週報No.2204 涙の預言エレミヤ書(111)「ダマスコなどの預言」エレミヤ書49:23~39 + 手放す信仰

2019年10月20日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

エレミヤ書49:23~39
49:23 ダマスコについて。「ハマテとアルパデは恥を見た。悪い知らせを聞いたからだ。彼らは海のように震えおののいて恐れ、静まることもできない。
49:24 ダマスコは弱り、恐怖に捕らわれ、身を巡らして逃げた。産婦のような苦しみと苦痛に捕らえられて。
49:25 いったい、どうして、栄誉の町、わたしの喜びの都は捨てられたのか。
49:26 それゆえ、その日、その若い男たちは町の広場に倒れ、その戦士たちもみな、断ち滅ぼされる。──万軍の【主】の御告げ──
49:27 わたしは、ダマスコの城壁に火をつける。その火はベン・ハダデの宮殿をなめ尽くす。」
49:28 バビロンの王ネブカデレザルが打ったケダルとハツォルの王国について。【主】はこう仰せられる。「さあ、ケダルへ攻め上り、東の人々を荒らせ。
49:29 その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋もそのすべての器も、らくだも、運び去られる。人々は彼らに向かって『恐れが回りにある』と叫ぶ。
49:30 ハツォルの住民よ。逃げよ。遠くへのがれよ。深く潜め。──【主】の御告げ──バビロンの王ネブカデレザルは、あなたがたに対してはかりごとをめぐらし、あなたがたに対してたくらみを設けているからだ。
49:31 さあ、安心して住んでいるのんきな国に攻め上れ。──【主】の御告げ──そこにはとびらもなく、かんぬきもなく、その民は孤立して住んでいる。
49:32 彼らのらくだは獲物に、その家畜の群れは分捕り物になる。わたしは、こめかみを刈り上げている者たちを四方に吹き散らし、彼らに災難を各方面から来させる。──【主】の御告げ──
49:33 ハツォルはとこしえまでも荒れ果てて、ジャッカルの住みかとなり、そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない。」
49:34 ユダの王ゼデキヤの治世の初めに、エラムについて預言者エレミヤにあった【主】のことば。
49:35 万軍の【主】はこう仰せられる。「見よ。わたしはエラムの力の源であるその弓を砕く。
49:36 わたしは天の四隅から、四方の風をエラムに来させ、彼らをこの四方の風で吹き散らし、エラムの散らされた者が入らない国はないようにする。
49:37 わたしは、エラムを敵の前におののかせ、そのいのちをねらう者たちの前におののかせ、彼らの上にわざわいを下し、わたしの燃える怒りをその上に下す。──【主】の御告げ──わたしは、彼らのうしろに剣を送って、彼らを絶ち滅ぼす。
49:38 わたしはエラムにわたしの王座を置き、王や首長たちをそこから滅ぼす。──【主】の御告げ──
49:39 しかし、終わりの日になると、わたしはエラムの繁栄を元どおりにする。──【主】の御告げ──」【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>

今日は、最後に、手放す信仰についてお話します。

アブラハムは、長年の祈りと創世記12:2のアブラハムの子孫を「大いなる国民」とするという契約の相続者として与えられたのが、ひとり子イサクです。このイサクの契約は、創世記17:4~8でますます明確になっています。

「わたしは、この契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる、わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約をわたしとあなたとの間に、そしてあなたの後の子孫との間に、代代にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」

アブラハムのひとり子イサクは、このような重大な契約と使命を帯びて、主が与えられた子でした。そのイサクを、「主に全焼のいけにえにささげなさい。」という、神のこれまでの扱いとは矛盾しているかのように見える命令、人身御供を厳しく禁じている神が、考えられない命令を、突然、命じられたのです。

ひとり子イサクを全焼のいけにえにしてしまえば、アブラハムの子孫が大いなる国民となるという契約は、実現しなくなります。

しかし、主はためらうことなく、「神は仰せられた。『あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。』」(創世記22:2)と命じられました。

これは、22:1を見ると、「神はアブラハムを試練に会わせられた。」とあります。神はアブラハムが、最愛のひとり息子イサクを愛しているのを見たとき、主はアブラハムの本心が、イサクよりもまさって、主ご自身を愛しているかを試みられたのです。

神にとっては、アブラハムの民族の後継者問題よりも、アブラハムが主と心を一つにして、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主を愛することのほうが、絶対に大事だったのです。心を尽くして主を愛していない者を、神の民の後継者にしたくなかったのです。どんなに有名な神学校を出ていても、主と心を一つにして、主を全く愛さない者は、神の国の相続人にはなることができません。

神はこのテストをするために、アブラハムにとって最愛のひとり子イサクを、モリヤの山で(ここは将来、御子イエス・キリストが十字架にかかられる所)全焼のいけにえにすることを命じられたのです。

「アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、『アブラハム。アブラハム。』と仰せられた。彼は答えた。『はい。ここにおります。』御使いは仰せられた。『あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を畏れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』」(創世記22:10~12)

主は同じ試みを、ペテロにもしておられます。

「彼らが食事をすませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。』ペテロはイエスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの小羊を飼いなさい。』」(ヨハネ21:15)

ペテロへの試みも、アブラハムへの大試練も、同じです。

旧約のアブラハムは合格し、新約のペテロはフィレオで答えて、主を喜ばせていません。

使徒たちは、聖霊に満たされることによって、主を、心を尽くして愛することができるようになったのです。そして、心に全き愛がないと、人のたましいをキリストの救いに導くこともできません。神の国の後継者に、主はなさいません。

信仰は、与えられるものを受け取るだけでなく、主が取り去られるときも、全き愛をもって従うことです。

<今週の活用聖句>

ガラテヤ人への手紙2章20節
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

<集会案内>

◇「志道会」・・・毎聖日礼拝後30分くらい

◇10月23甘(水)聖別会 午前10時半
「キリストの救いの計画(2) 父なる神の御旨」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421