聖書の探求 005a 聖書の中のタイプ(予型) 旧約聖書中のタイプ(5) その他のタイプ

③儀式的タイプ(続)

契約の箱と至聖所(出エジプト記25:10~22、ヘブル9:2~5)

出 25:10 アカシヤ材の箱を作らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。
25:11 これに純金をかぶせる。それは、その内側と外側とにかぶせなければならない。その回りには金の飾り縁を作る。
25:12 箱のために、四つの金の環を鋳造し、それをその四隅の基部に取りつける。一方の側に二つの環を、他の側にほかの二つの環を取りつける。
25:13 アカシヤ材で棒を作り、それを金でかぶせる。
25:14 その棒は、箱をかつぐために、箱の両側にある環に通す。
25:15 棒は箱の環に差し込んだままにしなければならない。抜いてはならない。
25:16 わたしが与えるさとしをその箱に納める。
25:17 また、純金の『贖いのふた』を作る。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。
25:18 槌で打って作った二つの金のケルビムを『贖いのふた』の両端に作る。
25:19 一つのケルブは一方の端に、他のケルブは他方の端に作る。ケルビムを『贖いのふた』の一部としてそれの両端に作らなければならない。
25:20 ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で『贖いのふた』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『贖いのふた』に向かうようにしなければならない。
25:21 その『贖いのふた』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。
25:22 わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。


ヘブル 9:2 幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。
9:3 また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、
9:4 そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入った金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。
9:5 また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません

罪人が主イエスの血をとおして入る所(ヘブル10:19・20)


ヘブル10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
至聖所には大祭司が一年に一度贖罪の日に血を持って民のあがないのために入ることができました。その聖所と至聖所を隔てていた幕は主イエスが十字架にかかられたとき、引き裂かれました(マタ 27:51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。)
この幕はキリストの肉体です。このとき、キリストをとおしてだれでも神と交わることのできる新時代が到来したのです。旧約の幕はこのことを啓示していたのです。そして今や神殿は私たちの内側にありますが、この内なる神殿にも肉的幕がかかっているならば、これもキリストとともに十字架にかからなければなりません。そのとき神の栄光を見ることができるのです(ガラ 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。)。

 次に、契約の箱について考えましょう。

⑴ 箱の中には律法を書いた石の板が二枚あって、私たちの罪を告発しています。そして箱の上から恐るべき神の目が私たちの罪をにらんでいるとしたらどうでしょうか。ところがこの箱には金のふたがあり、これを贖罪所と呼んでいます。このふたの中に小羊の血を入れるのです。すなわち血によって罪がおお
われるのです。「あがない」とはそういう意味です。ダビデも罪がおおわれた喜びを語っています。
詩32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。

⑵ この贖罪所はキリストをとおして、神と語り合い、交わる特権が与えられることを意味しています。何の恐れも、隔ても、鋳躇もなく、今自分が必要としている恵みを求めて何度でも来ることができるのです。
ヘブル 4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
同 10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
⑶ 箱は民の先導者でした。モーセが荒野を旅していた時も、
民10:31 そこでモーセは言った。「どうか私たちを見捨てないでください。あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じであり、私たちにとって目なのですから。
10:32 私たちといっしょに行ってくだされば、【主】が私たちに下さるしあわせを、あなたにもおわかちしたいのです。」
10:33 こうして、彼らは【主】の山を出て、三日の道のりを進んだ。【主】の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した。
10:34 彼らが宿営を出て進むとき、昼間は【主】の雲が彼らの上にあった。
10:35 契約の箱が出発するときには、モーセはこう言っていた。「【主】よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。」
10:36 またそれがとどまるときに、彼は言っていた。「【主】よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに。」
ヨルダン川を渡る時も(ヨシュア記3章、4章)、主の箱が先立った。これは偉大な信仰の先導者である主イエスをあらわしています

ヘブル12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
Ⅰペテ 2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。

⑷ 正方形の至聖所も、契約の箱もキリストの完全な義をあらわしています。箱の中には契約の二つの板と芽を出したアロンの枚とマナのはいった金のツボがありました。

ヘブル9:4 そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入った金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。
契約の石板は律法、すなわちキリストの全き義です。芽ざしたアロンの杖は常に新鮮なキリストの命、つぼのマナは神が備えてくださるいのちのパンを示しています。

(5) 贖罪所をおおっているケルビム(天使)は、獅子と牛と人と鷲の四つの顔を持っています。(エゼキエル書1:4~14、同10:9~22、ヨハネの黙示録4:7~8)。
エゼ 1:4 私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった。
1:5 その中に何か四つの生きもののようなものが現れ、その姿はこうであった。彼らは何か人間のような姿をしていた。
1:6 彼らはおのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。
1:7 その足はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏のようであり、みがかれた青銅のように輝いていた。
1:8 その翼の下から人間の手が四方に出ていた。そして、その四つのものの顔と翼は次のようであった。
1:9 彼らの翼は互いに連なり、彼らが進むときには向きを変えず、おのおの正面に向かってまっすぐ進んだ。
1:10 彼らの顔かたちは、人間の顔であり、四つとも、右側に獅子の顔があり、四つとも、左側に牛の顔があり、四つとも、うしろに鷲の顔があった。
1:11 これが彼らの顔であった。彼らの翼は上方に広げられ、それぞれ、二つは互いに連なり、他の二つはおのおののからだをおおっていた。
1:12 彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。
1:13 それらの生きもののようなものは、燃える炭のように見え、たいまつのように見え、それが生きものの間を行き来していた。火が輝き、その火から、いなずまが出ていた。
1:14 それらの生きものは、いなずまのひらめきのように走って行き来していた。
エゼ 10:9 私が見ると、ケルビムのそばに四つの輪があり、一つの輪は一つのケルブのそばに、他の輪は他のケルブのそばにそれぞれあった。その輪は緑柱石の輝きのように見えた。
10:10 それらの形は、四つともよく似ていて、ちょうど一つの輪が他の輪の中にあるようであった。
10:11 それらが行くとき、それらは四方に向かって行き、行くときには、それらは向きを変えなかった。なぜなら、頭の向かう所に、他の輪も従い、それらが行くときには向きを変えなかったからである。
10:12 それらのからだ全体と、その背、その手、その翼、さらに輪、すなわちその四つの輪には、その回りに目がいっぱいついていた。
10:13 私はそれらの輪が「車輪」と呼ばれているのを聞いた。
10:14 そのおのおのには四つの顔があり、第一の顔はケルブの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、第四の顔は鷲の顔であった。
10:15 そのとき、ケルビムが飛び立ったが、それは、私がかつてケバル川のほとりで見た生きものであった。
10:16 ケルビムが行くと、輪もそのそばを行き、ケルビムが翼を広げて地上から上るとき、輪もそのそばを離れず向きを変えなかった。
10:17 ケルビムが立ち止まると、輪も立ち止まり、ケルビムが上ると、輪もいっしょに上った。それは、生きものの霊が輪の中にあったからである。
10:18 【主】の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまった。
10:19 すると、ケルビムが翼を広げて、私の前で、地上から上って行った。彼らが出て行くと、輪もそのそばについて行った。彼らが【主】の宮の東の門の入口で立ち止まると、イスラエルの神の栄光がその上をおおった。
10:20 彼らは、かつて私がケバル川のほとりで、イスラエルの神の下に見た生きものであった。私は彼らがケルビムであることを知った。
10:21 彼らはおのおの四つずつ顔を持ち、おのおの四つの翼を持っていた。その翼の下には、人間の手のようなものがあった。
10:22 彼らの顔かたちは、私がかつてケバル川のほとりでその容貌としるしを見たとおりの顔であった。彼らはみな、前のほうへまっすぐ進んで行った。
これらはキリストの特性を表わしています。獅子はキリストの王としての権威、これはマタイの福音書が語っており、牛はキリストのしもべとしての姿、これはマルコの福音書が語っており、人は人の子としてのキリスト、これはルカの福音書が語っており、鷲は神としての崇高なキリスト、これはヨハネの福音
書が語っています。
最後に、契約の箱と至聖所は、キリストの再臨によって出現する永遠の世界の栄光のタイプです。すなわち、日月が照らす必要のない、小羊があかりであると言われている都、その都の栄光そのものである御方の御臨在のタイプなのです(ヨハネの黙示録21章、22章)。

〔付〕バプテスマ(洗礼)の起源と意味

バプテスマは、旧約の儀式とはいえませんが、ペテロが、ノアの洪水のとき、八人の人々が箱舟の中で、水を通って救われたのが、バプテスマを示した型(Ⅰペテ 3:20 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。 3:21 そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。)だと言っていますので、ここで少し触れておきたいと思います。

ペテロは、ここで、「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」(21節)と言っています。

またパウロは、モーセとイスラエルの民が紅海を渡ったことをバブテスマのタイプとして取り上げています(Ⅰコリ 10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。10:2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、)

さらにパウロは、旧約の割礼をクリスチャンのバプテスマの起源として採用しています(コロ 2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。 2:12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです)

先の二つのノアの洪水と紅海渡過は水が強調されています。ここで思いめぐらしてみますと、
創世記1章2節を見ますと、「やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」とあります。つまり神のことばによって光が出現する前に、地は水でおおわれ、やみに包まれていたのです。それはまさに死の状態です。光の出現によってやみは追いやられ、次に水と水が分けられて命が誕生していったのです。このことは非常に霊的なことです。光をキリストと考えるなら、地(人類)はキリストに出会うまで、やみに包まれ、水におおわれていたのです。しかしこの死の状態は、光なるキリストの出現によって命に向かって胎動を始め、やがて水から上がって命を受けるのです。

天地創造の記事をこのように考えるのは行き過ぎと言われる方もあるかもしれませんが、しかし、創世記のこの記述と私たちが受けたキリストの救いの経験とはピッタリ一致するのです。

また、列王記第二、5章14節で、「そこでナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」とあります。これも直接、バプテスマのことを言っているわけではありませんが、非常に興味深い出来事です。バプテスマという言葉は「水に浸す」という意味ですから、ナアマンは、神の人エリシャの言葉に従って、バプテスマを受けたことになります。その時、彼のらい病がいやされ、きよくなったというところは、バプテスマのヨハネの悔い改めのバプテスマよりも、イエス・キリストの恵みのほうを強調しているように思われます。

今日のキリスト教会のバプテスマ(洗礼)の式は、バプテスマのヨハネにその起源があることは明らかです。
ところが、このバプテスマのヨハネは、「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、‥・。あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(マタイの福音書3:11)と言いました。彼は罪を悔い改めるための水のバプテスマではない、もっとすばらしい、罪の性質をきよめるところの聖霊のバプテスマがあることを語ったのです。ここで思い出していただきたいことは、先にパウロが割礼をバプテスマの起源としていたことです。パウロが割礼と言っているときには、いつでも体に受ける割礼ではなく、心の割礼です。肉の心、神に対してかたくなな心が取り除かれることです。ですから、パウロが旧約の割礼をバプテスマの起源としたのは、聖霊のバプテスマをさすためであったと思われます。

イエス・キリストは弟子たちに、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」(マタイの福音書28:19)なさいと命じられましたが、これは「水のバプテスマの儀式だけをしておればよい」と言われたのではないと思います。それ故、「バプテスマ(洗礼)を受けたから、もう信仰を卒業した。」などと思ってはいけません。バプテスマ(洗礼)を受けることは、大きな恵みであり、大きな区切りではありますが、それは信仰生活のスタートなのです。パウロはローマ人への手紙6:4で、「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」と言っているように、これからの歩みが大切なのです。そして一日も早く、聖霊のバプテスマを受けるように待ち望みたいものです。
以上で、儀式的タイプを終了します。

(4)旧約聖書中のある特定の書そのものが持つタイプの特長

創世記

個人的で、かつ歴史的タイプが中心です。創世記は、罪と裁き、憐みと赦しの発端の書です。それ故に、創世記には救い主のご人格と御業に関するタイプが見られます。たとえば、アダム、メルキゼデク、アブラハム、ヨセフたちです(参考、ローマ5:15、4:1~25、ガラテヤ3:6~14、ヘブル7;17)。
ロマ5:15 ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。
同 4:1 それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。
4:2 もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。
4:3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。
4:4 働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
4:5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
4:6 ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。
4:7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。
4:8 主が罪を認めない人は幸いである。」
4:9 それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた」と言っていますが、
4:10 どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。
4:11 彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、
4:12 また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。
4:13 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。
4:14 もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。
4:15 律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。
4:16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。
4:17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
4:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
4:23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです
ガラ 3:6 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。
3:7 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
3:8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。
3:9 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
3:10 というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
3:11 ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。
3:12 しかし律法は、「信仰による」のではありません。「律法を行う者はこの律法によって生きる」のです。
3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。
3:14 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。
ヘブル 7:17 この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」

出エジプト記

血によるあがないと、その恵みの結果をあらわす儀式的タイプが中心です。
過越の祭りの羊の血は、神の民イスラエルと神との関係の土台となるものです。また羊の血は、イエス・キリストの大いなるあがないを予表したものです(出エジプト記13:16,17、コリント第一5:7)。
出 13:16
これを手の上のしるしとし、また、あなたの額の上の記章としなさい。それは【主】が力強い御手によって、私たちをエジプトから連れ出されたからである。」
13:17 さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」
Ⅰコリ5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。

レビ記

レビ記も儀式的タイプが主ですが、出エジプト記のタイプとは異なっています。レビ記は、神に近づくことのタイプ、礼拝のタイプです。罪によって妨げられていた神との交わりが、神の恵みによって回復することを予表しています。

民数記

神の民イスラエルがシナイの荒野で営む生活とその旅路を物語る歴史的タイプが中心です。
ここでは、クリスチャンの信仰生活中における信仰と不信仰の危機的経験を予表しています。

ヨシュア記

神の約束されたカナンの地の占領、分割、相続がその中心テーマですが、この中にクリスチャンのキリストの兵士としての信仰の戦いと生活のタイプが見られます。
ヨシュア記はエペソ人への手紙と比べながら学ぶことができます。

最後に注目しておきたいことは、創世記が信仰者個人個人について教えることを目的にしているのに対して、出エジプト記以後の書は信仰者の集まりについて教えていることです。すなわち、信仰は個人個人が明確でなければならないとともに、教会全体が一致して信仰に進んでいなければならないことを教えています。

(以上で、旧約聖書中のタイプについて、完了。)

3、新約聖書中のタイプの種頬

新約聖書中には、タイプをいろいろな形で表現しています。それらをいくつか拾い出してみましょう。

  • 跡(ヨハネ20:25)ここでは釘の跡を科学的根拠のタイプとして用いています。

ヨハ 20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。

  • 偶像、ひな型(予表)(使徒7;43、ローマ5:14)ここでは偶像を不信仰、不服従を表わすものとし、またアダムを第二のアダム、すなわちキリストを表わすタイプとして用いています。アダムの罪によって全人類を征服した死は、ひとりの人キリストによって回復されることを示しているのです。

使 7:43 あなたがたは、モロクの幕屋とロンパの神の星をかついでいた。それらは、あなたがたが拝むために作った偶像ではないか。それゆえ、わたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ移す。』
ロマ5:14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。

  • 形(使徒7:44)この幕屋の形は神の臨在、ひいてはキリストの肉体を表わすタイプとして用いられています。

使 7:44 私たちの父祖たちのためには、荒野にあかしの幕屋がありました。それは、見たとおりの形に造れとモーセに言われた方の命令どおりに、造られていました。

  • 文面(使徒23:25)これは手紙の文面のことですが、これは意志を伝える手段として用いられています。新約聖書のほとんどすべては手紙として書かれたことは、すでにご存知のとおりです。

使 23:25 そして、次のような文面の手紙を書いた。

  • 規準(ローマ6:17)これはキリストの教えが罪から解放することを示しています。

ロマ 6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、

  • 型(ヘブル8:5) 山で示された型とは神の完全なみこころを示すタイプです。

ヘブル8:5 その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」

  • 戒め、手本、模範(コリント第一10:6,11、ピリピ3:17、テサロニケ第一1:7、同第二3:9、テモテ第一4:12、テトス2:7、ペテロ第一5:3) これらは教訓として見習うことのタイプです。

Ⅰコリ10:6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。

同 10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

ピリ 3:17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。

Ⅰテサ1:7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。

Ⅱテサ3:9 それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。

Ⅰテモ 4:12 年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。

テトス2:7 また、すべての点で自分自身が良いわざの模範となり、教えにおいては純正で、威厳を保ち、

Ⅰペテ5:3 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。

タイプとは、神が私たちに神の恵みと救いの力を教えるための実物教材なのです。

(以上で、「聖書の中のタイプ(予型)」完了)

参考記事:「たけさんのイスラエル紀行(ティムナの幕屋モデル)」


http://israel.bona.jp/wp/archives/4648/


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