音声と文書:ヨハネの黙示録(02) ヨハネの挨拶 1:2~6

まなべ先生の音声メッセージには、聞き逃せない大切な内容が多く含まれています。
下記に、音声を聞きとって文書化しましたので、お読みください。
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PDF文書:ヨハネの黙示録(2)

上の写真は、ヨハネが神から啓示されたことを書いたと言われるパトモス島の洞窟内に描かれたイコン画(「聖書の世界 使徒行伝編」ミルトス刊より)。


ヨハネの黙示録 1:2~6
1:2 ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。
1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。
1:4 ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、
1:5 また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
1:6 また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。【新改訳改訂第3版】

ヨハネの黙示録(02) ヨハネの挨拶 1章2~6節

今日は2節から入ってまいりましょう。
この前は1章1節を学びましたが、まだここは挨拶なんですね。
まだ本論に入っているわけではありません。

Ⅰ. 2節で、ヨハネはこの黙示録は、彼の証だ、と言っています。

A. この幻は、ヨハネが人々に証をするために与えられたものです。

使徒の働き4:20で、ペテロとヨハネは
使4:20 「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」
と言いました。
これはすべてのクリスチャンの体験でなければいけないのですが、エレミヤもそういっていますね。すべて神様を知った人は、神様を話さないではいられないのです。

1.神が私達の内に与えられる恵みの経験のすべては、私達がそれを人々に証するために与えられるのです。神様の恵みを頂いた人は、もう黙ってはいられない。
もし黙っているとどうなるか、っていうと、その恵みは消えていってしまう。そして、だんだんと恵みを与えられなくなってしまう。
ヨハネがこの幻を受けた時、人々に証しなくてはいけないと、強く意識したようです。
現代のクリスチャンはもっとヨハネのようにですね、証しなくてはいけない。証したいと強く思う必要があると思うんです。

2.現代人は証するというのを軽く考えているように思いますが、証というのはただ「キリストについて話をする」というだけではないのです。当時のローマ皇帝の迫害下にあって、キリストについて証することは、もはや迫害や苦難を受ける、ことを意味したんです。
そして「証する」というのは、やがて「殉教する」という言葉も生まれてきたんです。
教会でもですね、
「この次は誰が証する? 」「どうしようか?」「まとめてきましたけど、」なんていってますがね、「証する」、なんて、まとめてやるもんじゃないんですね。殉教するのに、まとめる人はいませんよね。本当に証をするというのは、「キリストのために死ぬ」、「キリストのために命を懸ける」ってことなんですね。
教会の子ども達は、
「せんせぇい、命かける!」なんていって、簡単に命かけてしまいますけどねえ。
クリスチャンはですね、証することによって起こる反動を恐れてはならない。殉教者っていうのは、証し人を意味する。

確かにこの2000年間、キリストを証したために迫害を受け、殺された人は無数に上る。
私達はどのようにしてキリストを伝えるかというと、自分の命を注いで伝える。
キリストは、神の愛を私達にどのように示されたかというと、ご自分の命を注ぐことによって、だったんですね。

B. そこでヨハネは、何を証するといっているのでしょうか?

「彼の見たすべてのことを」ですね。
それは、「神のことばとイエス・キリストのあかし」をですね。

1. 「神のことば」といっているのはなにか?
それは、神が語られたことば、という意味ではありません。
ヨハネの福音書1:1を見ていただきましょうね。
ヨハ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
ここにおいて意味する「ことば」とは、キリストを指しています。
WORDでなくて、LOGOS=キリスト、をさしています。
旧約聖書中で預言者たちは、「主のことば」が臨んだとき、この神の啓示が意味するところのものは全てキリストでした。ヨハネがここで「神のことばを証する」といった時、神のご人格であるキリストを証すると言ったんです。

2. 「キリストのあかし」といった時、
キリストの働きと、メッセージの一切を含むことを意味します。
すなわち、
‘キリストの受肉の目的’
‘33年の地上生涯の教えとわざ’
‘死と復活の意味’
‘そして今も天において私達をとりなしてくださること’
‘やがて未来における支配と審判をなさること’
こういうものを通して、神はキリストによって、神の聖さ、恵み深さ、神の権能を世界にあかしさせようとしているのです。

「ヨハネの黙示録」が記されたのはそこに目的がある。これが、ヨハネが見た幻の意味合いなんです。ですから、「ヨハネの黙示録」は決して簡単なものではないと、言うことでしょうね。
ヨハネはこの黙示録によって何をしようとしているのか?
キリストというお方がどういうお方であって、イエス様の地上生涯から後になさるすべての意味合いを教えようと、そういうことですね。雄大なものであると思います。

Ⅱ. 次に3節に移りましょう。

黙示録1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

① ヨハネはここで「すでにあること」を知っていたようです。
それは、やがて大勢の人が教会にやってきて、神のことばを聞くであろう、この「黙示録」も聞くであろう、けれども、それを心に留めない者は多く、心に留める者は非常に少ない、ということをヨハネは知っておったわけですね、
そこでヨハネは、どんな人が幸せなのか、ということを明記しました。
これから話をする前に、書き記す前に、どういう人が幸いなのかということをここに記したんですね。
それは「心に留める人」なんです。
すなわち、神のみことばを「心に留めて」、それを守る人々に祝福を与えられるといいました。幸せというのは、人生の内で最も高い満足を見出すことができる、ということなんですね。それゆえに「黙示録」ではしばしば、「耳ある者は聞くべし」という言葉が出てきます。

② また、この3節で注意したいことがあります。
「この預言のことばを朗読する者と、」というところの、「朗読する者」とは、クリスチャンの集会で、人々の前で声を大にして朗読する指導者のことです。「それを聞いて」いるのは会衆です。
ヨハネがこれを語ったのはある重要な意味がありました。
当時の新約聖書は、まだはっきりとした形を成していませんでした。現代のようにまだまとまっていなかった時代でした。教会の初期においては、さまざまな文書が飛び交っていたので、偽物が一杯出ていたんです、どの書が聖(正)典として聖書に加えられるべきかが、当時は最大の問題であったわけです。
その問題の試金石の一つは、公の集会で認められ、朗読されることでした。
そこでヨハネはこの黙示録についての、神の権威、を明確に示して、教会の公の集会で朗読するように勧めたのです。
ヨハネは、聞いただけでは、なお心に留める者も少ないし、また、直接話を聞けない者のためにも使命を感じ、この証を書き記したのです。

③ 3節の終わりに、「時が近づいているからである」、と、出てまいります。
この「時」というのは2つ意味があるんですね。
ここでいうギリシャ語は、「カイロス」といいますが、このカイロスは年代順のことではなくて、ある重要な時、すなわち、「ヨハネが見た幻の預言が実現する時が近づいている」、
という意味です。「時間がだんだん過ぎていく、時」、という意味ではありません。
それでヨハネは、公会で是非この預言を、声を高くして朗読してください、そして朗読する者と、それに心を留める双方に祝福がある、といったのです。

神様のみ言葉を守り、命令に従う者は、これから来ようとしている、神と悪の勢力の戦いの中で、勝利者になる、ということです。これから、だんだんヨハネの黙示録がすすんでいくと、それがどういうことかやがて分かってくることなんです。
だからクリスチャンは、この世にあっては絶えず神のことばに心を留めながら生活していけば、幸いを得、勝利を得る、ということですね。

しかし残念ながら、聞いても甚だ心に留める者が少ないということを、ヨハネは懸念していたようです。

Ⅲ. 4節から6節も同じくヨハネの挨拶ですが、これは驚くべき挨拶だと思うんですね。

「時候の挨拶」っていうのもありますが、ヨハネの挨拶は驚くべきものがあります。
4節で目につく言葉は「~から~へ」という、発信人とあて先を示す言葉です。

1. 4節では、「ヨハネからアジアの7つの教会へ」と言いました。
このアジアというのは今日のアジアを指すのではありません。当時のローマ帝国の一つの州あった小アジア州、今でいうトルコ半島あたりを指しています。
ですから、今の中国とか、韓国とか、日本が入っているわけではありませんよ。
「七つの教会」というのは、アジアに七つしか教会がなかったという意味ではありません。
七つの代表された教会を意味しています。
七つの教会の名前が11節で出てまいりますが、
エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ、ですね。これを覚えるのに、初めの頭文字をとって、
「エ、ス、ペ、テ、サ、フィ、ラ」
と覚えていたらいいですね。
地図を見ますと、おそらくこの順番、「エ、ス、ペ、テ、サ、フィ、ラ」で回読されていたようですね。
こういう教会に、巻物として送り出されて回読されたようです。
これらの教会は、それぞれにその特徴が記されているわけですが、その時々にお話したいと思います。

なぜ七つなのか、というと、
これは神の教会ですから、神の完全数の「七」が選ばれた、ということですね。
なぜ6つじゃないのか、8つじゃないのかは、これはそういう意味、完全数が考えられるわけですね。「ヨハネの黙示録」では「七」という数字が多いのですが、七つの教会、七つの星、七つの御霊、七つの何とか、と、いっぱい出てきます。

また、「ヨハネから」と、自分の名前をはっきりと言っています。
ヨハネはのちにエペソ教会の監督になったようですが、アジア地方の教会ではこの名前はよく知られていたのでしょう。

2.次に「今いまし、昔いまし、後に来られる方から」についてですが。

これは黙示録でイエス様につけられた、第一番目の称号です。
先にヨハネは、この黙示録の発信人は自分であるといいましたが、それは表面上のことであって、その根源的な発信人は、別におられたんです。この「称号」の表し方は、キリストが、過去、現在、未来にかかわることで本質的に永遠のお方であることです。このお方がこれを書いているんだと、いうことですねえ。

ヘブル13:8 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。
と同じ意味です。
イエス様が永遠の神であることを強調しています。この永遠的存在者であるこの発信人が、5節の「恵みと平安」を与えてくださる源なのです。
キリストは過去においても恵みと平安を与えられたし、今も与えておられ、未来も与え続けてくださるお方だ、という意味ですね。
イエス様がおられるところは、時間と場所を問わず、何処でも恵みと平安が伴うんだよ、という約束であります。これが発信人です。素晴らしい発信人ですねえ。

3.それから、その次の発信人は、なんであるかといいますと、「その御座の前におられる七つの御霊から」ですが、中々わかりにくい発信人ですねえ。
たとえば、手紙が届いたときに、私達はまず封筒の裏をみて、誰から来たのかなあ、と発信人をみますよね。どうです、「御座の前におられる七つの御霊から」、なんて書いてあったら。
これは素晴らしい発信人でありますねえ。これは別の「称号」を持った発信人ですね。

わかりにくいのはこの「七つの御霊から」というところですが、これは、御霊が七つにわかれているとか、七人いらっしゃるというのではありません。「七」というのは完全数でしたから、御霊の働きの完全性を示すものです。
救いにおける御霊の働きの完成を強調しているものです。
「完全なみ救いをなさる御霊から」、と、こういうふうに理解するほうが正しいわけです。
必ずしも数字は「数」を表すとは限らないのです。ある「意味」をもつんです。
「七つの御霊」の場合もそうなんです。御霊が七つあるっていうんじゃなくて。この完全なみ救いのお方が、恵みと平安の源であるっていうんですね。ああ、素晴らしい発信人だと思います。

4、 さらに5節では、キリストについて三つの称号が書かれています。

「忠実な証人」
これはイエス様がその地上生涯において、全く父なる神に対して忠実に従いご自身の働きを
なし遂げられたことです。イエス様以上に忠実なお方はいない。

「死者の中から最初によみがえられた方」
これは明らかにキリストの復活を表しています。ここで「最初に」という言葉に注目しましょう。「最初に」とわざわざ言っているのは、「第二」「第三」のよみがえりがありうる、ということを含んでいます。「最初」があるから、「第二」「第三」があるわけです。
すなわち、キリストを信じて従う者たちの甦りを保証している、ということなんです。
必ず、よみがえりを果たしなさる、という意味なんです。
この称号は、当時ローマの迫害の中で次々と殉教していく者が多かった時代に、クリスチャンたちに大きな励ましを与えたと思いますね。ライオンの餌食にされたり、身体に油を塗られて火で燃やされようとされる人たちにとっては、大きな希望を与えたんですね。

「地上の王たちの支配者」
これは、神の国に勝利をもたらす征服者、という意味ですね。
神の国の建設者としての、キリストの称号です。
神の国の完成は、なお将来のこととして残されているわけですが、この黙示録は、この神の国の完全な成就を、ちょっと垣間見させてくれています。
ですから、この3番目の称号は、黙示録では深い関わりをもって読むことができるわけです。
しかもこれら3つの称号は、キリストのお働きのすべてを要約しているといっても、よろしいと思います。
・常にいまし、昔いまし、後に来られる方、
・御霊、
・キリスト、
これらは三位一体の神が暗示されているようですね。

ヨハネは、自分がこの手紙をだしているが、その背後には神様が手紙をだしなさっているんだよ、と、こういうことを言わんとしているってことですね。

イエス様が「ヨハネの黙示録」の発信人であり、宛先は誰かというと「あなたがた」ですね。
直接的には七つの教会のクルスチャン達ですが、当時の書簡というのは現代のように印刷できませんでしたから、教会から教会へとぐるぐる回して、読みまわしたわけです。当時の人達を意味しているんですが、しかしここには、「あなたがた」とありますからすべてのクリスチャンが含まれるわけですね。

B.キリストを信じて、キリストに従っていく者には、恵みと平安が約束されている。

これらのみ言葉を聞いて心に留める者は幸いである、ということでしたがね、恵みと平安が与えられる。

⑴ 恵みとは何か?
①「恵み」というのは、キリストの十字架によってすべての人に示された「神の愛」ですね。
「恵み」は人間の努力による報酬ではない。
②「恵み」とは、「受け取るのに値しない者に与えられる神の愛」、なんですね。クリスチャンは、ボヤーンとしていてはいけませんよ。
よく恵みちゃんとか、恵みさんとかいう名前がありますけれども、「恵み」ってどういうことか、クリスチャンはよく知っていないといけないと思いますよ。
③「恵み」はただキリストを信じる信仰においてしか、自分のものにすることができません。

⑵ 平安とは何か?
平安は「恵み」の結果です。神様と私達の交わりの中で確立されるものです。平安を失ったら、人間は生きていくことができないんです。
平安がないとね、みんなイラだって来る。私も毎週何人かの平安を失った方から、手紙や電話を頂きます。私はつくづく思います。今の人というのは平安をもっていないんだなあ、と思うんです。
平安はキリストによって、与えられるということです。

Ⅳ.5節に「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち」とあり、イエスが私達にしてくださったこと、を記しています。

A.第一に、「私たちを愛した」とありますが、聖書は繰り返し、キリストの十字架は、私達への愛の故であると語っています。

ヨハネ3章16節を読んでみましょうかね。
有名なところですね。覚えていらっしゃると思いますけど、
ヨハ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
「ひとり子」とはイエス様のことです。
「お与えになった」というのは、これは十字架にかけたということですね。

Ⅰヨハ3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

ある人がですね、聖書の3章16節ばかりを集めた人がいて、そこにはかなり重要なことが書かれているというんですね。皆さんもやってみたかったら、おやりになるといいかと思うんですね。いのちをお捨てになった、というのは十字架のことですね。その結果、愛が分かったんだということです。

十字架はキリスト教のシンボルではありませんよ。まして飾りでもない。十字架は愛ですよ。

1.愛は、自発的で積極的なものです。
イエス様は自らすすんでこの私のために十字架に架かってくださいました。
2.愛は、継続的な交わりを求めます。
キリストの十字架は、私達が彼の救いを信じて、いつまでもキリストに留まる事を求めています。
3.愛は、UNIVERSALなものです。
キリストの十字架には偏見や分け隔てはないということです。愛はどんな人にも提供されているんです。どんなに罪深い人でも、他人から除け者にされている人でも、人種や教養も問いません。

日本のキリスト教は、どうも入ってきたころから、中産階級のあたりをうろうろしていたようですね。これは間違いだと思いますよ。今は中産階級といわないんですか、中流ですかね、言葉が古くなってしまいましたかね、
イエス様の時代はね、ま、底辺というような人をキリストは愛した。大事な事だと思いますね。   キリストの愛はすべての人に注がれている。
だから、キリストの愛はUNIVERSALだということですね。

4.愛には厳しさが伴うということです。
キリストの十字架は、私達の罪に対する神の裁きです。
チャールズ、カーターという人はね、「裁きは神の愛だ」と説教したことがあるんですね。
それを聞いていた私達はびっくりしたんです。愛があれば、裁きなんかしないじゃないか、と思ってね。
ヘブル人の手紙なんか読むと、「神様は愛しているから懲らしめるんだ」とか、「地獄があるのも神の愛があるからなんだ」とか、ね。

これはね、そこに行くなよというしるしじゃないか、と思うんですよね。そういう風にね、説教されたことがある。ああそうか、と思いましたね。

地獄に行っても神は愛してくれてる、なんてことをいっているんじゃないですよ。間違っちゃいけませんよ。

神は愛を示している、わたしたちを愛している。これは人間に対するキリストの永遠の態度です。キリストを信じる者は誰でも神の愛に満たされるのです。キリストを拒むものだけが、キリストの愛を受けいれられないのです。

B.二番目に彼が何をしてくださったかというと、「その血によって私たちを罪から解き放ち」です。

1、キリストの解放は「罪からの解放です」。
罪から解放された者は、すべてから解放されていると言ってよろしい。
たとえ、貧困から解放され、病から解放されても、罪から解放されていなければ結局は同じだということです。再び貪欲の奴隷になり、死の奴隷になってしまう。罪から解放されない限り、人間は何からも解放されない、ということです。

2、「罪からの解放」、「罪からの解き放ち」というとき、それは完全な罪の根っこからの解放を意味しています。
ヘブル人への手紙を読んでみましょうかね。
ヘブル7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
完全な救い、完全な解放、これなんですね。「罪」といえば、本質的に「不信仰の罪」以外の罪はないんです。「罪」というのは「不信仰の罪」なんです。
不信仰によって「神を拒む」時に、人間は正しい価値観を失います。偶像を拝んだり、いろんなことをしたりする。もう一つはセルフコントロールができなくなる。快楽に溺れるようになる。価値観の混乱、セルフコントロールができなくなると、私達の生活は乱れてくる。

これらは、内的な価値観が失われてしまう、内的価値観の喪失です。内的な価値観が失われると、それは必ず、外敵な手段として現れてくる。外面的な事だけが、真実で価値があと、思うようになるんです。

これはみな、実は不信仰の罪がなせる業だということですね。
ですから、「不信仰」以外に罪はない、ということです。

キリストはそういう状態から私達を解き放つ、とここに書いてあるんですね。
これが二番目に、イエス様が私達にして下さることですね。
罪から解放されるということは、死から解放されるということを意味しているわけですね。
ですから、罪から解放されるとは、どんなに重要なことなのか、ということですね。

C. 最後の6節に目を留めてみますと、そこには第三番目にしてくださった事が、書いてあります。

「私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった」
ということです。キリストは私達を王とし、祭司とするということですね。
これは一番の愛と、二番目の罪からの解放、この二つを通してなされるところのものが、
第三番目だ、ということです。
信仰者を神の国の住人とすること、「王」とするというのは「王国」の住民とするということですね。
「祭司」というのは、神と直接結ばれて生きるようになる者となる、いうことです。
旧約時代は、祭司は、神と一般の人の間にはいって、とりなしをしたわけで、祭司が神と直接契約をしたり、いろいろと働きをしたわけです。天の御国に行ったら、他人のためにとりなさなくてももう必要ないわけです。ご自分で交われるわけですからね。
ここでは賛美と感謝をもって神に仕える、神と交わる生活をするようになる。

キリストは、これらのすべての事を実に私達にしてくださる約束、をしているわけです。

これはただならぬ挨拶だと思いますよ。暑中見舞い、残暑見舞いのような話じゃない。
最初から、ヨハネは重要なことをいっている。

キリストはどういうお方なのか、
それを話して、それ以降、少しづつキリストの幻がでてくるわけです。
「アーメン」と言っていますが、7節でも「アーメン」といっています。
ヨハネはため息ではないんでしょうが、そう言わざるを得ないんです。

6節にある頌栄、
「キリストに栄光と力がとこしえにあるように」とヨハネは讃美せざるをえなかったんでしょうね。ヨハネは思わず神を讃美する言葉を、語っているんですね。

私達も本当にキリストの栄光と力が分かってきた時、神を讃美せざるを得なくなってくるんです。口をついて、この讃美というのが出てくる。
そういうように私達も「キリストを知りたい」と思いますね。
信仰を進んでいけば、もう讃美せざるを得ないような心の状況になっていくわけですね。

ヨハネは挨拶しただけで心の中が恵みに満ちて、「アーメン」といわざるを得なかったんですね。もう満ち溢れていたんだなあ、とつくづくと感じますね。

聖書を学ぶということを、なにか研究するような冷たい目で見ないで、神の満ち溢れる恵みと導きが必要だと思いますね。

結論: イエス様は私達にとってどういうお方なのか。イエス様は私達に何をなさるのか。

これをこれから学んでいくわけですけれども、これらの事に深い思いを馳せるならば、この世の様々な患難、あるいは誘惑にも打ち勝って、永遠の勝利を、あなたは獲得できるのです。
この世の中にはいろいろな生き方をしている人がいるように見えますが、
結局のところ二種類しかいません。

一つはキリストにあって勝利を得る人と、
滅亡する人の、二種類しかないということです。

幸いにして私達はイエス様を知る者とされていますのでね、どうか、これから後も、もう一歩信仰を進ませて、確実に勝利を得る者にならせていただきたいですね。

キリストに栄光と力がとこしえにあるように、といえるような讃美ができるようなクリスチャンにならせていただきたい。単なる知識ではなくて、覚えている知識ではなくて、
神の恵みとしての知識をですね、是非私達は持たせていただきたいと思うことであります。

ヨハネは挨拶においてですね、キリストの素晴らしさを要約して、私達に語り掛けているわけです。どうぞ、恵みにしっかりあずからせていただきものです。

お祈り

イエス、キリストは私たちを愛して、その血によって罪から私たちを解き放ち、また私たちを「王」とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。

恵み深い天の父なる神様、キリストはその命を投げ出し、私たちを愛されました。また、私たちを罪のあらゆる絆から解き放してくれました。
そればかりではなく、御国の王として、また神と交わる祭司として、キリストは私たちを変えてくださったことを感謝します。
この地上の生涯を歩みながら、あなたを深く知る者としてください。
そして絶えず讃美し、感謝しつつこの生涯を歩ませていただけますように。
キリストの御名によって祈ります。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明