申命記31:9、24
これは、すでにその時存在していた五書中のある書のことを指しています。そして申命記自体がモーセの律法を認めていますから (申命記4:5、14、29:1)、これらの言葉が、申命記の部分的なものを指しているとしても、モーセがその相当の分量を書いたことは明らかです。

申命記31:22
申命記32章のこと。

創世記は五書を有機的にあらわしたものであり、他の四書は神が十戒を与えられた時にも、幕屋の建設を命じられた時にも、一貫してモーセが律法の仲介者としての主要人物の役割を果しています。

(ロ)五書以外の旧約聖書の証言

ヨシュア記 ヨシュアはモーセからその権威を得ており、モーセの律法がヨシュアの道標であり、基準だったのです。(11:15、20、14:2、21:2)

ヨシュアはモーセが記した成文律法があったことを示しています。(1:7,8、8:31、32、34、22:9)

その他、土師記3:4、列王記第一2:3、同第二14:6、21:8、エズラ記6:18、ネヘミヤ記13:1

預言書においては、モーセについての言及はまれですが、旧約における唯一の権威的律法はモーセの律法でした。(ダニエル書9:11~13、マラキ書4:4)

(ハ) 新約聖書の証言

イエス・キリストは律法の句をモーセのものとして引用しています (マタイの福音書19:8、マルコの福音書10:5など)。

新約聖書の他の部分も、イエス・キリストの証言と一致しています (使徒の働き3:22、13:39、15:5~21、26:22、28;23、ローマ人への手紙10:5、19、コリント人への手紙第一9:9、同第二3:15、ヨハネの黙示録15:3)。

新約聖書も、モーセが記した律法の書が存在したことを立証しています。事実、新約聖書においては、「モーセ」という名前と「律法」という語とは、同じ意味に用いられているのです。

しかしモーセが五書の記者であるということはモーセが自ら一字一句すべてを書き記したというわけではありません。モーセが創世記を書き記すとき、すでに存在していた記録文のある部分を用いたかもしれませんし、またモーセより後の編さん者がわずかな加筆や改訂をした(たとえば申命記34:5~12)場合もあるでしょう。しかしどちらの場合においても神の霊感のもとに行なわれたものであり、その記者はやはりモーセであるということができます。

(3)モーセの五書の特長

  1. 創世記・・神が創造された世界に罪が侵入したことと、その結果
  2. 出エジプト記・・血によるあがない
  3. レビ記・・神に近づき、礼拝し聖化されること
  4. 民数記・・神の民の放浪生活
  5. 申命記・・神に従うときの祝福と不従順に伴う悲惨

上の写真は、ケルンのグロッケンガッセ・シナゴーグのトーラー(羊皮紙に手書き)(Wikimedia Commonsより)


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