聖書の探求 008 創世記 二章 7日目の安息、人間に関して、流れ出る川

創世記2章は大別しますと、三つのことが記されています。すなわち、神が第7日目に休まれたこと人間に関すること、そしてエデンの園から流れ出ている川についてです。
以下これらについて考えてみましょう。

1、 神が七日目に休まれたことについて

のちに、出エジプト記20章8節で、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」という神の命令が人間に与えられていますが、ここでは神が第7日目にすべてのわざを休まれたという事実だけが記されています。創造に関するすべてのことが完了し、造られたものはすべて良く、完全で、神の造られたとおりそのままでした。それで神は第7日目を祝福されたのです。
創 2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

「そのとき、明けの星々が共に喜び歌い神の子たちはみな喜び叫んだ。」(ヨブ記38:7)
ここでは、この事実が述べられている以外に、なんの律法も人間に与えられていません。
聖書が示している限りでは、この創造の時の第7日目だけが、神が祝福された唯一の第7日目です。
こののち、私たちは聖書の中に「第7日を守らなければならない。」という命令と、人間がそれを守ることに失敗したことを見ます。しかし「神が休まれた。」という記録は決して見出すことができません。
むしろその反対に、
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」(ヨハネ5・17)
という主イエスのみことばを読むのです。

すなわち、神は全く汚れのないところにおいてのみ、安息日を祝われたのです。罪があるところでは、神は決してお休みになることができないのです。神は、人間のため息と涙、うめきと悲しみ、病いと死、堕落と罪の世の中でお休みになることができるでしょうか。
聖書は、創世記2章の安息の記録以外に、神はまだ安息を得ておられないことを示しています。先の安息は創造の完全さを示していましたが、人間は神の創造のみわざを破壊し、神の第7日目の休みは妨げられてしまったのです。それ以後、三位一体の神は人の霊魂の救いのために働き続けておられるのです。

イエス・キリストは地上の生涯では安息をお持ちにならず、そのみわざを完成されました。そして主は、地上での最後の安息日を墓の中で過ごされたのです。主なるキリスト、肉体をとって現われた神、安息日の主、天地の創造者であり、保持者であるお方が、墓の中で第7日目をお過ごしになったのが、真の安息でしょうか。これは人間の罪深さを示す外、なにものでもありません。それだけでなく、人間は、主が墓の中から出てこられるのを妨げるために、墓の入口を大きな石でふさいだのです。

キリストが、破壊された安息を繕うために墓の中におられた間に、人間は何をしていたのでしょうか。人間はあたかも神の命令を忠実に守っているかのように、また安息日がいまだかつて人間の罪によって破壊されたことがないかのように、その日の儀式を守っていたのです。しかしそれは神の安息ではなく、人間が勝手に造り出した安息でしかなかったのです。すなわち、神ぬきの、キリストぬきの空虚なものでしかなかったのです。

〔旧約の安息日の目的と意義〕

① 安息日は人間の霊肉の健康のために与えられました。7日間に一日の休息がなければ人間は長く健康でいることができません。
新約の時代において第7日目の安息日が第1日目の主日に変更したのは深い理由があります。旧約時代は律法の時代で、6日間働いた報酬として第7日目の安息が与えられましたが、新約の時代では主イエスが復活された週の第1日を主日として礼拝を守り、主の恵みをいただき、心身を回復し、6日間を働く備えが与えられたのです。

② 安息日は、私たちにエジプト、すなわち、悪魔の奴隷の境遇から救われていることを自覚させるためです(申命記5:15)。
申5:15 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。

③ 安息日は、私たちは自ら自分を潔めることができないけれども、神ご自身が私たちを潔めるお方であることのしるしです(出エジプト記31:13)。
出31:13 「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する【主】であることを、あなたがたが知るためのものなのである。

④ 安息日は、神の特別の賜物、すなわち、神の聖別と愛のしるしです(エゼキエル書20:12)。
エゼ20:12 わたしはまた、彼らにわたしの安息日を与えてわたしと彼らとの間のしるしとし、わたしが彼らを聖別する【主】であることを彼らが知るようにした。

⑤ 安息日は、永遠の契約のしるしです(出エジプト記31:16)。
出31:16 イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。

⑥ 安息日は、自分のわざをやめて、信仰によって神の安息に入る型です(ヘブル4:10)。
ヘブル4:10 神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。

⑦ 安息日は、出歩くことをやめ、自分の好むことをせず、むだ口を慎み、神を喜ぶ日、はえある日です (イザヤ書58:13,14)。
イザ 58:13 もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、【主】の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、
58:14 そのとき、あなたは【主】をあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う」と【主】の御口が語られたからである。

〔新約の第一日目と旧約の第七日目の違い〕

新約の第一日目は旧約の第七日目が移行したものではありません。両者の間には本質的な違いが見られます。
キリストの復活の後も、弟子たちはしばらくの間、旧約時代の習慣に従っていたところがあったようですが、それとはかかわりなく、新約の第一日目と旧約の第七日目との間には、キリストの復活という大事件があり、これは人類の歴史に新時代が到来したことを意味するものです。これは安息が地的なものから、
天的なものに変わったことを意味しています。

第七日目の安息は、創造の休みですから地上の安息であり、今日もこの日を祝うならば、それは私たちが地的な人であることを示します。しかし「週の初めの日」を神のみことばと聖霊によって正しく理解しますなら、この日は、キリストの死と復活を永遠に基礎としており、新しい天的秩序と祝福があることが
分かります。

第七日目は地とイスラエルに関係しており、第一日目は天と教会に関係しています。イスラエルは安息日を守るように命じられましたが、教会は週の初めの日を喜ぶ特権が与えられているのです。

第七日目はイスラエルが神の戒めを守るかどうかをあらわす試金石とされていますが、第一日目は神がキリストの教会を永遠に喜んで受け入れてくださることの証拠なのです。

ヨハネの黙示録1章10節では、週の初めの日が「主の日」と呼ばれています。この日はキリストが死人の中から復活された日であって、天地の創造の完成を示す日ではなく、キリストのあがないのみわざの栄光ある勝利を示しています。
黙 1:10 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。

ユダヤ人たちは安息日を、律法を守るために集まる日としていますが、クリスチャンは週の第一日目を喜び祝い、礼拝するために集まります。聖書中、週の第一日目を安息日と呼んでいる箇所は一つもありません。それ故に、週の初めの日を祝うことは、クリスチャンの聖なる特権です。

次の聖句を注意深く読んでください。

(「週の初めの日」 「主の日」)
マタ28:1~6、マルコ16:1,2、ルカ24:1、ヨハネ20:19,26,使20:7、コリント第一16:2 ヨハネ黙1:10
マタ 28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
28:2 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
28:3 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
28:6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
マル16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。
ルカ24:1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
ヨハ 20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
ヨハ 20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。
使 20:7 週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。
Ⅰコリ 16:2 私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。
黙 1:10 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。

(「安息日」)
使徒13:14、17:2、コロサイ2:16,17
使13:14 しかし彼らは、ペルガから進んでピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂に入って席に着いた。
使17:2 パウロはいつもしているように、会堂に入って行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。
コロ 2:16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。
2:17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。

ここで、ヘプル人への手紙4章1~11節で言われている安息について、少し触れておきましょう。
ヘブル 4:1 こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。
4:2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。
4:3 信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。
4:4 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。
4:5 そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」と言われたのです。
4:6 こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、
4:7 神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。
4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。
4:9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
4:10 神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
4:11 ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

ここにある「神の安息」とは、罪のないところでの神の祝福された安息です。その安息は今もなお残されており、それに入るための約束が残されているのです。この安息は主イエス・キリストが再び全地の支配者となられるときの光栄ある安息によって天的なものとして、再び人間に与えられるのです。
これはヨシュアがイスラエルの民をカナンの地に導き入れたときの安息とは異なります。
ヨシュアの与えた安息は一時的で地上的な安息でしかありませんでした。さらにこの箇所には、もう一つの神の安息が約束されています。すなわち、信仰によって霊魂のうちに経験できる神の安息です。この安息と先の神の安息とが、神がみわざを休まれたことと、自分のわざを休むことの点で似ていることから、霊魂の安息を経験するための条件を説明するために並べて取り上げられているのです。この二つの安息は、そのスケールにおいては大きな差があっても、本質的には神によって祝福された安息である点で同じです。

2、 人間に関すること

2章4節のことばは、天地創造のことを強調するというよりも、人間についての記事の序であるということができます。ですから、1章と2章に二重の創造の記事があるというのではありません。
ですから、2章4~7節は、創造がすでになされていたことを示すためのものです。またそれが、8:7、9節のエデンの園の設置のまえおきなのです。
創 2:4 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】が地と天を造られたとき、
2:5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。
2:6 ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。
2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

そして、2章4節より4章26節まで、人間の形成と人類の歴史の最初の状態を主題として展開していくのです。
エデンの園の設置については、年代的にではなく、題目的に紹介しているのです。そしてこれは3章の堕落の記録の序として、アダムとエバを紹介し、いのちの木と善悪の知識の木、神のアダムとの契約を記しているのです。

そこで、4~25節の人間についての記録をもう少し深く探求してみましょう。

① いかにして造られたか(4~7節)

イ 物理的宇宙と関係する面
「土地のちりで人を形造り」 これは人間の肉体的部分を意味しています。

ロ 霊と直結する面
「いのちの息を吹き込まれた。」 この「いのち」は原語では複数形です。このことは、パウロがテサロニケ第一5:23で言ったように、人間の霊(神を知り、神と交わる部分)、たましい(知性、感情、意志)、からだのいのちの本源が神にあることの宣言と一致します。
Ⅰテサ5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

②  住所・・・エデンの園(8~14節)
創 2:8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。
2:10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。
2:12 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。
2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。
2:14 第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。

これは完全な環境です。人間が義を行なうにはふさわしく、不義を行なうには適しない環境です。アダムとキリストがサタンに誘惑された環境は全く反対でした。アダムは神の愛とあわれみに囲まれ、豊かな食物が与えられ、良い助け手と共にいて、負けたのです。しかしキリストは荒野で飢えつつ、野獣と共にいてサタンに勝たれました。
サタンはエデンの園を荒野にし、キリストはこれを回復して、新しい天と新しい地に入らせてくださるのです (ペテロ第二3:13)。
Ⅱペテ3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

③  人間の奉仕・‥‥・エデンの園の管理 (15節)
創2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

エデンの園には楽しい働きのみがありました。しかしサタンはこの世の働きを苦しいものにしてしまったのです。キリストはこれを回復して幸いな奉仕とされます (ローマ14:17,18)
ロマ14:17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
14:18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。

④  人間のテスト‥‥‥神の唯一の戒め (食べること)(16,17節)
創 2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

神は人間に自由意志を与えられました。しかしその自由にはただ一つの制限が加えられたのです。人間はこの唯一の制限を自由意志をもって守り、従うことによって、神を愛し、神に信頼していることを表わすことができたのです。しかし、人間は神の制限を破って、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。その日以来、人は神のいのちよりも、肉的知恵を求めるようになってしまったのです。
神は人に自由を与えましたが、サタンは人に放縦を与えたのです。しかしキリストはこれを回復して真の自由を与えられるのです。

⑤  人間の権威‥‥‥名をつける (18,19節)
創 2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
2:19 神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。

神は人に鳥や動物を自由に扱う権威を与えられていました。しかしサタンは悪の権威を与えることによって(エペソ2:2)、神の与えられた権威を奪ってしまったのです。けれどもキリストはこれを回復してキリストと共に王となる権威を与えてくださるのです。
エペ2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

⑥  人間の伴侶‥‥‥ふさわしい助け手(20~25)
創 2:20 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。
2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
2:23 人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
2:25 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

これはキリストと教会との関係をあらわす美しい型です。女は男のあばら骨からつくられたとありますが、教会はキリストの脇腹から流れ出た血によってキリストの花嫁となったのです。
アダムは苦痛のない深い眠りから覚めて、自分のそばに新婦を見たのです。しかしキリストは新婦のために苦痛をなめ、涙を流して死なれたのです。
神はアダムに助け手となる伴侶者を与えられましたが、サタンは彼女を誘惑の手先、また破滅をもたらす者としました。しかし、キリストにあっては男も女もなく、天においては御使いのごとく、めとることも、とつぐこともないのです (ガラテヤ3:28、マタイ22:30)。
ガラ3:28 ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
マタ22:30 復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。

エバ(女)はアダム(男)をとおしてつくられましたが、キリスト(救い主)はマリヤ(女)をとおしておいでになりました。
このように私たちは神のみわざを全く破壊する力を見ますけれども、それと同時に、それに勝るキリストの回復の力と恩寵を知ることができることは本当に感謝です。

3、 川について (2:10~14)

創 2:10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。
2:12 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。
2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。
2:14 第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。

エデンの園をうるおすために一つの川が流れていました。この川は神の休息と関係しているように思われます。
この川は四つの川の源となっていました。

第一の川 ピション‥‥ハビラの全土(良質の金、プドラフとしまめのうの原産地)
第二の川 ギホン‥‥クシュの全土
第三の川 ヒデケル(チグリス)‥‥アシュル(アッシリヤ)の東
第四の川 ユーフラテス
神は、これらの川々をとおして人間に祝福を与えようとしておられたのです。

〔聖書中の霊的川〕
聖句をあげておきますので、聖書を開いて探求してみてください。
詩篇46:4、同1:3、同23:2、同65:9、エゼキエル書47:1~12、ゼカリヤ書14:8、ヨハネの福音書7:37,38(イザヤ書44:3,4、同59:11)、ヨハネの黙示録22:1,2、
詩46:4 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。
詩1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
詩23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
詩65:9 あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、これを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。あなたは、こうして地の下ごしらえをし、彼らの穀物を作ってくださいます。
エゼ47:1 彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。
47:2 ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
47:3 その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
47:4 彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
47:5 彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。
47:6 彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。
47:7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
47:8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。
47:9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。
47:10 漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。
47:11 しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。
47:12 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。
ゼカ14:8 その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。
ヨハ7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
イザ 44:3 わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。
44:4 彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽ばえる。
イザ59:11 私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。公義を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、それは私たちから遠く離れている。
黙22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。

エゼキエルの見た幻の川は、ヨハネの福音書でイエス・キリストが語られた聖霊の川であり、ヨハネの黙示録にある「いのちの水の川」の預言でもあります。この川の源は決して侵されず、その水路は決して妨げられません。この川は神の御座から出ており、神の御座は永遠の安定をあらわしています。その御座に小羊がおられることは、ここが創造のときの神の御座ではなく、また支配の御座でもなく、完成されたあがないの御座であることを示しています。

(参考 泉についての探求)
出エジプト記17:6、(コリント第一、10:4)、土師記15:18、19(エン・ハコレ)、箴言4:23、ゼカリヤ書13:1、ヨハネの福音書4:14など。
出17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。
Ⅰコリ10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
士15:18 そのとき、彼はひどく渇きを覚え、【主】に呼び求めて言った。「あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました。しかし、今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。」
15:19 すると、神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれ、そこから水が出た。サムソンは水を飲んで元気を回復して生き返った。それゆえその名は、エン・ハコレと呼ばれた。それは今日もレヒにある。
箴 4:23 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく
ゼカ13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。
ヨハ4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

上の写真は、イタリアのフィレンツェの画家Giusto de’ Menabuoi (c. 1320–1391) により描かれた「Creation of Eve(イブの創造)」(Wikimedia Commonsより)


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