音声と文書:ヨハネの黙示録(01) ヨハネの黙示録序論 1:1

まなべ先生の音声メッセージには、聞き逃せない大切な内容が多く含まれています。
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PDF文書:ヨハネの黙示録(1)

上の写真は、エーゲ海に浮かぶパトモス島(「聖書の世界 使徒行伝編」ミルトス刊より)。使徒ヨハネは、この小島に罪人として流刑され、この島の南部にある洞窟で黙示を書いたと言われている。

ヨハネの黙示録(1) 序論 1章1節

今日は、ヨハネの黙示録の「一章一節」をご一緒にお読みさせていただきたいと思います。
ヨハネの黙示録、一章一節。ご一緒に読ませていただきましょう。

ヨハネ黙示録
1:1「イエス・キリストの黙示、これは、すぐに起こるはずの事をその僕たちに示すため、神が キリストにお与えになったもの である 。 そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。」

まず、ここで、「イエスキリストの黙示」という書き出しから始まっていますね。

聖書は、ご存知の通り、「創世記」から始まって、「黙示録」で終わっています。
「創世記」というのは、事の起こり、事の始まりという意味があり、
「黙示録」というのは、ベールを取り除く、っていう意味があります。

ですから聖書というのは、事の起こりから始まってですね、そしてベールを取り除くというところで終わっている、ということです。
これより先の事は、もう天の御国に行くということだけが残っているわけなんであります。

聖書によりますと 人間と宇宙の歴史というのは、永遠の輪廻ではないということを言っています。
仏教は輪廻ということを考え出しているわけですが、この輪廻というのは非常に都合がいいわけです。この次どうなって生まれてくるか、ってことのために、では今はどうしておかなきゃいけないか、っていうことになり、これがうまい話になっていくわけなんです。

聖書には、輪廻がないわけですから、もう1回きり、のことなんです。ですから始まりがあり、終わりがある、っていうことになります。

「ヨハネの黙示録」に入ると、何度も、「わたしはアルファでありオメガである」、ということが出てきます。
アルファっていうのはギリシャ語で、英語のABCで言えばAにあたります。オメガっていうのは 、これはどこかの時計の会社の名前ではなくて、ギリシャ文字の一番最後の文字でありまして、英語で言いますならばZである。
ですから、「わたしはアルファでありオメガである」というのは、英語で言うと「わたしはAでありZである」ということになります。
日本語で言いますならば、「わたしは、、であり、、である」、というようなことになるのかもわかりません。

まあ、とにかく聖書は、始まりがあり、終わりがある、とはっきりと教えてくれているわけであります。

神様は、創世記においていくつかの「始まり」を記されました。
例えば、天地創造の始まり、人間の存在の始まり、堕落の始まり、救いの約束の始まり、あるいは民族とか国家形成の始まり、 こういうようなものが、創世記において始まっているわけです。

ところが神様は、この創世記から始まってきましたこの世界のすべてを、この「ヨハネの黙示録」にきて、終わりを示しているわけなんですね。しかし、それは単なる終わりではなくて、新しい永遠の世界の「始まり」のための終わりである、ということを、黙示録は示しているわけなんです。

たとえば、卒業式というのは同時に、新しい学校への入学式の始まりを表しています。夕方がきますと1日の終わりでありますけれども、明日への始まりを示す、ことでもあります。

このように、黙示録は、 この今の世界の終わりを意味するわけですけれども、それは新しい永遠の世界の「始まり」を照らし出している、ということでもあります。

そして、この「ヨハネの黙示録」は、非常に素晴らしい恵みを私たちに与えてくれています。
「創世記」から「ヨハネの黙示録」を見ますと、歴史というのは、ある目的に向かって、ある一定の方向に進んでいる、ということが記されていることが明らかに分かります。
トインビーなんかもそんなことを言っておりますね。

そして、やはりその歴史の背後には、神様がいらっしゃる。私達も、その神様の歴史の中の一コマに出てくるわけです。歴史は、神の舞台であるわけです。
歴史の事を英語では、ヒストリーといいますが、この英語を分解してみますと,「His Story」、つまり、「彼の物語」、こういう風によむことができるわけです。
「イエス様の物語、神の物語」、これが歴史です。
歴史で私たちが学ぶべき本当に大事なことは、何かというと、人類はどっちの方向に向かって、どういう目的をもって進んでいるか、ということです。

さて、この「創世記」と「ヨハネの黙示録」を比べてみると、非常に興味深いものを発見することができます。

いくつか紹介してみますと、

(1)神様は創世記において、太陽や月や星を創造されましたね。創世記の一章あたりをみますと、日や月や星を創造されている。
ところが、「ヨハネの黙示録」になりますと、太陽や月、そういう光はもう必要としない場所になっているということが書いてある。

例えば
黙21:23「都にはこれを照らす太陽も月もいらない。 というのは神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。」
黙22:5「もはや夜がない、神である主が彼らを照らされるので、彼らには灯火の光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」
とあります。
ここで、「彼らは永遠の王」とありますが、これはクリスチャンが永遠の王になる、ということです。

太陽が沈まなくなったら、いつ寝るんですかね、という心配が起きるかもしれません。
また、天国にいったら、24時間ぶっつづけで、働かなきゃいけないのかな、という心配も出てくるかもしれません。
いえいえ、そんなことはありません。そんな心配をしなくてもいいですよ。つまり、月や日は、もはや必要がないということですね。

(2)人間は創世記において、罪に落ちましたね。悪魔の誘惑に引っかかりました。
「ヨハネの黙示録」を見ますと、人類の罪を贖(あがな)うお方として、キリストがここに記されている。

黙示録では、「小羊、小羊」と、この言葉が多く使われているんですが、これは「小さい羊」のことを言っているのではありません。
ヨハネが言いましたようにね、「みよ、罪を除く神の小羊」といってね、キリスト様のことを呼んだわけなんです。ですから、イエス様はもはや十字架におかかりになってからは、神というだけではなくて、十字架にかかった神の「小羊」としてのキリストであり、贖(あがな)い主、救い主であるキリストであるんです。
この「小羊」というのは、一つの「称号」なんですね、
ですから、十字架に架かる前のキリストと、十字架にかかられた後のキリストとでは 、違う。

人類を罪から贖うお方が、ヨハネの黙示録に出てくる 。これは、救い主としての権威をおもちである。黙示録に入ると、キリストという言葉よりも、「小羊」という言葉が何度も何度も出てきます。素晴らしいですね。

(3) 創世記ではこの救いの約束が初めて記されています。創世記3章15節ですけれどもね、
創 3:15 「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
ヨハネの黙示録では、もうこれ以上は贖(あがな)われるところがないところまでの救いである、と記されている。

(4) エデンの園では、サタンが姿を見せていますが、黙示録では、サタンが滅亡している姿がしるされています。
黙20:10「そして彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も偽預言者もいるところで彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」
恐るべきことだと思います。

(5) 創世記では、「創造者としての神」が記されておりますが、ヨハネの黙示録では、「全てを支配しておられる支配者なる神、王としての神」が記されているわけです。
さきほども見てまいりましたが、私達クリスチャンは「王」となるわけです。「天」の御国には王様や女王様がいっぱいいるわけですよ。御国にいったら、自分も王様になるんだな、ということをですね、ちょっと考えてみてごらんなさいな。王様なんて、そうかんたんになれないですよ。

(6) 創世記で創造された天地はですね、なくなっちゃうわけですよ。
ヨハネの黙示録をみますと、天が消えていってしまう。
21章1節をごらんいただきましょうか。
黙21:1「また私は新しい天と新しい地とを見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」

以前の天、以前の地っていうのは、今住んでいる、ここのことですよ。これがなくなっちゃう。
そして新しい天と新しい地。
神様は、もう一度作り直すんです。

(7) それからさらに読みますと、エデンの園は、人間の住処であった、住処としての園です。
ヨハネの黙示録では新しいエルサレム、すなわち神がすむ都市ですね。
これが21章2節に出て参りますでしょ。
黙21:2「わたしはまた聖なる都、新しいエルサレム」

21章10節にも出てまいりますよ
黙21:10「新しい聖なる都エルサレムが神の御許から出て天から下ってくるのを見た。」

エデンの園も素晴らしい。
ヨハネの黙示録に示されている新しい都は、もっと素晴らしいわけです。
神の都。そこにクリスチャンたちは住む。
そしてイエス様は、ヨハネの福音書を見ますと、この「住まい」を工事中である 、といっています。
黙示録21章の12節あたりに
黙21:12「都には、大きな高い城壁と12の門があって・・・」
とあります。今、工事中なわけです。これが完成したら、イエス様はまた迎えに来る、と仰っている。

(8) 創世記では 第一のアダムの結婚を示しています。アダムとエバの結婚が記されていますね。
黙示録では、第二のアダムであるキリストの結婚が記されている。
21章の2節後半をみますと
黙21:2「夫のために飾られた花嫁の様に整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」
21:9、「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁をみせましょう。」
小羊とはキリストのことですから、創世記は第一のアダムの結婚、
ヨハネの黙示録では第二のアダム、キリストの結婚、が記されている。
素晴らしいことが起きる。

(9) 創世記では、悲しみと苦しみの開幕があった。罪をおかして、死が入ってきた。兄弟で、お兄さんが弟を殺す。こういう悲しみ苦しみ、の開幕でした。
それに比べるとヨハネの黙示録では、悲しみも苦しみもない。

(10) 黙21:4「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや、死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
創世記では、人は呪われているわけです。働いても、草やあざみが生えるでしょう。額に汗して、食べ物を得なければならない。そしてあなたは土に帰るでしょう。呪われたんですね。
そして黙示録には、もはや呪いは少しもない。これは、素晴らしいと思います。

私達は、この地上でいろいろ苦労しますが、この苦労は一体何のためか。
私達は、この地上で呪われるために苦労しているんじゃない。
やがて、呪いも悲しみも痛みも苦しみもない、ここに出られるためにですね、労苦しているんです。

パウロもそう言っております。それでなきゃね、「こんな」って言っちゃおかしいけれどもね、もう、この地上の生涯は耐えられない。

(11) 創世記で人は、楽園を失いました。エデンの園を失いました。命の木から追放されたことが記されています。
黙示録では、楽園を再び回復しております。そしてまた、命の木の実を食べてよろしいと。
黙22:2「都の大通りの中央を流れていた。川の両岸にはいのちの木があって、12種の実がなり、毎月実ができた。またその木の葉は諸国の民をいやした。」

素晴らしいじゃありませんか。
このあたりでもね、工事している川があるようですが、どうせ、ゆくゆくはどぶ川になって、空き缶をそのうち投げるんじゃないですか。
やがて、三輪車や自転車も投げ込んで、ごみ溜めにしてしまう。
しかしここは違うんです。

この川の両岸に、「いのちの木があった」とあります。
みなさん、この木をようくごらんなさい。ちょろちょろっと読んだらわかんないですよ。
「いのちの木」一本に、12種の実がなるんですよ。果物が12種類。
しかも毎月実がなる。無駄なものは一つもない。

黙22:2「・・・その木の葉は諸国の民をいやした。」とありますね。
これを食べるまではね、美味しいものを食べたとは言えないわけですよ。
この地上でね、ハンバーグ食べた、何食べたとか言っても、いのちの木の実とは、比べられません。

(12) 創世記では4つの川が流れていました。
あのユーフラテス川とかですね。
ところが、神の都には、「いのちの水の川」がある。ここで、「いのちの水の川」を飲むわけですよ。

今年は雨がいっぱい降ったから、あまり水には不自由しないかもしれませんが、だいたい毎年夏になると、「水がない、水がない」って言うでしょ。
どこかのデパートでは水を売り始めたって話ですけど、今年は売らないでしょうけどね。
私達は、「いのちの水の川」が流れている、この水を飲ませていただく者とされたいものです。

こういうように、創世記で失われたものが、黙示録では回復されているわけです。
失われたものが、ここで全部回復されているわけです。

創世記で侵入してきた罪と呪い。
黙示録では、もはや呪われるものはないと、22章3節で言われています。

創世記で失われたものは回復している。
創世記で入ってきた余計なものは、黙示録では取り除かれている。

この新しいエルサレムというのは、エデンの園よりはるかに勝るものなんですね。

ですから、もし、聖書に「ヨハネの黙示録」がなかったら、聖書は全く未完成、ということになりますね。そればかりでなく、一体神様は人類をどこに導こうとしているのか、全くわからなくなっちゃう。途中切れ。尻切れトンボになってしまう。

黙示録の1章1節では「イエスキリストの黙示」とありますが、これはイエス様から与えられた黙示であるとともに、キリストの人格と、事業の黙示、イエス様がどういうお方であり、どういうことをなさるか、を表すことの、黙示である、と言っているんですね。

Ⅰ. 一体黙示というのは何なんであるか。

「黙って示す」って書きますけどね、なかなか難しいと思うんですよね。
ギリシャ語ではアポカリプスっていうんですね。
なんかこう、カルピスみたいな名前ですけれども。
これは「ベールをはがす、覆いをとる」ということなんです。

英語では「REVELATION」で、
「RE」というのは「剥がす、取り除く」という意味ですから、ベールを剥がすということを、
REVELATIONといいます。

つまり人間の知性とか視覚とか、五感に覆い隠された、神秘のベールをはがすという、
見えないものを見える様にする、これを「黙示」というわけです。

黙示というのは旧約聖書の中でもありますよ。
エゼキエル書、これも黙示があります。
ダニエル書にも黙示があります。
ゼカリヤ書にも黙示があります。

そんなのあったかしら、なんて言ってはいけませんよ。

エゼキエル書とゼカリヤ書は、聖霊の時代を黙示してたんです

ダニエル書は、バビロンのネブカネデザル王からずうっと、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、中間時代、キリストの十字架、キリストの再臨の時代までを黙示しているんですね。
ダニエル書は短い書ですけれども、かなり重大なことを語っているわけなんですよね。

イザヤ書の後半は、キリストの十字架から千年王国、
それから新しい天、新しい地についても書いてありますねえ。
これを黙示しているわけです。

ですから「ヨハネの黙示録」の以前にですね、こういう黙示がたくさん記されている。
この黙示には、預言的な要素がたくさん含まれているんですね。
聖書は、旧約から新約に向かうに従って、旧約は預言が中心ですがね、
だんだん黙示に変わっていくんですね。

黙示と預言の違いはどこにあるかというと、
黙示というのは、確かに預言の働きをしているわけですが、
異なるところが2つあるんです。

一つは、黙示はその表現方法が特殊な性格をもっているということです。
二つ目は、黙示は終末論を扱っているってことですね。

マタイの福音書24章、第二テサロニケ2章、第二ペテロ3章などは、その特徴をはっきり記しています。

多くの人々はこの「ヨハネの黙示録」をですね、
聖書中で最も特異な、全く別格の書物であるように言う人がいますが、
本当はそうじゃないんです。

「ヨハネの黙示録」は聖書中のほかの書と、切り離されているわけではないんです。
新約聖書の、マタイの福音書24章、第二テサロニケ2章、第二ペテロ3章も、旧約聖書とも、深い関わりがあります。

ちょっとゼパニヤ書を見てみましょうかね。
普段、ここはあまり開かないかもしれませんが、ハバクク書の次ですね。

この書はですね、「主の日」というのがたくさん出てくるのが、特徴なんですけれども。

1章7節の「主の日」、9節の「その日」、10節の「その日」、14節の「主の大いなる日」、15節の「その日」、「激しい怒りの日」、「苦難と苦悩の日」、「荒廃と滅亡の日」、「やみと暗黒の日」、「雲と暗やみの日」、16節の「襲われる日」、18節「主の激しい怒りの日」、2章2,3節「主の怒りの日」。

ね、「主の日」がいっぱい出てくるでしょ。

ゼパニヤ書に出てくる、「主の日」や「主の怒りの日」とは、いったいなんのことであるか。
これは実に、「イエス様の裁きの日」のことなんですねえ。

「ヨハネの黙示録」はですねえ、こういうふうに、多くの聖書中の黙示的預言の上に、
「ヨハネの黙示録」が存在している、ってことなんです。

ですからね、この「ヨハネの黙示録」は、決して聖書の中で浮き上がった書ではないんです。
聖書全体にしっかり根をはやしている書なんです。

しかもヨハネはですね、旧約聖書中からたくさんの引用句を使っていますよ。
ある学者は518あるって言っていますがね。
そのほか、聖句を暗示するものは、無数にあるといってもよろしいんです。
「ヨハネの黙示録」は、黙示的預言の上に立って存在している、
ということを忘れてはいけません。
この黙示的預言というのは、ヘブル人特有なもので、他の文学にはほとんどありません。

実はこの黙示文学というのは、イエス様が降臨なさる前後一世紀、つまりBC100年からAD100年あたりに、盛んに黙示文学が書かれていたんですね。
これらの著者たちは無名の人々でしたから、彼らは自分の著作物に権威を持たせるために、聖書中の聖徒たちの名前を使ったりしました。
中にはペテロの福音書なんかが出てきたりする。こういうのはあまり価値のない経外典、偽典というのに収まっているわけですがね。

そこでヨハネは自分の名前を明記して、当時横行していた黙示文学とは異なる、
「価値高い、普遍的で、霊的な黙示」をここに記しました。

Ⅱ.さて、「ヨハネの黙示録」の方にかえりますが、

1. ヨハネは、パトモス島というところに迫害によって島流しにあっていた時にこれを書いた、と語っています。

1章9節のおわりに「、、、パトモスという島にいた」とあります。

そこで与えられた黙示を、後にエペソに帰って書いたといわれています。
で、この「ヨハネの黙示録」は誰に宛てて書かれたのかというと、アジアの7つの教会に向けて書かれました。
1章11節に「七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」と、ありますから、こういう教会宛てに書かれたものです。

2. ヨハネは、黙示録を記すのに、旧約の518の聖句を引用しており旧約、新約の聖句を暗示するものは、数えきれないほどある、といわれています。

これからだんだんお話してまいりますが、とにかくこの黙示録は聖書全体をよく知っている人、ヘブル的なものの考えができる人が書いた、ということがわかります。

3. いつ頃書かれたのか、というと、これはなかなか難しい問題ですけれども。内容からすると、このアジアの七つの教会が、相当堕落した状態にあった頃といえます。

キリスト教の歴史の、最初の三世紀までの資料を見ますと、
「ヨハネは、皇帝ドミテアヌスの時、パトモスに流され、そこで幻を見、ドミテアヌスの死によって解放され、エペソにもどって、そこで、先に見た幻を記した」
と言っています。

ドミテアヌスは、いつ頃の皇帝かというと、AD81~96年です。
ネロの時も迫害が厳しかったですけれども、ネロの時はクリスチャンを皆殺しちゃったんですね。
でも、ドミテアヌスは島流しにした。

日本でもよく島流しっていうのがあったでしょ、八丈島とかね。

ですからおそらくAD96年ごろに、「ヨハネの黙示録」が記された、ということですね。
この頃の教会は、約半世紀を通過し、ボツボツ霊的腐敗もおきていたし、また、異端も現れていたし、激しい迫害もありました。

このような時代に、主イエスは、ヨハネに「黙示録」を書くことを命じられました。
それは、当時激しい迫害に苦しんでいた教会を励ますためと、今日に至るまでの教会に警告を与え、必要に応えるためでもありました。

また、「ヨハネの黙示録」はその構造においても、多くの特徴があげられます。
その用語、象徴、繰り返す聖句、数字(7とか666とかね)、文体などがあげられますが、それらは、出会った時においおい考えてまいります。

4. 「ヨハネの黙示録」を理解する上で、お話しておきたい,「解釈法」っていうのがいくつかあるのですが、ここで簡単にお話しておきましょう。

過去的解釈法、歴史的解釈法、未来的解釈法、霊的比喩的解釈法と4つあります。

⑴ 過去的解釈法というのは
この書のほとんど全部が,過去に起こったこととする。
その一つ一つは,その時代の状況や出来事に当てはめなきゃいけない。
そしてヨハネの時代には,この幻は成就されていたと、過去のものである、という考え方。

⑵ 歴史的解釈法
これは黙示録が、教会時代全体に及ぶ世界の歴史を語っていると考え、
時代時代に当てはめて考えさせる。
時代的解釈法とも言っているんですが、各々の異なった幻は,歴史における主だった出来事をさすもの,と考えます。

⑶ 未来的解釈法
これは黙示録の4章以降は,キリストの再臨の時と、それに続く時代に起こる出来事を描いている、という考え方。

⑷ 霊的比喩的解釈法
ここに書いてあるのは現実のことではなくて、文字通りの解釈はできない。
これは全部比喩なんだ、たとえなんだ、実際に起こる事じゃないんだ、という考え方。

けれどもですね、「ヨハネの黙示録」はこれらの解釈法のどれか一つに縛られるような、簡単なものではないんですね。

私達が、「ヨハネの黙示録」を正しく理解していくために、心に留めておかなくてはならないことがいくつかあると思うですが、
ここでご紹介しますと、

① この黙示録は神様が使徒ヨハネに与えた特別な啓示だということ。
② 教会に対する大迫害が背景にあったということ。
③ 黙示録は、不義に対して、正義の最後的勝利を得る、ということを記していること。
④ ヨハネの黙示録は、全体を一つのものとして考えるときに理解できる、正しく理解できるもので,バラバラにしてはいけないということ。
⑤ おのおのの箇所は、実情がよく似た、ある歴史に適用されるための行動原理を持っていること。
たとえば、「ラオデキヤの教会は生ぬるい、吐き出したい」と書いてあるんですが、「それは現代だ、信仰が生ぬるい現代を現わしているんだ」という人がありますけれども、それは応用であって、その記事がその時代の出来事そのものを指していると限定することはできない、ということ。
他の時代の事も言い得るということ。
⑥ 時の終わりと、地上における人間の歴史の終局にいたるまでの状況を記している。終わりを指している。
終末論ていうのは、エスカトロジーっていうんですけれども、本当の終わりっていうのは,こういうことを意味しているんだということ。
⑦ 黙示録の中に出てくる出来事や人物や物事は、文字通りには受け止めることができない,象徴的な言葉もある、ということ。
たとえば、イエス様なんか見ると、口から剣が出ている。
こういうのは漫画でも出てきていないですよ。
⑧ 人間が完全には理解できない霊の世界の事を書いていること。
これだ、といって決めつけることができない、当てはめることができないということ。

これらのことが黙示録の実情であり、また、未来に起きる出来事を言及しているわけですから、多くの部分は、私達が地上で生きている限り、神秘として残り続ける、ということは否めないのです。

Ⅲ. ヨハネの黙示録は、取り止めもなく学んでしまうと、次々と出てくる幻によって,混乱させられてしまいます。

それを避けるには、黙示録の構造を知っておく必要があります。
それをしておきませんと、無理やりこれはこれだと、決めつけてしまう危険性があります。
私達は、ヨハネの黙示録を取り留めもなく学んでいたんでは、具合が悪いわけです。

1.まず、1章~3章は、挨拶のあと、次にキリストの幻が出てきます.
そして、2~3章では、7つの教会への手紙が記されています。

2.4~22章。ここでは3回、同じような黙示が繰り返されています。
でてくる幻の題材は異なっていますが、その内容はよく似ているんです。
つまり、終末に起きる出来事は3つの表現方法によって繰り返されているんです。

繰り返される黙示の1回目はですね、
4章5章では、天の幻,天的永遠的礼拝が、
6章から11章では患難時代から千年王国が
記されています。ここでしばしば出てくるのが、7つのラッパ、7つの封印の幻が出てきます。

そして2回目は12章から16章まで。
この部分の幻は、悪の勢力の戦いと7つ鉢が描かれています。

「7つの封印、7つのラッパ、7つの鉢」と「7」の数字が使われていることに気づきますが、「7」は神の完全数でしたよね。
それゆえ、これらの審判は徹底したものであることが分かります。
完全な審判であるってことです。
ですから、人間は救われていなければ大変なことになります。
また、ここでは、患難時代と、小羊による第1の審判が記されています。

そして3回目は17章~22章まで。
この部分での幻は、バビロンの崩壊と、神の国の成就。すなわち、千年王国と最後の審判、そして新しいエルサレムです。

このように同じような黙示が,3回記されています。
これが分かっていないと、なんのこっちゃさっぱり分からなくなってしまいます。

前の方で千年王国が出てきて、また出てきて、あ、また出てきた、ってことになっちゃうんです。
おなじことを3回、題材を変えて黙示しているってことなんです。
こういう区切りで読んでいただけると、あ、そうか、とだんだん分かって頂けるとおもうんですよね。

Ⅳ. ここでもう一度「ヨハネの黙示録、1章1節」に戻って、詳しくみてまいりましょう。

A、 その初めのところで「イエス、キリストの黙示」とありますね。
黙示というのは、ベールが外される、という意味があることを前にお話しました。
誰の「ベールを外す」かというと、「キリストのベールを外す」ということなんですね。
黙示録の中心は、キリストでありましたから、
このお方のベールを外していく、ということなんですね。
そうすると全部が見えてくる.。

私達は、イエス様が人となっておいでくださったことと、昇天されるまでの出来事を、福音書で学んで知っていますね。
それでイエス様の全部を知ったつもりになってしまいがちですが、そうではないんです。

主の降誕と昇天は、私達に示された啓示の極く一部であります。
やがて天の御国で、王として座しておられるイエス様を、私達は知らない。

黙示録でこの神秘のベールを外していただいて、イエス様はどういうお方なのか、ということを教えようとしている。

そしてこのベールが外されるとき
キリストに敵対する者と、キリストを信じ愛する者に対して、イエス様はどういう態度をとられるか、が分かってくる。

キリストのベールがかかったままではですね、勧善懲悪くらいのことしかわからないんですけれども、
このベールが外されるとき、私達はどういう生き方をしなければならないか、ということが分かってくるわけです。

ですから、「ヨハネの黙示録」で最も注意すべきお方は、「キリスト」ですね。
私達は、イエス様がどのようなお方であるか、もっとはっきりと知っていく必要があるんです。

B、次に「これはすぐに起こるはずの事をその僕たちに示すため、神がキリストにお与えになったものである」とあります。

「すぐに起こるはず」というのは、私たちが思いがちな時間的な感覚のことではありません。
むしろ「すぐ」というよりも、「必ず起こる」、「必ず」と、言い換えてもいいでしょう。

そして「事」というのがありますね。
この「事」というのは大事な言葉なんです。
「事」というのは、歴史的な出来事として必ず起きてくる事柄、ということを意味しています。
ですから、ただの霊的な、人間が教訓を受ける、というようなことではなくて、
幻が意味することが、必ず歴史的事実として起こる、ということなんですね。
これは夢物語ではない、なんか教えられて教訓を得るようなものではない、
必ず起こる、ということです。

ですから、これから「黙示録」の中に記されている、すべての出来事を私たちは学んでいくわけですが、わたしたちクリスチャンにとって、
クリスチャンの祝福、不信者の裁きは、
極めて重大な意味をも意味するんですね。

「ヨハネの黙示録」はただ学ぶだけでは意味がありません。
イエス様と自分との関係を深めることによってのみ、その意味があります。

さらに、この「事」であらわされているものは、
イエス様にかかっているベールが取り除かれるときに、メッセージとしてイエス様から語られるもののことなんです。

これが最終的な人間の幸福、祝福に繋がるわけなんです。

これは人間が考えだしたり、努力して得られるものではない、ことを現わしています。

人間が幸せになるのも不幸になるのも、その人間が良かったわけでも悪かったわけでもない。

私達の最終的な祝福は、「私達とキリストとの関係の深さ」によって決まります。

私達が、この地上で真面目に一生懸命に頑張ったとしても、キリストとの関わりがなかったならば、私達は決して幸福にはなれない。神の呪いを受けてしまう、ということを言っているんですね。

こういうことが記されている「黙示録」の目的はなにか、というと
黙示録を読む私たちが、未来の神の国の目的をはっきり知るということです。
その未来が、父なる神様より、キリストのご人格を通して展開されてくる、
そして、その為に私たちも、自らを備えていく、ためです。

C、「神がキリストにお与えになったものである」とあります。
この黙示が出た源は、父なる神様からのものであるということです。
そしてこの黙示が私達と直接かかわっていくのは、キリストを通してである事を示しています。
人間は、キリストなしに祝福を求めようとしていますが、
父なる神様は、祝福も裁きも全て、キリストにその権威をお与えになった、ということです。

D、最後に「キリストはその御使いを遣わして、これを僕ヨハネにお告げになりました」とあります。
これは黙示の方法を記していますが、御使いを遣わしているのは、旧約や新約でも、
たびたび神の御心を伝えるのに、御使いが用いられています。
創世記でも新約でも、しばしば神の御心を伝えるのに御使いが遣わされています。

しかし、ここで大切なことがもう一つあります。
それは「お告げになりました」という言葉です。
この「お告げになる」という特別な言葉は、真理を「しるし」や「象徴」を用いて伝える
ことを意味します。

ですから、黙示録全体は、「しるし」と「象徴」で、いっぱい記されています。

簡単に言えば、ことばではなくて、「絵」ですね。

初めからこうお断りされているんですね。
ですから字面で分かろうとしても無理なんです。

この方が人間に訴える力をもっています。
黙示録は言葉で書いてありますが、実は言葉ではなくて「絵」なんですね。
この幻を見たヨハネは、それが真理を示していることを悟り、これは証しなければならないと強く意識しました。

結論

①  さて、私達は、これから「ヨハネの黙示録」を学ぼうとしているわけですが、
単に、学べばいい、といういうものではありません。

まずキリストとは、一体どういうお方であるか、
を、「ヨハネの黙示録」を通して知る必要があります。

そして、イエス様のベールがだんだん剥がれてきます。

永遠の御国におけるキリスト、最後の審判におけるキリスト、の姿が分かってくると
私達は、この地上の生涯を備えて歩むようになり、終末の真理を悟り、その祝福はいかなるものであり、その裁きはいかなるものであるかをクリスチャンが知るなら、
忠実なキリストの証人になっていく、と、こういうわけですね。

  そして自ら、最終的な勝利を獲得する者にならなければなりません。
創世記で失ったものを黙示録で回復する。

この地上で永遠の命を失ったものとして生まれてきましたが、
キリストによって回復される。

現実的に、失われるものにならないのは、この「ヨハネの黙示録」に至ってである。

これが「ヨハネの黙示録」が書かれた目的であります。

これから22章までコツコツと学ばさせて頂きますが、
終末におけるキリストの働き、神の祝福がいかなるものであるかを
悟らされるものとされたい。

お祈り

「イエス・キリストの黙示、これは、すぐに起こるはずの事をその僕たちに示すため、神が キリストにお与えになったものである。」

恵みの深い天の父なる神様、私達はこの地上に生きている者ですが、やがてこの地上を去り、その「おいでの日」に天の御国に入れられ、「新しいエルサレム」に加えられて、
永遠なるあなたとともに交わり、大いなる祝福をうけることができる約束を与えられていることをありがとうございます。
真理はさらにさらに深く、私達の前に広がっています。
どうか、これから黙示録に取り組もうとしていますが、よき悟りを与えてください。
残された人生が、人を愛するための、よき備えとなすことが出来るように、顧みてください。
愛するイエス様の御名によって祈ります。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明