聖書の探求(010b) 創世記4章(3) カインの子孫の流れとセツの子孫の流れ

4章17~26節  社会の始まり

四章における二つの宗教の道、すなわち、神の恵みの道と人の肉の道が源となって、人間社会の二つの流れが出て来ています。
第一の流れは、この世に属する流れ-カインの子孫の社会の発達-神なき、救いのない未信者の社会の流れ
第二の流れは、アべルの代わりに生まれたセツの子孫の社会の発達-キリスト者の社会の流れ

〔カインの子孫の流れ(4:17~24)〕

一、カインは神を離れて、この世の中にさまよっていたけれども、この世を自分の天国にしようと思い、その長男が生まれた時、立派な町を建てて、その子の名が永久に崇められるように、その子の名をその町の名としたのです (4:16、17、詩篇49:11)

創 4:16 それで、カインは、【主】の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。
4:17 カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。

詩 49:11 彼らは、心の中で、彼らの家は永遠に続き、その住まいは代々にまで及ぶと思い、自分たちの土地に、自分たちの名をつける。

二、カインの代は七代まで記されています。

五章をみますと、カインの子孫とセツの子孫は平行しています。カインはセツよりも年上でありましたから、レメクの四人の子どもたちはノアと同時代に生きていたと思われます。
カインのその後の子孫が何も記されていないのは、ノアの洪水の時にみな滅ぼされてしまったものと思われます。

三、レメクは不道徳な多妻の習慣を始めました(4:19)。

創 4:19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。

四、レメクの二人の妻の名は、アダとツィラです。

アダとは、「楽しみ」、ツィラとは、「飾り」という意味です。
この名はカインの社会の特長を表わしています。すなわち、虚飾、快楽、ぜいたくにふけっていたのです。

五、レメクは二人の妻から三人の息子を生みました。

すなわちヤバル、ユバル、トバル・カインです。これらの子どもたちが生まれるまでは、カインの社会の発達について記されていませんが、カインの最後の子孫の代において、文明のことが明らかにされているのは興味深いことです。ヤバルは、酪農家、農業の先祖、ユバルは、音楽家、芸術家の先祖、トバル・カインは、農具や戦争の武器の製造、販売をする商工業者の先祖、これを見れば、この時代は相当の文明社会であったことが分かります。しかしそこには神と宗教のことについては、何も記されていません。この文明は無神論で物質社会の文明となっていたことが分かります。

六、カインの子孫の最後の代の社会は、暴虐と性的不道徳と神の道を乱している堕落した社会でした。

カインは殺人罪を犯して悔い改めなかったけれども、神を恐れていました。しかしレメクは人を殺しても神を恐れず、かえってそれを誇り、嘲り笑っているのです。これはノアの時代の特色でもあります。そしてキリストが再臨される前も、この世の有様はノアの時の如くであろうと言われました(マタイ24:37~39、ユダ15)。

マタ 24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

ユダ 1:15 すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」

〔セツの子孫の流れ(4:25~5章)〕

一、 セツがその子を生んだ時、その子をエノシュと名づけました(4:26)。

その名はカインの子の名とよく似ているけれども、その行なったことは全く異なっています。
「そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」
これはカインのしたことと正反対です。セツの子どもが生まれた時、神につける人々は、神の御名を永遠に崇めるために、神の御名をもって祈り始めたのです。

創 4:25 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」
4:26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は【主】の御名によって祈ることを始めた。

二、五章を見ますと、セツの子孫はみなその名が記されているばかりでなく、その年令も記されています。

また「こうして彼は死んだ。」という悲しいことばも記されています。こうしたものは、カインの子孫には一切記されていません。さらに、七代目のエノクには「こうして死んだ。」という悲しい言葉がありません。彼は死なずに、天に携え挙げられたのです。この世では、神を信じる者も死を悲しみますが、主イエスの再臨のときには聖徒は死なずして携え挙げられます(テサロニケ第一4:17)。そしてその時、最後の敵である死は主イエスによって滅ぼされるのです(コリント第一、15:25、26)。 エノクの出来事はこのことの型です。預言者エリヤもエノクと同じように死なずに昇天しました(列王記第二、2:12)。 旧約聖書中には、この二人が死を経ずして昇天しているのです。

Ⅰテサ 4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

Ⅰコリ 15:25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
15:26 最後の敵である死も滅ぼされます。

Ⅱ列王 2:12 エリシャはこれを見て、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫んでいたが、彼はもう見えなかった。そこで、彼は自分の着物をつかみ、それを二つに引き裂いた。

三、セツの子孫のエノクと、カインの子孫のレメクとを比較すると、大きな相違があります。

エノクには、レメクのような多妻はなく、理想的な家庭の中で子どもが与えられ、彼は神とともに歩んだのです。聖書中、「神とともに歩んだ。」と記されているのは、エノクとノアの二人だけです。神とともに歩む秘訣は、信仰によって神に喜ばれることです。(ヘブル11:6)

ヘブル 11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

①、 アべルの如く、さらにまさったささげ物をささげること、すなわち、私たちのために贖いの犠牲となられたキリストを信じること(ヘブル11:4)です。

ヘブル 11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

②、エノクの如く、活ける神の臨在を信じること、すなわち、今、生きておられるキリストを信じること。これによって、聖霊のあかしが与えられ、神とともに歩み、神に喜ばれる者とあかしせられるのです。

四、ユダの手紙をみますと、エノクはキリストの再臨について教えられていました(ユダ14)。

ユダ 1:14 アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。

カインの子孫がこの世の文明と快楽とぜいたくを考えていたのに引換え、エノクはこの世のはかなさを悟り、主イエスが栄光のうちに再臨してくださることを教えられていたのです。

五、エノクは神の審判を宜べ伝える伝道者でした(ユダ14,15)。

これは神とともに歩む生涯の特長です。ノアも洪水の審判を示され、それを宣伝しました。(ペテロ第二、2:5)。アブラハムも神の友と呼ばれ(歴代第二、20:7、イザヤ41:8、 ヤコブ2:23)、ソドムとゴモラの滅亡を示されました。今でも、神とともに歩んでいるクリスチャンは、神の審判が事実であることを自覚して、これを宣べ伝えています。

ユダ 1:14 アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。
1:15 すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」

Ⅱ歴代 20:7 私たちの神よ。あなたはこの地の住民をあなたの民イスラエルの前から追い払い、これをとこしえにあなたの友アブラハムのすえに賜ったのではありませんか。

イザ 41:8 しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。
ヤコブ 2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

六、エノクの生涯は神を喜ばすことでした。

それ故エノクは神に喜ばれていることがあかしされたのです(ヘブル11:5)。

ヘブル 11:5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。

しかしレメクの生涯は、自分の心のままを行ない、自分を喜ばせることを主義としていました(ローマ8:8、15:2~3)。

ロマ 8:8 肉にある者は神を喜ばせることができません。

ロマ 15:2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。
15:3 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった」と書いてあるとおりです。

七、エノクは死を見ずして携え挙げられ、孫のノアは神の大いなるあわれみによって洪水の時にも箱舟に入って救われることができました。

これに比べて、カインの子孫のレメクとその子どもたちは自分たちが作った文明と共に洪水のために滅ぼされてしまったのです。実にエノクは預言的意味をもっています。エノクの如く神とともに歩み、彼の如く来らんとする審判から逃れるように宣べ伝え、彼の如く神に従っているなら、主イエスの再臨の時に、必ずエノクのように空中に携え挙げられ、主イエスとお会いし、永遠に主とともにいることができるのです(テサロニケ第一、4:17)。

Ⅰテサ 4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

(聖書の探求 通巻10号のあとがき)

「毎月『聖書の探求』が届くのを心まちにしております。『異端』に一番ねらわれるのが、真理を十分に知らないクリスチャンだとききました。これからは大いに学んで確信したところに、とどまっていたいと思います。」(福山市 F姉)
「今月号 (No.9号) においては、自分の罪をあきらかにして下さったことに感謝いたしております。」 (摂津市 S姉)
このようなお便りを次々とお寄せ頂き感謝にたえません。私も一つの教会を与かり、伝道、教会、執筆、時には講演にと出かける合間に、この聖書の探求を執筆していますので、皆様のお手元に届く時期があいまいで、大変ご心配をおかけしております。しかし私が生かされている限り、この探求は続けるつもり
ですので、気長にお付き合いくださるよう、お願い申し上げます。バックナンバーもわずかですが取ってありますので、必要な方はお申し込みください。なんといっても読者の方のお便りが大きな励ましになります。感謝主。(1985年1月)