聖書の探求(014) 創世記10章 ノアの子孫の系図 人類の分散と諸国民

10章には人類の分散の状態と諸国民の表が記されています。これは11章のバベルの塔事件の結果であると言えるでしょう。一つの種族が多くの氏族、民族に分裂していったのは、言語の混乱による当然の結果なのです。

ここに記されている69の民族のうち16の民族は独立の民族で、その他は関係のある民族です。(10章10節、25節は、11章1~9節の内容がすでに10章の記者の心の中にあったことを示しています。)

創 10:10 彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。

創 10:25 エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの名はペレグであった。彼の時代に地が分けられたからである。もうひとりの兄弟の名はヨクタンであった。

創 11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
11:2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
11:5 そのとき【主】は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
11:6 【主】は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
11:8 こうして【主】は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

 

〔ノアの子供の系図〕

1、2~5節 ヤペテの子孫

2、6~20節 ハムの子孫
8~10節、ニムロデは地上で最初の権力者となっています。彼はバベルの地シヌアルにいました。

創 10:8 クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。
10:9 彼は【主】のおかげで、力ある猟師になったので、「【主】のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。
10:10 彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。

3、21~31節 セムの子孫
21節では、セムがエベル(ヘブル民族)の先祖であり、ヤペテの兄であったと記しているのに注意してください。また25節のぺレグの時代に地(国)が分けられたことも注目に値します。

創 10:21 セムにも子が生まれた。セムはエベルのすべての子孫の先祖であって、ヤペテの兄であった。
創 10:25 エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの名はペレグであった。彼の時代に地が分けられたからである。もうひとりの兄弟の名はヨクタンであった。

そこで、ノアの子供の子孫についてもう少し詳しく追求してみましょう。

1、 ヤペテの子孫(10:2~5)

創 10:2 ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。
10:3 ゴメルの子孫はアシュケナズ、リファテ、トガルマ。
10:4 ヤワンの子孫はエリシャ、タルシシュ、キティム人、ドダニム人。
10:5 これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。

これはアーリア人で、今日のヨーロッパ人です。ゴメルの子孫はケトル人(英国になごりがある)で、マゴグはロシヤの北の地方、マダイはメディア、ヤワンはギリシャ、ドバルとメシェクはロシヤの南の地方、ティラスはシレシヤ(ギリシャ)の一部です。

2、 ハムの子孫(10:6~20)

創 10:6 ハムの子孫はクシュ、ミツライム、プテ、カナン。
10:7 クシュの子孫はセバ、ハビラ、サブタ、ラマ、サブテカ。ラマの子孫はシェバ、デダン。
10:8 クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。
10:9 彼は【主】のおかげで、力ある猟師になったので、「【主】のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。
10:10 彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。
10:11 その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、
10:12 およびニネベとケラフとの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。
10:13 ミツライムはルデ人、アナミム人、レハビム人、ナフトヒム人、
10:14 パテロス人、カスルヒム人──これからペリシテ人が出た──、カフトル人を生んだ。
10:15 カナンは長子シドン、ヘテ、
10:16 エブス人、エモリ人、ギルガシ人、
10:17 ヒビ人、アルキ人、シニ人、
10:18 アルワデ人、ツェマリ人、ハマテ人を生んだ。その後、カナン人の諸氏族が分かれ出た。
10:19 それでカナン人の領土は、シドンからゲラルに向かってガザに至り、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムに向かってレシャにまで及んだ。
10:20 以上が、その氏族、その国語ごとに、その地方、その国により示したハムの子孫である。

ハムの子は四人で、クシュ、ミツライム、プテ、カナンですが、プテの子孫については何も記されていません。

(1)、クシュの子孫(8~12節)

創 10:6 ハムの子孫はクシュ、ミツライム、プテ、カナン。
10:7 クシュの子孫はセバ、ハビラ、サブタ、ラマ、サブテカ。ラマの子孫はシェバ、デダン。
10:8 クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。
10:9 彼は【主】のおかげで、力ある猟師になったので、「【主】のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。
10:10 彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。
10:11 その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、
10:12 およびニネベとケラフとの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。

クシュの子孫は、バビロンの国に住んで、名高い文明を起こしています。

(a)10節、バビロン(シヌアル)の文明はアッシリヤの文明の前にあったこと。

(b)11、12節、人々がバビロンから出て、アッシリヤ(アシュル)に進出し、そこに植民地を建てたこと。

(c)11節、ニネベを建てた人は、セム族ではなく、ハム族であったこと。

かって高等批評家たちは、このことを否定していましたが、後に考古学者の発掘研究の結果、聖書の記録が真実であったことが証明されました。高等批評家たちは、バビロンの文明はアッシリヤの前であるはずがないと言いましたが、考古学者たちが発掘した証拠によれば、バビロン王国には前のバビロン王国と、後のバビロン王国があったことが明らかになったのです。10節を見れば、クシュの子ニムロデの王国の初めは、バベル、エレク、アカデ、カルネ(「みな」はカルネの読み替え)でしたが、これらの町々はみな発掘され、これによって古いバビロンが建てられたのは聖書に書いてあるとおりであることがはっきりしました。

考古学者の忍耐強い発掘と研究の結果、古いバビロンの状態について更に驚くべきことが分かってきたのです。アブラハムと同時代のハムラビ(14:1のシヌアルの王アムラフェル)の時、またそれよりはるか以前においても既に町があり、書物があり、図書館もあり、発達した文学や美術や法律がありました。ただ文学を知っているだけではなく、読書の趣味が広く行きわたった人々でした。彼らは進歩した、才能のある文学的人々でした。バビロンではすでにその頃、大王たちの王朝が続き、その王朝のうちには図書館を設立したり、文学の愛護者である人々もいました。たとえばサルゴン一世(イザヤ書にあるサルゴン王ではない。イザヤ書にあるのはアッシリヤ王のサルゴンです。)は、普通BC3800年代の人とされていますが、アカデにおいて有名な図書館を設立しています。

フランスの発掘家D・サーゼクは1893~1895年の間に、南バビロンのテロにおいて大図書館(一万の書板を納めていたもの)の遺物を発見しましたが、これは、およそBC2700年頃、グデアの治世にすでに存在していたものです。

さらに、ペンシルバニアの探検家たちは、古代カルネであるニップルにおいて神殿の図書館を掘り出しました。その後、さらにこの神殿の基礎を掘り開くことによって一層古い文明の多くの遺物を発見しました。それはサルゴン一世やナラムシンの時の石よりも更に約7Mから10M下の所から出たのですから、これはBC6000年から7000年くらいの古い物でなければならないと言われていますが、そんなに古くないにしても、とにかく非常に古い物に違いないのです。このように考古学者の発掘と研究によって古代バビロンには非常に高い文明が栄えていたことが分かります。

このバベル、エレク、アカデ、カルネの四つの町が建てられた順序は、ここに書いてある順序の逆で、アカデのほうがバベルより古い町のようです。BC750年(ダニエルの時代)にナボニダス王がシッパールという町で太陽の偶像を祭る神殿を修理した時、珍しい記念碑を発見しました。この記念碑は前のサルゴン王の子のナラムシンという古代のバビロンの王が建てたものでした。ナボニダスは、この記念碑は2300年の間見えなかったと言っています。これによって、前のサルゴン王はアカデ王であったことと、BC3000年以上前の人物であったことが分かります。

(2)、ハムの二番目の子ミツライムの子孫

ミツライムは間違いなくエジプトの国民の先祖です。

創 10:13 ミツライムはルデ人、アナミム人、レハビム人、ナフトヒム人、
10:14 パテロス人、カスルヒム人──これからペリシテ人が出た──、カフトル人を生んだ。

13、14節の名前は、おもにアフリカ人の先祖たちです。アラビヤ人は今もエジプトの国をミツルと呼んでいます。「ミツライム」はへブル語でエジプトを指しますが、その意味は「二つの国」で、「上のエジプト」と「下のエジプト」の二つをいうのです。またエジプト人は自分の国をケム(Khem)と呼んでいます。その意味は「黒」で、ハムと同じ語源です。
14節の「カフトル人」はミツライムの子で、クレテ島の人々の先祖であると思われます。

これまでに考古学者の発掘した記念碑に書いてある文字は四種類で、エジプト文字、アッシリヤ文字、ヘテ人の文字、クレテ島の文字ですが、そのうちエジプトとアッシリヤの文字の読み方はすでに分かっていますけれども、ヘテ人の言語とクレテ島の言語とは、今でも読むことができません。しかしエジプトの文明と古代のクレテ島の文明とは同時代に盛んであったことが分かっています。また考古学者の研究によって、クレテ文字はギリシャ文字の源であって、古代エジプト文明と同じ時代であったことが一層明瞭になってきたのです。

(3)、ハムの四番目の子はカナンです。

カナンの二人の子はシドンとへテです(15節)。

創 10:15 カナンは長子シドン、ヘテ、

シドンはフェニキヤ帝国の建設者であり、その先祖です。彼らは驚くべき航海上の権力を持っていました。

ヘテはへテ人の先祖です。ヘテ人については聖書に度々出てきます(ヨシュア記1:4、土師記1:26、列王記第一10:29、同第二7:6など)。

ヨシ 1:4 あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。

士 1:26 そこで、その者はヘテ人の地に行って、一つの町を建て、その名をルズと呼んだ。これが今日までその名である。

Ⅰ列王 10:29 エジプトから買い上げられ、輸入された戦車は銀六百、馬は銀百五十であった。同様に、ヘテ人のすべての王も、アラムの王たちも、彼らの仲買で輸入した。

Ⅱ列王 7:6 主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、彼らは口々に、「あれ。イスラエルの王が、ヘテ人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲うのだ」と言って、

ヘテ人の国は広く、強い国であったに違いありません。今では、ヘテ人が実在したことと、その国が驚くほど広い帝国であったことが発見されて証明されています。1872年、ダマスコの名教師ライナはハマテで珍しい記念碑を発見しました。これはへテ人の記念碑でした。このへテ人の記念碑の文字はアジアの各地で発見されています。エジプトの絵によりますと、ヘテ人は背が低く、髪は黒く、顔は黄色で、少し長めの眼をしています。
ヘテ人は戦争に強いことで有名でしたが、ヘテ人の帝国はBC717年にカルケミシュにおいてアッシリヤのサルゴン王に打ち敗られてから衰えて、帝国は失われてしまいました。今もなお、ヘテ人の文字は読むことができませんけれども、エジプトの記念碑を読むことによって、エジプト人とへテ人との関係が明らかになってきました。

3、 セムの子孫(10:21~31)

創 10:21 セムにも子が生まれた。セムはエベルのすべての子孫の先祖であって、ヤペテの兄であった。
10:22 セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラム。
10:23 アラムの子孫はウツ、フル、ゲテル、マシュ。
10:24 アルパクシャデはシェラフを生み、シェラフはエベルを生んだ。
10:25 エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの名はペレグであった。彼の時代に地が分けられたからである。もうひとりの兄弟の名はヨクタンであった。
10:26 ヨクタンは、アルモダデ、シェレフ、ハツァルマベテ、エラフ、
10:27 ハドラム、ウザル、ディクラ、
10:28 オバル、アビマエル、シェバ、
10:29 オフィル、ハビラ、ヨバブを生んだ。これらはみな、ヨクタンの子孫であった。
10:30 彼らの定住地は、メシャからセファルに及ぶ東の高原地帯であった。
10:31 以上は、それぞれ氏族、国語、地方、国ごとに示したセムの子孫である。

セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラムです。

アルパクシャデはユダヤ人の先祖となりました。ヘブルという名前はアルパクシャデの孫のエベルから出たのです。21節で、「セムはエベルのすべての子孫の先祖」と記されているのは、ユダヤ人がセムの子孫の中で一番重要視されて記されているものと思われます。

セムの子の一人のエラムは、エラム帝国を建てた先祖であると思われます。14章1節にエラムの王ケドルラオメルという人物が出ていますが、考古学者の発掘の結果、エラム帝国の始めは、セムの子であったということの証拠が発見されました。フランスの考古学者がスサ(スサはエラム帝国の都で、エステル記1章2節にあるシュシャンと同じ所です)で発掘中、古い記念碑が出てきました。この記念碑の文字はエラムで普通に使われていた文字ではなく、古いセム族が用いた楔形文字(アッカデ文字)でした。これによって、一番初めのエラム帝国の建設者はセム族であったことが明らかになったのです。

創14:1 さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、
エス 1:2 アハシュエロス王がシュシャンの城で、王座に着いていたころ、

(以上 10章)

あとがき

この数年間に教会もずい分様変わりをしました。立派な会堂、すばらしい讃美、有名人のあかしが続出しています。これは私たちクリスチャンにとってうれしいことです。しかし、その陰で、聖書はやはり置き去りにされたままのようです。
この聖書の探求を発行して丸一年、聖書を掘り下げることにあまり関心を示さない人もいますが、これから真剣に聖書を探求してみようという方も起こされ、これ以上にうれしいことはありません。クリスチャンの信仰による勝利の鍵は聖書にあるのですから、後者の方々が多く起こされることが、日本のリバイバルの鍵となることは間違いありません。
本誌はまことにそまつな極小冊子であり、華麗な印刷物に慣れた方々には紙くずのように思われるかもしれませんが、信仰は表面の華麗さによらず、みことばの深みによるものと思います。どうぞ応援してください。
お友達の中に、本誌ご希望の方がおられましたら、見本誌をお送りします。また皆様からプレゼントして頂いても幸いです。(1985年5月)